Rocking, Reading, Screaming Bunny
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Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


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*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


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2007年11月13日(火)  The Lights In The Sky Are Stars

昨日の日記に補足。ミステリーが全て娯楽的とは限らない。例えばハイスミスエリンの長編には、不快といっていいほどの作品すらある。アルレーに至っては時々悪夢のようだ。これらの不快感は、乱暴に言えば純文学の領域だ。
一方エンターテインメントの要素を持つ純文学もあり、例えばモームがそうだ。彼が「私は、始まりと真ん中と終わりのある話が好きだ」というのを聞くと素直に感動する。「文豪」と呼ばれる作家は一様にこのエンターテインメント性を強く持っている。ドストエフスキーは見事な文豪である。「罪と罰」の書名は、立派にミステリーの歴史に残しうる。

そしてSFを語らねば。
これほど虐げられたジャンルがあるだろうか。かつて筒井康隆は「士農工商SF作家」と言った。(日本のSFはまたちょっと特殊なのだが)
SFの悲劇は、読んだこともない輩が平気で蔑むことだ。以前ある若い女性が、「SFって嫌いー。だって本当のことじゃないんだもん」とぬかしやがった。その女に字が読めるのかどうか知らないが、読むとしてもせいぜいハーレクイン・ロマンスがいいところだろう。実際にはそういう荒唐無稽な妄想小説やTVドラマのほうが全く現実性に欠ける。
SFとは、「整合性」を尊ぶジャンルなのだ。SF作家は、まず現実の天文学と物理学の基礎を理解したうえで、加えて更に、仮定上の天文学や物理の法則も覚えなくてはならない。つまり「タキオン(光速を超えるという仮定の粒子)」や、「ワープ」である。「ロボット三原則」や「タイム・パラドックス」のような「常識」もふまえる必要がある。
またその整合性をベースとした現実性も大切である。巨匠アイザック・アシモフは、「UFOを信じている人がいたら、その人は頭がおかしいと思いますよ」と言った。エクセレント。
しかし知性と理屈だけがSFではない。感情を激しく揺さぶる作品も多く、ハインラインの「夏への扉」、フレドリック・ブラウンの「天の光はすべて星」などはタイトルを言うだけで涙ぐみそうになる。架空の設定の向こうには人間臭いテーマもふんだんにあって、A・E・ヴァン・ヴォート(ヴォートが正しい発音)の「スラン」におけるミュータント排斥は、要するに人種差別問題だ。

カート・ヴォネガットが死んだ時、個人のブログに「ヴォネガットはSFだと言われているが、そんなことはない、ちゃんとした文学だ」とあるのを見つけ、思わずSFがいかに「ちゃんとした文学」であるかについてコメントをぶってしまった。
私はヴォネガットを読んで初めて、多くのSFが哲学を内包していることに気づいたのだ。
それどころか、SFこそが哲学を語りやすい。視野が無限の宇宙や悠久の時間に及ぶので、人間の卑小さを当然と受け取るからだ。

私は5、6歳の頃から、死が怖くて泣いているような子だった。巨大で絶対的で永遠の「無」が怖かったのだ。
その頼りない恐怖感を、ブラッドベリが、書いていた。ところが同時にそれは、目を見張るほどうつくしかった。
宇宙へ、独りで、一歩踏み出す、おそろしさ。

たったひとりだ。しかし、周りにはぐるりと、星がきらめいている。

The Lights In The Sky Are Stars (天の光はすべて星)  *フレドリック・ブラウンの著書 (1953)



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