草原の満ち潮、豊穣の荒野
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都市から離れた街道沿いの宿場街。 夜半のせいか旅人もまばらにしか見当たらない。 せまい安宿の一室。怒鳴り声が響く。
「誰があんな事してくれって言ったんだよ!!」
怒り狂って喚き散らす少年。
「静かにしろ、動くなよ。傷の処置が出来ねえ」
顎を掴んで化膿止めの薬を塗る男。 ブルーの睨み付けた視線を薄笑いで返した。
「オレはタカリに行ったんじゃねえ!!」
収まらない怒り。 それはこの男だけに向けられた物ではなかったが。 罵倒は止まらない。
「キレイ事抜かしてんじゃねえよ」
男は薄笑いのまま掴んだ顎を壁に叩きつけた。 頭をぶつけて、倒れた少年の胸ぐらを掴んで訊ねる。
「お前、どこで育ったと思ってやがる? 15にもなりゃあちったあ、現実がわかるだろうよ」
答えられないブルー。形相だけが一層険しくなる。 男は薄笑いのまま続けた。
「アレは母親じゃねえ。カモだ。オレ達にとっちゃ有り難い 獲物なんだよ」
「...オレ達ってなんだよ」
こわばった声で返す。
「ああ、間違えた。オレの獲物、だ。お前らはな」
「ちくしょう!」
突進する少年。掴まれた胸ぐらを ひきちぎる様に外し、牙を閃かせた。
「子供じゃねえんだ」 男はあっさりかわして、背後にまわると イスを掴んでブルーの後頭部へ叩き込む。 頭を抱えて崩れ落ちるのをすかさず 薬をしみ込ませた布ごと口に突っ込んだ。
「寝てな、坊や」
転がった少年を蹴り込むと男は背を向けた。 誰かが扉を開けて入って来る気配がする。 男は約束でもあったように中へ招き入れると 二重に鍵をかけた。
「まあ、こんなところだ」
「娘じゃないのかね?」
不満の混じった声。
「そう都合良くは行かないんでね。 人魚共に含むモンがある連中はザラにいる。 文句があるならいくらでも買い手はいるんだがね」
男は突っ伏して呻く少年をつま先で転がし 淡々と話す。
「髪は文句なしだろ。 この面構えは仕方ない。適当に薬でもかがせて 喋らせなきゃなんとかなる。
金はあっても地位のない連中が飛びつくぜ。 人魚共に頭下げっぱなしの毎日のガス抜きに いくらでも需要があるってワケだ」
「で、いくらだね?」
意識が薄れて行く。頭がガンガン痛む。 それでも途切れ途切れに男達の会話は聞こえていた。 混乱してまとまらない思考。 己の置かれた状況が考えていたものと違う事だけは 理解できた。
...リラおばさん....
閃いた白刃、幼い少女の白い指先、美しい色彩の珊瑚が 次々に頭を過っていく。
振り向いた白い顔。 見下ろす男達の顔...
来なければよかった......
仰向いたまま悔し涙が流れ落ちる。 うずく傷。 痛みにぼやけた意識がかすかに戻る。
.....このまんまオレ.... 皆こんな事になってたんだろうか.... あの...女の子も.... それにちび共だって....
幻聴のように一緒に育った子供達の笑い声が響く。 リラの顔が浮かぶ。柔らかい腕の感触。 暖かいスープが注がれた皿。 べろべろじいさんの法螺物語が聞こえる。 丘の上で聞いた水鈴の音。 女の子の甘い髪の匂い。
様々な感覚を一度に感じながらブルーは呟いていた。
「ごめん....リラおばさん....ごめ...ん」
男が首を振って哀れむように言った。 小さな小瓶をランプにかざし少年に 見せつけながら。
「バカとぬるい奴は飼い慣らされてろよ。 取れるだけ遠慮なく取らせてもらうぜ」
薄い緑色の小瓶がランプの柔らかな光に きらきらと夢のように乱反射している...
『むかしむかし、南の浜に 特別な椰子の木がはえていました』
ブルーの脳裏に老人の語った童話が甦る。
『その木はまっすぐ 月に向かってはえていました。
一本だけの神様の木で 月や星をひとやすみさせるために はえている木でした。
それはとても高く 空にむかってのびていました。
月や星はその枝に腰掛けて、こっそり ひとやすみしては 夜空へ登っていったのです。 ある夜、ひとりの少年が月をさわりたくて 木に登ろうと思いました。
とても高い木です。なんにちもずっと 登り続けなければなりませんでした....』
じいさん...
『少年はとうとう力尽き、下に落ちました。 まっさかさまに落ちて行く少年を 風が吹き飛ばし その体は海へ落ちて 沈みました。
海流の女神は少年のバラバラになった かけらを拾いあつめて言ったのです。
お前は海に住みなさい。 あの木は登ってはいけない。 お前は空で生きるものではないのです...』
『...あれさえありゃあ、こんなに苦しまんでも...』
べろべろじいさん......
『ブルー、あんたはもうすぐ大人になる。 もっと辛い事や悲しい事がたくさんある... 男の子だから乗り越えてかなきゃならないんだよ。 でもね....今は泣いていいんだよ..』
途絶えかけた意識にリラの言葉が過る。
くそったれ!!
少年はもがきながら口に押し込まれた布ごと 己の腕に喰らい付いた。 滲みだす血の赤。 意識が引き戻される。
もう子供じゃない! あんな奴にいいようにされてたまるかよ!!
ちくしょう!!
呻き声をくぐもった咆哮に変えてブルーは 転がりながら立ち上がった。
帰るんだ。 薬をリラおばさんに返して謝らなきゃ。 きっと心配してる...
男達が怪訝そうな顔で見る。 フラフラと酔っ払いのような足取りで立ち上がる少年に ジャックが笑い出した。
「いい根性だ。もう一発喰らっていい子ちゃんにしてな」
少年の肩を掴んで男が拳を振り上げかける。
「!!」
凄まじい早さで男は少年を離して後ろへ跳んだ。 引きつった顔面。 商談相手の男が不思議そうに見ながら突っ立っている。
「バカ!!そいつの前に立つな!!!」
少年の真正面に立つ男。 小太りで高価そうな着衣。 ごてごてと飾り込んだ巨大な帽子に大きすぎる 細工ものの飾りボタン。 靴にも実用性に乏しい装飾が施されていた。 生身の部分を装飾物で隠したような出で立ち。 立ち方も卑屈そうに背中を丸めていた。
「何をするつもりだね?坊や」
男が猫撫で声で問いかけたと同時、少年は口に押し込まれた 布を吐き捨てた。
「離れろ!」
ブルーの目が青から赤に変わった。 少年は目の前の男からジャックを追うように顔を向けて 『叫んだ』
「クソガキ!」
頭を抱えて伏せたジャックが毒付いた。 隣に転がる人間の足首。 ごてごてした飾りの靴がついていた。
「のろまめ!だから立つなと言ったんだ!」
重い帽子を床に転がせて小太りの男が 口だけをぱくぱくやっていた。 叫ぼうにも声にならない。 恐怖と激痛のあまり開かれたままの口。
「あ...」
赤い瞳の少年が戸惑うような声を洩した。 頭が痛い。 突っ込まれた薬の布のせいなのか意識が途切れる。 一瞬一瞬まっしろになっては我に返る。
「化け物っ...」
足首を吹き飛ばされた男は何が起こったのか 全くわからなかった。 自分の足がその『軌道』上にあった事だけは 辛うじて理解できた。 床やテーブルが一本線でえぐられるように 吹き飛ばされている。
勢い良く噴出する血。 男の鼓動が急速に速度を増していく。
「こ...こんな化け物をよくも...」
『抜け穴のジャック』がせせら笑った。
「獣人共が獣扱いされる理由くらい知っときな。 尤もそれもえらく昔のこった。 今じゃこんな奴、珍しいがな」
そう吐き捨てながらジャックは用心深く後ずさっていく。 ターゲットが自分だという事はわかっている。
オレとした事が。もっとキツイ奴をかがせておくべきだった。
少年を伺う男。 素早く人魚から受け取った皮袋を右手で掴みあげた。
「?」
少年がじっと立って動かない。 倒れた男の前で固まったように立ち尽くしている。
「やっと薬が回ったってか...」
ジャックが安堵するように息を吐いた。
「世話焼かせやがって。このクソ獣....」
するりと少年が動いた。 骨がきしむような異様な音。 血を噴き出す男に引き寄せられるように ふらりと一歩踏み出した。
ドサリ。
複雑で重い衝撃音を立てて少年は倒れた。
『....が...空いた...』
ブルーの意識は混濁していた。 何秒か置きに頭が真っ白になる。 しかもだんだんその間隔は短くなっていく。
混濁した意識の中、噴き上げる鮮やかな赤だけが こびりつくように残る。
白...赤....白..赤.........
強烈な飢餓感。 乾きにも近い。
リラおばさん、お腹が...空い.....た...
「こっ...この気色の悪いガキをなんとかしてくれっ...」
男が絞り出すように呻いた。 目の前に倒れて動かない少年を男は遠ざけるように 手で押す。
そしてそれはその男の最期の動きとなった。
鈍い音。 ジャックがその場で氷りついた。 少年がその半身を別のものに変えながら 男の首に絡み付いた衝撃音。
沈黙が男の絶命を告げる。 少年の口元は耳まで裂け牙を剥いていた。 小さな毒牙どころかまるで肉食のそれ。
バキバキと男の首から噛み砕きにかかる。
「う....」
ジャックの顔に血しぶきと肉片が飛んで来た。
最低の男、『抜け穴のジャック』すら身動きが出来ない光景。 まだ子供の名残りを残したままむさぼり喰う姿。 骨を噛み砕き肉と内臓を呑み込む。 歓喜の笑い声すら洩しながら。
「ば...化けモンだ...ホンモノの...」
ジャックは歯を喰いしばって動かない足に神経を 集中させた。今動けないと死ぬ。 せめて動けりゃ反撃もできる。 突っ立ってりゃ死ぬだけだ。
飛んで来る肉片が男の全身を彼の血のように染めて行く。
あれはただのガキだ。 殴れば死ぬ。 大丈夫だ。殺られる前に殺れ。
「動いた!」
数分を要して男は足を開放した。 アレはまだ獲物を喰らい続けている。 嬉しそうに笑い声をあげながら。
「そのままお食事してろよ...」
ジャックは外に出ようと扉に手をかけた。
開かない! そうだ、ガキが逃げないように復数の鍵を....
舌打ち。
鍵はさっき吹き飛ばされた机だったか。
床中散らばった残骸。 鍵は死体の傍に転がっていた。 男は手を伸ばしかけてやめた。
咀嚼音。 耳を塞ぎたくなる忌わしい音。
「ちくしょう!」
男が扉に体当たりを試みた。 転がった椅子も叩き付けた。 激しい音が繰り返される。
「安宿で助かったな」
扉は外れそうな音を悲鳴のようにあげる。
咀嚼音が止まった。
「!!」
そいつはこっちを見ていた。 赤い瞳。 顔と全身も血と肉片に染まった赤。
口元が倒された三日月のように歪んだ。
「わ...笑いやがった!!」
そいつは口を大きく開いた。 口の周りのものが揺らめいて見える。
来る!
もう一度ジャックは扉に体当たりをかけた。 渾身の力を込めて。
騒々しい音を立てて扉が砕け飛んだ。 外に転がり出る男。
その右手に握った皮袋だけはしっかりと 握り締めたまま。
「くそったれ、あのガキが!! ブッ殺してやる!!」
何事かと隣の部屋にいた宿主が破られた入り口から 顔を覗かせた。 恨めしそうに目を剥いて転がった生首。 顔半分は齧り取られている。
気の毒な宿主は半分腰を抜かしながら悲鳴をあげて 逃げ去った。 中にいた少年を見る事もなく。
だがそこにブルーはもういなかった。
室内にいたそれはゆらゆらと体を揺らせて 上体を高くもたげると大きく開いた口で 『叫んだ』
少年が意識を取り戻したのはそれから しばらくしてからだった。 何処にいるのかすらわからないまま彼はただ 闇雲に吐き続けた。
記憶の断片に頭を押さえてのたうちまわりながら。
切れ切れの記憶が戻る度 彼の全身はそれを否定するかのように吐き続けていた。
ブルー15歳。
長い夜と旅が始まっていた。
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