Rocking, Reading, Screaming Bunny
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Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


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*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


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2007年04月13日(金)  Breakfast Of Champions

朝10時頃から久しぶりにベッドで寝た。14時半に起きたら洗濯機が壊れていた。去年から調子が悪く、母が洗濯機代をカンパしてくれたのに、まだ使えるので買っていなかったのだ。で、最近、「このお金を使い込んでピアノ買っちゃおうかなあ・・・」と考えていた矢先だった。ちぇっ。
すぐさま荻窪駅前で購入。明後日の朝届けてもらうことに。私は片付け魔なので、洗濯物も少しでもためるのがいやで毎日のように洗濯するのだ。

後で携帯メールの送信歴を見ると、21時34分の時点ではまだ何も知らなかったらしい。ある男性(g)にお食事に誘われ、デートコースの三択を提示されて喜んで返信していたくらいだから。
21時52分には、BZにこう送っている。カート・ヴォネガットが死んじゃった」
ああ。


ここからの5時間はただ泣いていた。PCに向かって、ヴォネガットの死亡記事などの検索をいくつかした。私の誕生日に死んだんだ。
あとは彼の本を出して。あとは自分のbbsに考えなしに彼のことを書込みして。本を前に泣いていた。いい加減顔でも洗おうと思いながら、5分黙っていたら一時間たっていたりした。

「猫、いますか? ゆりかご、ありますか?」

「猫なんていないし、ゆりかごもないんだ」という台詞は衝撃的だった。私が二冊目に読んだヴォネガットの本「猫のゆりかご」の中の一節だ。以後ずっと、この言葉が頭から離れない。

初めて読んだ本は、「チャンピオンたちの朝食」で、購入したのは18歳くらいだと思う。だが実際に読んだのは25歳。
滅多にないことだが、「今この本を読むには自分の力量が足りない」と思ったのだ。本の素晴らしさを確信しながら、しかし今無理に読んではこの本をきちんと味わい損ねる、と感じた。

その18歳で買ったハードカバーを今目の前に見ながら、しみじみとそのことの重大さを感じる。「そのこと」とは、これがここにあること自体だ。
つまり、私は高校卒業と同時に一度家出しているのだ。ハワイ大学に入学手続きを進めていた母親を騙して、計画的に、しかし一瞬で姿を消した。その資金作りの為に、持っていたレコードと本を全部売った。本は殆どが文庫本だったにも関わらず3万円近くになった。本棚をさらうようにして全部たたき売ったが、「チャンピオンたちの朝食」は売らずに残したのだ。(その時点で未読の本は他にも山ほどあったが)
───家出から戻り、東京で暮らし始めた私は、ある時帰省した実家の本棚にぽつんと残っていたその本を東京に持ち帰り、読んだ。──もう読んでもいい時期だと思った。

「けつの穴」の絵が描いてあった。何だ、これは。
当時まだまだ青臭く少女じみた美意識にとらわれていた私は、一瞬ひるんだ。
しかしそのたった21ページ後の「ビーバー(女性器)」の絵を見る頃には、これを下品とも滑稽とも思わなくなっていた。逆に、息が荒くなるほどに感動していたのだ。
おかげで今でも私の中では、'Wide-Open Beavers'(大きく広げた女性器)というフレーズは、感動的な響きを帯びている。
実際私はその時、涙ぐんだんだと思う。今も、それを見ると涙ぐむ。

神様に、カーペットの状態を報告する。「ふわふわして新しいです。きっと奇跡の繊維かなんかですよ。青い色をしてます。青がどんな色かわかりますか?」
その他いろいろ。(このフレーズが作中に繰り返し現れる)

「チャンピオンたちの朝食」の主人公キルゴア・トラウトの名前は、───シャロン・リプシャツ(サリンジャーの'Nine Stories'に名前だけ出てくる女の子)とならんで、私の中にくっきりと刻まれた。

感動した私は、読了直後に、気合が入リ過ぎて空回りしたような感想文を書いた。後にワープロの操作ミスで消してしまったが、しかし出だしの一行だけは記憶に残っている。
25歳の私が書いた出だしの一行はこうだ。「これは外国人の為のアメリカ小説、異星人の為のSF、無力な赤ん坊及び長椅子で治療を受ける人々の為の教科書である」
サイエンス・フィクションという形式が、いかに哲学を語るのにふさわしくなれるかを発見した本だった。

ヴォネガットは、アメリカ人をそれ以外の地球全体の目を通して描こうとし、同時に人間を宇宙の目を通して描き出そうとしたのだ。

「チャンピオンたちの朝食」は、一見非常に救いのない終わり方をしているように見える。絶望的な叫びと、涙でしめくくられる。だが。
その涙が、かなしいという感情が、深い諦念と愛を持って何かを受け入れるという意味になるのだと、私は学んだのだと思う。

私は、長い間精神的にかたわだった。普通に生きることが出来ない子供で、肥大した自意識と恥の感覚に悩まされ、道を歩くのにも辛い思いをしていた。
今も、恐ろしく弱かったり不器用だったりするかもしれないが。

ひとつ大きく変わったのは、弱さを見せるのを恐れなくなった。傷つくことを回避しなくなった。他人が私を、私の望みどおりに見てくれないことに憤らなくなった。

指を一本噛み切るほどの関わり方をすること。
後にパトリシア・ハイスミスを読むようになり、自分が他人との精神的な交わりにいかに魅せられているか、いや、ほぼそれが生きる意味の全てだと考えていることに気づいた。

それが私のコアだから。
ヴォネガットは、私の血肉であり、私をつくったひとだと思う。

あなたは間違いなく私の右の薬指を噛み切りました。その感覚が今も残っています。
ありがとう。

Breakfast Of Champions  *カート・ヴォネガット(・ジュニア)の著書(邦題=「チャンピオンたちの朝食」) (1973)

*今回は、気のきいたタイトルをつけようという考えも浮かびません。何の含みもなく、この書名をタイトルにしたいと思います。



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