草原の満ち潮、豊穣の荒野
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「母さん、オレ、もうやだよ…」
ブルーは閉じこもった部屋で母の写真に訴えた。 透明な石の中で微笑むひとりの女性。 隣には先の水槽にいた男。 若き頃の父と母。ブルーは父親の上に布をぐるぐる巻き付けて隠してしまった。
「あのくそ親父、大事な事ほとんど黙ってた。選りによって母さんの事…」
母は芯の強そうな笑顔で赤ん坊を抱いていた。
「オレが覚えてるの、オレのせいで母さんが死んだ事だけ…」
薄暗い水槽の部屋。 ダニーと人魚のディアナは水槽の男に機関銃の如くこれまでの事を話した。
「あたし達、ダニーの意気地なしを治そうと思ってここに来たのよ。 ダニーはこわがりで夜中にトイレに行くの嫌がってオネショしちゃうから」
「姉さん、なんで話すんだよう!」
「いいじゃないの。あんたががんばって夜中に灯台へ行ったんだから 別におかしかないわ」
「そういう問題じゃない。姉さんだってブルーにお尻噛まれたりパンツ見られた事言われたら怒るくせに」
「ダニー!」
人魚の姉は水槽から半身を乗り出してダニーの頭をぶった。
『…私の息子とそんな事に。最近の若い者はなんと大胆な』
「違う違う!真っ暗な中いきなりブルーが…」
『なんと…父の私が代わって無作法はお詫びしよう。申し訳ない。 だが、男とは多少強引なものでどうか許して仲良くしてやってください』
ディアナは水中の男を尾でキックした。 男は上半身と下半身がぽろ、と外れディアナは気絶した。
『失礼。私は事情があって元の姿を保つ事が難しいもので。 気にしないでほしい」
「もう慣れて来た気がする…」
『君はダニーと言ったね。つまりブルーは君に薬瓶を渡し、それを間違ってディアナが飲んでしまったと』
「ブルーはなんにでも効く薬だから僕の気にしてるものも治る、って言ったんです。 だから僕は喜んでもらって…酷い嘘だ」
ダニーはぽろぽろと涙をこぼした。
『君たち姉弟はどうも性格が逆だと良かったのかな…。 ダニー、よく聞いてほしい。おおかた息子は君とも親しくなりたかったのだ』
「……………」
『いや、そっちの親しくじゃなくて』
男は苦笑いで手を振りダニーを安心させた。
『よく考えてごらん。ディアナのスカートをめくったりお尻を触ったりするくらいだからそっちじゃない』
「あの、触ったんじゃなくて噛んで…」
『あいつ、まだ子供だと思っていたのだが。いずれにせよ女性に無作法はいけない。 ディアナが怒るのも無理はないな。いくら好きでもいきなり襲いかかったら野獣と同じだ』
「微妙に違うけど、まあいいや。とにかく僕らをどうする気なんです?」
男は外れた体を元に戻すと困ったように目を閉じた。
『どうするもこうするも。 ブルーの片思いじゃどうにも困ったね…ディアナにその気がなければ元に戻してやらねば』
「出来るんですか?」
『私には出来ない』
「お、おじさん!!」
『ディアナがブルーを好きになってくれれば丸く収まるのだが』
「絶対ないと思う…」
『うーん。案外ケンカばかりする男女は仲良しだったりするのだが』
「元に戻して下さい。父さんと母さんはまだ知らないんです。 こんな事になってるの知ったらメチャクチャ怒られてどうなるかわかんないよ」
『そりゃそうだろうなあ。私も家族に殺されそうになったものだ』
「………」
『方法はあるにはあるのだが時間がかかる。それまでご両親を君がごまかしてくれまいか』
「無理です!無理!僕ひとりが怒られる!父さん怒ると鬼みたいにこわいし絶対嫌だ」
『うーん』
男は仕方ない、と呟くと水槽からザバリと出た。ディアナは気絶したまま沈んでいる。
『彼女は寝かしておきなさい。体が変わって疲れてる』
水槽にいた男はまるで水死体のように青白い顔とずぶぬれの古めかしい衣服で びちゃびちゃ階段を上がって行った。
『ブルー、開けなさい。話はわかった。お前のミスはお前がちゃんと片付けるべきだ。 ダダを捏ねていないで出て来なさい』
鍵のかかった小さな一室。
返事はない。
『息子よ。お前があの子が好きでもあんな無作法なやり方ではいけない。 父さんがちゃんと教えなかったのも悪かった。 一緒にあの子を元に戻す方法を考えよう。出てきなさい』
「ブルー、お願いだから手伝ってよ。君に悪気がなかったのはわかったから。 さっきはごめんよ」
無言。 何かをドアにぶつける音のみが響いた。
『ブルー!いいかげんにしないと父さんは…』
水槽の男は拳を振り上げるとガハっと口から水を吐いて崩れた。
「ギャーーーー!!ブ、ブルー!大変だおじさん溶けたーーーー!!」
『い、いいかげんにしないと…父さんは死んでしまうぞ…ぐは』
バン!
荒々しくドアが蹴り飛ばされて開いた。
「このクソ親父!!死ぬ死ぬ詐欺で言う事聞かす手ばっか使ってると いつかホントにおっ死んでも知らねえからな」
『と、父さんはいつもマジだ…』
ブルーは男の溶けかけの体を拾い、溶けた液を雑巾でよく拭き取るとバケツに絞って水槽に放り込んだ。
『ああ、今度こそ死ぬかと思った…』
「ほら、強壮液だ!オレが新しく配合したからよく効くぞ」
バラバラの手足はピースサインをした。
「ブルー、お願いだ。姉さんを元に戻して。 もし姉さんが元に戻ったら僕は君を一生友達だと思える」
「けっ、都合のいい時だけのお友達なんか欲しくねえよ。 かんじんな時は話も聞きやしねえでさ。 そんな奴オレの方からお断りだね」
「……だって…」
ブルーは吐き捨てるように言ったものの眠ったディアナを見て頭を振った。
「で、親父、どうすりゃいい?もう姿作んなくていい。見たくもねえしオレに指示だけ出せ。 あんたがいなくてもやり方さえわかりゃオレだけで充分だ」
水槽の中で手足は泡へと戻って行った。
『よく言った。息子よ。 ではどんな方法でも見事やりとげてくれるな』
「ああ。もうあんたに振り回されたくねえからな。 母さんの大事な事くらい、いくらチビだって話しといてほしかったよ」
『…ええと。父さんまだお前に言ってない事がある…』
「ああああ!そうだろうよ!この際洗いざらい全部ブチまけてから死にやがれ!」
『ディアナを母さんの所へ連れていけ』
ブルーはもう少しで水槽を叩き割るところだった。 ダニーが泣きながらブルーを止めて事なきを得た。 ブルーは尋常でなく怒り狂っていた。
『母さん実は生きてる』
水槽の泡が喋る度、ダニーはブルーにしがみついて止めねばならなかった。
「あんた、母さんはオレがちびって呼び寄せたサメ共からオレを守って死んだって言ったよな。 あんたがそんなになったのもその時の傷のせいだって!」
『半分は事実だ。本当に母さんはお前を守って…』
「殺されたって言ったよな」
『殺されたのはサメの方』
「ナニ?」
『母さん、強い女だったからお前がおもらしで呼んだサメは生きて巣に戻る事はなかった』
「……」
『彼女は愛する者を危険に晒す者に容赦ない 強くて情熱的で優しい女性だったのだ。息子よ』
「…もう何言われても怒る気力もねえ。続けろ」
『お前がこわがりでチビっていたのは事実だ」
「そこはいいから」
『母さんは地上で父さんと恋をして情熱的に海へ飛び込んだ。 一途で勇気があって薬を飲む事を恐れなかった。 私達は幸せに暮らしていたが、やがて彼女は去った。 サメを叩きのめした時、そのまま行ってしまったのだ』
「オレがいたのに?」
『私達はお前が生まれる少し前からうまく行かなくなっていた。 彼女は情熱的で素晴らしい女だったがそれだけに恋も多かった』
「なんでだよ…。海に来てまで一緒になって子供もいて…」
『女性の気持ちは私にはわからん。だがお前に本当の事を言わないように彼女は頼んで去った。 私にわかったのは彼女はお前の事を…』
「もういい。で、どこの海にいるんだ。さっさと会ってディアナを元に戻して終わりだ」
「ブルー…」
ダニーがブルーに声をかけたが完全に無視された。 今のブルーはどんな氷よりも冷たいと思えた。
『彼女は地上に戻った。もう海の者ではない』
「え?どうやって戻れたんだよ!」
俯いていたダニーが顔をあげた。
『だから行って戻った方法を教わってディアナに施してやれ。 海の魔女にでも頼んだのだろうが私は知らない。 彼女の居場所は…』
ブルーは厳重にコートとフードを被って旅支度をすませていた。 小舟には同じような装備をしたディアナ。 太陽の日差しを浴びないよう夕暮れにすべての準備は整えられた。 ダニーは新しい瓶を持って砂浜に立っている。
「おじさん、ほんとに大丈夫なの?」
『心配しないでいい。君はこれから私の言う通りにしてくれればきっとうまくいく』
「ほんとに街の人達なんか呼んじゃって大丈夫なの?心配だよ…』
『父親に怒られるのがかい?』
「ううん。きっと父さんや街の人達はブルーに酷い事するよ。そんなの見たくない…」
『なら、私と君でここはがんばるしかない。よろしく頼む』
「き、きた!」
灯台に近い海岸沿いにたくさんの松明を持った大人達が駆けつけて来る。 先頭にいるのはディアナの父。 皆男達ばかりで片手にそれぞれ刃ものや得物を持ち、ただならぬ空気だった。
「ディアナ!」
「と、父さん」
ブルーは波打ち際を勢い良く蹴り上げ小舟を海に出し飛び乗った。
「待て!貴様娘をどこへ連れて行く気だ!」
ブルーは立ち上がると微かな夕日の光に歯ぎしりしながら怒鳴った。
「オ、オレはディアナとか、かけちお…ちがっ…か、駆け落ちする!」
「な、なんだありゃ。子供じゃねえか!ガキ同士でなんてことを! 戻って来い!どこのガキだか知らんがとんでもねえ奴だ!」
「と、父さん、あたし、彼とか、かけ、かけ…」
「なんだってディアナ!?」
「かっコケ…ええい」
ディアナは小舟の上でブルーに抱きついた。
「げえっ」
ブルーが変な声で呻いた。 ディアナの父親は波に足を取られ転びながら絶叫した。
「い、行くな!大事な娘を返せーーーー!」
小舟は計算しておいた潮に乗りするすると水平線の彼方へ消えて行く。
「と、父さん!行かせてあげて。姉さんきっと帰って来るって言ってたから!」
「ダニー!」
街の人々と母親が駆けつけて来た。
「おお、なんてこと。神様」
「姉さん戻って来るって言ったよ。だから見送ってあげてよ」
「ダニー、どうしてあなたディアナを止めなかったの!あああ。 まだあんな子供なのに」
小舟の消えて行った水平線を見つめた人々は陽が沈んでもしばらくそこから離れなかった。 何人かが船を出し追おうとしたけれど海は邪魔をするかのように潮の流れで阻んで戻す。
『申し訳ない事になってしまったな。どんなに時が過ぎても違う親でも同じ事を言うのだな』
「おじさん…。でも姉さんのあの姿見せたら父さん母さんもっと死ぬ程悲しんだかも」
夕暮れの海で夕日はブルーとディアナを影にしか見せなかった。 それでも両親は声だけで我が娘と悟っていた。
『なるべく早くブルーがディアナを元に戻して帰って来る事を信じて待つしかない』
「ブルーもお母さんに会うんだね」
『……』
「うまく行くといいな」
『ああ…』
街の人々が戻って行ったのは明け方も近くなってからだった。 最後まで両親は海に向かって泣いていたが親しい人に背中を抱かれて帰って行った。 ダニーは瓶を抱えたまま明け方まで海を見ていた。
波は穏やかに薙いでいる。
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