mortals note
DiaryINDEXpastwill


2005年04月05日(火) 夢喰い 【イレギュラー】 第一回

【第一回】


 教室の扉をいつもどおりに開け放った。
 次の瞬間、空気が凍ったと感じたのは自分だけではなかったんだろう。
 たくさんの目が一斉にこちらを向いた。
 まるで、紛れ込んできた異物に驚いたような。
 怯えた目だった。

 不自然なほど一箇所に集まったクラスメートたちの手元。
 古ぼけた雑誌が広げて置かれていた。
 遠目でも、それがなんなのか漠然と分かった。
 こちらに向けられているその、異物を見るような視線で、十分わかった。
(ああ、”また”)
 石像のように固まるクラスメートたちの脇を通って、この間与えられたばかりの自分の机へ向かった。
 慣れている。こんなの。
 昔と同じだ。だから別に、傷つく理由はなかった。

 僕に怯えてあとずさった女子の足元に、その雑誌が広がったまま落ちた。

―――呪われた新興宗教の全容。

 一年も前の雑誌、誰が持ってたんだろう。
 ちらりとそのページを見てから、机に座った。
 ちょうどチャイムが鳴った。


            *


「……ただいま」
 少しガタのきている扉を手前に引いて、消えそうなほど小さな声で言った。ぎぃと軋んだ音を立てて開く。
「ああ、おかえり要」
 “ただいま”。それに対して”おかえり”。
 その言葉がまだなんとなく不自然で、慣れない。口に出すと不思議な感じがした。
 扉の向こうには、革張りの黒いソファーが置かれている。ここは厳密に言うと、家ではない。事務所だ。
 僕はそっと入り口からまず顔だけを室内に突っ込んで、声の主を探した。
 ソファーの向こうに、デスク。黒塗りの、時代遅れの電話。右手に簡易の台所。左手に窓、その下に応接のテーブルと椅子がある。
 事務所としては狭い場所だ。
 声の主は、台所にいた。
「コーヒー淹れてるけど、お前も飲む?」
 思わず壁の時計を見てしまったのは、そう告げた相手の顔と声が、とても眠そうだったからだ。
 学校が終わってから真っ直ぐここにきたから、もう既に4時を回っているのに。
「カズマ、寝てたの」
「転寝。暇だったから」
 悪戯を見咎められたような、少しばつの悪そうな顔で成瀬一馬は笑った。

 6月に入ってから、雨が続いている。
 カズマは、火のついていない煙草を口に銜えたまま、かすかな音を立てるコーヒーメーカーをぼんやりと見ていた。
 ワイシャツにゆるくネクタイを締めた格好でふっと顔をあげて、「中に入りなさい」。そんな、保護者みたいなことを言った。
 気づけば僕は、事務所の扉から、まだ顔を突っ込んだだけだった。
 うん、と頷いて事務所の中に入る。目の前のソファーまで歩いていって、カバンを置いた。
 なんだかよく分からないけれど、体が重い、気がした。
 カバンを置いたソファーに沈み込むように座って、左側を見た。ブラインドの隙間から、オレンジと黄色を乱暴に混ぜたようなひかりが零れ落ちている。
 天気雨だな、と思った。

 成瀬一馬と暮らし始めたのは、一年程前。この事務所に出入りをはじめたのは、半年ほど前だ。
 間の残りの半年は、外に出るのも怖かった。
 生まれてから13年、要は、限られた敷地の外に出たことがなかった。
 4、5歳までは体が弱かったから。それからあとは―――変な力が見つかったから。
 なんと表現すればいいのか、分からない力だった。オカルト的にいえば、超能力、なのだろうか。
 感情が高ぶると、身近なものが割れたり倒れたりした。
 見る間に、自分を見る周囲の目つきが変わっていって、母は泣いた。
 父は、まるで化け物を見るような目をした。そして、守るという名目で、とじこめた。
 その閉じ込められた環境から、抜け出したのがちょうど1年程前のこと。
 1年前。けれどもそれはあまりにも、遠い過去のような気がした。
 振り返ればひたすらに遠く、記憶は曖昧。
 きっと、思い出すのが嫌なんだろう。忘れてゆくのは、人間の自己防衛本能。
 生まれつき持っているものなんだって。

 革張りのソファー。もう座りなれているはずのその感触が、今日は違って感じられる。
 なんというか、いつもよりもやわらかくて、ずぶりずぶりと沈んでいってしまうような、錯覚。
「どうした」
 ぼんやりとしていると、目の前に白いコーヒーカップが差し出された。
 そのコーヒーカップから、それを握る手、腕、肩、そして、相手の顔を確かめた。
「なんかおかしくないか」
 僕のほうにコーヒーカップを差し出したまま、カズマは少し表情を曇らせている。
 ぎくりとした。
 まさか、今日あったことがもうここに知られているはずはない。
 できるだけ、動揺を表に出さないように気をつけながら、差し出されたカップを両手で受け取った。
「なんでもない。ただちょっと、疲れただけ」
 正直に言ってしまえばよかったのかな。
 ごまかしてすぐに、後悔が頭をもたげてくる。
 変な意地を張ったんだってことは、自分でも分かっていた。
 心配をかけたくないから、というのも確かにあっただろうけど。
 今日あったことを話し始めたら、途中で泣いてしまうと思った。絶対に。
 今まで、ここまで、ずっと平気な顔をしてきたけれど、改めて話し始めたら、きっと気付く。
 自分が、やっぱり傷ついていたんだっていうことに気がついて、きっと泣いてしまう。
 それは嫌だった。
 沈黙が不自然にならないように、コーヒーに口をつける。
 何故だかとても、苦かった。



--------------------------------------------------------

【続く】


如月冴子 |MAIL

My追加