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2005年06月03日(金) 夢喰い 【イレギュラー】 第十三話

【第十三話】


 がらん、と。
 隣の席が空いている。
 見晴らしが良かった。久しぶりに晴れた空が、よく見える。
 要はぼんやりと、主のいない机を眺めていた。

 結果的に学校を休んでしまった次の日、教室の扉を開くのは想像以上に気力のいる作業だった。
 覚悟を決めて、後ろ側の扉を開く。
 ざわめきが一瞬静まり、しばらくしてまた復活する。
 吸い寄せられるように、自分の席のほうを見ていた。
 大会が近いから、朝練が多いという陸上部員は、この時間にはもう来ているはずだった。
 席は空だった。
 担任は、元気で調子のいいクラスメートがいないのは、風邪をこじらせたからだと説明した。
 それからもう、五日が過ぎている。
 隣の席は、がらんと温度を失ったままだ。
 クラスメートたちも次第に不審に思い始めていた。
 風邪をこじらせたって、本当だろうか?
 それが嘘だからと言って、神田勝利が学校を休みつづける理由も分からず、クラス中が困惑していた。
 神田君は今日もお休みで、と担任は言っていた。彼女自身、顔にありありと困惑を刻んでいるものだから世話は要らない。
 よけい不安になる。
 宿題、と急かす手がない。
 自分から振り払ったくせに、むなしかった。


 顔を覚えている程度の、他クラスの生徒に呼び出されたのは、昼休みのことだった。
 身長は低いほうである要と、そう変わらない。眼鏡をかけている。
「隣のクラスの、円藤っていうんだけどさ、ちょっといい?」
 彼の姿は、何度か体育館の舞台の上で見たことがある。
 彼は陸上部で、幅跳びの都内有数の選手だった。優勝なり入賞なりの賞状を、全校生徒の前で授与されていたと思う。
 勝利とも仲が良かった。
 要はきょとんとまばたきをした。
 何故、円藤に声を掛けられたのかが分からなかった。
「勝利のことなんだけど」
 動きのにぶい要に、円藤慶太は少し声を低めて、つけくわえた。
「英に、教えておきたいことがあるんだ」
 抵抗は出来なかった。勝利、という名前は有効な餌だった。何が起こったのか知りたくてたまらなかったのだから。

 呼び出されたのは、中庭だった。
 昼休みということもあって、たくさんの生徒が溢れている。その分、要たちに注意を払うものもなかった。
「あいつ、さ」
 中央に据えられた池の横を通り過ぎ、円藤はどんどん校舎から離れる。
 深い緑の葉を繁らせている桜の木の、下に設置されたベンチに腰掛けた。
「風邪じゃないんだってさ」
 少し躊躇ってから、要は円藤の隣に腰を下ろす。
「眠ったまま、……目が覚めないんだって」
 要は幾度か、まばたきを繰り返した。言葉が意味をむすぶまでに、すこし時間がかかった。
「風邪だっていうから、俺、家まで見舞いに行ったんだ。そしたらさ、おばさんがすげぇ気落ちした顔で出てきて。学校早退して帰り道の途中で倒れたんだって」
 円藤は、膝の上に置いた腕の先で指をからめて、要のほうも見ずに続けた。
「倒れてたの、家の方向じゃなくってさ、高幡が飛び降りたビルの前だったって、いうんだ」
 反射で、肩が震えたのをまるで他人事のように要は感じていた。
 眼鏡の奥に憂いをたたえて、円藤が要をうかがうように見た。
「高幡のこと、知ってる?」
「自殺、したって。神田君が気に掛けてたって、ことは」
 聞きかじった情報だけを伝えると、うん、と円藤がうなずいた。
「いじめられてたんだ。高幡千晶っていうんだけどさ」
 再び、円藤はからめた指先に視線を落とした。
「勝利、話し掛けたり励ましたりしてたんだ。ここ、金持ちの学校だから、俺もあいつもふくめて庶民ってのは結構肩身がせまくって。勝利も昔、いじめみたいな目に遭っててさ。あいつはそれを克服したから、自信があったんじゃね? 立ち向かえば、解決できるって」
 円藤は、皮肉めいた笑みを口元に浮かべている。
「けど、高幡はちがったんだ。勇気ふりしぼって抵抗したら、袋叩きに遭ってさ。そのあと、廃ビルに登って、飛び降りちまったんだ」
 さらり、と風が流れた。
 髪を撫でて過ぎてゆくそれは、水っぽかった。また雨が降るかもしれない。
「俺、あいつに酷いことしたかもしれない」
 懺悔をするようにうな垂れて、円藤がつぶやいた。
「勝利は強いもんだと思ってたんだ。高幡が自殺してからあいつ、だいぶへこんでたけど、こんなだとは思わなかった。真っ向から色々言うんじゃなかった。気づかせちまったのかもしれない。あいつ、自分が傷ついてるってこと、分かってなかったんだ」
 円藤の言葉は、ひとり言のようで分かり難かった。
 彼も大分、参っているように思える。
「あいつ、多分本当にただ、ほっとけなかったんだと思う」
 不意に顔を持ち上げて、円藤は要を見た。
「悪気とか、正義感とか全然関係なくて、黙ってられなかったんだ。そういうやつだよ。計算とか出来ないんだ。英にとっては余計な世話だったかもしれないけど、分かってやってよ」
 返事が出来ずに、要はただ、円藤の顔を見つめ返す。
「悪いことした、って。言ってたよ。こないだ」
「僕、に?」
 円藤はうなずいた。
「自分勝手なことした、って。英の気持ち考えてなかったって」
 胸の内側で、言いようのない鈍い痛みが広がった。じりじりと咽喉を伝いせりあがって、目元を熱くさせる。
「これからあいつ、どうなっちゃうんだろ」
 呟いて、円藤は沈黙した。


            *


 芯の強い人間だと思っていた。
 授業を終えて、帰途を辿りながら、考える。
 周囲の大多数に流されたりしないで、でも孤立しているわけでもなく朗らかだ。
 柔軟で、凛としている。
 強くて、揺らいだりしないもの。神田勝利は、そういう人間だと思っていた。
 弱ったり、傷ついたりなんて想像できなかった。
(だけどそれって、おかしいよね)
 彼もひとで、中学生で、たくさんの人間の中で生活しているんだったら、ただの一度も傷つかないなんて、あるはずがない。
 住宅地につづく坂を、下る足取りは重い。
 傷つかないなんて、ありえない。
 今更気づいたことを、胸中でもう一度繰り返す。
(だったら僕も、ひどいことをした)
 あからさまに避けたりして。
 そんなことをされて、いい気分がする人間なんていないってことは、分かっているはずなのに。
 自分のその場の気分だけで行動するなんて、本当に子どもだ。
「謝りたいな」
 転がり落ちた。
 自分の、わがままを。
 面と向かって言えたらいいのに。

―――眠ったまま、……目が覚めないんだって。
 円藤の言葉を思い出す。
 一体、どういうことなのだろう。

 鉛のように重い空を見上げ、深く呼吸をした。
 重い体を引きずるようにして坂を下り、いつもとは違う道を折れる。
 住所を聞いただけではたどり着けないかもしれないけれど、とりあえず、その番地の方へ足を向ける。
 どうしたんだろう、と自問した。
 自分から行動することなんて、怖くて出来なかったはずなのに。
 戸惑いながらも、体は勝手に動いていた。



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【続く】


如月冴子 |MAIL

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