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2005年06月04日(土) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十四話 |
【第十四話】
すっかりと、日は落ちてしまっていた。 駅の裏手側、料理屋などが並ぶ界隈は、内側から漏れてくる明かりでかがやいている。 駅を越えてこちら側に来ることはほとんどない。見慣れぬ景色に、全身が戸惑っているのが分かる。 なれた場所なら、ひとりで歩き回っても何ともないけれど、やはり見知らぬ場所は緊張するのだ。新しく暮らし始めた家のまわりや、同居人の事務所の傍などには顔見知りもいるし、たとえ夜にひとりで出歩いても孤独だとは思わないけれど。 寄る辺もなく、完全に孤立無援だと思うと、胃のあたりが重くなる。 乗り越えなければいけない病だ。いつかは、きっと。
電柱に記された番地をたどり、要は一軒の店の前に出た。 引き戸の上に、紺の暖簾がかかっている。 暖簾のさらに上には、木で作られた看板が掲げてあった。 一竜、と。 神田勝利の家は蕎麦屋だと小耳に挟んだことがあったから、おそらくここがそうなのだろう。 ここまで来たのはいいんだけど、どうしようもないよね。 片手に下げた鞄が重い。 ほんのり明るい光が、店の内側から漏れてきて、黒いアスファルトを照らし出している。 随分と突っ立ったままでいた。 湿度の高い風は、肌に張り付くように生ぬるい。 こうしていても仕方がない。神田勝利の家を確かめたところで、自分に何が出来るわけでもなかった。 踵を返そうとしたところで、引き戸がひらく、からりとした音に立ち止まる。 開いた扉から、眩しいぐらいに白い割烹着を着た四十がらみの女の人が出てくるところだった。 目が合ってしまった。 「あら」 恰幅のいい女の人が、目を丸くした。 まるで金縛りに遭ってしまったかのように、要は動けなかった。 割烹着姿のひとは、疲れたように笑った。 「勝利のおともだち?」 足がすくんで、動けなかった。 「円藤くんに、聞いて」 それほど道幅の広くない道路をはさんで、少し遠くから要は言った。 「慶太くんに? まぁ、わざわざ悪いわねぇ」 口元に手をあててすこしだけ笑うと、彼女はひらひらと要を手招きした。 魔法にでもかかったかのように、要は一竜の入り口に、ふらふらと歩み寄った。 「せっかく来てくれたんだし、入っていかない? それとも、もう遅いかしら」 「あの、……いいんですか?」 おともだち、というほど仲がよいわけではない。 うまく説明が出来ずにそれだけ言うと、勝利の母が笑う。 「全然構わないわよ。どうぞどうぞ」 手招かれるまま、要は勝利の母のうしろについていった。 店の扉からは戻らず、横道から店の裏側に回る。 建物の横っ腹に、店の入り口とは違う、明らかな家屋の玄関がある。かまぼこ板のような表札に、神田、と彫りこまれている。 横滑りの扉を開き、勝利の母は玄関に要を導きいれた。 明かりのついていない玄関は薄暗かった。すぐに、勝利の母が壁を弄るようにしてスイッチを入れる。 オレンジっぽい、ぬくもりのある光が一気に闇を消し去った。 目の前に、二階へと続く階段が現れた。 「階段を上って、突き当たりの部屋がそうだから。どうぞ。何か飲み物持っていくわね」 「あの、気にしないで下さい」 いいのよ、と身振りで示して、母親は玄関をあがってすぐの部屋に消えた。居間なのだろう。 ぽつんと玄関に取り残された要は、腹をくくって玄関にあがる。 目の前に聳え立つ階段に、足をかけた。 ぎぃ、と軋む。 大分古い階段だった。 一歩進むごとに耳障りな音を立てる。 二階部分の照明が消えているせいか、階段半ばからは再び闇に飲まれている。 暗い場所に踏み込んでゆく恐怖感に、胃がきゅっと絞られる心もちがした。 手すりを掴む手に力が入る。 犬が水を払うように首を振って、闇に進む恐怖を振り払った。 残り数段を勢いをつけて上った。 闇のわだかまる廊下の突き当たり。左手側にへばりついた扉のノブを握る。 掌に、冷たさが染みた。 回して、押し開いた。 扉の先も、また闇だった。 しかし、窓の隙間から零れ落ちてくる街灯の、青白い光が僅かに部屋の中を照らしている。 部屋の突き当たりに机がひとつ。雑誌やら教科書やらが雑多に重ねて置かれていた。 床にも、漫画などが積み重ねられ、雑然とはしていたが、荒れ果ててはいなかった。 窓際に寄せて、ベッドが置かれている。 そこにいた。 仰向けに、微動だにせずに、クラスメートは寝息を立てていた。 呼吸は深い。 ゆるやかに胸が上下しているが、それ以外の変化は全くなかった。身じろぎも、寝返りも。 死んだように、とはこのようなことを言うのかもしれない。 頭の隅で、要はそんなことを思った。 ドアのすぐ傍に、室内照明のスイッチはあっけなく見つかった。 指を伸ばして、躊躇って、やめる。 一週間も目覚めないというのだから、今更電気をつけたぐらいで起きだしたりはしないと思うが、眩しいのではないかな、と思ったのだ。 ベッドに近寄ることも出来ずに、戸口で立ち尽くしていると、階段を上ってくる足音。 「本当、どうしちゃったのかしらね」 疲れの滲んだ声が、背中にかかった。 先ほどまで頭に巻いていた三角巾を解いた、勝利の母が立っている。 「今までこんなこと、一度もなかったのにねぇ」 母親の顔にも、疲労が滲んでいた。目のあたりが落ち窪んでいるような気がする。 「いっつも騒がしい子なんだけど、その分悩みとか、全然人に言わない子だから」 母親が、照明のスイッチを入れる。 蛍光灯の鋭い光が、一瞬にして部屋を照らし出した。 眩しさに、要のほうが目を細めるが、ベッドの住人はその素振りすら見せなかった。 要の横をすり抜けて、勝利の母は室内に踏み入れる。 教科書が広げられたままの机に、持ってきた盆を置いた。 「お医者さんにも見てもらったんだけど、体に悪いところは全然ないっていうから」 要も、数歩踏み込んで、扉を閉めた。 さああ、と窓を叩く音に気づく。 雨が降り出したようだ。水滴が硝子を伝って、落ちてゆく。 「本当は、ずっと落ち込んでたみたいなのよ。高幡、くん? が亡くなってから。この間、慶太くんから聞くまで全然気がつかなくって」 寂しそうに、口元で笑う。 痛々しい笑顔を見ていられずに、要は勝利に視線を移した。 先程と何も変わらずに、そこにいる。 「あら、そうだ。そう言えばまだお名前聞いてなかったわよね」 「え?」 「同じクラス?」 「あ、ハイ。転校してきて……」 「ああ、君がそうなのね」 得心がいったように、母親が笑った。 自分について、勝利と彼の母がどんな会話をしていたのかは分からない。だが、勝利は家庭で要のことを話題にしたこともあったらしい。 なんだか、くすぐったい気持ちになる。 「いっつもドタバタ煩い子だけど」 勝利の母が、慈しむような目でベッドを見た。 「今は、いつもみたいに煩く騒いでくれたらいいのにって、思っちゃうのよね」 急に、錘を飲み込んだような気分になって、要は黙り込んだ。 何も言えなかった。
*
「遅かったじゃないか」 ただいま、と小声で告げると、同居人が出てきた。 うつむいたまま、要はうん、とだけ答えた。 普段はそこまで干渉をする人間ではないのだが、やはり平素と違って帰宅があまりにも遅すぎたからだろう。 「何かあったのか?」 怪訝そうに眉をひそめる。その顔も、要は見上げることが出来なかった。 霧雨が降っていて、しっとりと髪と服とが濡れている。 額から、じわりと水滴が鼻のほうへ流れてきた。 「ちょっと、色々」 か細い声で、それだけ答える。 頭の中がぐちゃぐちゃと、まとまらなかった。 どの道を歩いて、勝利の家からここに戻ってきたのかも、よく覚えていない。 「やっぱり最近、おまえ、変だぞ」 伺うような声に、要はようやく咽喉を反らすように顔を上げた。 気遣うような眼差しと、目が合った。 「僕……」 何を言えばいいのか分からなくなって、口を噤んでしまう。 いたわりを込めた視線を受けてしまったら、急に泣きたくなってしまった。 心配を掛けたくないと思っているのに。 目のふちが熱くなった。水分が盛り上がるのを感じる。 「焦らなくていい。とりあえずあがって、風呂にでも入っておいで」 促すように、一馬が踵を返す。 「カズマ」 その背を―――呼び止めた。 肩越しに、一馬が振り返る。伺うように、僅かに首を傾げて見せた。 「お願い」 ふるえる声で言えば、相手は目を瞠る。 目のふちで盛り上がった水分が、目じりから頬に落ちた。 「助けてほしいんだ」
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【続く】
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