草原の満ち潮、豊穣の荒野
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草原の満ち潮、豊穣の荒野 外伝 6 幽霊たち

『ブルー、大きくなったのね』

拳をふりあげサメに対峙する彼の耳に懐かしい声が飛び込んで来た。

サメは巨大な口を開けると大きな一塊の泡を吐き出した。

「え…?」

吐き出された泡は見覚えのある経過を経て人のような形へ変わって行く。

「お、親父と同じ…」


泡はブルーの父親が人の形を取る時のように姿をかたどっていった。


「母さん!?」


ゆらゆらと半透明な女性のひとがたがブルーに手を差し出した。
古い写真と同じ姿で微笑んでいる。

『会いにきてくれるなんて嬉しい…』

「母さん、その姿ってまさか」


ブルーは似たものを知っている。
命がとうに尽きても、子供が大人になるまで傍にいる『幽霊』の存在を。


「どういうこと…さっきのサメも」

『お父さんには内緒』

「?」

『本当の事を知ったら悲しむから』

「だって親父、母さんが生きてるから会いに行け、って」

『ええ、ここにいるわ』

半透明の母親はにっこり微笑んだ。


「そんな…」

『私はあなたが大人になるまでいつも海で見守っているの。
サメ達と契約したのよ。私の体をあげる代わりに大事な息子を襲ってはいけない、と』


「母さん…」

ブルーは母親の手を取ろうとしたが、その体を通り抜けただけだった。


『ブルー、小舟に戻りなさい。あの女の子の手当を。あれがあなたの選んだ子なのね』


「はっっ!!」


ブルーはすっ飛ぶように小舟にとりついた。
ディアナが倒れている。
金色の髪と真っ白な二本の足のある体で。


「良かった…ケガはしてない。気絶してるだけだ」

ブルーはディアナの胸に耳を当て鼓動を確かめるとあわてて小さな毛布を彼女にかけた。
半透明の母親は小舟のふちに腰掛け見守っている。


『ブルー、あの薬を使ったのはいいけど、もう効き目はほとんどないから気を付けなくてはね』

「そ、そうだ!ディアナの体…あ…えーと」

『せいぜい新婚旅行を楽しむ程度のものだから…と言ってもお父さんは知らないわね』


母親はディアナの顔を覗き込むと心配ない、と微笑んだ。


『あなたがいつかきっと可愛い女の子を連れてくると待っていたの』


「あの…実はこの子、間違えて薬飲んじゃって、その、オレの彼女じゃない」

『まあ、そんな照れなくても』

「いや、だから手違いで人魚になっちまって
母さんなら人間に戻ったから親父が方法を聞いて来い、って」


ブルーは頭をかきながら母親に説明した。
そうだ。いくら自分がいいなと思ったって、当の本人はそんな事。

「…どうせオレ、海からも追ん出されたミソッカスだし。人魚達だって相手にしないよ。
今までだって会ったことない。人間だってろくに付き合わねえから
ディアナと弟が好奇心でやってきて…それでつい…」

『お父さんがいるのに寂しかったの?』


ブルーは言葉に詰まった。
父親は幽霊だ。つまり、本来ならブルーの父も母も…


「い、いることはいるけど…死ぬ寸前というか死に損ないていうか」


『まあ、なんてことを』

母親がブルーの頭をこつんと小突こうとしたが通り抜けただけだった。


「母さんこそどういう事なの。
オレ達を置いて地上に帰って元気に暮らしてたんじゃなかったのか?
なんだってそんな姿で」


『お父さんには言わないと約束する?』

「あ、ああ」



母は顔を近づけ囁くように言った。

『あの薬ね、不完全だったの』

「え!?」

『お父さんは自分の命と魔力を半分、私に分けてくれたのよ。
あの薬はお父さんが命を削って作ったもの。
地上の人間が海で生きられるよう願って』


ブルーははっとした。
父親が物心ついた頃からほとんど半病人だった事、ある日、とうとう倒れて息を引き取ったこと。
ひとりぼっちになって泣いていたらあの姿で後ろに立っていた事、いろんな事を思い出した。


『でもね、神様は命をそんなにたくさん下さらないものなの。
ほんのしばらくの間、夢を見られただけ…
お父さんに話せばきっと残った命も使って薬を完成させようとするわ』


「母さん、サメを退治できるくらい強いひとだって親父は言ってた!」


『ええ。だけどあの女の子を見たでしょ?
だからサメ達を懲らしめてから約束を交わしたの。
小さなあなたやお父さんを置いて地上へ戻っても母さん寂しいもの。

…残りの薬なんてもう数日効けば上出来だったんじゃないかしら』


ブルーは顔を覆って涙を隠した。
ごしごし腕でこすってもこすっても涙が止まらない。

「ブルー」

ディアナがそっと毛布の半分をブルーの顔の下に滑り込ませた。

「…気が付いたのか」

「今ね。あたしは何も聞いてないわよ」




しばらく小舟は星空の下、ブルーが鼻をすする音だけ聞こえていた。






「母さん、お願いだから一緒に帰ろう。父さんに会ってやってよ」

『だめよ。約束したでしょ?お父さんが無茶をしたら困るわ』


「…だって…」

『男の子でしょ?母さんはいつでも海であなた達を見守ってる』


「親父は死にかけてるよ」

『え?』

「母さんとおんなじだよ。
体なんかとっくにない。今じゃ幽霊だかなんだかわかんねえのが辛うじて『いる』んだ」


小舟に腰かけた母親が立ち上がった。
彼女もまた幽霊のようにすうっと子供達の傍にやってきた。


『…そうだったの』


「オレがディアナ達に近づいたのも、寂しくてどうしていいかわかんなかったんだ」

ディアナは毛布を体に巻いたまま星空を見ていた。


『でも母さん、サメ達と一緒にしかいられない。
お父さんに会いに行けば周りの人達がこわがるわ…』


「おばさま、いい考えがあるわ…」

ディアナが空を見たまま言った。


「ブルー、協力してあげる。
帰って父さん達にこう言うわ。あんた達が海の神様だって。
あたしを気に入って人魚にしたけどお願いして元に戻してもらったって。
その代わり、サメから守ってくれるから危害とか絶対加えちゃダメってね」



ブルーと母親が顔を見合わせた。

『お嬢ちゃん、ありがとう。それからごめんなさいね…』


ブルーは毛布で思いっきり顔をゴシゴシこすった。
その拍子にディアナが巻き付けていた毛布まで取ってしまった。


「バカーーーー!!!」



『どこからどう見ても仲良しにしか見えないんだけど…』



「母さん、行こう!」

『いいこと?忘れないでね。サメ達の一匹でも殺してはだめよ。
私は彼らと一緒でなければならないの。
その約束さえ守れるならお父さんのいる所へ行けるわ』

「約束する。沖で待ってて。
先に戻って話を付けて呼びに来るよ。
うまくいかなくてもその時は親父を瓶に入れて連れてくる」


「父さん達怒ってるからあたしがちゃんと話さなきゃ。ブルー、あんたじゃダメよ」

「大丈夫。ダニーや父さん達がうまくやってるさ。さあ、急いで帰ろう!
親父、きっと喜ぶよ」


小さな小舟は進路を引き返し、勢い良く漕ぎ出した。
その後ろをサメの群れが静かについていく。

ディアナは汗臭くなってしまった服をブツブツ言いながら着た。
もう尾も鱗もない。普通の女の子。
水の中が少しだけ気持ちよかったなと思いながら
不思議な女幽霊と人魚の子供を眺めていた。

星の下の海原は静かに薙いでいる。