草原の満ち潮、豊穣の荒野
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10 傷〜想い出 動きだした歯車

動きだした歯車




その夜リラはいらついていた。

他の子供達はもう眠った時間。
大きな台所でブルーが海獣の骨やひれを
砕いては薬瓶に詰めている。

積み上がった材料の山は
さっきからちっとも減っていない。
ブルーの手ものろのろ動いては止まる。

手を止めては溜め息をつく少年。


「いいかげんにおし!ブルー!
あんたさっきから何をぼんやりしてるの」

「あ...ごめん。リラおばさん」

あわてて少年が手を動かした。
石盤に鎚を振り下ろし骨を叩く。

「あっ...」

「ちょっと、その石盤割らないどくれ。
なかなか固いものは手に入らないんだから」

今度はリラが溜め息をついた。
振り下ろした鎚は滑って石盤にめり込んでいる。


「骨だよ。骨を砕くんだよ。全く。
始めてじゃないだろ。
その調子じゃ夜が明けちまう」


リラが鎚を取り上げて叩き始める。
いらただしい気分のせいか自分も石盤を
叩いてしまった。

「ごめん...」

「心配な事でもあるのかね。全く。
あんた小さい頃からやってただろ。
いつもならこのくらいあっと言う間だったじゃないか」




リラは焦っていた。

薬を作る時は必ずブルーに手伝わせてきた。
大半のものなら彼ひとりでも調合できる程
手慣れていたし、リラも教え込んできたつもりだった。

だが。

もうそろそろこの少年はいついなくなっても
不思議ではない年になっていた。
出来る事ならそれまでに知識を伝えておきたい。
彼が何処へ行っても何か助けになるように。

それなのに、この少年と来たら
ここ数日上の空。
ぼんやりしてあちこちでも叱られている
声が聞こえていた。


多分、自分でもこの先の事を考え込んでいるのだろうが...


「いいかげんにおしっ!もう、いいよ。
仕方ない。あんたこれからあたしの家に行って
明日の材料を取って来ておくれ。
そしたらもう寝ていいから」

リラが少年を叩き出すように外に追い出した。
手に書き殴った材料メモをねじ込んで。



深夜の海底。

北の海のスラム街。
ブルーは子供の家を出てとぼとぼ歩き出した。


彼はずっと考え続けていた。




自分の将来。

数日前、抜け穴のジャックが持って来た話。
自分がここから出される近い日の事。

そして覚えてもいない親の事。
物心ついた頃には同じような孤児達と集団で
暮らしていた。
寂しいとか思う暇もなく歳月は過ぎたし
この街ではうらやましがるような親子なんかいない。

流れ者と売られた子供しかいない。
街ぐるみが犯罪の組織になって、一定時期ごとに
子供が連れて来られる。親子なんかいたとしても
すぐ子供がいなくなった。

だけど面倒を見る大人達はいる。
飯炊き女のリラがちょうどブルー達の
母親代わりになっていた。

大好きだ。
口は悪いが優しい。仕事で遅れて戻っても
遅くまで待っていてくれた。
ケガや病気をした子供はこっそり
リラが薬を用意して手当てしていた。

それでも致命傷を負った場合は見捨てられたが。


母親はリラみたいなんだろうか。
父親はどんな顔なんだろう。
海蛇の獣人といくつか混じっているんだろう、と
自分の事は聞かされて育った。

小さな牙。身を守る毒を持つ。
特殊な『声』を発する喉の器官。

やや吊り気味の青い瞳、同じ色の長い髪。
海蛇の種族が青い髪や目を持つ、とも
聞いた覚えがある。


ジャックは人魚なんて言ったけど他の大人が聞いたら
ひっくり返って笑うだろう。
『声』を発する時や怒った時の顔は化け物じみて
一緒にいた子供達すら怯えた。

そんな自分に人魚の母親?
口が耳まで裂けて牙を剥く人魚なんか聞いた事がない。
多分何かの間違いだ。


ブルーはそんな事を道すがら考えて歩いた。
リラの家はよく知っている。鍵の場所も教えてもらってる。

親代わりだったから。


.....母親か......。


思考が堂々巡る。
どんな姿なんだろう。
どんな顔をしてるんだろう。
どんな目や唇をしてるんだろう。

リラおばさんは幼い頃
泣いた自分をふっくらとした
腕の中で抱きしめてくれた。

今でもその感触はなんとなく覚えている。



もしかして....

ジャックの....


言った通りだったら。



ブルーはリラの家のドアを開けた。
石灰のような白い壁。


机の上で焔の石を灯す。
ぼんやり照らされた棚からいくつかの
瓶を取り出して行く。



ブルーはずっと何かを考え続けていた。
瓶を揃えながら、ちらちらと
あちこちに目をやる。

いつもなら何処に何があるのか、材料や
大抵の物ならわかっていたから
さっさとすませられる作業。

だが彼はいつもあまり見ない場所にばかり
目をやっていた。

ジャックの言葉が頭を過る。


手配の交換条件。
固く口止めされている。
もし、中央に行って何かあった時リラや他の者を
巻き込む事になったらまずい、と。

それにべろべろじいさんが死んだ時、リラは物凄い
剣幕だった。
まともにくれ、と頼めるシロモノではないだろう事は
わかっていた。


溜め息が溢れる。
持ち出すしかない。

ジャックが言った。
いつか立派な魔術師になったならリラはきっと
喜んでくれるだろうと。
独り立ちしたらリラを迎えに行って
楽させてやりゃあいいと。


自分もどうなるのかわからない不安な未来より
魔術師の下で働く方が良かった。
薬学はリラからかじっていたし、知らない事を
学ぶのは嫌じゃなかった。
海だけでなく天体や地上の事も知りたい。
魔術師の下働きなら教えてもらえるはずだ。
体が細くても重い岩を運ぶわけじゃない。


ブルーはリラの机の引き出しを引き開けた。
棚の奥、壁飾りの裏、器具の倉庫、あちこち
覗いては探った。


一度見たあの薬。
瓶の形や色も覚えている。

しばらく探し回るが見つからない。
早くしないとリラが不審に思うだろう。
しばし考え込む。


そういえば....。


隅に置かれた古い箱に目をやる。
祭壇。
死んだ人間の想い出の場所。

「おばさん、ごめん!」

ブルーは箱の中から小瓶を見つけだした。
しばし黙り込む。

そこには若いリラらしき女と見知らぬ男の
絵姿。心なしか風景がスラムより
暖かそうに見える。


小さな貝細工の髪飾りが傍に置いてあった。

そっと小瓶だけ取り出して唇をかむ。

丁寧に箱を元に戻す。
漁った場所も急いできれいに片付けた。
家のドアの鍵を元通りにして駆け出す。

言われた材料とあの薬を握り締めて。


夜の道。


翳った海の光は月明かりのように
走る少年の背中を照らした。

子供の家。

窓にはまだ灯がひとつ。
リラが自分を待っている。


ブルーは扉の傍に材料を置いた。
物音をたてないように。


おばさん、ごめん....


唇をかんだまま何度も胸の奥で呟く。
多分、もうしばらく会えないだろう。
早ければ早い程、迎えに戻る日も近い。

それまでは....。


...さよなら、リラおばさん....



ブルーは全力で走り出した。
住み慣れた子供の家から。

窓の灯が遠ざかる。
振り返れば決心が鈍る。

彼は一度も振り返る事なく走り去って行った。
街の裏路地へ。
あの男が待っている所へ。


不安、罪悪感、希望、いくつもの想いを胸に
交差させながら彼は走り続けた。
海の月だけがそれを見ていた。




少年は街を出て行く。












やがて。



ブルーが戻らない事をいぶかしんだリラが
全てに気付いたのは数時間後だった。



「ブルー!!」




持ち出された薬。
流れて来た人買い男の良くない噂。

リラは胸の潰れる思いで街中を走り回った。

まだ明けぬ街。
あの男があの子を連れて行ったのだ。
選りによって一番最悪な男に。


何人かの裏商人に尋ねてまわりながら
全てを悟った。

あの少年がこの街に戻る事はない。




もう2度と。


リラは街外れの道で座り込んで泣いた。
目印のように落ちていた彼の汚れた外套。


あの子はこの道を通って何処か遠い世界へ
行ってしまったのだ。

避けられない事だと知っていたが
もっときちんとしたものを彼に持たせてやりたかった。
新しい外套と知る限りの知識、そして。

もう一度だけ抱き締めてから送り出したかった。



リラは汚れた外套を抱いたまま朝まで
そこから動く事はなかった。


赤ん坊で亡くした我が子。
ブルーはちょうど同じくらいの年頃だった。


彼女は3度目に枯れる程泣いた。
そして祈った。

海流の女神と知る限りのすべてのものに。



どうか彼が強く生きていけますように、と。





ブルーは15歳になっていた。