2006年04月02日(日)
年輪の何枚か内側
祖母の葬式も一段落し、 実家に戻ると家族4人、 ささやかに再会を祝して飲む。
仕事の話になり、父と弟にも 顛末を告げると、母親がカラッと言った。
あんたが 登校拒否をして 中学校も高校もいかないで 家庭教師をつけて大検を取る なんて言い出した時は絶望したもんだけど 人生どうにかなるもんね。
そんなこと、忘れていた。
私は登校拒否をしたことがあるのだ。
両親が家を買ったのを機に 隣町に転校して通過儀礼のごとく 私はいじめの対象になった。
いじめなんて小学生の頃から普通にあったし 女の子が複数集まれば、仲間 外れなんてローテーションで必ず回ってくる くらい、取り立てるほどもない日常と習性でしかない と思っていたけれど、転校する前から知っていたこの中学校の ガラの悪さはウワサ以上のもので、 クラスレベルではなく、学年全クラスの 不良ぶった目立つ男子総動員だった。
全クラスの黒板に大きく名前を書かれ、 帰り道ひたすら靴投げの的にされ、 周りの女子もつられて私を敬遠するようになった。
とある日の移動教室から教室へ戻る時、 「浅田さん早くこっちに来て」 と、珍しく声をかけられて少し嬉しかった が、連れていかれた教室の人だかりの中心、 机の上にはカバンが引き裂かれて散っていた。 名前なんて書いてないし学校指定でみんな同じカバン だけど、真新しいからまぁ私のだったものだろう。 これを一刻も早く見せるために呼んだのか。
みんなが見ているのはカバン ではなく、私の表情だ。
人だかりにまぎれていた担任はいきなり私の腕をつかみ、 そのまま強引に人だかりから連れ出されて早退となった。 担任の車に乗せられ家に送られる途中、 担任は新しいカバンを買ってくれた。 PTAがやっているであろう学校指定の販売店で 店員のオバサン相手に憤慨しながら いやぁこの子いじめにあってカバン壊されましてね なんてこぼしていた。
みんな、なんて無邪気なんだろうと思った。
次の日の学級会で担任は 匿名で私のことを話題にし、 さらにその翌日には全校集会で校長が同じ話をし、 周りの人にあからさまに凝視されながら 私は他人事のようにそれを聞いていた。
その夜、とても地味な男の子が親と一緒にうちに来て ごめんなさいと頭をさげた。 同じクラスなのかすらよくわからなかったし 何となく本当はこの人じゃない んだろうなぁと思った。 この人もこんなことを押し付けられて いじめられているんだろうか。 でも真犯人なんて誰でもよかった。 みんな一色汰でかまわない。 個々の判別なんかしたくもなかった。
私の中で静かに何かが切れた。
それがきっかけ ではなかったけれど、前後して学校へ行くのをやめた。
私はその 転校生 というだけでここまでの仕打ちを受ける ばからしさに、がんばって学校に行く意味を見出せず、 それでも将来のことを考え抜き、
「私はデザイナーになりたい 中学校なんて義務教育なんだから行かなくても卒業できるけど デザイン学校に行くには高卒でないと入学資格がない だから、高校に進学するために家庭教師を!」
なんてことを声高々に宣言し 両親に一蹴されて4日目には強制的に家を追い出され 学校に行かざるを得なかった ので私の登校拒否は3日で幕を閉じたのだが、 母親にはかなりのダメージを与えたエピソードであったらしい。
その3日のダメージは多分母親だけでなく 校長をはじめとした教員にも大きく響いていたようで それから校長は私とすれ違う度に めげるなよ、と同情の言葉をかけ続けたし、 教員はみんな私を腫れ物のように扱い、 遅刻も早退も保健室によく出入りしていたのも実際のところは 偏頭痛が原因 だったのですが、登校してきただけマシだ とばかりに咎められることはなく、 保健室に行けば、サボる口実で保健室に屯している 不良達と鉢合わせたが、私はその存在そのものを無視し通し、 不良達の方がすごすごと出ていくようになった。
いじめの中で無視というのは意外にキツイ。 いじめている方ですら無視されるのはツラかったのかもしれない。
以来、いじめと呼べそうなものは尻すぼんでゆき、 2年から3年になる春に異例のクラス替えが行われ 暗黙で特定されていたであろういじめの主犯達は 合同授業でも一緒にならないほど私と分離されて、 新しい転校生が入って私の「転校生」という肩書きがとれた 頃には完全に消滅していた。
とはいえ、新しい転校生に標的がスライドした わけでもなく、残りの学校生活は至って平和なものだった。
そして、卒業間近に知った いじめの真実はいわゆる 好きの裏返し だったらしい。
異例のクラス替えをするほど全校問題にされたいじめが 好きの裏返し?! とても幼稚でくだらないその理由に脱力したけれど 確かに陰湿というよりは誰から見ても分かりやすいものばかりで (だからこそ簡単に全校問題になった) いやな思い出ですら美化される傾向にあるからには 今現在の私には 中学校2年生の少女Aが体感していた辛さのディティール なんてもうわからないけれど、
そんな登校拒否をした私を経て 今の私が形成されているわけです。 (強引に〆)
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