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2005年04月10日(日) |
夢喰い 【イレギュラー】 第五回 |
【第五回】
「都佳沙」 名前を呼んで、要は来訪者に歩み寄った。 「どうしたの」 いつもどおりの涼しげな顔で、銀都佳沙は目元で微笑する。 「少し、話できるかな」 ここではなく、と都佳沙の目が暗に言っていた。 顎を引いて頷くと、ひらりと都佳沙が身を翻した。慌てて、要はその背中を追った。 どうしたの、と聞いてみたものの、都佳沙が現れた時点でどんな話なのかは大体見当がついていた。 いずれ、来るだろうと思っていた。 足は、迷いなく人気のないほうへ向かっている。 都佳沙のことは嫌いではない。頼りにしてもいる。 初めてできた、同年代の友達でもある。 けれど気が重い。 せっかく考えないようにしているのに。
都佳沙は、美術準備室の扉を開いた。 途端、油とシンナーの臭いが押し寄せてくる。 要が後ろ手に扉を閉ざすのを待ってから、都佳沙は要に向き直った。 「大丈夫?」 主語もなく、都佳沙が問い掛けてくる。 「なんのこと?」 意味はもう、通じていた。分かっていた。 誤魔化すように、訊き返す。 顔が笑おうとして失敗している、顔の筋肉の動きで、分かる。 「噂、聞いたよ」 都佳沙は正直だ。誤魔化したりしない。 その潔癖さは正しく、強い。 けれど、時として残酷でもある。真っ向からぶつけられると、痛みにもなる。 「あ、うん」 誤魔化しきれずに、要は俯いた。 「口さがない噂は、気にしなければいい。すぐに消えるよ」 正論に、要は俯いたまま小さく頷いた。 都佳沙の言うことは正しいのだ。 けれど、彼は分かっていない。皆、彼のように凛と強く立てはしないのだと。 気にしなければいいと言っても、割り切れない弱さを飼っている。 目を逸らしていても、傷口から痛みが、沁みてくることもある。 治療を怠れば膿む。 尚も目を背け続ければ、致命傷にもなる。 「何かあったらすぐに言って。力になるよ」 普段ならば頼もしいと思える言葉だった。しかし、奇妙にささくれだった心には、真っ直ぐには届かない。 傷つけられていると、認めろ。そんなふうに促されているようにも思えた。 必死に吐き気を堪えているのに、背をやさしく擦られるような。 この仕打ちに傷ついていると、白状してしまえ。 白旗を揚げたら、救いの手を差し伸べてあげるから。 そう、言われているようにも思えた。 ただの被害妄想だと、必要のない意地だと分かっている。 分かっていても。 「大丈夫だよ」 表情を取り繕って、顔を上げた。 「僕は、大丈夫。……慣れてるよ」 奇異の目で眺められることや、遠巻きにされることも、別に今にはじまったことではない。 いつもどおりだ。 過去に起こったことを全て帳消しにして、あたたかくやさしく明るい、そんな学生生活に飛び込めるとは思ってなかった。 そんな、御伽噺みたいな顛末なんて。 信じていなかった―――と思いたい。 信じていなかったから、疎外されても傷ついたりしないのだ。 当たり前のことだと受け入れられる。 (だって) 鈍い痛みが、胸の内に燻っているような気もするけれど、勘違いだと片付けることにする。 (だって、遠巻きにされて傷ついているなんて、認めるのは惨めだ) それに、認めてしまえば、今まで押し込んできた痛みの全てが、一気に噴出してくる気がした。 決壊して、全て溢れ出したら、自分を支える自信がなかった。 かといって、受け容れてくれる周囲の人々に全力でもたれかかるのも嫌だった。 「僕には都佳沙も始さんも雅さんも、いてくれるんだし」 都佳沙や、その父、叔父。全てを理解して尚、受け容れてくれる人もいる。 これ以上彼らに心配をかけることも、憚られた。 何よりも―――。 「僕の問題だから、何とかするからさ」 笑みが、唇の端に張り付いたままになっている。 無理を、都佳沙はきっと、見抜いているに違いない。意志の強い瞳がじっと、要を見ていた。 「だから」 居たたまれなくなって、要は目を逸らした。 ふっと、火が消えるように口元の笑みも、消えた。 「カズマには言わないで」 縋りつくような、ただの懇願だった。 彼には、彼にだけは知られたくなかった。 こんなふうに弱っている自分のことなんて。 常にやさしく労わって背を押してくれる人には、見せたくない。
都佳沙は暫く、何も言わずに要を見つめていた。 やがて、思案するように一度双眸を閉ざし、再び深い黒の瞳を開いた。 「分かった。でも、無理はしないって約束してくれるかな?」 まるで大人が子どもに促すような言葉だった。 無茶は、危険なことは、しないように。 顎を引く動作だけで頷いた。 都佳沙の顔を見ることは出来なかった。
助け舟のように、予鈴が鳴った。
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【続く】
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