2004年09月09日(木) |
一度目の自宅出産のこと その2 |
8月31日の日記の続きです。
以前、北海道新聞にコラムを書かせていただいていたときがあり、2001年6月21日に、次のような文章を書きました。今読みなおしても、臨場感があるので、一部改変の上、採録します。
2人目の子どもは、自宅で産むことにした。妻が最も落ちつける環境だからだ。出産予定日までは一週間あったので、ぼくたちはすっかり油断していた。その日は、庭の花だんのさくをつけていた。すると妻は、おなかが張ると言う。早々に切りあげて夕食を食べている最中に、痛みがやってきて、横になった。計ると七、八分間隔で痛みがきていた。陣痛だろうか。 だが、上の子を産んだときは、「おしるし」と呼ばれる出血があってから陣痛がきた。今回はおしるしがないので、そのまま一時間ほど様子を見てしまった。状況は変わらず、小樽に住むかかりつけの助産婦さんに電話をした。戦中から助産婦だったという大ベテランだ。すると、「のんきだねえ。まにあわなかったら、どうするの。張りを感じたときにすぐ連絡くれたらよかったのに。おしるしなんてあてになりません」と怒られた。 急いで、娘と犬を乗せて車をとばして迎えに行った。助産婦さんはマンションの七階に住んでいるのだが、すでに一階の玄関で身支度を整えて待っていてくれた。「経産婦は、陣痛から生まれるまでが早いのです。まにあうといいですけど」。たった1人で妻は、子どもを産んでいるかもしれない。ぼくはこの上なく不安になった。ほとんど無言で車を走らせた。 家につくと台所にあかりがついていて、妻は立って皿を洗っていた。まだだったのだ。よかった。だが、ここからが本番だ。まず、助産婦さんは言った。「脱脂綿はどこ?」。そんなものは用意していなかった。何も特別な準備はいらない、と言われていたので、その言葉をうのみにしていた。ぼくは、日曜の夜九時に、薬屋さんに無理を言って売ってもらった。家に戻ると、新生児を迎える準備がすっかりできていた。妻は陣痛をこらえながら、子どもの服、おむつ、タオル、ベビーベッドの代わりの乳母車、ベビーバスの代わりの衣装ケースなどをきちんと並べていた。 二歳の娘はすでに眠っていた。しかし、出産が進行し、妻が声を張りあげると目を覚まし、立ちあうことになった。娘は、当初、ぼくにぴったりくっついていたが、しまいには妻の頭をなでて応援した。一時間半、妻は頑張った。そして、男の子が生まれた。「赤ちゃん生まれたねー」と娘はうれしそうに言った。 山にコブシの白い花が咲いているのを、妻が見つけた日のことだった。
ここからは、現在のお話です。たこ好きの妻のリクエストもあって、たこめしというものを作りました。しかし、作りすぎて大量に余ってしまいました。翌朝とお昼にも食べようと思ったのですが、朝は時間がなく、昼は一度帰宅して食べるつもりが台風のせいで帰れなくなってしまいました。 家に1人残された妻は、このままではいけないと果敢にも昼に食べたのだそうです。その晩、まだまだ大量に残ったたこめしを、お好み焼きにリニューアルして食べることにしました。が、まだ頭痛の残るつわり中の妻と、病み上がりの娘、3歳の幼児に、少々怪しくなってきたこのたこめしを食べさせていいものだろうか、と思いました。 たしかにもったいないのですが、ぼくの失敗をごまかすために、家族に食中毒を起こすようなことはしてはいけない、あやまちはあやまちとして、その痛みをこの身に引き受けなければならないのではないだろうか、と悩み、お好み焼きは普通に作り、たこめしは捨てることにしました。お好み焼きは人気でした。 しかし、ご飯を捨てるなんて。なんということをしてしまったのでしょうか。この反省を次に生かしたいと思っています。ごめんなさい。 ちなみにぼくは、「水田農業課」で働いています。かさねがさねごめんなさい。もうしません。
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