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2005年04月06日(水) |
夢喰い 【イレギュラー】 第二回 |
【第二回】
―――僕、強くなんてなれなかったよ。神田くんみたいに。
どこか遠くで、バットが硬い球を跳ね返す、金属質の音が響いた。 雨に濡れたグラウンドは、所々に水溜りを作っている。 雨上がりのにおい。 水分を多くふくんだ空気が、しっとりと肌に吸いつく。 ナイター完備の、金持ち私立学園中等部の野球グラウンド。そこに隣り合わせる、陸上競技用のトラック。 正式な陸上競技場よりも一回り小さい、二百メートルの。 走りこみ用に引かれた、石灰の白い線。ゴールのしるし。 「勝利」 雨に滲んで消えかけたその線のあたりにぼんやりと立っていると、不意に声をかけられた。 気配を感じなかった方向から急襲されて、大げさに振り返る。 「何してるの」 怯えたように振り返ったその先に、見慣れた眼鏡を発見する。 顔の位置は、自分の目線よりも少し下。声変わりをまだ終えていない高い声に、あどけない顔に眼鏡。 典型的メガネくんの彼が、地区内で有数の走り幅跳びの選手だと言って、どれほどの人が信じるだろうか。 「慶太こそ、今日練習休みじゃんか」 ずりおちかけたリュックの肩紐を直して、神田勝利は部活仲間の円藤慶太に質問を返した。 「明日、中央運動公園のトラックで練習だろ。スパイク取りに来たんだ」 慶太の右手には、スポーツブランドの名がプリントされたスパイク専用の小さなバッグが下がっていた。 ああ、そっか。明日。 納得した。 「忘れてたの? もしかして」 まるで可哀相なものを見るかのような顔をして、慶太が顔をしかめる。 答えられなくて、勝利はついと目線を逸らした。 「どうしたの、勝利。最近ちょっとおかしくない?」 憂うような気配を、哀れむようなその表情に混ぜて、慶太は勝利と視線を合わせようとする。 「この間の大会だってさ、おかしいよ。絶対あんなもんじゃないはずなのに。それに最近、ずいぶんぼぉっとしてるしさ。まさか勝利、高幡のこと気にしてんの? あれは誰のせいでもない、どうしようもないことじゃ……」 「違うよ!」 大声で、否定した自分に、勝利は驚いた。 突然張り上げられた大声に、慶太もびくついて言葉を引っ込める。 悪い。 慶太のメガネから、足元の濡れた土に視点を落として、勝利は謝った。 「勝利、気にすんなよ」 「大丈夫だって」 重く、思わずもたげてしまう頭を無理に持ち上げて、勝利は笑った。 口の端が引きつっていることぐらい、自分で分かっていたけれども。 「もう終わったことじゃんか」 精一杯笑ったつもりで、言った。 目の前の慶太の顔は、なおも、心配そうだった。
終わったこと。 そうだ、と言い聞かせる。 もう全て、終わったことなのだ。 過去の話。
「……それならいいけど」 慶太の声は、譲歩の響きがした。納得したわけではない。 くるりと踵を返して、野球場の方へ足を向ける。その横を通り過ぎて、裏門を出たほうが早い。 「待てよ。俺も行く」 歩き出した慶太の背中を追う。足元で土がぬかるんで、バランスを崩した。 何かに引っ張られたような気がして、思わず飛び出しそうになった悲鳴を、なんとか口の中だけで抑えた。 「そういえばさ。あの、例の転校生って、銀と知り合いなんだってね」 勝利の異変に気づかなかったのか、気づかないふりをしているのか、慶太は別の話を切り出した。 「は? 転校生?」 「勝利のクラスの。あの、英だっけ? 週刊誌の」 「……ああ、あれ」 意識はしていなかったのに、げんなりとした声が出た。 今朝から、教室の空気を気まずいものにしてくれた一件を、思い出した。 慶太のクラスと階が違うはずなのに、もうそこまで噂が届いていたのか。 「うちのクラスに銀っているだろ。あのでっかいお屋敷のさ。噂じゃあの家、お化け退治とかやってるらしいじゃん。その転校生とも、そういう関係あるのかな?」 「さぁな」 気のない返事をした。
興味が、ないわけではなかった。 好奇心なら人並み以上にあると思っている。 クラスの女子が、誰が持ってきたかも分からない週刊誌の記事に群がる気持ちも、分からないわけではないし。 醜い好奇心なら、ある。 同い年のはずなのに、何故かあどけなく見える女顔の美人転校生は、どことなく浮世離れした雰囲気を醸し出していて、新学期から二ヶ月ほど経った今も、なじんでいるとはいえない空気だった。 幼かったり、どこか達観していたり。場面によって表情の変わるその少年の過去。 気にならないなんて嘘だ。 それでも。明らかに居心地の悪くなったクラスの空気。 誰かが、誰かを意図的に避ける、ということ。 その空気に今は、堪えられそうになかった。
「それよりさ、今日お前のクラスで英語の小テストやったんだろ? どこ出たか、教えてよ」 「先生、問題変えるって言ってたから無理じゃない? 問題聞いても」 「そこを何とか頼むからさー」 手を叩き合わせて、慶太に強請った。 すぐそばのグラウンドから、バットが硬い球を跳ね返す、金属質の音。 足元にはぬかるみ。 心の内側にはどうしても拭い去れない、重さがある。
―――気にしてんの、高幡のこと。
慌てて否定はしてみたけど。 気にしていないなんて、真っ赤な嘘だ。
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【続く】
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