●●●
7月始まり(笛/渋沢克朗)。
2005年07月01日(金)
行き先を決めない外出をしてみた。
目の前を悠然と河が流れていた。
曇り空の下、なまぬるい風が頬を撫で前髪を攫う。渋沢克朗はわずかに目を細めながら、肌にまとわりつく湿気にこれから始まる夏を思った。
正午過ぎの河川敷の土手に人気はほとんどなかった。昨夜の雨による増水は川面をコーヒー色に染め、普段なら川岸に当たるだろう箇所を水没させている。河川敷に生えている丈の低い草に薄く泥が積もっているのが見えた。
一体何で自分はこんなところまで来てしまったのか。
平日、真昼、私服、と三つ揃った二十四歳の青年は水面を流れるペットボトルに目を遣りながら、ためいきをこらえた。
これがもっと晴れた、草花の緑が映える場所ならほのぼのとした気分にもなるだろうが、生憎仕事でミスをして傷心中の身にこのうら寂しい光景はますます気分を滅入らせてくる。
折角電車を乗り継いで来たというのに、もう早く帰りたいという気持ちが込み上げる。
せめて、との思いから渋沢は上流に見える橋脚のほうへ背の高い身体を向けた。電車賃分ぐらいの元は取りたい。貧乏性と紙一重の思いだったが、私生活の堅実さが彼の売りだった。
土手道の行く側からは、帽子を被った女の子が犬を連れて歩いている。白い帽子に明るい茶の犬だ。別段変わった取り合わせではなく、渋沢は顔を川面のほうへ向けながら歩いていた。
「あっ!!」
短い声が聞こえたのは、ほどなくだった。
無意識に顔を前に向けた渋沢の目には、猛然と駆け寄ってくる犬が映る。
そして、後ろのほうでただの綱を持って目を見開いている顔と、白い帽子。
犬が来る。どんどん来る。
「う、―――」
叫んで逃げなかったのは、サッカー全日本代表屈指のゴールキーパーと謳われた渋沢克朗の名に懸けてのことだった。
咄嗟に動きを止めた渋沢に対し、駆け寄ってきた犬は泥足で渋沢のすねの辺りに飛びつき、服に半端な足跡をつけた。犬はそのまま渋沢の顔を見上げ、ぱたぱたと上機嫌に尻尾を振っている
「…………は?」
「あ、あの、すみません!」
思わず犬と目を合わせた渋沢のところへ、ようやく飼い主が追いついて来る。
大したことのない距離だったが息を切らせ、走るのに邪魔になった帽子を鷲掴んでいる顔は十代後半ほどの若さだった。
「すみません、いきなり首輪抜けちゃって…」
彼女の言う通り、茶色の中型犬には首輪の跡はあるが首輪そのものをしていない。彼女が犬の近くにしゃがみ込み、赤い首輪を急いで付け直している間も犬は渋沢を見上げて尻尾を振っていた。
「いや…こちらこそ…」
こちらこそ何だ。
咄嗟にそう言ってしまったが、この場では不適切だったことに渋沢はすぐに気付いた。今の自分はよほど失調しているらしい。
犬の首輪をつけ終えた彼女は、渋沢の様子を見て「あっ」と声を上げた。
「あの、ごめんなさい、服が…」
「ああ…いや、別にこのぐらい気にしなくていいから」
「すみません…。あ、あの、大丈夫ですか?」
「え?」
「犬、苦手そうに見えたものですから」
「…いや、別に苦手ではないはずなんだが…」
「……大丈夫ですか? 顔色よくないですけど」
通りすがりの女子高生ぐらいの年代の子にすら心配された、その事実に渋沢はひそかに胸が痛んだ。
それと同時に、相手が自分の顔を知らない事実にほっとする。プロデビューしてから数年、場所を選ばなくてはいけなくなった割に収入は伸び悩んでいる今日この頃だ。
ところが相手は無邪気に言葉を紡いだ。
「昨日、大変でしたものね」
「は?」
「延長戦まで、お疲れさまでした」
「……………」
「あの、渋沢克朗さん、ですよね?」
昨日の対柏戦、観てました。そう笑顔で告げられ、渋沢は作り笑顔の端がひきつるのを自覚した。
犬が渋沢と彼女の間で、飼い主を見上げている。
「よくわかったね」
「はい、あの、ちょっと…よく観てます。最近前のオリンピックとかのビデオも見てて、それで渋沢選手よくいるなぁって…」
しどろもどろになりかけた彼女の言葉に、渋沢には引っかかるものがあった。
単純に渋沢のファンならばこういう言い方はしない。有り難いことだが、多くのファンと接しているうちにそういった感覚は何となく掴めるようになった。
どうにか渋沢のプレーの感想を言おうとしている様子の彼女の懸命さにほだされ、渋沢は小さく笑った。
「わざわざ選手の感想言わなくてもいいから、気にしないでくれ」
「……すみません」
しょぼくれたように、彼女は手に持っていたままの帽子を被り直した。
なまぬるい風が流れる午後。高校生ぐらいは今頃学校ではないかと渋沢は思ったが、確認したりはしなかった。
昨夜は引き分け試合だった。先制点を挙げ、残り数分で追いつかれた。チームはディビジョン1の中で下位ではないが上位でもなく、半端な位置ゆえに焦りが浮かんでいた。
かすかに胸を焼く苛立ちに、渋沢は息苦しさを感じた。
「…こんなところまで俺を知ってる人に会うとは思わなかった」
そのつもりはなくとも、渋沢の会いたくなかった気持ちは言外の空気に出た。本人が気付いたときにはもう遅く、相手はすまなそうな顔で目許を歪めた。
「…すみません、そうですよね。ごめんなさい」
お邪魔しました。そう言いたげな物腰で彼女は会釈し、犬の名を呼んで促した。
黙って横をすり抜けた彼女を、渋沢は思わず目で追ってしまう。意地の悪いことをしたいわけではなかった。ただ少し、個人のプライバシーを振り翳してみたくなっただけだ。
そんなつもりではなかった。少なくとも、初対面の人間の顔色を心配してくれるような子を、無碍にしたいわけではなかった。
息を吸うと、渋沢は顔つきを切り替えた。
「ごめん、ちょっと待ってくれ」
振り返って呼びかけると、犬連れの彼女もまた足を止めて振り返った。
不思議そうな顔は帽子に隠れて半分しか見えず、やわらかそうな前髪の近くで目を瞬かせていた。
「申し訳ない、失礼な言い方をして。試合観てくれてどうもありがとう」
文字通り目を丸くして彼女は渋沢の言葉を聞いていたが、ややあって何かに納得したように笑った。
「テレビに出る人だからって全部あの中の顔と同じじゃないって、私の知っている人も言ってました。なのに私のほうこそ、無神経に名前言ったりして、すみませんでした」
彼女の謝罪は実感が込められたそれだった。
河からの湿気が含まれた風を受ける帽子の彼女が、渋沢を真っ直ぐに見据えていた。胸につまるようななまぬるい風。渋沢がそう感じるものを、彼女は気にしていないようだった。
「また観ますね、渋沢さんの試合」
「え? ああ、ありがとう」
「いいえ。じゃあ、お気をつけて」
ぺこりと一礼し、犬を連れて彼女は土手の道を歩いて行ってしまう。
渋沢もまた自分が目指す橋に向かって歩き出しながら、ふとこのあたりは柏レイソルのホームタウンであることを思い出した。鮮やかな黄のユニフォーム。昨日はかのチームの同年代にしてやられた。
柏レイソルの現選手と、渋沢のオリンピック時代で重なる人間は一人だ。
「…真田、か?」
黒い髪、切れ長の黒い目、シャープな印象の球を蹴る、昔から年代別代表で馴染みのストライカー。
もしかしたら彼もこの近辺を歩いたことがあるのかもしれない。
次に真田に会ったときは、この河の話でもしてみよう。
そう決めた渋沢は、歩きながらぬるい風を胸一杯に吸ってみる。不思議なことに、最初に感じたよりは不快に思わなかった。
泥の匂いさえ混じる夏の空気。明日からまた始まる日常に戻る前の、小さな気分転換の旅だった。
************************
さあ今年もやって参りました7月です。
うちの7月というのは、渋沢克朗月間です。
7月=渋キャプの誕生月、ということで、この月は渋沢さんを書く月です。サイトルール。3年め。
というわけで、今年は渋沢克朗の小さな旅@真田ヒロイン、というものからスタートしてみました。なんでもないただの気分転換小旅行。
この後どっかで真田と会った渋沢が、彼からクリーニング代を渡される後日談も考えていたのですが、入りませんでした。
そして今年ももしよろしければお願い致しますアンケート。
去年までの消化しきれていないネタもありますので、そっちも使わせて頂きながらつらつらと。
何ぶんペースは落ちるかと思いますが、今年もどうぞよろしくお願い致します。
そしてその時期の別ジャンル小ネタについては、ここでやってます。7月限定で日記分け中。
|
|