三島「音楽」読了。 この作品は、大学時代に読んだ記憶があるが 大人になった今読むと読後の感覚が全然違う。 「マダムエドワルダ」を読んだ後に、「音楽」を読むと 三島がバタイユに傾倒していたのがよく分かる。 昼メロちっくでありながら、奥底には三島の思いが感じられ 読みながら唸ってしまった。 「神聖さと徹底的な猥雑さとは、いずれも「手にふれることが できない」という意味で似ているのであって、麗子がこのとき感じた 比類ない汚辱感が、やがて神聖さの記憶に転化される」
「酒場の女、兄の情婦、あの下品なガラガラ声の女は、そこで ひとりの証人に変貌し、世間のあらゆる禁止と非難と挑発を 代表していた。兄は司祭であり、麗子は無垢な処女の巫女だった そこで行われようとしている神聖なしかし恐ろしい儀式は、兄と 麗子だけでできるものではなく、どうしても過酷な目撃者の目によって 完成されるのだった」
神なき現在の至高性の回復と体験、 人間の肉体、精神の極限の真の冒険の世界。
「音楽」を読んだからには、次は「沈める滝」を読まないといけない。
最後の澁澤の解説は非常に興味深い
「推理小説がいかに面白くても、文学たり得ないのと同断であろう 推理小説にも精神分析にも、最後に必ず解決というものがなければ ならないが、そもそも芸術作品には解決などありはしない」
この言葉はミニシアター系映画を見て、ストーリーがないという人たちに あびせたい。
「作者が近親相姦という古い人類の強迫観念の、「猥雑」と「神聖」の 表裏一体の関係を提示しようと試みたことには、あの汚辱と神聖、 禁止と侵犯の哲学者ジョルジュ・バタイユの理論に影響されることが あったのではあるまいか、と考えられる」
流石、澁澤。解説が素晴らしい。
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