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2005年06月01日(水) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十ニ話 |
【第十二話】
隣の席を何度うかがっても、結果は同じだ。 がらんと、空洞。 左腕の頬杖に顎を預けて、ちらりと隣を盗み見る。 誰もいない。 無人の机と椅子が一組、陣取っているだけだ。 目元をこすった。目蓋が腫れぼったい。だから、泣くのは嫌なのだ。 隣の席が無人である理由を、担任は、体調が悪いからだと簡潔に説明した。 本当にそうなのか? 疑問符が腹の内側で暴れまわる。 紛うことなく、体の不調なのだろうか。 勝利には、そうは思えなかった。 ぼんやりと、白い机のおもてを見ていると、油性のマジックペンで書かれた文字が浮かび上がってくるような気がした。
『キモイ』 『死ネ』 『高幡くんの命日は○月×日』
所狭しと書きなぐられた下世話な文字を前に、ぼんやりと立ち尽くす幻影まで見えた。 何か、別世界のものでも見るような、遠い目をして汚れきった机を見下ろしている。 (高幡、何でおまえ黙ってんだよ) 明るい、ぱりっとした声がその幻に語りかけた。 (嫌なことはちゃんと嫌だって、言えよな) いつのまにか、その幻の隣に自分が立っていた。今よりも少しばかり背の低い、半年前の自分。 すがすがしい顔をしていた。正義感に溢れていた。 自分の考えたことがすべて正しくて、何もかもに適応する道理だと思っていた。 キショイのはおまえだ。 左腕の頬杖に顎を預けて、勝利は半年前の自分を睨みつける。 不快感で吐きそうだ。 自信を背負った半年前の自分は、はきはきと、机を汚されたクラスメートに語りかけた。 (俺も、小学校の頃色々あったんだ。修恵って金持ちの学校だろ? 例外いないわけじゃないけど、周りはみん金持ちだし。俺、別に金持ちの家の生まれじゃないからさ、嫌がらせとか、イジメみたいのとか、あったんだ) それは事実だ。 陰湿な嫌がらせのようなものを受けたことがある。 靴がないだとか、教科書がトイレに捨ててあるだとか、基本に忠実なやつだった。 (ハッキリ言ってやったらさ、俺のもおさまったから。高幡だって、こんなのヤだろ?) 半年前の自分は笑っている。平然と、悩みなんてないような顔で笑っている。 唇を噛んだ。甘しょっぱい鉄分の味が、僅かに舌先に触る。 自分に出来たことは、他のみんなも出来て当然なんだと思ってる。 ゆるりと、高幡は折れそうに細い首をめぐらせて、無惨に汚された机から勝利のほうへ顔を向ける。 うつろな、力のない瞳を細めるようにして、少し笑った。 (無理だよ) (なんでだよ) 半年前の自分は、まだ笑っている。しょうがないなぁ、と笑って、高幡の肩を叩いている。 あんなに、疲れて打ちひしがれた、絶望の顔をしているクラスメートを前に、平然と、きらきらと、笑っている。 バカじゃないのか。死んじまえ。 今、目の前の幻に触れられるのならば、その奇麗事ばかりを吐き出す口を後ろから塞いでガムテープでも貼り付けてしまいたい。 (大丈夫だって。高幡だってできるって) 一片の曇りもない顔を、きっとしていただろう。 だって、何ひとつ間違っているとは思わなかったもの。 唯一絶対の解決策だと、信じていたもの。 だれでも、きっぱりとした態度で対応できたら、現状は打開できると思っていた。 (そう、かな) 気恥ずかしそうに、困ったように、高幡が少しだけ笑った。 (おう) 力強く頷いて、あの日の自分は高幡の肩を叩いた。 何もかもこれでうまくいくと、簡単に信じていた。 味方になってやれる。励ましてやれる。ヒロイズムに酔っていた。 真っ直ぐ一本伸びた芯で。正論で、誰も彼もが励まされると―――無邪気に思っていたあの頃。 それが人を追い込むことがあるのだなんて、考えもしなかった。 かけらも。一瞬も。心の隅にも。
「神田」 だみ声に呼ばれて、我に返った。 気づけば、数学のだるまのような教師がすぐ横に立っている。 丸い眼鏡の奥で人の良さそうな小さな目が渋いものでも口に放り込んだときのようにゆがめられている。 「どうした。真っ青だぞ」 「先生、俺……」 椅子を引いて、席を立った。 どうしてそんな行動に出たのかは、よく分からない。 立ちくらみがした。脚の感覚がなかった。 「具合悪いんで、早退します」 白い机のおもてを見下ろしたまま、掠れた声が言ったのを聞いた。自分の声には聞こえなかった。 「神―――」 がらんと空いた隣の席をとおりすぎ、数学教師を押しのけて、後ろ側の扉から出た。 とりあえず引きずってきた鞄が、まるで鉛で出来ているかのように重くて、肩が抜けそうになる。 授業中の廊下はひっそりと静まり返っていた。まるで長距離を走り終えたときのように内側から噴きだしてくる汗を不快に思いながら、玄関へ近い階段へ向かう。 一階に下りたあたりで、玄関へ続く長い一本道の向こう側から、人影がこちらに歩いてくるのが見えた。 目は悪くないはずなのに、視界がぼんやりと霞む。同じ制服を着ているから、誰が誰かなんて分からない。 ただ、空気が締まっていると、そう感じた。 最近は梅雨空が続いていて、今日も例外なく曇り空だ。肌に湿気がまとわりついて、鬱陶しいはずなのに、延々と直線に伸びるその廊下だけ、空気が澄んでいる。 金縛りに遭ったかのように、脚がすくんで動かなくなった。 違和感の塊は、向こう側からこちらに歩いてくる。しんと静まり返った廊下に、足音はよく響いた。 どんなに光を透かしても、黒以外には見えないだろう髪は、白い肌に良く映える。 勝利の近くまで来て、ようやく”彼”はこちらに気づいたようだった。 一瞬だけ歩みを止めて、また何事もなかったかのように歩き始める。距離がつまる。 息が出来なかった。 雰囲気に呑まれて、圧されていたのだ。 「君が一体、どんなつもりかは知らないけど」 擦れ違い様に、隣のクラスの御曹司が口を開いた。 はりつめた、冷たさを含んだ声だった。 「好奇心だけで要に構わないでくれ」 鋭い針で心臓を一突きにされたら、こんな気持ちになるのだろうか。 胸のあたりから体全身に、激痛が走ったような気がした。 勝利の横を通り抜けて、銀都佳沙は階段を上り始める。 「俺は別にっ―――」 大声をあげて、階段のほうを振り返った。 都佳沙は肩越しに、勝利を見下ろしていた。 髪の色と同じ、漆黒の瞳がまるで、すべてを丸裸にするかのように鋭く勝利に注がれている。 「好奇心、なんかじゃ……」 蛇に睨まれた蛙の心地で、勝利の言葉は尻つぼみに消える。 しばらく温度の感じられない視線で勝利を串刺しにしてから、都佳沙は唇をひらく。 「もし、何かの身代わりにしているつもりなら、それは好奇心なんかよりもよっぽど、悪質だと思うけどね。君は彼の何を知って、何を分かって、励まそうとしているのかな」 言葉が何も出てこなかった。 まるで断罪するかのような都佳沙の視線に耐えられず、うつむく。 階段を上る靴音が、徐々に遠のいていった。廊下は再び、静寂に満たされる。 重い足を引きずりながら、勝利は玄関に向かって歩き始めた。
*
その日、高幡は。 勝利に励まされたとおり、勇気を振り絞り抵抗し、その結果袋叩きにされた。 ぼろぼろの姿で重そうに体を引きずって家に帰り、心配する家族とはひとことも言葉を交わさず、部屋に閉じこもり、必死に机に向かっていたのだという。 ひっそりと家中が寝静まった頃に家を出て、―――二度と帰らなかった。
家とは別の方向に、足が向いた。 鉛のような足と鞄とを引きずって、駅の向こう側、雑居ビルが立ち並ぶ通りに出た。
『ぼくはまるで、幽霊のように見えるのだそうです』
ガードレールを挟んだ向こう側を、ひっきりなしに車が通り過ぎる。 排気ガスを吐き出して、大型トラックが通過していった。風に、髪が舞い上がる。 いじめは本当にあったのかなかったのか。 それを検証するために立ち上がった大人たちが、高幡の遺書を勝利に突きつけた。 勝利の名前が、そこに綴られていたからだった。 幸い、クラスで傍観していたおとなしめのクラスメートたちが、「神田は高幡を励ましてただけだから」と弁護をしてくれて解放された。
『幽霊なら幽霊らしく、この窓から飛んで見せろという。それが出来ないなら、床に這いつくばって謝れという。ぼくの何がいけないって言うんだろうか』
励ましていた、って。なんだよ。 本当に俺のせいじゃないと言えるのか。
『ぼくはただ、そこにいただけだ。そこで、本を読んでただけだ』
笑って肩を叩いて、がんばれ、なんて言って。 それは、いじめじゃないのか?
遺書には切々と、今まで受けた仕打ちのことが綴られていた。 勝利は確かに、それを目の当たりにしていた。高幡は何ひとつ嘘も誇張もしていなかった。 止めに入らなかったのは、傍観していたのは、見過ごしたのは。 罪ではないのか?
『神田君へ』
無邪気に、相手のことを分かったフリをして慰めたり励ましたり、せっついたりするのは。
『ぼくはやっぱり、君みたいにはできませんでした。君とぼくは違うよ。色々言ってくれて嬉しかったけどそれと同じぐらい―――』
それは、罪じゃないのか。
勝利は、顔をあげて、聳え立つ廃ビルを見上げた。 駅から大分離れたところにあるこのビルは、勝利が物心がついた頃にはもう廃ビルだった。 地面から、なぞるように見上げてゆく。 くすんだ灰色の壁にはめ込まれたガラス窓はほとんどが割れてなくなっている。 全部で七階建て。 大通りに面した、立地条件に恵まれているビルがずっと放置されていることについては、たくさんの噂があった。 呪われているだとか、人が死んだのだとか。取り壊そうとすると必ず何かが起こるらしい。 屋上には、フェンスも何もない。膝のあたりまでしか、段差もない。 踏み台にのぼるように簡単に足を掛けて、身を乗り出すことが出来る。 今でこそ、入り口は板でふさがれているけれど、当時は入ろうと思えば簡単に入れた。 屋上まで見上げて、勝利は息を飲んだ。 人が立っていた。 曇天を背にして、ブレザーの制服姿で、線の細い少年が立っていた。 制服も顔も埃で汚れている。吹きすさぶ風に、髪が、服の裾が揺れていた。 「高幡―――」 彼の名を、勝利は呼んだ。 高幡千晶が、そこに立っていた。 あの日のままの姿でそこにいた。 静かな笑みを浮かべて、地上を見下ろしていた。 七階分も離れていて表情など見えるはずもないのに、何故かそれが分かった。 咽喉がからからに渇いて、叫ぼうと思って開いた口からは何も出てこない。砂を詰め込まれたような気分になった。
やめてくれ! 叫びたかった。
ふわりと、高幡は笑った。 両手を広げて、体を前に倒す。 ぐらりと体が傾いで、そのまま重力に引きずられて、落下する。 見上げる勝利の上に、落ちてくる。 まばたきもできずに、勝利はそれを見上げていた。 一瞬でぐっと迫った高幡の体は、勝利の体をすり抜けて、地面に落下した。 どん、という鈍い衝撃音すら、聞こえたような気がした。 指先から力が抜けて、鞄がアスファルトに落下した。 膝が崩れ、往来にぺったりとへたり込んだ。
『神田君、僕は―――』
「俺の」 せいだ。 声にはならなかった。
追い詰めるつもりはなかった。苦しめるつもりなんてなかった。 ただ純粋に、正しいことをしていると思っていた。
「ごめん……」 曇天を見上げる。 屋上に人影はない。だけどまだそこに、高幡がいるような気がした。 「ごめん、高幡」 反らした咽喉が痛くなって、がくりとうな垂れて、勝利は見た。
『君がうらやましくて、ねたましくて、真っ向から励まされるたびに、苦しかったんだ』
アスファルトは血の海だった。
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【続く】
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