●●●
ロングレイン1(笛/真田一馬)。
2004年09月08日(水)
世界中が雨で沈没してしまったら、わたしは後悔するだろうか。
五月の雨上がりは美しい。 どこかで聞いたような、聞かなかったフレーズを思い起こしたのは、五月もあと数日を残すのみになった季節だった。 まだ新しいエレベーターは、五階から一階に降りるまでの時間をとても手持ち無沙汰にさせてくる。すっかり乗りなれてきたエレベーター。築二年の、真田さんの部屋があるマンション。わたしの止まり木。 一階のエレベーターホールを少し出れば、今度はエントランスホール。常駐の管理人さんが、わたしに気づいて管理人室の小窓から会釈してくれた。
「おはようございます」 「おはようございます。お仕事ですか?」
壮年から初老へと移ろうとしている彼は、真田さんに連れられて挨拶に行った次の日にはもうわたしの顔を覚えていた。こういう仕事の人にとってはとても自然なのかもしれないけど、わたしには出来ないことだった。
「はい。午前だけなので、午後過ぎには戻ります」 「それならいいんですが、最近痴漢が出るそうなので、もし遅くなるようだったら帰り気をつけて下さいね。真田さんも、今日は戻らないって聞いてますから」
真田さんは遠征とか用事で丸一日以上家を空けるときは、管理人さんにそのことを伝えているようだった。だから真田さんがいない日は、この世話好きなおじさんはよくわたしのことを気にかけてくれる。 だからといって、わたしと真田さんの関係には必要以上に首を突っ込んだりしない。
「はい、わかりました」
軽く笑って、会釈して、通り過ぎて外を出て傘を開いた。 透明なビニール傘に雨の雫がやさしい音を次々に奏でる。うす寒い春と夏の境目の雨。 わたしがここに来て初めて雨が降った日は、真田さんのところには傘が一本しかなくて、少しだけ揉めた。ほんの少しだけ。
『俺が駅まで走ったほうが速いから!』 『でも私は途中で傘買いますから!』
言葉で傘を譲り合った末に、結局お互いの出勤時間が近づいてしまって、二人で早歩きで駅まで一緒に行った。一つの傘を傾け合って。 家出するとき、折り畳み傘も持ってくればよかった。 あの家に置いてきたもので、後悔したのはあれ一度きり。
街に雨が降る日が続くようになって、紫陽花が花をつけ始めた。 いつまでも、ここにいちゃいけないはずなのに。 出て行きます。お世話になりました。…そう、もう一度言わなければならないのに。 雨の日の信号待ちは、わたしの気分を暗鬱にさせる。胸をしめつけるような切なさと寂しさ。何に起因するのかも教えてくれないくせに、吹き出して溢れた感情は雨が降るたびわたしを責める。
『真田さん』 『ごめん、もう寝る』
思考が止まるたびよみがえる記憶がある。 若菜さんが来た夜。話をしてくれなかった真田さん。
『明日にしてよ。お姉ちゃんと違って疲れてるんだから』
声を掛けたわたしを、振り返らなかった髪の長い妹の背中。 重なる。 おそれていたこと。もういやだと思ったこと。 またそれを繰り返そうとしているのかもしれない。自分勝手にそう思うことを、きっとあの子は嫌悪するだろうけど。進歩がない、停滞したまま、そう言って。 雨はわたしの昔話に、じっと耳を傾けてくる。
夕方近く、午前中で仕事を終えたわたしに真田さんから電話があった。 たまたま電車の中にいたものだから、慌てて次の駅のホームに降りて通話ボタンを押す。
『あ、俺だけど、』 「は、はい!」 『…なに焦ってんだ?』
電話の向こうから真田さんの忍び笑いが聞こえた。 雨に濡れたホームの端から、他の人の邪魔にならないように壁際へ寄る。雨の日の電車内は湿気が充満していたけど、外気に触れるここはただひんやりとしているだけ。
「あの、電車の中だったので…」 『あ、悪い。大したことじゃないんだけど』 「はい」
真田さんの用事は、荷物の受け渡しのことだった。実家のお母さんが何かを送ったとかで、その受取日を間違えて不在の今日にしてしまったらしい。
『俺の部屋の緑の引き出しの一番上に判子入ってるから、受け取ったら押しといて』 「は…い」
いまどき、宅配便の伝票は判子じゃなくてサインでもいいはずだったと思うんだけどな。 だけど、代理とはいえ私が真田さんの苗字でサインをするのは憚られるし、そんな些細な指摘をして真田さんの時間を引き延ばすのもいやだった。
「わかりました」 『…ごめんな』
その謝り方が、なんだかとてもわたしの胸を締め付けた。 すまなさそうなのと、寂しそうなのと、よくわからない何か。しんみりしたこの雨に似ている気がして、自分で自分が困惑するのがわかった。
「…気にしないで下さい」
大丈夫です。 それしか言えないまま、短い挨拶の応酬があって真田さんの声は聞こえなくなった。
その日の雨は、結局暗くなっても降り続いていた。 指定の時間になっても、宅配業者さんは来なくて、わたしはぼんやりと玄関の段差に腰掛けて待っていた。雨の音がずっと聞こえる。窓の外からと、ドアの向こうの通路のさらに向こうから。 さくらちゃんの散歩の時間はもう過ぎていた。出来るだけ毎日、同じ時間に行ったほうがいいのに、そう出来ないことに少しの申し訳なさがあった。 しょうがなくて、せめて少しでも歩かせてあげようと思ってわたしはさくらちゃんを連れて、一階のエントランスまで行こうと腰を上げた。 ドアを開けると雨の匂いが一層強くなる。 エレベーターは使わず、先を歩くさくらちゃんの後を追いかけながら階段を一段一段下りた。打ちっぱなしのコンクリートの壁は湿気を含んでひやりと冷たい。
「じゃ、先生、どうもお邪魔しました!」
明るく、華やかな声が聞こえたのは一階に着いてからだった。 自動ドアが二層に連なる風防室の前、エントランスホール。何人かの女の子が、高校の制服を着て一組の男の人と女の人の前で喋っていた。 薄暗い雨の日を感じさせない賑やかさに、思わず圧倒されて私は一番端の階段の手前で立ち竦んだ。
「先生、急に来ちゃってすみませんでしたー」
謝罪の言葉であっても、それを補って余りある元気の良さ。 聞き覚えがあった。 でも嘘だと思いたかった。
数人の中でも、一番背の高いあの子。
指先が冷たくなった。 よろめいて、足に階段の一番下の段がぶつかった。後は覚えていない。 気づいたら、真田さんの家のドアを閉めていた。 ずるずると崩れ落ちて膝に額を押し付けた。さくらちゃんの散歩用の引き綱が手を離れる。まとわりつく雨の匂い。指が髪を掴んでいた。
「…な……」
なんで。 どうして。 あの子。妹。世界でたった一人の。
こんなところでも、会うなんて。
あの家を出てしまえば、きっともう会わないと思っていた。近所に暮らしていても、何年も会わない人だっているのだから、物理的な距離をもっと広げれば、もっと時間が経つまで会わずにいられると。 まだ、わたしは前のわたしを知る人には会いたくないのに。
動悸がうるさくて、呼吸が上手く出来なくて、泣いていることに気づいた。 震えを抑えて、薄茶色の子犬に手を伸ばす。ぬくもりは生きてる証で、赤い首輪はこの子と飼い主をつなぐもの。
―――真田さん。
あの人と、この子と、この部屋で、わたしの世界が始まった。 会いたいと思った。 真田さんがいて、さくらちゃんがいて、わたしがここにいられればそれで。
真田さん。
呼びかけても、心に浮かぶ彼は背中しか見えなかった。
************************ これといってコメントもないようなあるような。 そんな真田シリーズ3作め第一話。
真田シリーズの一覧は日記の上のほうの目次一覧からでも飛べますが、一応こちらです。 メモライズ完全消滅に伴い、正規更新していない正しい春の迎え方の6話以降をすべて移しました。正規で出し次第、新日記で更新したもの以外は消す予定です。
今日のサッカーA代表戦、川口が先発です! よし、この勢いで1番にも返り咲きを!!
|
|