| 2026年04月19日(日) |
「これから」のために |
連日の曇り日。雨が降りそうで降らず。
気温は20℃を超えていたが蒸し暑さは感じなかった。
日曜日で朝の道にも縁がなく明日が待ち遠しくてならない。
玄関先の葉牡丹に可愛らしい花が咲く。
葉も枯れることなく生き生きとしている。
毎年種を採ろうと思うのだが実行に移せず
今年こそはと思いつつ時が流れてしまいそうだ。
朝のうちに衣替えを兼ねて衣類の整理をしていた。
もう何年も着たことのない衣類がいっぱいあり
思い切って捨てることにする。
バドミントンをしていた頃のユニホームは懐かしくてならず
胸に当ててみるとまるで子供服のように小さい。
こんなに痩せていたのかと信じられない程だった。
川仕事に励んでいた頃の仕事着も多くありこれも懐かしくてならない。
新しく買い求めることもなかったのでかなりの年季物であった。
冬用と春用があり季節ごとの苦労が昨日のように思い出される。
母が残してくれた衣類もあったがこれも惜しみなく捨てることにした。
母は小柄だったので今の私には到底着られそうにない。
母が来ていた頃の姿が目に浮かんだが「断捨離」だと思った。
全部で10キロ程だろうかビニール袋はずっしりと重い。
やっとの思いで車に積み込み市の資源ごみ収集所に持って行く。
市営の体育館の片隅にありいつでも自由に持ち込めるのだが
今日はちょうど市の「バドミントン大会」が行われていた。
ユニホームを捨てる日に大会とはその偶然に驚く。
さすがにアリーナには踏み込めず窓からそっと中を覗いてみた。
てっきりかつてのお仲間さんが参加していると思っていたのだが
一人も見えず見知らぬ若者ばかりであった。
おそらくバドミントンは続けているがもう大会には出ないのだろう。
それだけ歳月が流れ時代が変わったのだと思うと胸が痛んだ。
「寂しさ」は「切なさ」に似て胸に風が吹き抜けるのを感じる。
「終わったのだな」と思う。もう二度と取り戻すことは出来ない。
午後は食べて寝るのが仕事であった。
満腹のお腹を抱えて横になると直ぐに眠くなる。
しかし長続きはせず一時間ごとに目が覚めるのだった。
2時に目覚めればもう寝るのにも飽きてしまい
アイスコーヒーを片手に自室で過ごすことにした。
ひっきりなしに煙草に火を点けてしまい自己嫌悪に陥る。
その上に退屈でならず22年前の4月の日記を読み返す。
そこには47歳の私がいて何だか乙女ぶっていた。
泥酔状態で書いている日記もあり恥ずかしくてならない。
しかし書くことに拘っておりそれは今の私と変わらなかった。
そうして歳月を費やしてきたことは誇りでもあるが
何ひとつ成長していないことに衝撃を受ける。
何をしても何を書いても「そこそこ」でしかなかったのだろう。
バドミントンのことや川仕事のことも書いてあったが
それも今となってはもう無縁の日々でしかない。
いくら懐かしく思えても過ぎ去った「過去」であった。
「これまで」ではなく「これから」をと思う。
もう70歳になろうとしている私にいったい何が書けるだろうか。
生きてこその日常もいつ最期を迎えるか分からなかった。
「そこそこ」であることは今後も変わることはないだろう。
いくら年季を重ねても今以上にはなれないと思う。
ただ胸を張って生きる。書いてこそが私の人生ではないだろうか。
※以下今朝の詩
野花
野をいちめんにして咲く 名も知らぬ花であった
ひまわり色であったが 大輪の花ではなく ちいさな欠片のようである
金剛杖の鈴の音が響き 旅人がふと足を止める りんりんと咲く花は 真っ直ぐに背を伸ばした
「花」と呼ばれることは 当たり前のことだろうか 「草」であっても構わない
その場所に咲き続けることが 永遠の定めのようにおもう
旅人の微笑みに励まされ 生きて在ることが誇りであった
陽射しを浴びればその眩しさに 果てしない空の青さが寄り添う
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