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2005年04月07日(木) 夢喰い 【イレギュラー】 第三回

【第三回】


 ざわざわ。さわさわ。
 雑音が夢の中まで潜り込んできて、やがて眠りのほうが負ける。
 目蓋を開くと、どこか薄暗い白い天井が見えた。いつもならもっと、明るく見えるはずなのに。
 カーテンが締め切られた窓から、いつも差し込んでくるはずの朝の強い光はなく。
 ああ、曇ってるんだな、と少し間を置いてから気がついた。
 体を起こそうと思って、重くて挫折する。
 異様なぐらい、頭が、腕が重くて。
 気づいていた。それが現実の重みなんかじゃなくて、感覚だけだってこと。
 重く感じているのは、こころ。

 何か夢を見ていたような気もするんだけど、忘れてしまった。
 見上げる天井が、くすんで見える。
 さわさわ。
 雑音が繰り返して、ようやく細い雨が降っているらしいことに気が行った。
 四季折々、季節がしっかり分かれている国だから、しかたないけど。
 憂鬱なのは、雨。

 枕もとにおいてある目覚し時計を手探りで掴んで、目の前に持ってきた。
 10時42分。
 一瞬、ひやりと慌てて。今日は日曜日だったことを思い出した。
 焦ることなんてなかったんだっけ。
 目覚し時計を枕もとに戻して、もう一度起き上がろうと思って、やっぱりやめた。
 急ぐ必要なんて何一つなかったから。
 ころりと体を横にして、枕を抱いてみた。
 もう少し、眠っていてもいいんじゃないのかな。今日ぐらい。
 考えずにいたかった。何も。

 明日になればまた、7時には起きて、7時45分には家を出て。
 学校に行って、授業を受けて、放課後になって。
 そんな繰り返しをする。
 ただの繰り返し。
 ぼんやりとしていれば、過ぎ去って、終わってしまう時間だ。
 我慢してればいい。
 ものめずらしそうに、気味悪そうに、遠巻きに眺められることなら、慣れてる。大丈夫。
 慣れてるから、大丈夫。
 言い聞かせるように心の内側で繰り返して、もう一度目を閉じた。
 大丈夫。
 きつく瞑った目から、何かが零れたような気がしても、気にしないふりをする。
 自分の気持ちに鈍感になりたかった。
 気づかずに。
 自分の本心なんて知らずに。
 傷つかずに。
 その方が、楽だ。


            *


 朝八時からはじまった練習は、十時を回ったあたりに降りだした雨の所為で昼で切り上げることになった。
 水気を含んだトレーニングウエアを脱ぎ捨てて、Tシャツとパーカーに着替える。
「せっかく運動公園まで来たってのに、昼であがりかァ」
 チームメイトがぶつくさと文句を垂れながら、スポーツバッグを担ぎ上げる。
「勝利、どした?」
 後ろから覗き込む気配に、勝利は大袈裟に振り返った。
 大きな眼鏡と目が合う。
「慶太……」
「チャリで来たよな? 雨ひどくなってきてるけど。俺ら、バスで帰ろうかと思っててさ」
「いーよ、どうせ家に帰るだけだしさ」
 少しだけ笑って、勝利は履いたままだったスパイクを脱ぐ。
 窮屈な感触から、足が解放されたように思えた。
「それに、練習中に随分濡れたから、今更変わんないっしょ」
 手早く愛用品を片付けて、荷物をまとめてベンチから立ち上がった。
「そう?」
 慶太が表情を曇らせている。
 勝利は首を傾げて相手を伺った。
「勝利が平気なんだったら、いいけどさ」
 慶太は、どこか煮え切らない。
「なんだよ」
 少しばかり苛立って、勝利が促した。
 仕方ない、というようにひとつ、慶太が嘆息した。
「やっぱりお前さ、最近ちょっとおかしいよ」
 丸い眼鏡の奥で、チームメイトが憂いを帯びた目をする。
「しつこいな」
 苛立ちの所為で、口が勝手に動く。
 胸の内にどうしようもない凶暴な部分があって、それを上手く制御できない。
 これじゃ八つ当たりだ。分かっているのに、どうにもならなかった。
「こだわってんの、慶太のほうだろ」
「勝利」
 慌てる慶太を振り切るように、勝利は踵を返す。
 呼び止めようとする気配が、途中で諦めに変わるのを背中で感じる。
 脱衣場の扉を閉めるまで、視線だけはずっと追いかけてきた。

「なんなんだよ……」
 陸上競技場を後にした瞬間、後悔した。
 こんなことを言いたいわけではなかった。
 次第に強くなる雨脚が、アスファルトの灰色を黒く塗りつぶす。
 せっかく着替えた服がすぐに、水を吸って重くなる。
 髪の毛が束になって、その先から雫がたつたつと落ちた。
 眩暈がした。体が不調というわけではなく。
 自己嫌悪に嘔吐感すらこみ上げてくるようだった。
 慶太に当たっても仕方がない。分かりきっていることなのに、苛立ちを制御できない自分が不甲斐なかった。
 どんどん強くなる雨に、体中が濡れそぼる。
 両足がひどく重く、だるかった。
 枷がつけられているような足を引きずり、鉛のように重いスポーツバッグを背負いなおして、駐輪場にたどり着く頃には、すっかりと体が冷えていた。
 屋根付きの駐輪場にもぐりこんで、スポーツバッグを籠に押し込む。
 サドルに腰掛けて、うな垂れた。

―――僕、何やってもダメなんだよ。

 雨音に混じって、少年の声が聞こえた。まだ高い。
―――そんなわけないだろ。
 無邪気で明るい、自分の声がそれを追った。
―――高幡だって、やれば出来るだろ。
 底抜けで、悲壮感のない、軽い声に聞こえた。
 勝利は、きつく目を瞑る。
 まぶたの奥に、白が広がった。
 まっさらの、縦書きの便箋だった。


 頑張ってみたけれど、やっぱり僕には上手く―――


「くっそ……」
 やり場のない悪態をついて、勝利は握った右の拳を腿に叩きつけた。
 もう二ヶ月も前のことだ。終わったことだ。
 何度そうやって言い聞かせてきたことだろう。
 自分に言い訳をしてきたことだろう。

 閉ざした目蓋の奥。白い便箋の向こう側に、通い慣れた教室の情景が浮かんだ。
 今日と同じように、雨が降っていた。
 夕立だった。
 部活を終えて、教室に飛び込むと、窓際の席にぽつんと座った人影がある。
 上品に作られた制服を、ぴしりと着こなして、凛と伸ばされた背中。
 首筋が青く細く、肌は病的に白かった。
 夕焼けに、赤く染められた机に本を開いて、じっと静止している。
 彼の周囲だけ、時間が止まっているような錯覚をいつも覚えたものだった。
 物静かで、物知りで、本が好きな奴だった。

 高幡千晶。
 春休みに、廃ビルの屋上から、身を投げたクラスメートだった。


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【続く】


如月冴子 |MAIL

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