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2005年03月29日(火) IE/047 【INTEGRAL】 8

8.DEATH/トリガーを引く者


 水の底を漂っているようだ、と思った。
 深く濃い闇のそこここで、苔のような緑の照明が足元だけを照らしている。
「せっかくいいところだったのに」
 楽しそうな男の声が、下方から響いてきた。
 恋は目を凝らす。まだ、闇に目が適応していない。
「君が指示系統を切り替えたから、スポットライトが落ちてしまったよ」
 深い深い闇を、更に潜る。猫のように気配を忍ばせて、階段を下る。絨毯に吸収されて、音など響かないにも関わらず、慎重に脚を下ろした。
「何者だ?」
「ああ、”君は僕を知らないんだっけね?”」
「誰だ、って聞いてんだよ」
「人に名前を尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀ってものじゃないのかな。ああ、でも君はそんなことをする必要もなく育ったから仕方ないのか」
「何の話―――」
「王子に名前を尋ねるような無礼な真似は誰もしなかっただろうからね」
 立ち止まり、恋は傍らの座席の背を掴んだ。
 爪を立てるように、それを強く握る。
「馬鹿なこと言ってんなよ。王子はとっくの昔に死んだんだぜ」
「公式には、ね」
 言葉遊びを楽しむような、笑いを含んだ声が、闇の底から返ってくる。
「墓、掘り返してみろよ、ちゃんと体も埋まってんだぜ。それに俺には飯田恋っていうリッパな名前と経歴が―――」
「十年近く植物状態だった人間が、どんな奇跡が起こったら目覚めるんだろうね」
 次々と言葉をせき止められて、思わず舌打ちが落ちる。
 くすくすと男に似つかわしくない笑いが湧き上がってきた。
 あと数段の段差を残して、恋は立ち止まる。
 おそらく、舞台と同じぐらいの高さにいるはずだ。
 声のするほうを凝視する。
 視線を感じる。おそらく、相手もこちらを見ているはずだ。
「覚えておくといい」
 真新しい白い舞台が、ぼんやりと浮かび上がっている。恋は目を凝らす。
 そこに、いる。
「俺は、お前を、近いうちに飲み込むつもりだ」
 やわらかかった語調が、急に芯を持って硬く尖る。別人のように、声が張った。
「だから、てめぇは何者なんだよ」
 確実に今、視線は絡まっている。そう確信する。
 射すような冷たさを、感じているのだ。
「ひとつ、謎かけを残していく。次に会うときまでに解いておいてくれると嬉しいね」
「おい!」
 まろぶように、恋は残りの段差を駆け下りた。
 声が、遠のくような気がした。
「ここに、贋物がふたつある。材料は同じだが、外見が違う。片方はとてもよく、本物に似せてある。他方は本物とはかけ離れた恰好をしている。このふたつを突きつけられたとき」
 舞台へのぼる段差を、勢いに任せて駆け上ると、舞台の床が小気味よく鳴った。
 板張りに、靴の踵がぶつかって立てる音だ。
「このふたつを突きつけられたとき、一体ひとは、どちらを本物だと思うだろう? 君はどう思う? シドニア王子?」
 フェイドアウト。音量のつまみを捻るように、語尾が煙のようにうすく消えた。
 まるで幻のように。
「どこ行きやがった!!」
 舞台中央に立ち、ぐるりと首をめぐらして叫んだ。

―――パンッ。

 答えたのは、乾いた破裂音だった。
 続いて、少し離れた場所で何か重量を持ったものが倒れる音。
 体の右手側だ。思わずそちらに首を向ければ、闇の中、僅かな緑色を跳ね返す、艶やかな銀色が浮かび上がった。
「銃―――」
 今のは銃声か―――?
「照明!!」
 天井に向かって叫びかけた。先程の命令が効いているのならば、この”声紋”に反応してシステムが作動するはずだ。
 カッ、と光が爆発した。そう錯覚するほどに苛烈な白が、天井から降り注いだ。
 舞台に設置された、膨大な光量をはなつ鋭い白が、まだ汚れもほとんどない舞台を照らし出した。


 ひたひた、寄せてくる水溜りがあった。
 思わず息を詰めて、ゆっくりと一度、まばたきをする。
 まるで悲劇のヒロインのように、華奢な体が舞台にうつぶせに倒れていた。
 体の下に、徐々に広がりを見せる水溜りがある。
 水分は、白い色をしていた。
「人工、血液だって―――?」
 銀の髪を振り乱し、放り投げられた人形のように舞台に転がっている”聖女”。
 体に開けられたであろう穴から溢れ出すのは、なまなましい赤ではなかった。
 血液と同じ成分の、同じ役割を果たす白い液体だ。
「ご協力に感謝するよ、IE047」
 愕然と舞台上で立ち尽くす恋に、女の声が降ってきた。
 振り仰ぐと、恋が飛び込んできたまま、開け放たれた扉に、死神が見えた。
 小柄な影は、頭から爪先まで黒い布をすっぽりと被っている。
 暗黒の傍らに、人形のような男が立っていた。黒の上下に、胸にヨシアのエンブレムがある。
 なめらかな黒髪が、瞳を覆うほどに零れかかったその姿は、昼過ぎに空港で出迎えた男のはずだ。
 聖女の側近である、キエフトと言っただろうか。
「おい、―――何でお前が、狙撃用ライフルなんか持ってんだ?」
 側近の手には、高性能の狙撃用ライフルが、当たり前のようにぶら下げられていた。
「ご協力感謝します」
 抑揚のない声で、キエフトが礼を述べた。
「これで、公の場での聖女アナスタシアの暗殺は防ぐことが出来ました。これで、聖女の秘密は、露見しなくて済む」
「どういうことだ」
 噛み付かんばかりの勢いで、恋はキエフトを睨みつける。
「ヨシアのためなのです。ご理解いただきたい」
 キエフトは、憂えた顔をした。
 その傷ついた表情が、尚更に恋の感情を逆さに撫でる。
「どういうことだって聞いてるんだよ! 何でお前が、聖女をぶっ殺すんだ!」
 白い海が、恋の足元のすぐ傍まで懐くように寄ってきていた。
「聖女の秘密を、知られるわけには行きません」
 マニュアルのある機械のように、キエフトが答えた。
「聖女様が作り物だってことをか? 人工血液ってことは、まともに生まれてきた人間じゃないんだろうが、それが殺す理由だってのか?」
「彼女は、この国の反政府組織とつながりを持ち、自分で自分の暗殺予告を出させたのさ」
 死神が口をきいた。
 フードに覆われた奥から、どことなくくぐもった声がホールに流れ出してゆく。
「ヨシアの安定を覆す、重大なスキャンダルを自ら暴露するために」
 死神が、フードに手をかける。
 一気にそれを引き摺り下ろした。
 目を皿のように瞠って、恋は絶句した。
「おまえは……」



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【続く】


如月冴子 |MAIL

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