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2005年04月22日(金) |
夢喰い 【イレギュラー】 第八話 |
【第八話】
不可思議な感覚に、戸惑っている。 興奮? 高揚だろうか。 落ち着かない。
ここ数日というもの、教室の扉を開ける一瞬は、いつも緊張していた。 軽い扉を一枚隔てた向こう側に広がる、極寒の地を思って覚悟を決める時間が要った。 能面になる準備。感情を押さえ込むこと。扉に手をかけて、一拍を置いて、深く呼吸をしてから。 無表情には慣れていた。すこし昔の記憶を呼び覚ますだけでいい。 周囲の大人たちに、怯えを気取られないように、父親に不快な思いをさせないように、人形のようになること。 一年前までは、簡単に出来ていたことだ。 どうして今、難しいと感じるのか要には分からなかった。 (元に戻るだけじゃないか) 言い聞かせて、実行してきた。毎朝仮面をかぶることにも慣れてきたころ、突然変革が起こった。
―――おはよう、と。 隣の席の少年が急に言い出したのだ。 友好的な笑顔でもなければ、柔らかい声音でもなかったけれど。 むしろ、睨まれたような気もしたけれど。 面と向かって声をぶつけられたのは、久しぶりの気がした。 せっかくつけたはずの能面がぽろりと、はがれるのを感じた。 驚いてしまって。 おはよう、と返すのがやっとだった。 それ以外何を言っていいものか分からなかった。礼をいうのもまた、すこし違う気がする。 他愛のない挨拶を返すだけにして、おざなりに流してしまったけれど。
それから数日。 相変わらず要は、教室の扉を開けることに戸惑いを感じていた。 しかし、それは連日続いていた極寒の地への準備ではなかった。 勝利と挨拶を交わしてからというもの、扉を開けて踏み込むと、僅かながらかかる声がある。 そのことに、要は今戸惑っている。 嬉しいはずのことなのだ。けれど、どう対処すればよいのかが、分からない。
「英語の」 戸惑いながら、自分の席につくなり、隣から声がかかった。 首だけを向けてそちらを見ると、四方に跳ねた髪を持つ少年が、こちらを見ていた。 ひらり、と掌を返す形で差し出される。 戸惑いながら、席につくことも出来ない要に、神田勝利は。 「宿題のプリント。やってある?」 「え……?」 「最近朝練いそがしくって。昨日帰って寝ちゃったから」 見せて。と、勝利が言った。 「……間違ってるかもしれないけど」 要は、ぎくしゃくと自分の鞄を開きながら言った。 「一時間目だろ、英語。やってないよりマシだし」 「……はい」 ファイルから、英語のプリントを引きずり出して勝利に手渡すと、人好きのする顔で勝利が笑った。 「サンキュ」 「……間違ってても、知らないよ」 礼を言われるのがどことなく気恥ずかしくて、要はわざと拗ねたように言った。 いいのいいの、とくりかえして、勝利は早速自分のまっさらなプリントに回答を書き写し始めた。 横目でそれを伺いながら、要は席につく。 以前のような寒さは、なくなっている。 明確な変化だった。 温度差に、戸惑っている。 困りながら、そのぬるさにうっとりと目を閉じたくなる自分もいる。 委ねて、溶けてしまえるかもしれない、と思う。 ぬるま湯のなかに。 ダメだ、と引き止める自分も確かにいる。 甘えてしまえば、そのあたたかさに浸ってしまえば、外へ出たときの寒さに適応できなくなるんじゃないのか。 傷つくのを迂回する臆病さが、ひきとめる。
(だけど) 神田勝利に、おはよう、と言われたとき。 嬉しかった。 その気持ちだけは、誤魔化せなかった。気恥ずかしいような、くすぐったいような。 慣れていないから、そんな”ぬるさ”は知らなかったから。 どうしていいのか分からなくなる。 笑えばいいのか、神妙な顔をすればいいのか、それとも―――。
「助かった」 白いプリントが、隣の机から差し出される。 差し出された手の方へ顔を向けると、人懐こい笑みがあった。 こんなときも、どういう対応をすればいいのかわからなくなる。 ああ、うん、とうやむやに頷いて勝利の手からプリントを受け取った。
*
神田勝利の対応に引きずられるように、ごくごく少数ではあるが、要に声をかけてくれるクラスメートも増えた。 担任がHR中に泣きそうな顔をすることも減った。 上手くいきすぎだ、と要は思う。 ふわふわと、覚束ない雲の上を歩いているような気分だった。 すぐ目の前にすっぽりと穴が開いていてもおかしくないと思っていた。 だから、その日の放課後。 職員室で担任とすこし話をしたあと戻った教室でその話を耳にしたときも、驚きはしなかった。
新任から二年ほどの女教師は、最近いつも悲壮な顔をしている。 何かあったらすぐに相談してね、とは言うけれど、自分が一番重い荷物をしょっているような顔をしていた。 うちのクラスでイジメなんて、という愚痴が顔に書いてある。 表向きだけ憐れむような、優等生然とした彼女の顔を見るのが、要には苦痛だった。 女の人の、疲れた顔は見たくなかった。 そんな顔を自分がさせていると思うと、惨めになる。 大丈夫ですから、と半ば一方的に話を切って、職員室を出た。 英くん! と悲鳴のような声も無視した。 あのまま職員室にいたら、自分を押さえる自信がなかった。 自分では律することの出来ないもうひとりの自分が、いつ顔を出すかもしれない。 絶対に、それだけは避けたかった。
燻る熱を抱えたまま、英単語のドリルを忘れてきたことに気がついて、教室に足を向けた。明日の朝、小テストがある。 人気のなくなった、がらんとした教室の後ろの扉に手をかけたところで、中から人の声が聞こえてきた。
「勝利さぁ、なんつーか、アレはないよな」 耳に飛び込んできた名前に、要はその場で凍りついた。 クラスメートの声だ。聞き覚えがある。顔も思い出せる。野球部だ。名前はなんだったか? 「なにが?」 もうひとり、男子の声が応じた。 「転校生のこと」 声変わりを終えたばかりの、咽喉に負担が掛かっているような話し方で、野球部の男が言った。 要は急に、冷水を浴びせ掛けられたような心持ちになった。 「あんな週刊誌、誰も本物だって思ってなかったのに、最近のクラスの雰囲気って最悪だったろ? だから、だんだんいい方向に向かってるっぽくて、いいように見えるけどさ。勝利のあの態度って、身代わりにしてるように思えるんだよね」 「……もしかして、高幡のこと?」 「そ。勝利さ、かまってたじゃん、高幡のこと。甲斐甲斐しく」 「まぁな」 「だから、相当ヘコんでたじゃん? ―――高幡が自殺してからさ」
指先に、静電気が走ったような気がした。 弾かれたように教室のドアから手を離した。 足元から、強烈な冷気が這い登って、背筋が震えた。 英語のドリルのことなんて忘れていた。 踵を返す。手が震えていて、抱えていた鞄を取り落としそうになる。 呼吸がうまく出来ない。
―――あの態度って、身代わりにしてるように思えるんだよね。
(やっぱり) 階段を駆け下り、昇降口向かう足取り。リノリウムの床を歩いている感覚はなかった。 じわりと視界が滲む。 それとは逆に、口元に何故か笑いが浮かんでいた。 涙が溢れる前に、手の甲で拭う。 逃げるように、校舎を出た。 (やっぱり、そんなに上手くいくはずないじゃないか) うす曇りの空の、どこか遠くから低い雷鳴が聞こえ始めた。 雨が近い。
―――勝利さ、かまってたじゃん? 高幡のこと。
そんなに上手く話が進むはずがない。 ふわふわと、天上の雲の上を歩く心地でも。
こんなところに大きな穴が、空いていたんじゃないか。
―――相当ヘコんでたじゃん? 高幡が自殺してから。
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【続く】
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