草原の満ち潮、豊穣の荒野
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96 草原の満ち潮 3 カノン、邪眼の少年〜焔の鳥 |
「忘れないで。父さんと母さんを」
「お前の体を決して粗末にしてはいけない。 その赤い瞳は...」
暗い闇の中。
少年はのろのろとあたりに手を伸ばした。 いつのまにか眠ってしまった。 窓辺で本を読みながら。 それにしても今夜は星も月もない。 かといって雨の音もなく。
少年は腰掛けていた螺旋階段の壁にある燭台を探した。 変だ。狭い階段のはずなのに。 まるで何もない広い広間か床の上にいるようだ。
彼は面倒になって指先に小さな火を灯した。 彼はマッチで火を点けるようにいとも簡単に炎を起こす。 ゆらりと小さな火が人差し指の先で踊り 彼はあたりを少しずつ見ていった。
「!」
少年は己の目前にひとりの男を発見した。 青い肌に青く長い髪。ふてくされたような仕草で欠伸をしている。
「お?」
男は少年にニッと笑いかけたが少年は無視して呟いた。
「妖魔...?」
黒い髪の少年は用心深く目の前の男を見た。 下半身が人間ではない。 ざらついた鱗なのか皮なのかわからない魚のような半身で男は寝そべっている。 彼は背中を向け手を振ると言った。
「どうぞおかまいなく。オレは今人にかまってるヒマはな...あちい!!」
「妖魔が何をしてる」
半身魚のような半魚人男は背中に小さく燃えた火に飛び起きた。
「うわ、こいつちっこい癖に。 おい、いいからほっといてくれ。オレは人畜無害だ。 人にも馬にも何にも悪さはしない。わけあってここにいるだけだ」
「魔物は自分から悪いなんて言わない」
「意思の疎通をする前にブッ倒すからだろ。 このガキ、火なんかつけやがって生意気に ブラックペッパーみてえな奴だな」
半魚人は背中の火を手で叩き消すと少年を見た。
「こんな言う事を聞かねえガキは...げっ」
「?」
半魚人が飛び退った。 嫌な記憶が脳裏を走る。
「あ、赤い眼...それってまさか邪眼...」
少年は無表情に半魚人を眺めると赤い眼を片手で隠した。
「お前、なんて名だ?」
「下等な魔物になんか」
「ああ、わかったよ、オレは魔物じゃなくて獣人だ。そんならいいだろ。 海のだから多少は見慣れねえかもしれないが れっきとした人間で名前は...」
「カノン」
少年が短く答えると半魚人がひっくり返った。
「なっ..」
「あなたもこの塔に?」
少年は獣人だと告げられて口調を改めた。
「塔?ここは塔の中なのか?」
半魚人は少年をまじまじと見た。 カノン。 そうだ、サイズは小さいがあのカノンだ。慇懃で何を考えているかよくわからない危ねえ男。 だけどなんでまた..
「そ、そうだ、ここが何処か教えてくれ。オレは出られなくなって困ってたんだ...」
半魚人と少年が振り向いた。 ドンドンと何かを叩き壊すような音が響き辺り一面が明るくなった。 神官のような姿をした男たちが槌を持って壁を打ち壊していた。
「カノン、塔から出なさい。罪は特別に許された。 これからは償って学んで生きていくように、との事だ」
「罪?」
半魚人が男たちに声をかけたが誰も答えない。 そればかりか彼の体を通り抜けていく。 少年はそれを見て軽蔑したような表情を浮かべたが、そのまま歩いて行った。
「おい、待てよ、聞きたい事がある。ここは何処なんだ。 あんたはなんでそんな...」
「ヘタな嘘を。獣人が聞いて呆れる。消えろ。 今度姿を見せたら滅ぼしてやる」
「....」
半魚人は頭をかいて座り込んだ。
「いいか、オレが何かはこの際どう思ってもらってもいい。 だけど今オレは行かなきゃならない場所がある。 そこに行ってある男をブチ殺さなきゃならないんだ」
少年は大声で叫んだ。
「魔物だ!ここに魔物がいる!誰か滅ぼさないと!」
大人達が振り返ると顔を見合わせやってきた。 半魚人はあわてて隠れようとしたが、その必要がないと程なく知れた。 数人の神官達がいかに魔を探しても見る事も感じる事すらできなかったのだ。 彼等は何もないと判断して立ち去ったが、去り際に小さくこう呟いた。
「...邪眼持ちの化け物ならずっといるがね...」
少年は無言で彼等を見送っている。小さな手を握りしめながら。
「ふーん。そういう事かい」
半魚人はごく普通にそう言うと壊された塔を後にした。 あたりは夜の暗い街角。 寂しげな街の灯。
「カノン、いらっしゃい、あなたのこれから生活する宿舎はこっちよ...」
修道女達の声。 半魚人は知らん顔で街の出口を求め、あたりを見回すと歩き出した。
「あ?」
少年がついてくる。
「おい、ねーちゃん達が呼んでるぜ」
「魔物が気安く話しかけるな」
「あっそう」
夜の街角を見えない半魚人が歩いて行く。 ズルズル尾を引きずり不格好に歩く姿は、カノン少年でなくとも警戒するくらい怪しい。 怪しい半魚人の後ろを黒髪の少年はぴたりとついて歩いて行く。 すれ違う街の者は皆、少年を見た瞬間、怯えて逃げた。 半魚人は気にも止めず街の出口まで来たが、そこで見えない壁のようなものに阻まれた。
「...」
「心配すんな、言われなくてもとっとと出て行くから待ってろ! ケツに火なんかつけんじゃねえぞ」
ゴン、ゴンと何もない場所で半魚人は何かに頭や体をぶつけてはひっくり返る。
「クソ、出るにはいったいどうすりゃいいんだか。 あのボケ鬼やクソライオン達にやられっぱなしじゃたまらん」
半魚人は地面をバンバン叩いて悔しがっている。 少年はスキだらけの背中に呆れながらそれを注意深く見ている。 魔物にしてもこの頭の悪そうな緊張感のなさはなんだろう。 言い訳はヘタだし、特に魔法を伴った悪事をしでかしそうにも見えない。 無害は信じてもいいかもしれない。
「あのな、人をバカにするのは勝手だがね、顔くらい隠せ」
バリボリ頭や尻をかきながら半魚人が言った。 彼はこの少年を知っているが、どことなく違う感じがする。
「バカにされるような連中が悪い。 僕はいつか見返して奴らの上に立ってやる」
「ほほー。そりゃ頼もしいけどさ、オレをその邪眼で見るのだけは勘弁な。 それよりオレがここから出て行けるように手伝ってくれねえ?」
半魚人は苦笑しながら少年に頼んでみた。 自分の知るあの男の生死はわからない。 もしかしたらとっくに死んで、こうして過去の姿で彷徨っているのかもしれない。
調子に乗った半魚人は少年の頭を撫でようとして払いのけられた。
「触るなバカ!」
露骨に嫌な顔をする少年を見て半魚人は面白そうに笑った。
「へへ、オレがあんたに頼み事、すんなり口に出来るなんて自分でも変だな」
「僕の事を何故?」
「オレ達は出会ってるんだよ。ああ、こんなにちっちゃくなんかなくてさ。 オレより背もでかくて滅茶苦茶アブねえ男になってたけどな」
「....詳しく話せば手伝ってやってもいい」
「あはは。カノン、あんたは大きくなったらメチャクチャ怪しい司祭になる。 深夜に棍棒を持って辻斬りにウロつくんだぜ...」
「なんで僕が辻斬りなんか!」
「あ、そりゃ冗談。気にすんな。 そうだな、あとは大酒飲みで慇懃無礼で唐変木でとっつきにくい男だ。 仕事はクソ真面目、あまり喋らないし」
少年はじろりと半魚人を睨むと尋ねた。
「嫌な奴って事?」
「あ?うーん...敵にすると確実にそうだな」
「どういう関係?」
「わからん」
「詳しいんだ」
「ああ、奴は恐ろしく強いからな。ムカつくくらい強い」
少年が黙った。しばらく何か考えるように沈黙しながら腕をまくった。 半魚人の背中の見えない壁を見て彼は言った。
「僕もそこを押してやる。借りは作らない」
「...」
半魚人は少年のまくった腕にあるいくつかの傷を見た。 ひと目でわかる火傷の痕。 焼きごてのようなものを押し付けられたもの... 殴られてあちこち変色したままの肌。 彼は先の神官達の言葉を思い出した。
「...オレら、似てるのかもな」
少年ははっとすると袖を引き下げ腕を隠した。
「あなたは友達?」
半魚人は少し考えると笑った。
「だと、嬉しいね」
ドン、ドン。
半魚人は突進するように見えない壁に体当たりした。 少年もそれを手伝うように手を伸ばしたが、そのまま前へのめってしまう。
「きっと魔法的な処理が施されてるんだ」
少年が考え込むように言った。
「どうすりゃいいかわかるか?」
「黙ってて。今考えてる。本で読んだ事があるんだ...」
少年は指先を噛むと少し血を滲ませた。
「おいおい、無茶するなって」
「静かにって言ったよ。思い出せなくなる」
指先のひと雫の血。 それは少年の描いた簡単な魔法陣に落ちて火に変わった。
「焔の女神の神所で魔を払う簡単なものなら僕にもできる。 魔物を追い払う方法で飛ばしてしまえば..」
「...ガキの頃からやる事が....ひでえ....」
「他に方法がないじゃないか。やめてもいいけど?」
「いや、頼むわ」
半魚人は苦笑いで答えた。すでに足元の魔法陣の焔が彼の半身を捉えている。
「あっついんだわ。燃えちまう前にここから吹っ飛ばしてほしいね」
「!」
少年が息を飲んだ。
「なに?どうした?」
半魚人がいなくなっていた。 予定通りに吹き飛ばしたわけではない。 半魚人がいた場所、そこには巨大な黒い鳥が佇んでいる。 その足元には少年が描いたもの以上に複雑な魔法陣。 そして胸の部分に赤い焔が灯りのように、黒い体に灯っていた。
「おーい、出れそうか?」
暢気な声で鳥が言った。間違いない。あの半魚人の声だ。
「すごい...」
少年が見上げながら思わず呟いた。鳥の翼の羽一本一本に焔が走っていく。 まるで焔の鳥だ。 少年の頭に突然声が響いた。
『忘れるな。お前の体のすべては父さんと母さんの証し。 粗末にしてはいけない』
「あ...」
『あなたには役目がある。強く生きていきなさい。 私達の宝物...』
少年の浄眼から涙が流れ落ちる。悲しいわけではないのに。 その涙が零れ落ちる度、鳥の足元に大きな魔法陣の紋様が刻まれて行く。
「な、涙が勝手に..」
「あれ、どこだ?カノン」
「ここだよ。下に」
「え?」
鳥はようやく己の姿が変わっていた事に気付いた。 空が近い。 首を回し羽を広げるとバリバリと氷が割れるように見えない壁が崩れていった。
「やった!」
鳥が大きな鳴き声を上げた。夜空一面に銀の星が突然現われ 今まで何かが街を覆っていたことを物語る。 そして巨大な鳥の体全体に胸の炎が燃え上がり夜空を焦がすように照らし出した。
少年ははっと思い出していた。 以前、塔の窓から焔の鳥を見た事がある....。
「せ..聖獣...」
鳥が大声で笑った。
「妖魔も聖獣も変わりゃしねえ、その赤い眼みたいなもんでさ」
「待って下さい!聞きたい事が」
「悪い。急いでるんだ。 だけどあんたが生きてるならまた会おう」
「待って、まだ名前を...」
「会ったら名乗るよ」
凄まじい突風が吹き、カノンは思わず眼を閉じた。
「あ...」
街外れには彼以外誰もいなかった。 大きな鳥もいない。 ただ静かにいつもと同じ夜空に星が瞬くばかりだった。 足元に描いた魔法陣も消え、夢でも見ていたかのよう。 指先の小さな傷と流れ続ける浄眼の涙だけが名残のように残っていた。
そして不意に聞こえた声。 カノンが顔すら覚えていない両親の...
「探したぞ。邪眼坊主」
「え?」
その声はさっきの不思議な半魚人ではなかった。 カノンと同じ黒髪でやせたゴツい長身の男。どこか荒々しい雰囲気を漂わせている。 彼はぶっきらぼうに言った。
「俺の名前はヴァグナー・ハウライト。 お前さんの根性を叩き直す係なんだとよ...」
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