そして五月。日中は初夏のような陽気となる。
やはりツツジは枯れるのだ。それもまるで腐ったかのように
残った花弁にべっとりと泥のようにへばりついている。
目を反らしてはいけないと思うけれどとても凝視など出来ない。
なんと憐れなことだろうか。もう終らなければいけないのだ。
けれども花は死なない。その証拠にまた春が来れば咲き誇るだろう。
「再生」と云うべきか。生まれ変わるような意味があるらしい。
人間もそうであれば良いけれど命の再生があるのだろうか。
昨日のSNSの思わぬ反響のせいかこの日記にもその流れがあったようだ。
アクセス数が今までの倍以上になっていてとても驚く。
もちろんこの21年間で最も多い数であった。
おそらく興味本位の一度切りのことだとは思うが
沢山の方に読んでもらえて素直に喜ぶべきことだろう。
しかし理想としては長年の読者を尊重したいと思っている。
京都のお茶屋さんではないが「一見さんお断り」みたいなことである。
21年間ずっと読み続けてくれている方がいる限り
昨日今日でちょいと暖簾をくぐられてもいささか戸惑わずにはいられない。
縄張りがあるわけではないが云わば固定客で保たれているのである。
「ゆらゆら茶屋」はこじんまりとした小さな店なので
大広間などないし女将の私と差し向えるのも限られた方だけであった。
一刻も早く職場に着きたくて車を走らす子豚の朝である。
一昨日同僚が買い与えてくれた煙草が10本ほど残っていた。
昨日の禁断症状の反動は大きい。「餓え奴」になって吸いまくる。
ああなんてことだろうと嘆きつつ幸せを噛みしめているのであった。
見苦しさは覚悟している。形振り構わずとはこのことであろう。
同僚が「明日でお終いやね」とからかうように言っていた。
言われなくても分かっている。覚悟の上のことなのだから。
あがけばあがくほど苦しくなるがこれはもう宿命だと受け止めている。
初めて吸ったのは20歳の頃だったろうか。
「俺は煙草を吸う女は嫌いだ」と好きな男に言われた。
その一言できっぱりと煙草と縁が切れたのだ。
子豚にもそんな若い頃があった。とてもとても遠い日のことである。
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