草原の満ち潮、豊穣の荒野
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老人が宝物殿から立ち去ったほぼ、同刻。
ふたりの学生は夜勤に駆り出されていた。 オンディーンは特別な日を控えて 足りなくなった人手として書庫から出されていた。
その不機嫌な顔は殴られた痣で いつも以上の険を刻んでいる。 人魚はいつもの事だと気にも留めなかった。 彼にもまた友人がいなかった。
華奢な体に弱気な性格。 彼は目立たぬ事でスケープ・ゴートになる事を 避けてきた。常に相手の顔色から答えを読み、周囲に 溶け込む事をいつも考えていた。
例え人魚でも男であれば腕が物を言う。 格下の海人に威張るには小心すぎた。 気付けばオンディーンはおろか、誰ひとり彼の名を呼ぶ 者などいなかった。覚えてもいない。彼もまたその方が 余計な事に名を挙げられずにすむと思っていた。
オンディーンの監視を言い付けられたのも貧乏クジだった。 結果としてそれが彼にとって一番親しい人間になった。
「ぼくは君に感謝してるんだ...」
ぽつりと人魚が漏らした。
オンディーンは完全に無視している。 それでも良かった。 聞いてくれてさえいればいい。突っ込まれればまた 答えられなくなるのはよくわかっている。
「ぼくはケンカひとつできないんだ。 自分でも情けないと思うよ。君みたいにはっきり 強く言えればいいのに、ってよく思う」
「知るか。そんな事」
いらついた声が投げられる。 さっきまでの慇懃さが消えている。 人魚は笑った。それだけでいい。
「君の代わりに殴られた事もあったけど 度胸がついたかもしれないね」
「そんな度胸なんざ小魚に喰わせても足りるか。 いいか、お前の話はイライラするんだ。
黙れ」
「君の罵倒が一番ひどくない」
オンディーンは大きな溜め息をついた。 今はそれどころではない。 少なくとも尋ねて来た少女の言動は彼を動揺させた。 加えて薬で抑えられた面倒な嗜好への不安。 何年も口に出さなかった事を喋ったのは動揺していたからだ。 老人が自分に何をしていたかは薄々気付いていた。
酒に混ぜられた成分は強力な抑制剤。 本来獣人が街で暮らす時、極力獣化を避ける為に投与される。 整えられた環境で獣化の必要はない。 むしろ獣化が激しい者は街に住む事ができない。 獣化時の傷害は一発で追放になる。
オンディーンが最初に漬け込まれた酒にもたっぷりと それが忍ばされていた。 自分でも獣化時がまずい事は知っていた。切れ切れの記憶でも 充分己が人を殺害した自覚はあった。 それでなくとも彼の体は喰った『人間』を拒絶した。 全身に刻み込まれているのだ。
今でもそれを思い出すと彼は怯えた。 本当の彼の精神は弱い。 それを隠す為、彼は他者を拒絶してきた。 学生達を殴るのも弱さを悟られない方法にすぎなかった。 酒場の酔っ払い達に心を許したのも、安心していられた 幼い時代にすがっての事だ。
薄汚れたスラムにいた頃、少なくとも彼は愛されていた。 親がいなくとも愛情を注ぐ大人達がいた。 彼にとってそれは重要な事だった。
あの日、母親の拒絶にあってからだ。 何もかもが変わって崩れて行ったのは。 彼が憎悪と弱さを自覚した日。 あれほど憎悪した母に似た女神像にさえ 彼はすがった。そして女神は受け止め切れず 粉々に砕け散った。
老人の心も彼は知らないわけではない。 一度でも愛されて育てば、己に愛情を持った者の 判別がつくようになる。
『母親に愛されなかった子供』として泣き叫んだ程 15の彼は弱く、悲しかった。 保護されてそれは尚更激しく深くなった。 一見こわいものなしの傍若無人の真実は その逆だった。 病んだ女をいたわるのも己の弱さを知っているからだ。
弱者の痛みを知り、ひどく恐れた。 エレンディラは歩ける程回復していた。 それを見る事で彼自身も救われていたのだ。 彼には目の前で弱者が踏まれる事程恐ろしいものはなかった。 見る度、それは彼の古傷を開かせる。
そして昼間の少女。 老人の言葉。
ひどい形で愛情を見失った頃が甦る。 母親も死んだと少女は叫んだ。 喰った男の断末魔は脳裏に焼き付いたまま。 老人が救おうとしているのはわかっても 真実を話せばそれを失う。 オンディーンはそれがこわかった。 あんなものが自分の手に負えるわけがない。 あんなにもあっさりと人を殺して喰らったのだ。
老人の元にいればなんとかなる、悪態を付きながら 彼が自分を救ってくれる、と思い始めていた。 そして、いつか安心して元の街へ帰る事を 願ってもいた。
リラ、小さい子供達、べろべろじいさん、街の気のいい大人達。 あの日の事は悪夢だったのだと自分に言い聞かせていた。 老人に従っていれば不安は取り除かれる。
「.......」
オンディーンは焦り始めていた。 何もかもが落ち着かない。 明日はガレイオスが神殿の実権を握る。
いっそ、このまま街を逃げようか。 エレンディラを連れて行く約束が頭を過る。 まだ彼女は荒野を旅するには不安がある。 しかもどうやって連れ出す?
「...駄目だ...」
「え?何が?」
人魚が問いかけた。
「なんでもない」
思考を中断されるのが腹立だしかった。
こいつは何もわかっちゃいねえ。 わからなくたっていい。 関心すらない。 今はそれより己をどうするかだ。ガレイオスに いいようにされるなんざまっぴらだ。元々世界が違う。
じじいもオレを見捨てるだろう。 仕方ねえ。 どうせオレはあの街に帰るしかないんだ。 夜が明ける前に出よう。 支度の準備だけは密かに整えていた。 街と外への結界も今の自分ならなんとか破れる。 もう潮時だ。 そうだ。リラおばさんも待っているはずだ。
そうと決まればこの鬱陶しい人魚を適当に追い払わなければ。
「....オンディーン」
「........」
「オンディーン!」
「なんだうるさい」
「あの建物の蔭、今誰かいたような気がする」
人魚が声を落として指差した。 灯を左手に持ち替え ささやかな得物に右手を添える。
くそったれ。
オンディーンが舌打ちをした。
「見間違えだろ。気になるなら見て来たらどうだ」
「えっ?ひ、ひとりで?」
「ふたりで行ってどうする。もし待ち伏せでもされてりゃ いっぺんに畳まれるぜ? どっちかが知らせないと意味ねえだろ」
「ぼ、ぼくひとりで行けないよ」
「こわいってか?」
人魚は速攻で頷いた。
「根性無しめ。面倒だ、オレが行く」
流石にここまで自分も臆病じゃない、とオンディーンは 呆れながらさっさと歩き出した。
「き...気をつけて」
「オレがやられたらせいぜい大声でも上げるんだな」
オンディーンは闇に紛れるとすぐに走った。 絶好の機会だ。このまま荷を取って出て行っちまえ。 どうせこんな中央まで忍び込める奴は、そうそういない。
夜の闇に紛れて少しでも遠くへ行けば追う者もないだろう。 都市の外なんざ誰も出ようとしない。 見張りも夜なら奇襲をかけりゃなんとかなる。 とにかくチャンスは今だ。 エレンディラも仕方がない。後は彼女の人生だ。 オレがどうこうできるわけじゃない。
人魚の指した方角と反対に走る。 講堂を横切った奥に宿舎があった。 人目を避けて横切らず裏に入った。
「ここなら...」
建物裏に続く小道。 一歩足を踏み込んだ瞬間全身が総毛立った。 本能的にその場に凍り付いた。
凄まじい殺気が複数。警告のあからさまな殺気。 今一歩でも動けば....
目の前を影がいくつか駆け抜けて行った。 嫌な汗が背中を伝う。 瞬きすらできなかった。 殺気に竦んだだけではない。彼には心当たりがあった。
...そうだ。囮だ。 わざと注意を引いて反対に誘き寄せる。 自分が子供の頃、大人達とやっていた事だ。 数回、自分も囮になった事がある。 騒ぎさえしなければ殺される事はない。ここはおとなしく やり過ごして彼等の『仕事』が済むのを待つしかない。 騒いだ見張りがどんな最後を遂げたか見た事もある。 今動けばすみやかに殺されるだろう。
...どこから来たんだ。 この都市はともかく神殿内だぞ。 そこらの盗賊には突破できないはずだ。
宝物殿の方向とは反対へ彼等は走って行く。 彼等は知っているのだ。 宝物殿を開ける事は不可能だと。 ヘタな盗賊ならまっ先に宝物殿を襲うだろう。 司祭達の隠し財産でも狙ったのだろうか。
「.......」
しばらくして殺気が突然消えた。 殺されずにすんだ、とオンディーンはすぐさま自分の宿舎へ 飛び込んだ。部屋の寝台の下から僅かな旅の荷を取り出すと 後は捨てて窓から飛び下りた。
あいつらはもう去っただろうか。 鉢合わせは避けたいが門の警備兵の相手をせずに すむかもしれない。
闇と建物に紛れて走る。 一見なんの変化も無い。ずいぶん鮮やかに 仕事をすませたものだ。余程手慣れていたものか。
「オンディーン!!」
人魚が叫ぶ声がした。
「どうしたんだよ!おーい!!」
深夜に大きな声が響く。 くそったれ!大声を今出すな。 よりによってオレの名を呼びやがって。
人魚は戻って来ない相棒を必死で呼んでいた。
「くそ。仕方ない。適当に当て身でも喰らわすか」
オンディーンは後ろ手に荷を隠して姿を見せた。
「うるさい。深夜に大声を出すな」
「だって君が言ったんじゃないか」
「やられたらって言わなかったか」
「暗くてわからないよ」
用心深くオンディーンは人魚に近付いて行く。
「そんなヘマ、オレは...」
「!」
人魚とオンディーンが同時に振り返る。 何か物の倒れる音。 先刻人魚が指差した場所だ。
「やっぱり誰かあそこに隠れてる!!」
人魚が叫んだ。
「お、おい!待て。奴らがまだいるんなら叫ぶなっ!」
「奴ら!?やっぱり誰か侵入者がいたんだ! 捕まえなきゃ!」
「バカな事を言うな!相手は人数もわからないんだぞ」
オンディーンは人魚の腕を掴んで壁の蔭に 引きずり込んだ。どうにもならないと人魚の口もふさぐ。
「いいか、奴らがやばい連中なのは間違いない。 死にたくなければ動くな。ここで隠れてやり過ごせ。 連中の顔も絶対見るな!」
「......」
人影が動きだした。
「いいか、絶対見るな。顔を見られた事を知れば命を 取られるぞ。下を向いていろ」
人魚はオンディーンの手で口を塞がれたまま目を見開いた。 彼の背中に旅用の革袋。 普段そんな物を持ち歩く事などない。 人魚はオンディーンの手を振払って叫んだ。
「君は彼等の仲間なのか!?」
「なんだと!?」
思わずオンディーンが立ち上がった。
「あ!」
丁度その時、彼等の目前を人影が走り抜けた。
「こっ...子供!?」
「え?」
小さな人影は慌てふためいて走って行く。 あまりにも不手際だ。
「....まさか置いて行かれたのか?」
「やっぱり君は彼等を...」
「もう一度言ってみろ!!」
オンディーンの怒鳴り声に小さな人影が驚いて立ち止まる。
「じゃあその荷物はなんなんだ」
「こ...これは関係ない」
「じゃあ、止めるな!」
人魚は相手が子供だと知ると勢い付いた。
「バカ!追うな!!」
再び走り出した子供。人魚が追おうと立ち上がる。
「よせ!」
人魚は掴んだ手を叩き払った。
「あの子だけでも捕まえる! あんな幼い子供がこんな事しちゃいけない!!」
「.....」
オンディーンが怯んだ。 その隙に人魚は走り出した。 不自然に開け放たれた門に向かって 走る子供を追って。
「まずい!戻れーッ!!!!」
オンディーンが顔色を変え あらん限りの声で叫んだ。
「......」
静寂。
オンディーンは立ち尽くしてそれを見ていた。 追った人魚の上から数人の人影が 滑るように覆いかぶさったのを。 人魚はゆっくり屑折れて行った。
数人の人影もまた、オンディーンを見ていた。
「.....」
オンディーンは彼等の元へ歩き出した。 顔を見られたのだ。 意を決して突破を試みるしか無い。 背後も目前ももはや崖。
用心深く彼は男達に近付いて行った。 彼等と同行を試みるか、突破か。 これが最後の夜になるかもしれないと覚悟して彼は 倒れた人魚の元に立った。
「よお、ブルー」
「.....」
ひとりの男が左手を上げた。 その声には聞き覚えがあった。 そして何より『そいつ』には右腕がなかった。
「お前さん、ずいぶんお上品な人間になっちまったなあ」
「.......ジャック.....」
数人の男達を見たオンディーンは愕然とした。 彼等には皆見覚えがあった。 年こそ重ねてはいたが間違いなく彼等は 『ブルー』の育ったスラムにいた男達。 懐かしい匂いすら感じられた。
「ブルー。何やってるんだよ。自分だけ」
子供が険しい目で吐き捨てた。 汚い身なりに汚れた顔の子供。 彼は立ち尽くすオンディーンの足下に 壊れた木の玩具を放り投げた。
いつだっただろう。水鈴の少女に会った日だったか。 一番小さかった幼児に与えたもの。 自分はガキじゃない、ともらった玩具を渡した。 オレは年長なんだ、と密かに得意になりながら。 幸福だった頃の記憶はどんな些細な事でも 忘れはしない。今でもよく覚えている。
幼児の顔はすっかり少年になっていた。 背だけは伸びずに小さな子供のまま。 手足も細い。
「..ジャック...てめえ....」
「久しぶりに会ったってのに もう少し嬉しそうにしてはどうだね」
ジャックだけが笑っていた。 少年も男達も『ブルー』をまるで敵を見るような目で 見ていた。
神殿のあちこちに灯が灯る。 何度も響いた叫び声。皆が異変に気付いていた。
「おっと、名残り惜しいが達者でな、ブルー。 お前をブチ殺すのはやめだ。 俺達からの土産を持ってとっとと戻りな」
片腕のジャックは倒れた人魚を顎で指して笑った。
「俺達がやるより面白いコトになりそうだからな」
「ずらかるぞ!」
「待て!教えてくれ!!リ...リラおばさんは どうしてる!」
走り出した男達の一番最後の少年が振り返った。
「元気でいるのか?」
懇願するように『ブルー』が言った。
「死んだよ」
少年はただ一言吐き捨て、走り去った。
「...............」
オンディーンは惚けたように そのまましばらく突っ立っていた。 足下には横たわった人魚と門番。
「オ...オンディーン...」
人魚がオンディーンの足を掴んだ。 擦れた声に液体の絡む音が混じる。
「ぼくは....君のようになりたいと...思ってた」
オンディーンは蒼白な顔で人魚を見下ろした。
「だけど...ぼくには...勇気がない せめて小さな子供くらい...」
「...だから行くなと言ったんだ....」
オンディーンの声もまた、擦れてよく聞こえなかった。
人魚は血を吹き出した口で呟いた。
「...助けてやりたかったんだ....」
それきり彼は目を閉じる事も喋る事も無かった。
冷たい夜の光が彼等を照らす。 背後には人々のざわめき。
オンディーンはそのまま一言も 口を開かず連行されて行った。 まだ夜明けには早い時刻。
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