草原の満ち潮、豊穣の荒野
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86 戦闘人魚  3 子守唄

深海の海流神の神殿。
入り組んだ道を通り敷地の奥にひっそりと古い建物が建っている。
そこには様々な書架やいろんな宝物が収められている。
白い髭の老人はいつもそこの一室で何か調べものや書き物をして過ごす。
時折学生達に講義や技術の指導をするが、多くは彼のたくさんの弟子達がそれを勤めた。
ガレイオスもそのひとりである。
彼は老人の弟子の中でもひときわ秀でて目立った。
いつも大きな重要ごとは老人が表に立つ事なくひっそり進言し動いた。
最近は特に老人は何もしないように見えた。
オンディーンには書架の整理や写しをひっきりなくやらせ、何事か研究しているようにも見えた。
オンディーンは当然、写す以上、書物に目を通す。
驚く程、古い重要な内容の場合もあった。
どんなに研究しても一生読めないような貴重な書物もあった。
古い時代のものはもうその言語自体が消え、発音はおろか読む事も難しい。
オンディーンはそんな文字の中からよく出て来るものに気付いた。
筆記者の名前なのだろうか。

「グリューネ...ヴァルト?」

彼はようやく近い発音でそれを例える事に成功した。
元の文字はもっと長く多くの意味を含んでいると思われる。
オンディーンはその文字を読み取るだけで疲れてしまった。

「ああ、もう面倒くせえ」

彼は本当に気付いていなかった。
その文字があの老人の名前の一部である事を。
彼に取ってそんな事よりこの機を逃したら一生読めないであろう書物を読み漁るのに夢中だった。
彼は講義に出て不愉快な思いをするより、老人にコキ使われる方が多くを学べると悟ってからは素直に従った。
地上の本まであるのだ。
ここで学べるものはすべて身につけてやる、そう誓って彼は読み、老人の教える事を身につけていった。
ただひとつ、どうしてもがまんならなかったのは礼儀作法や口のきき方についてだった。
一応、ですます調は身につけたがどう見ても態度は伴っていないというのが周りの見解であった。
老人はそんな弟子に苦笑いしながら吸収の速度に驚いてもいた。
研究者の資質がある、と老人が手元においた理由のひとつでもある。
それがガレイオスや多くの人魚の学生達の反感を呼ぶ事になったのだが、
当のふたりは全く意に介する事はなかった。







海に燃える灯

老人はひとつ、浜辺を持っていた。
そこは地上のそれに似たものだった。
ろくに地上を知るもののない深海ではそんな事など関係なかったが。

老人はよくこの浜辺に座って過ごしていた。
浜には朽ち果てた建物の残骸があり、寄せ返す波は寂しい音を響かせた。
何もかもが寂しい場所だった。
オンディーンは時折老人を呼ぶ時にここを覗くのだがあまり長居したくないとしか思えなかった。
彼は地上の空の星を眺めた事があるが、この夜空とは違うと感じていた。
オンディーンは偽物のせいだと思って深く気にしなかったが。


「......」


老人はいつもひとりでここで考え事をしていた。
寂しい浜辺は夢の残骸。
叶わなかった希望。悲劇の記憶。
長い時間の向こうに去ってもここにはその虚無感が満ちて消えない。
わかっていても老人はそこに居続ける。
その虚無の欠片を背負って生まれて来る存在の為に彼は生きていた。
その存在が消えてなくなるまで自分が死ぬ事はないだろうと彼は思っている。
自分の手で殺した助手の目が忘れられない。
あの少年はそれと似たものがある。
どうしても気にかかる。
手元に置いて調べるうちに自分の危惧が当たっている事に気付いた。


オンディーン...彼は何度でも生まれ変わろうとするのだ。
あの日の『希望』をどんなに時が過ぎても諦めない。
そしてそれは生まれて来る様々な命を喰らい、犠牲にした。
ひどいものは妖魔のような姿に変わり果て、無惨な死に方をした。

彼は、生殖、感染、あらゆる方法で増殖し、感染させる。
暴れる妖魔を退治したある英雄は、返り血を浴びて感染した。
しかもその血は何代かに渡って眠り続け、突然目を覚ます。
運が良い者はそれを自覚して制御する事を覚えられる。
しかし大半はそれを教えるものもないまま、支配され無差別に『希望』をまき散らす。
ある者は喰らい、己の寿命を驚くべき長さに永らえさせた。
だが、その方法は彼自身を異形へ変えていく。
大抵は妖魔として倒され、また流された血は生きたものへ取り憑く。
その繰り返しを今も尚続けているのだ。

血まみれの金貨袋を握りしめた少年が、そのひとりであることは見た瞬間知れた。
老人は当然の役目で彼を引き取ったのだ。
少年がまだ『生きている』なら血を押さえつけられる。
喰らい、眠る彼が眠っている期間の宿主は幸いだ。
子孫に眠ったまま感染させはすれど。
彼がいったん目覚めれば、宿主の魂までも喰らい尽くし
その恨みや悲しみを糧に大きくなって行く....
『希望』は犠牲という名の憎悪や悲しみ、憎しみを求め続けた。


老人もまた、長い年月の間にその対処法を研究し続けていた。
己の傍にかつていた、再生能力を持った子供は同意の上、ある目的をもって
老人の体内に埋め込まれた。
元々老人もかつての研究の実験体である。
瓦礫から掘り出した子供と老人だけが、その始末の為に生き続けていた。



長い時間の果て、老人はひとつの結論を出した。
あの銀の髪の助手は永遠に『希望』という名の呪いを吐き止まぬ。
過去の怨念は生けるものすべてを呪うのだ。

「誰かひとり....ひとりだけでも地上で願いを叶えたなら
あれは消えるかもしれない...」


僅かな数が地上に行った事はある。
しかし大半は無惨な姿になるか地上の者にその血を託し薄れ、何も変わらなかった。
ただひとり、地上で意図を達成させられれば良い。
その者がそのまま地上に生きて行けば良い。
平凡に生き、死ぬことが『希望』の元の姿のはずだった。


瓦礫から掘り出した子供は強い生命力と再生能力を持っている。
この子を連れて行く事が出来れば、多少の困難は補われるだろう。
生きられない場所で、それを打ち破る生命力と強い精神力...
ほとんど不可能な願いだったが、老人はその日を待ち続けた。

呪いに感染しても支配されなければ...
希望が本来のものとして作用させられるなら...
感染した者の強靭な身体は本来...




そして。

老人はそれを実行した。
その頃はもう彼はこの寂しい場所から去っていた。
海に強く暖かい灯を灯し、辺境にまでその恩恵を行き渡らせた。
『希望』は呪いであってはならない。
それが夜の闇ならば、光で払う。
事実、穏やかな環境であれば比較的、血はよく眠りいつか薄れ消え去る。
過酷な環境下の苦しみや絶望が目覚めさせる引き金になるのだ。
暖かい海の灯の塔の傍に置かれた血はその光の中に安らぎ眠るだろう。



老人はそうやってやっと死んだ。
オンディーンを充分な状態ではないまま地上へ送ったのだが、それが老人の限界だった。
この乱暴で頑固な若者が、今まで見て来た感染者の中で
一番生きていた頃の銀の髪の『オンディーン』に似ていた。
半身崩れた病人が彼の命を守ろうと投石に身を投げ出した時、そう信じた。
人を喰らってからも、『ひと』で在り続けたのだから。

希望よ、本来の目的を思い出せ。

老人はその機会に賭けた。
それが彼の出来るすべてだった。

ただひとつ、老人が知らなかったのは若者..ブルーが赤ん坊の頃
そのまま戦闘種そのもので生まれていた事。
あの日、ブルーの母親がいなければそのまま父親を喰らい、
命と悲しみを主食にする存在になっていた事を。





母親がブルーを捨てた時、振り返り、振り返り歌い続けた子守唄が
戦闘種を眠らせた事を知る者は誰一人いない。