mortals note
DiaryINDEX|past|will
3.
―――殺される。 暗闇を、走っていた。 足元は固いのかやわらかいのかも分からない。 耳に聞こえているのが、他人の足音なのか、自分のそれなのかも判別がつかない。 ただ恐ろしかった。 生命の危機を感じて、走っていた。 荒い息遣い。 何故怯えているのかは分からないのに、捕まったら殺される、という奇妙な自信はあった。 手が、何かを持っている。握り締めている。右手だ。 首を捻って、大きく振る右手を見下ろした。何を必死に、しっかりと掴んでいるのか。 重かった。 握り締めた指と指の間から、ぞわぞわと黒い糸が無数にはみ出していた。 糸? ―――違う。 きしきしと指に絡む感触は、髪の毛だ。 ひぃっ、と咽喉が掠れた悲鳴をあげた。 思わず立ちすくんで、掴んでいたものを取り落とす。ごとり。 ごろり、と重みを持ったそれが、闇の中を転がった。 くるりくるりと回転して、目の前に。 ぼんやりと浮かび上がるのは血の気の失った、まるで蝋人形のような。
首。
「うわぁああっ!」 自分の絶叫で、シロウは目を覚ました。横たえていた体を、勢い良くがばりと起こす。 視界の端で何かが飛びのく気配と、小さな悲鳴。 「シロ?」 離れたところに退避したアンリがおそるおそる声をかけてきた。 「だいじょうぶ?」 小走りに近づいてきたアンリが、下からシロウの顔を覗き込んだ。 いつのまにか汗をかいていたらしい。こめかみから一筋、顎に向かって雫が落ちる。 「ワリ。驚かせただろ」 今にも泣き出しそうな情けない顔のアンリを、シロウは乱暴に撫でた。 「だいじょうぶ?」 心配そうな面持ちで、アンリは繰り返して訊いた。 無邪気な分、彼女は人の気配の変化に鋭敏だ。 シロウは苦笑する。 「全然平気。お前こそどうしたんだよ」 「社長がね、もうすぐプロメテアに着くから、シロを起こしてこいって」 「もうそんな時間か」 一、二時間ひと眠りのつもりが、すっかり一日分の睡眠をとってしまった計算になる。 どうりで体がぐったりと重いはずだ。 「わざわざ来てくれたのか。ありがとな」 「パウンドケーキが食べたいです!」 心から礼を言うと、ニコニコとアンリが見返りを求めた。 こういう現金なところは誰から習ったものか―――一瞬脳裏を慣れ親しんだ顔が掠めたが、シロウは気がつかないふりをした。 「ハイハイ。あとでな」 アンリが横から腕を引っ張るので、シロウはだるい体を起こしてベッドから下りた。 差し出される小さな手に、自然と自分のそれを繋ぐ。 「ねぇ、こわい夢みてたの?」 「あ? ああ、さっきのね」 鋼鉄の、鈍い銀に輝く廊下を並んで歩く。 不快感だけがざらりと残っている。 断片だけは思い出せるのに、一体それがどういう内容だったのか、どれほど意識を集中しても思い出すことが出来ない。 澱のように、重みと苦味だけが、今も。 「忘れた」 単純明快に、結果だけを答えた。 「ええええー」 不服そうにアンリがブーイングを上げる。 「なんだ、えええ、って」 悪夢を克明に知りたかったような反応じゃないか。 「だって、なんだかつまんないんだもんっ」 なんだそりゃ。シロウは嘆息した。 女性と言うのはどうにも気分屋で困る。
良く、見る夢のような気がする。 起きた後は大概内容は覚えていないのだが。 闇の深さと、こみ上げる嘔吐感にも似た不快感。 ただの夢ならばいいが、”手がかり”かもしれないと思うと、一度はしっかりと覚えていられたらいいのに、と思う。
空白の、二年間。 ぽっかりと、二年分、シロウの記憶は欠落している。 何故なのかは良く分からないが、社長に拾われる数年前のことは、思い出そうとしてもどうしても思い出せない。 生まれは何処で、親は誰か。それは分かる。無くしていない。 ただ、数年前の一時期の記憶だけがすっぽりと抜け落ちているのだ。 その当時は自分は一体どこにいて何をしていたのか? 埋まらない空白があるということは、気持ちのいいものではない。 大方転んで頭でもぶつけたんだろうと、社長は言うのだが。
「プロメテアってね、今お祭りなんだって!」 繋いだ手を振り回しながら、アンリが言った。わくわく、と顔に書いてある。 「ああ、らしいな。ええと、なんていったっけ? ライスランド……?」 「ラストランドデイ」 即座に後方から訂正が入った。 唐突に背後に現れた気配に、シロウはのけぞって、情けない悲鳴をあげる。 あー、アルバくん! とアンリはうれしそうな声を上げた。 「いいい、いつの間にお前そこに」 「そこの調整室から出てきたところだ」 親指で、すぐ傍の壁面に張り付いた薄い扉を示しつつ、アルバート・デュランは言った。 地球人の標準的な身長であるシロウよりも、頭半分ほど低い。 ぼっさりと顔の半ばまでを覆うような髪は濃い青で、髪に隠された瞳の色は伺えない。 グレイのハイネックセーターに黒のパンツ姿。全身を暗い色で包んでいるので、僅かに覗いている顔の下半分だけがやけに白く見えた。 「ねぇねぇアルバくん、ラストランドデイってどういうお祭りか知ってる?」 シロウと繋いだ手をぶらぶらさせて、アンリが聞いた。 「フォルモの祭りだろう」 大した感慨もなくアルバートは切り替えした。 「元々は祝い事でも何でもなかったそうだ。何しろ、大陸が全て水没した日にちなんだ祭りらしいからな」 「大陸全部が水没?」 「なんだ、シロウは知らなかったのか。有名だぞ」 厚ぼったく垂れ下がる前髪の隙間からシロウを見上げて、アルバートは僅かに驚いたようだった。最も、その変化も微細なものなので、付き合いの長い人間にしかわからない程度ではあるが。 「事情は大して地球と変わらないらしいが。今では大陸は全て海の底。人工都市が浮かんでいるだけだそうだ」 「へぇー。だからラストランドデイっていうんだ!」 「やっていることは、普通の祭りと何ら変わらない。ただ星を上げて騒ぐだけだ。正月と同じだな」 「でもでも、社長はラストランドデイには確実に必要なものがある、ってゆってたよ」 てくてく、並んでブリッジに向かいながら、更にアンリは質問を重ねる。シロウと手を繋いだままアルバートにも手を伸ばすので、まるで休日の親子のような形になってしまった。 「鴉猫の牙のことか?」 「カラスネコ?」 くりん、とアンリが首を傾げた。 「元々フォルモ原産の生き物で、近くの星とつながりが出来た頃に、珍しがられて色々な星に輸出されたんだ。だが、フォルモの本星の大陸が水没してからは繁殖がむずかしくなって、今では天然記念物扱いになっている。昔から鴉猫の牙は魔除けに用いられていて、今ではラストランドデイにその牙をアクセサリにするのが通例だそうだ」 「へぇぇぇ」 大仰にアンリが驚いた。大きな瞳を輝かせてアルバートを見上げている。 「だからこの時期になると、近くの星から鴉猫の牙の輸入が増えるのさ。今回の積荷も大方、鴉猫の牙だろう」 「からすねこって、猫なの!?」 一際きらきらと期待に瞳を輝かせて、アンリがアルバートの腕を引っ張る。 「猫といえば猫だが―――子どもでも一メートルぐらいある。黒くて、背中に鳥の羽根が生えているんだ」 ひゃぁ、と大袈裟に驚いて、アンリが自分の両手を広げる動作をする。 一メートルを測ろうとしているようだ。 「おっきいね!」 「天然ものは少ない。大体が模造品だ。ごく稀に本物の鴉猫自体が取引されることもあるが」 「アルバくん物知りだね!」 アンリが尊敬の眼差しをアルバートに向けた。半ば前髪に覆い隠された顔で、僅かにアルバートがはにかむように笑う。純粋で直球なアンリの感情表現は時折気恥ずかしくもあるが、やはりうれしいものだ。
ブリッジの目の前までたどり着いたところで、唐突にシロウの腕に絡みついたゴツいリストバンドが鳴り出した。ぴこんぴこん、赤く明滅する。 ある意味、インターホンのようなもので、来訪者からの通信はブリッジと、シロウが右腕に装着している時計兼コンピュータ端末兼通信機―――『キュラクタ』に届く。 大概はシロウが応対することになる。社長なんかはブリッジにいても無視だ。 人差し指で応答ボタンを押した。 「はい。こちら運送業務を営む『SNAKEHEADS』ですが。ご用件をどうぞ」 膜状のモニターが、キュラクタの上部に浮かび上がった。現在は「SOUND ONRY」という赤い文字の表記があるだけで、相手の顔は見えない。向こうにも、シロウの声だけが届いているはずだ。 《毎度ありがとうございます〜、『きら家』フォルモ星系支店の担当ジャクリンです!》 「はい?」 《ご注文の『バルデン星産特上うな丼セット』と『特製牛丼並』。銀河ビール6本セットをお届けにあがりましたー!》 状況がよく飲み込めていないシロウに、ジャクリンくんはやけに明るい営業用の声でまくし立てた.。 《合計で2760Gになりますー。こちらの番号までお支払いお願いしまーぁす!》 シロウは慌てて周囲をぐるりと見回した。 目が合ったアンリはふるふると首を横に振る。 視線をアルバートに移すと、疑われるのは不本意、と顔に書いてあった。 ああ、それなら、答えはひとつだ。 「……じゃあ、これで」 シロウは、キュラクタのボタンをいくつか押して、自分の口座から代金を振り込む。 しばしの沈黙。 《……はい! 入金確認いたしました! 只今そちらの転送機器に商品転送いたしますので、ご確認お願いしまァす!》 荒々しく、シロウはブリッジに乗り込んだ。 ぷしゅんと横滑りに開くドアの左手側。ブリッジの一区画に作られたリビングスペースがあり、壁際に外部から荷物が転送されてくるブースが設置されている―――誰かさんの趣味で作られたカウンターバーの傍だ。そこから、長身の美女がビールの缶を引きずり出すところだった。 「……荷物、とどきました。ドーモ」 《はい。確認ありがとうございます! それではこれで失礼いたしますー! またお願いしますね! アリガトウゴザイマシター!》 ぷつん。 キュラクタの膜状モニターが、一本の線になって消える。通信終了。 「あのォ」 弱々しくシロウは呼びかけた。相手は黒革のソファーに長いおみ足を投げ出して座って、銀河ビールをあおったところだった。 社長は視線だけをシロウに寄越す。 あァ? なんだ文句でもあるのか、と。目が言っている。 「……カネ」 ビールの缶を口元から引き剥がして、社長が僅かに目を細める。 無言の、圧力。 しばしのにらみ合いが続き。 「……なんでもないです」 シロウの連敗記録は更新された。 シロがんばってー、といつのまにか傍にきていたアンリに慰められる。 「到着までは?」 ぱきりと、鰻丼牛丼とともに届けられた割り箸を割って、社長が誰ともなしに問い掛ける。 「あと一時間と二十五分といったところです」 すかさずアルバートが答えた。 「まァ、じゃあ作戦会議だな。座れ」 トップの号令に、乗組員はリビングスペースに置かれたコの字型のソファーに銘々おさまる。 アンリはホクホク笑顔で社長の隣にぽすりと沈んだ。 よっこらしょ、と社長の向かい側に腰掛けたシロウに、ぺしりと『きら家』のロゴが入った箸がたたきつけられる。 「って! 何す―――」 「余ったから喰え」 テーブルの上には、手付かずの特製鰻丼がひとつ。 「ええっ!? マジっスか!」 幼い頃はわびしい暮らしをしていたシロウだけに、食というのは人生最大の娯楽のひとつだ。 放り出された割り箸をありがたく受け止めて、シロウは両手を合わせた。 「いいなぁ、シロー。アンリもうなぎ食べたいー」 向かい側からアンリが身を乗り出す。 実のところ、鰻はシロウの好物だったりもする。 これはもしかして、もしかして元々自分のために注文されたのではないかなどと喜んでしまって。 一口目を口に運んで唐突に。 シロウはある事実に気がついた。
(……これ、俺の金じゃんか)
「シロ? どうしたの? おなかいたいの?」 急に箸が止まったシロウの顔を、心配そうにアンリが覗き込む。 「あと一時間強でプロメテアだな。荷物の引渡し場所はどうなってる」 何処から取り出したものか、ブラッチーノマイルドを口元に銜え、社長は頭脳担当に赤い瞳を向ける。 「とりあえずプロメテア港で、倉庫の大半を占めている量産型の『鴉猫の牙』をおろします」 「ああ」 相槌をうちながら、社長は紫煙を空中に吐き出す。 「問題はそれから先です。おおっぴらに例のものは引き渡せません。取引相手が、プロメテア付近に、所有の船で現れるそうなので、そこで取引です」 「そこで?」 「取引相手所有の豪華客船です。この船なんかは、すっぽり入れるそうですよ、ドッグの中に」 「へぇ、そりゃすごいねぇ」 大して凄いとも思っていない口調で、社長は相槌をうった。 「例のものって……」 出されたものは最後まで食べるのが信条のシロウは、自分の金から生まれた鰻丼を胃の中におさめながら、聞いた。 今回乗っている荷物については、搬入の際にちょうど別件で出払っていたシロウは全く知らない。 「ああ、お前は乗せたときにはいなかったね。倉庫に行きゃぁ、会えるよ」 「会える、って」 「そのまんまの意味さ」 煙草の先を灰皿に押し付けて消すと、社長は新しい缶ビールのプルを起こした。
|