草原の満ち潮、豊穣の荒野
目次|前ページ|次ページ
数日程遡る夕暮れの街角。
足早く歩いて行く人魚の娘。 青く長い髪。瀟洒な街並にふさわしい令嬢。 後ろから片腕の下男がついてくる。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
娘は透明な鰭を翻して振りむいた。
「約束は果たしました。 これで母を探して下さるわね」
堅い視線。怒り、憎悪、疑惑、不信。 様々な表情が入り混ざった顔。
「勿論。俺は約束を守る男ですぜ。だが 中の様子と道順も教えて頂かねえと」
娘は神殿内の様子と宝物殿近辺の通路を 差し出された紙に書きつけた。
「間違いありませんね。もしいい加減なら お母上を探しに行く者がいなくなるだけですぜ」
「礼拝堂へは何度も母と行きました。 わざわざ行かなくてもいいくらい頭に入ってるわ」
「やっぱり兄上に会いたい、という事ですか」
「.....」
娘は答えなかった。
「面影がおありで。やはり家族に会えるのは 悪いもんじゃないでしょうな」
「冗談じゃないわ。あんな男。 訴え出て素性を暴いてやるだけよ」
「...何をされても自由ですが、お嬢さん。ご自分の首を 締める事はやめたがいいと思いますぜ」
「なんですって」
「いえ、ねえ。あんた方一族の汚点になるのは どうかと思うんですがね。 その青い髪や眼は一発で同族だと知れるでしょうな」
片腕の男は笑いながら続けた。
「特にお嬢さん...あんた、兄上そっくりですぜ。 その人を睨む目付き、俺はよーく覚えてますがね....」
「あなたは何を企んでいるの」
「別に。俺はこうやって生きているだけでさあ。 多少人に危ない便宜を図って歩く分、頂くものも それなりに」
「あたしは盗賊かと思ってたわ」
「その盗賊に頼まにゃならんとは、難儀ですなあ」
男は小娘の挑発など気にも止めず 神殿の見取り図を見ていた。
「さて、俺はこいつを欲しがってる奴に渡さねえと。 連中が無事に戻れば分け前を頂いて 母上を探しに行きましょうか」
片腕の男は暮れ始めた街角に消え 人魚の娘だけがいつまでもそこに立っていた。
神殿。
翌日に総指導者就任式を控え、誰もがいつも以上に身なりを整え 緊張していた。『彼』は歴代の中でも特に厳格だった。 学生として学んでいた頃から近寄りがたい厳しさを漂わせた男。 友人と呼べる者はない。 規律を友に選んだような男だった。
ガレイオス。
マーライオンの中でも突出したその知力や器を 老人に見い出された男。 海流神と正義に仕える、と誓った男に偽りなど微塵もない。 それを妨げるものは絶対に許さない。
神官達は頭を抱えて話し合っていた。 ごまかして来た全ての事が通用しなくなってしまう、と。 彼は潔癖すぎる、と耳打ちで嘆き合う。
「ここは何か目を向けさせる材料を探して身辺を整えねば」
「この前、些細な規律を破った者が破門、追放されたそうだ」
「冗談じゃない。この都から出て生きて行けるものか」
「ああ、死ね、と言う事だ」
数人の太った司祭と神官達。 免罪符や遊廓で潤った生活を捨てるのが惜しい。 なんとか抜け道を探しては話し合っていた。
「そう言えば昼間、書庫が騒がしかったな」
「ああ、書庫ならオンディーンだろう。毎度の事だ」
「人魚や貴人の出入りする場所で面倒はごめんだぞ」
「今はそんな疫病神の事など.....」
「!」
数人がいっせいに顔を見合わせた。
「....いたな」
「おあつらえ向きだ」
「あれならいくらでも...」
「被せてしまえるか?」
「誰も奴の言う事など聞きはしないさ」
「老司祭が後見人だぞ」
「相手が悪すぎないか?」
「でっち上げてしまえばいい。どうせ老司祭も明日で ガレイオスに『任』を譲る。事実上の引退だ」
「でっち上げなくともあいつなら充分ガレイオスの 不興を買っているだろう。傷害沙汰も掘り出せば いくらでも並べられる。身から出た錆とはこの事だ」
「いや、念を入れよう。遊廓に結びつける材料も 作らねばガレイオスの眼は我々にも向くぞ。 あの男は融通が効かん。賄賂を渡せばその場で首が飛ぶ。 心してかからねば」
「遊廓ならオンディーンは遊女をひとり囲っている。 堂々と通っている事は周知だ」
「病持ちの女だろう?治療じゃないのか?」
「言いわけに決まってるだろう。誰が遊廓くんだりまで行って そんな事をする。バカバカしい」
「では供物は決まりだな」
「そういうことだ」
宝物殿。
そこにはいくつもの海の秘宝が奉納されていた。 そこへ入れるのは神殿総指導者のみ。 閉ざされたそこにひとり、老人が立っていた。
「魔獣が一匹、人をふたり喰うたか....」
明日になればここにガレイオスが入る。 老人は一冊の古い記録書を灯にかざした。
「生かすか殺すか....」
『お前は海に住みなさい。 あの木は登ってはいけない。 お前は空で生きるものではないのです』
古い童話が脳裏で繰り返される。 15で飛び込んで来た子供の記録。 それよりもっと古い記録や研究記述。 これをガレイオスが見れば間違いなく オンディーンの息の根を止めるだろう。 遠い過去己がやってきたように。
「お前は今も同じ事を言うのか... それとも....」
老人の一人語り。 彼は膝をついて伏した。
「...まだ...南への道は在るか。 まだ願いはあるか。 忘れ去られて誰も祈る者のない今でも...」
老人の背中を子供の笑い声が包む。 かつて遠い昔に慟哭した時のように。
「人を喰ろうた魔獣が人を導くというのか? 辺境の地で、生きる糧もろくにない場所で。 抱えきれぬ荷を負った者が 他者を新天地へ導くと言うのか。
否。 ........地獄へだ」
老人は立ち上がった。記録書を元の場所へ戻し 宝物殿を閉ざすと警備の者に一言告げた。
「オンディーンを呼べ」
これはガレイオスの役目ではない。
「終わらせよう」
老人はまっすぐに回廊を歩いて行った。
|