たっぷりの陽射しが降り注ぎ冬晴れの一日となる。
「成人の日」で祝日であったが
四万十市は既に1月3日に祝典が行われており実感は湧かず。
近隣市町村も同じくでこれも田舎ならではのことだろう。
都会から帰省する若者が多いお正月にするのが習いであった。
息子や娘の成人式を懐かしく思い出すことはあったが
それももう20年以上も昔の事となり遠い記憶となった。
それよりも孫達であるがあやちゃんは後8年。めいちゃんは10年である。
何としても長生きをして晴れ姿を見たくてならない。
この三連休はまるでお正月休みの続きのようであった。
ゲンキンなものでインフルだったことも忘れるぐらいである。
朝から寝て午後も寝る。ほぼ一日中炬燵に潜り込んでいた。
怠惰を貪りつつ無気力を愉しんでいたのだろう。
「新しくなる」ことなどとても考えられなかった。
E君に紹介して貰っていたネット詩誌への投稿を諦める。
もうその件に関してE君と語り合うこともないだろう。
唯一の仲間のように思っていたが私の思い違いだったようだ。
全て私に落ち度がありE君には何の責任もないのである。
E君は私の詩をあれ以来全く読まなくなった。
もちろん反応もなければ感想もあるはずはない。
それが「仕打ち」なのだと思わずにいられなかった。
仲間がいなくなればまた独りぼっちである。
けれどもそれは私が望んでいたことではないのだろうか。
今日はふっとそんなことを考えていて気が楽になった。
決して群れることのない「はぐれ鳥」なのに違いない。
大空を自由気ままに飛び交っていても満たされはしないだろう。
それは決して「飛躍」ではないからである。
私は飛躍するために空を選んだのではないのだと思う。
あくまでも生きるための空であった。
詩は「いのち」であり唯一の「糧」である。
芽
むくむくとしている いま私は土に埋もれ 雪の気配を感じている
夢だったのだろうか 確かに声が聴こえたが 応えることが出来ない
群れるほどの強さはなく 独りはぐれてしまった 大空では在り得ないのだ どれ程あがいても鳥にはなれない
辺り一面の雪である 私は顔どころか頭も出せない
ただ土はあたたかく 命の在処をおしえてくれる
やがて春の息吹を感じたら ひとつきりの芽になりたい
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