Rocking, Reading, Screaming Bunny
Rocking, Reading, Screaming Bunny
Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


全日記のindex  前の日記へ次の日記へ  

*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


この日記のアクセス数
*1日の最高=2,411件('08,10,20)
*1時間の最高=383件('08,10,20)


2010年02月11日(木)  Mixing memory and desire.

私は以前この日記に、私の中にくっきり刻まれている二つの名前は、キルゴア・トラウトとシャロン・リプシャツだと書いた。前者はカート・ヴォネガット、後者はサリンジャーの作中人物だ。しかし前者は当然としても、後者のシャロン・リプシャツは実際にストーリーに登場すらしない。だが、忘れがたい名前という意味では、"How that name comes up. Mixing memory and desire."というセリフと共に記憶されるべきではある。

この世には、"Catcher In The Rye"の読者と、J・D・サリンジャーの読者がいると思う。そして、サリンジャーの読者の多くが心にとどめている名前は、「シーモア・グラース」だろう。
See more glass.
サリンジャーが亡くなった時、誰かがブログに「自殺しなくてよかった」と書いていた。サリンジャーとシーモアを重ね合わせていたのだろう。
私もずっとシーモアとサリンジャーをだぶらせていた。設定上では、作家であるバディ・グラースがサリンジャーの分身に見えるにも関わらず。

思えば読者は、サリンジャーとシーモアに裏切られてきた。まずシーモアは、最初に登場する作品で、何の手がかりも与えずに死ぬ。その後の作品でも、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」はシーモアの結婚式の話なのに、当のシーモアはそれをすっぽかすので、登場しない。「シーモア ―序章―」では、バディがひたすらシーモアを思い出して描写するのみ。「ハプワース16、1924」は10歳のシーモアが書いた手紙である。
要するに私たち読者は、最初に突き放されたまま、殆どまともにシーモアという人間を、三人称の「神の視点」から眺める機会を与えられていないのだ。
次の裏切りは、サリンジャーの事実上の断筆だ。グラース・サーガはもっと書かれるべきであった。明らかに、そう見えた。同時に、あまりにも多くのことがらを隠し含んでいるように見えるので、語られずじまいになるという暗示だらけにも見えた。サリンジャーがどういうつもりであったかわからないが、結局は語られずに終わった。

今は亡きシーモアは、何を考えていたんだろう。この疑問が、サリンジャーが亡くなった時にふと、「サリンジャーは何を考えていたんだろう」という疑問に取って代わったが。

「テディ」という短編の神童テディも、シーモアに重なる。しかしこの少年もまた死ぬ。何故サリンジャーは、明らかに自分の理想像であったものを殺し続けたんだろう。
―――が、実際そんなことはどうでもいい。私は、これほどサリンジャーの作品を愛しながら、彼の生い立ちすらろくに知らないのだ。

サリンジャーは、"A Perfect Day For Bananafish"で、いきなりシーモアという人間を私たちに投げつけ、取り上げた。だからあの作品は、単独で判断するのが正しいと信じる。あれは、ゆるやかに始まった緊張が次第に膨れあがり、最後の一行でぶち切れるという意味で、一級のサスペンス小説であり(私はこの言い方が文学作品を貶めるとは微塵も考えない)、同時に詩のように美しい。
私にとっては、あの、唯一の三人称で描かれるシーモアだけが本物のシーモアであり、後は全てバディの記憶の中の印象からつくられたシーモアだ。実際そのふたつの像はあまりに異なる。
作品は私たちの――私のものであり、だから私は、サリンジャーが何を考えていたかを探る必要はない。私は、やはりシーモアが何を考えていたかだけに的を絞ればいい。
しかし実際は、それすらしないままで、あの作品は充分に美しいのだ。

シビル・カーペンターがふと持ち出す「シャロン・リプシャツ」という名前。それにたいしてシーモアが言う"Mixing memory and desire."はエリオットの「荒地」からの引用らしい。四月を形容しているその表現がこの名前にどう関連づけられるのか全くわからないが、私はこれをシーモアだけがわかっていればいいことだと受け取った。
シャロンに嫉妬するシビルは、幼女だが既に女である。名前だけのシャロンは、ただ美しくピアノの横に座る。思い出と欲望をない交ぜにして。

Mixing memory and desire. (普及訳=記憶と欲望を混ぜ合わせ)  *The Waste Land / T. S. Eliot (1922) の1節。



前の日記へ次の日記へ