りえるの日記

2007年09月09日(日) 音楽

三島「音楽」読了。
この作品は、大学時代に読んだ記憶があるが
大人になった今読むと読後の感覚が全然違う。
「マダムエドワルダ」を読んだ後に、「音楽」を読むと
三島がバタイユに傾倒していたのがよく分かる。
昼メロちっくでありながら、奥底には三島の思いが感じられ
読みながら唸ってしまった。
 
「神聖さと徹底的な猥雑さとは、いずれも「手にふれることが
できない」という意味で似ているのであって、麗子がこのとき感じた
比類ない汚辱感が、やがて神聖さの記憶に転化される」

「酒場の女、兄の情婦、あの下品なガラガラ声の女は、そこで
ひとりの証人に変貌し、世間のあらゆる禁止と非難と挑発を
代表していた。兄は司祭であり、麗子は無垢な処女の巫女だった
そこで行われようとしている神聖なしかし恐ろしい儀式は、兄と
麗子だけでできるものではなく、どうしても過酷な目撃者の目によって
完成されるのだった」

神なき現在の至高性の回復と体験、
人間の肉体、精神の極限の真の冒険の世界。

「音楽」を読んだからには、次は「沈める滝」を読まないといけない。

最後の澁澤の解説は非常に興味深い

「推理小説がいかに面白くても、文学たり得ないのと同断であろう
推理小説にも精神分析にも、最後に必ず解決というものがなければ
ならないが、そもそも芸術作品には解決などありはしない」

この言葉はミニシアター系映画を見て、ストーリーがないという人たちに
あびせたい。

「作者が近親相姦という古い人類の強迫観念の、「猥雑」と「神聖」の
表裏一体の関係を提示しようと試みたことには、あの汚辱と神聖、
禁止と侵犯の哲学者ジョルジュ・バタイユの理論に影響されることが
あったのではあるまいか、と考えられる」

流石、澁澤。解説が素晴らしい。


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