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ロングレイン3(笛/真田一馬)。
2004年10月18日(月)
その朝、家を出てはじめて熱を出した。
朝から気だるくて、雨が降っている窓の外を見てうんざりした。 昨日は雨の音が気になってよく眠れなかった。だから身体がほてっているんだろうと、そう思った。
「…何度?」
シャツの第二ボタンまでを外して電子体温計を脇に挟んでいるわたしに、真田さんが洗面所から戻ってきて聞いた。フローリングの床に靴下の足音。 ちょうどそのとき体温計が測定終了の音を鳴らして、わたしは細く小さなそれを取り上げた。暗い液晶の数値を読み上げる。
「三十七度…二分、です」
本当は七度八分だったけど、なんだか心配をかけてしまいそうで微熱の振りをした。心配、ていうよりも、迷惑になることのほうをおそれたのかもしれない。 真田さんはそうかと言ってわたしの手から体温計を受け取ろうとしたから、慌ててボタンを押して初期値に戻した。
「…使わないと思ってたけど、やっぱあると便利だな」 「え?」 「ん、救急箱とか。うちの母親がなんかいろいろ詰めて置いてったのは知ってたけど、あんま使ったことなかったから」
ケースに戻している体温計をしげしげと見ながら言う真田さんに、熱っぽいわたしは曖昧に笑った。 雨は今日も降っている。今年の入梅は早いと聞いた。いつも冷蔵庫の近くに置いてある丸いスチール椅子が、今日はなぜかベランダのほうに置いてある。 真田さんの部屋は無機質な印象だ。あまり家にいる時間がないせいもあるだろうし、真田さん自身に物を増やそうという意識が少ないせいもあると思う。だからこの部屋のものは真田さん本人よりも、お母さんや郭さん若菜さんが置いていったものがたくさんある。 食事のときに使っている椅子に座っていたわたしが、一度だけ小さな咳をすると真田さんの視線とぶつかった。
「薬とか買ってくるから、寝てろよ」 「え? あの、いいです」 「だって今日仕事ないんだろ」
そうだけど、それなら自分で行く。まだ午前中で外が雨とはいえ明るい。 それに真田さんは今日の夕方から試合だ。
「風邪薬なら持ってますから、大丈夫です」
喉が小さく、ちりちりと痛む。一声ごとに異常を訴える痛み。 忘れるなと誰かにいろんなことを指摘されている気がした。真田さんの顔を見ているつもりで、その目から少し離れた黒い前髪のあたりに視線をめぐらせた。
「でも、うつったら大変ですからしばらく籠もってますね」 「そういうんじゃ」 「大丈夫です」
繰り返す。そう、大丈夫。そう思っていなかったら自己嫌悪で泣き出してしまいそうだ。真田さんが体調管理に気を遣っていることなんて誰にでもわかることなのに、なんでわたしは。
――『もう、なんでよ!』
悲鳴みたいな泣き声が不意によみがえる。 泣かせるつもりじゃなかった。悲しんでほしいわけじゃなかった。ただ、わかってほしかった。そのための会話はいつも空回って。 いつからか黙って笑っていればそれで何事もなく終わることを知った。
「…泣くなよ」 「泣いてません」
じわっと浮いてきただけの水の膜に、先に気づいたのは真田さんだった。 いつかみたいな困り声じゃなくて、学校の先生みたいな嗜め声。一度息を吸って、唇を噛んで、心臓を落ち着かせる。
「泣くなって」 「な、泣いてません!」
勢いよく顎を上げた拍子に、声まで大きくなった。顔が熱いのに背筋は冷えきっている。その気色悪さに苛々したのかもしれない。 真田さんは目を丸くしてわたしを見ていた。
「……怒んなよ」 「…怒ってません」 「嘘つくなよ」 「真田さんには関係ありません」
以前にも、同じことを言った。同じこの部屋で。 だけど今はあのときとはっきり違うことがある。真田さんの顔が強張って、テーブルに置いていた片方の手が一度動いた。
「…そうかもな」
そのはっきりとわかる低い声にわたしの顔から血が下がるのも、わかった。 もう、何なんだろう。わたしは何がしたいんだろう。どうしてこんなに自分勝手に振る舞えるんだろう。面倒と厄介のかたまりみたいなわたしを心配してくれる人にすら心優しくなれない。 ずっとそうだった。わたしはそうやって逃げ出したままだ。
「ごめん」
顔を背けたわたしの手に顎から滴った水が落ちる頃、真田さんが仕方なさそうに呟いた。 上手くいっているように思えた日々が、少しずつ終わろうとしていた。
ほぼ半日をうとうとと寝て過ごし、起きた頃には雨も止んでいた。オレンジ色の夕日が街を染めている時間帯、借りている部屋を出たわたしを迎えてくれたのはさくらちゃんだけだった。 キッチンは全部片付けられていて、テーブルの上にコンビニおにぎりが二つと小鍋のお味噌汁が置いてあった。メモも何もないのが、真田さんらしかった。 念のために熱を測ってみたら、思った以上に低い。三十六度七分。なんだかんだで、わたしは図太いとひとりで苦笑してみたけど、すぐにためいきみたいなものに変わった。 ごめんと呟いた真田さんの声を思い出して、申し訳なさだけが募った。 あの人は悪くない。真田さんだってきっとわかっていたはずなのに、あの場を収める方法を彼が選んだだけだ。わたしの弱さがそうさせた。謝る必要のない人に、そうさせた。
「ごめんなさい」
たくさんの人に迷惑をかけて、わたしはここにいる。 それを割り切ることも出来ず、恩を返すわけでもなく、ただ悪いと感じながら何もしないなんてそんな都合のいい話があるだろうか。それはただの薄汚い偽善だ。 ほんの少し前の日に見かけてしまった妹の姿は、わたしに確かな罪の意識を与え続けていた。 裏切った者に、傷つく権利なんて、ない。 眺望のいい真田さんの部屋。ここの生活はなんだか適度に穏やかで、新鮮で、思った以上に楽しくて。だから無意識に忘れかけていたのかもしれない。安定を求めるには早すぎる現実に。 長い雨が止んで、気持ちの切り替えが済んだらここを出て行こう。 名残惜しさや、真田さんの優しさがこれ以上辛くなる前に。
落ちていく夕日を硝子ごしに眺めながら、わたしは自分の立場をもう一度考え直そうと思った。 そのとき玄関のチャイムが鳴った。向かう前に時間を確認する。 午後六時ちょうど。真田さんの試合開始時間だった。
************************ 前の各話は日記の一括目次から『真田シリーズ』を選ぶことで、正規ページに更新してある話以降が読めます(ややこしい説明)。
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