草原の満ち潮、豊穣の荒野
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話は遠く海の底と過去に戻る。
そこにいたのはブルーや白い髭の老人をはじめとする深海に生きる人々。 誰も老人の名を知らない。 あまりにも年を取りすぎて古い時代の言葉を発音出来るものがいないのだ。 まわりの海の者達はそれぞれ年寄りにふさわしい名で呼び問題はなかった。 ただひとりを除いては。
「あのくされじじい、何しやがんだっ!」
いつものように朝は問題児の怒号で始まる。 青い髪の十代の少年。 頬に傷のある海人の学生である。かつてのブルーは そこでオンディーンと呼ばれていた。
「わけのわかんねえもの飲ませやがって」
彼は神学校の学生だが寝泊まりは宿舎ではない。 勿論実家などもない。 孤児として遠い辺境のスラム街で育ち、少し前に この海流神の神殿都市にやってきたのだ。 他人の片腕と血まみれの金貨袋を握りしめて。
オンディーンは安酒を飲ませる酒場の二階に居座っていた。 本来店主がそこに寝泊まりするのだが、事実上毎日やってくる酒飲み学生に占拠された。 一応手伝いという名目だが、賭博やケンカ、バカ話で 誰よりも安酒を満喫していたのはオンディーンだった。 彼は時折やって来る後見人の老人さえいなければご機嫌だった。 腕のいいイカサマ、妙な薬の調合、朗らかな放歌、卑猥な雑談.... そんな彼も寝る前にひとり戸棚から店主用の酒をちびちびと飲む時は 過去の事など思い出して顔をしかめていた。
ある夜。 いつものように盗み酒をたしなみながら彼は、ふと妙な味がする事に気付いた。 はじめは店主が減って行く事に頭に来て入れ替えたのかと思ったがそうではないようだ。 何かの薬が混入されているような味がする。
「ここの店主ならわざわざこんな事なんかしやしない。 あのじい、いったいオレに何を...?」
わけのわからない薬を無断で飲まされる程、気味の悪いものはない。 オンディーンはボトルを床に叩き付けかけてやめた。 あの老人には、いつだってタコ殴りにされてきた。 口も手もすべてにおいて勝てない。 そんな圧倒的優位な者が何故こそこそとこんな真似をする? オンディーンはベッド代わりの長椅子に座って頭を抱えた。 朝を告げる海の光が窓を差す。
深海は本来光もない暗闇だが、彼等は海流神と呼ぶ 光の塔によって太陽のような恵みを手に入れた。 勿論辺境にはその光もほとんど届かない。 よって、中央都から離れた場所は貧困層や流れ者の住むスラム街となった。
オンディーンはひとつ不安を抱えていた。 それは自分がこの神殿都市に来るきっかけになった日の事。 始めて会った母親との絶望的な決別は、頬にくっきりと心の傷のように残っている。 そしてそれ以上に苦いのは血の味。 あの夜、はっきりと味わった。 記憶も曖昧だがひとりを殺し、ひとりの腕を喰いちぎった事だけは覚えている。 それは時が経つにつれはっきりしてくるのだ。 彼は眠る度その悪夢に苛まされる。 母親は自分を蛇蝎の如く、遠ざけ捨てた。 リラは自分を乳飲み子の頃から可愛がってくれた。 生みの親が何故あれ程自分を忌むのだ? いったい赤ん坊の自分が何をしたというのだ。 連れていた少女の顔を思い出し彼は俯いた。
何故こんな違いがあるんだ? 彼女には自分と似た面影が確かにあったというのに.....
オンディーンはグラスに残った酒の匂いを改めて嗅ぎ、ふと思い出した。 この匂いは...そうだ、あの老人の偽りの海辺に呼ばれた時 まずいと吐き出した酒に似た... あの時、オンディーンは老人に中央都の人間の思い上がりをなじった。 たった三人、自分と老人、そして兄弟子のガレイオスだけが辺境に赴き、 ただ事後処理をしただけだった。 それが日常的な事実だと知ってはいたが老人さえそれを肯定した事が許せなかった。
何故こんな違いがあるんだ? たまたま生まれて来た場所が違っていただけなのに...
オンディーンは頬の傷を治そうとしない。 傷跡を目立たなくする処置くらい知っていたが彼はそれをしなかった。 この傷はモニュメントのようなものなのだ。 あの時流した血で過去とは決別した。 今でも涙と血の混じった味を覚えているけれど...
彼には決別する必要があった。 あの夜、自分は人を殺し、そして貪り喰らった。 怒りに飲まれた絶望はあまりにも理不尽な形で自分に起こった。 そうとしか考えられない出来事が確かに起こったのだ。
何故.....何故なんだ? オレは、誰かを憎んだから殺して喰ったのか? 怒りにまかせて血祭りにあげてそれを喰ったってのか? 獣や妖魔のように? だからオレは母親に捨てられたってのか? だからオレは....
くそったれ!!
あの老人はそんな自分を受け入れた。 何も話しはしなかった。 このままだと自分は、再び人を喰うかもしれないと怖れている事、 人の臓物は反吐が出る程まずかった事、底の知れない不安と怯え。 惨めで血まみれの金貨....
だからオレは、区別されたってのか? いったいどうすりゃいいんだよ?
何故?という繰り返しの疑問の答えを薄々感じながら オンディーンは否定を探し続けた。 学問に励み、知性と対応する為の知識を求めた。 あの老人がそれを持っているから師事するのだ。
オレは、獣なんかじゃないって事を自分で証明するんだ。 オレは、優しくされたからすがるなんてみっともない真似だけはしねえ。 オレは、捨てられて泣くガキのままでいるのはまっぴらだ... あのじじいを利用してやるんだ...
オンディーンは力なく呟くと立ち上がった。 考え事をしているうちに夜明けが近付いていた。 そろそろ神殿へ行かなければならない。 朝の時刻を知らせる鐘を鳴らす当番だった。面倒くさいのは見張り役の人魚。 四六時中付き纏い遅刻すればうんざりする程聞いてくる。 口をきくのもごめんだ。 どうせ逐一報告しているだろう。
オンディーンは不機嫌な顔で昨日の服を脱ぎ捨て着替えた。 彼は己の青い肌が嫌いでいつも長袖の服を身に付けた。 人魚達はもっと抜けるような美しい青と白銀の中間の色を持ってそれを誇りにしている。 オンディーンも海人や獣人の中では人と呼べる姿をしていた。 獣化さえしなければガラの悪そうな海人で通る。 それでも神学校ではいつも人魚達に差別された。 時には寄ってたかって暴行を加えられる。 彼等は自分が認めない存在を服従させなければ許せない。 服従するまで身体、精神、あらゆる手段で叩きにくる。
オンディーンはそれが何よりも胸クソ悪かった。 服従するくらいなら殺された方がマシだ。 己の劣等感を誤摩化しているだけじゃねえか。 他人を引きずり落とし、倒れた奴の上に立ったところでどれだけ高くなるんだ? まだ椅子や屋根に上ってる方が利口ってもんさ。
「このボンクラクソ人魚共め」
オンディーンはいつもそう叫んで突っ込んで行った。
「クソも積めば山にもなるってかあ!」
結果はいつも数学的な現実。 ここは人魚や裕福な支配階級の子供達ばかりがいるのだ。 オンディーンに味方などいない。 圧倒的な数を敵に回せば時間の問題で叩き潰されるだけだった。 毎日。 それでも彼は薄笑いで10人程は吹っ飛ばした。 それが限界だった。 全身の痛みにムカつき罵りながら毎日『服従』に拒絶の意思を表明し続けた。 ただひとりで抵抗し続ける事だけが彼の絶対感、プライドだった。
死んでも従うものか!
彼はいつも、口をヘの字に曲げ人を寄せ付けず歩いた。 唯一彼が心を許したのは弱い存在だけだ。 それも本当に弱い者だけだ。 今、手を伸ばさなければ死ぬ程、切羽詰まった存在には オンディーンでなくとも己を飾る暇などあるまいが。
彼は、急を要する存在にまで自分の流儀だの価値観で行動する人魚達を憎んだ。
せいぜいその空洞の頭を『知性』だの『思想』だので飾るがいいさ。 着飾って何もないみじめさを守るがいい。 どんな奴だって、死ねば汚ねえ臓物と骨にウジが沸くんだ。 そいつが何者であったかすらなんの意味も持ちはしない。 せいぜい生きてる間に誰かを引き落とし、服従させ自分を守ってるがいいさ。 オレには何もかも関係ねえ。 そんな連中に従うくらいなら、殴られて死んだ方がまだ 死に目に気分がいいってもんだ。
だが、オンディーンは黙ってその酒を飲み続けた。 その酒を飲んで眠るといつもの悪夢を見ないのだ。 いっそすべて打ち明けて老人に助けを求めようかとも思ったが それは彼のプライドが許さなかった。
「てめえのケツはてめえで拭くさ」
オンディーンはそう呟いて神学校へ通った。 多くの事を学んだらいつかあの辺境に帰ろう。 彼は嘆いたであろうリラの顔を思い出しては書物を読んだ。 あの街は絶望的な場所だった。 だけどあそこには自分を愛してくれた人がいる。 そこへ帰るのだ。
痩せた小さな少年は急速に栄養を体や頭脳に付け成長していた。 そして口には出さなかったが、そうさせている老人にも感謝していた。 彼がいったいなんの為に自分を神殿に置いているのか真意を計りかねてはいたが。
そして成長していたのは彼だけでない事も知る由もない。 長い悪夢の種は最後に『ブルー』を糧とし、地上に花開く機会を待つばかりで...
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