草原の満ち潮、豊穣の荒野
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人魚 (前)
暗い洞くつ。 二人の人影が歩いている。
「まだかよ...」
青い髪の少年が呟いた。
「ああ」
手元に視線を落としたまま男が答える。 掌に古びたラベルの小瓶。
「何処まで続いてんだよ、ここ」
「ああ」
「.......」
少年と歩きながら彼はずっと小瓶に没頭している。 少年が溜め息をついた。持ち出した薬。 後先考えずに出て来た街。 置いて来た人....
男は小瓶を眺めて口の端を吊り上げた。
「なんだってこんな道を通るんだ?」
思考とえんえん続く暗闇にたまりかねて 少年は再び問いかけた。
「知りたければ他の道を通ってみるか?」
ようやく男は低い声で答えながら 小瓶を胸ポケットに仕舞い込んだ。
スラムから他の街へ行く事はあった。 中央にとってスラムなどあって無い存在。 流れ者共が勝手に流れ込む掃き溜めの街。 おおっぴらな街道などあるはずもない。
中央都に管理された街は皆水温や水圧が コントロールされ安定した潮流に守られる。 海上近くに生きる海洋生物と深海の生き物が 同じように存在できる場所。 空気が必要なほ乳類の海棲生物すらドームに 必要な環境を用意され繁殖していた。 スラムの環境がそれ以下にも関わらず。
「仕事で使う道とも違うだろ、ジャック」
「何処へ行くかわかってるだろうが。 いちいちうるさいガキだ。 なんなら洞くつの外に放り出すが?」
「ガキじゃない。ブルーだって...」
少年はもごもごと小さな声で訴えた。
「死体になりたくなきゃ黙ってついてきな。 こないだ見たんだがひでえぜ。 目ん玉飛び出すは、口と鼻から内臓吐いてやがるは... 男か女かもわからなかったぜ」
男が足を早める。
「...知ってるよ」
少年は顔をしかめながら男を追った。
誰かが禁じられた海上へ向かった結果だ。 地上へ繋がる道は立ち入る事すら禁じられている。 簡単な理由だ。
行けば死ぬ。
スラムでさえ流れついた人々の手で整えられた場所だ。 海の者はどこでも生きられるわけではない。 たまに「仕事」でうっかり道から迷った者が そのままいなくなる。 潮流に巻き込まれた旅人も犠牲になった。
それでもブルーは一度だけ海上へ上がった事がある。 イルカやクジラ達の空調コントロール用に作られた 通路を見つけたのだ。研究者や学者達が使う通路。 海流の流れに合わせて日々移動する通路。 潮流によって通路は狭くなったり広くなったりする。 ブルーが潜り込んだのは狭まって 大人が入れなくなった時の事だ。
通路から飛び出せば耐えきれない水圧が待っている。 無人の数日。 彼はずっと海上に上がり続けた。
尤もこの事は誰にも言わなかったが。
「死にたきゃ好きな道を行きな」
「嫌だよ」
ブルーは着慣れないシャツを引っぱり上げた。 男に渡された荷物を覗く。 ささやかな身の回りの品が入った袋。
持って来た小瓶と引き換えに渡された。 着慣れた外套は置いて来た。 中央であれはあまりにも人目を引く事と 再び取りに戻る事を伝える為に.....
「あっ」
微かな光。
暗い道の先。 同時に暖かい潮流の気配がした。
「いきなり飛び出すなよ。出るのは夜になってからだ。 お前のその頭もちゃんと整えておけ」
ブルーは使い慣れない道具で髪を整えた。
「街の人間になりすますのはひと苦労だぞ。 香油も塗っておけ。
くせえ」
清潔すぎる街。 通路は街の一角の私有地に繋がっていた。 『抜け穴のジャック』 この男に関わる街人がいる事は明白だ。 ブルーにはどうでもいい事だったが。
夕暮れ。
ようやく二人は通路から出た。 やけに重い扉を開いたそこは何処かの家の中庭。 男は慣れた仕種で扉を閉めた。 中庭の飾り岩の陰。
閉めてしまえばそこに通路の入り口がある事など 全くわからなかった。
「行くぞ」
周辺を見回してばかりいる少年を促す。 こざっぱりした服装の男は街人と同じように見える。 種族としても彼は中央に暮らす海人と変わらない。 人魚のように美しい鱗を持った半身こそ無いが 比較的穏やかな風貌に二足歩行の『人間』だった。
「お前は遠くからなら獣人にゃ見えん。 フードは取るなよ。髪だけは少し出しておけ。 その面さえ見られなきゃごまかせる」
「ここ....何処だ...?」
「馬鹿かお前。中央都だと言っただろうが」
「わ...わかってるけど...」
頭上を鮮やかな黄色い魚が飛んで行く。 地上の木々のように珊瑚が整えられて住居や 歩道、公園を彩る。
銀色の魚群が夕暮れの光を きらきらと反射させ少年の目を細めさせた。
明るい。 蒼と碧の潮流。 今まで来たどんな街よりも適度な暖かさと 鮮やかさをちりばめた街。
暖かい。 彼はシャツを一枚脱いだ。 暖か過ぎるが外套を脱ぐわけにいかなかった。 色鮮やかな街に呆然とした少年。
「しっかりしろ。 これからおふくろさんに会うんだろ」
「え...あ、そうか...」
「頼むぜ、坊や」
「ブルーだって」
歩き出す二人。 男はにこやかな表情で歩いて行く。 時折すれ違う海人。誰も二人を気に止める者はない。 街に溶け込んで歩く二人連れ。 下を向いて歩く少年の胸は 雑多な思いではちきれんばかりだったが。
...会うんだった。 そうだ。母親って言ってたか。
街を歩く。夕暮れはやがて夜に変わった。 まだ人魚は見かけない。
「あいつら高級住宅地に固まってやがるのさ」
男がにこやかなまま呟いた。
「あんまりキョロキョロするんじゃねえ。 焦らなくてもちゃんと会わせてやる。 頂く物は頂いたからな。オレは約束を守る男だぜ」
少年が俯く。
人魚の姿を想像しながら複雑な思いが交錯する。 覚えてもいない母親...母親ってなんだ?
歩く歩道は次第に瀟洒さを増していく。
「!」
少年が息を飲んだ。 すれ違った人魚。
美しい飾り帯と複雑な彩色を施された衣装を 纏った婦人。隣には同じような姿だが 幾分抑えられた装飾の男性。 顔は見なかったが半身から流れる 半透明なひれが海人や獣人と決定的に違う事を ほのめかすようにゆらめいて去った。
「...お上品なこった....」
男は少年の髪を眺めてせせら笑った。
「もうすぐだぜ。 おふくろさんが会いたがってる。
良かったなあ....坊主」
「ブルーだってば」
少年は緊張した面持ちで別世界に立っていた。
次回は人魚(後)Moonlight Shadowを予定しています。
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