| 2006年11月23日(木) |
さあさあ。無礼講だよ。 |
二十四節季の『小雪』を境に降り始めた雨は。さすがに冬らしく冷たく感じるものの。 恵みの雨だと思えば軒下の鉢植えなど。かき上げては庭先で雨に打たせたりしていた。
我が町では『一条さん』と呼ばれる大祭の日でもあり。昔から決まったようにその日は。 木枯らしが吹き荒れては。霙まじりの雨が降ったりでついに冬の気配が濃くなる日でもある。
子供達が幼い頃はせがまれて参拝にも出掛けたが。もはやそれも遠い日の思い出となった。 出店で綿菓子を買ったり。鯛焼きを買ったり。玩具のひとつは必ず買ったりしたものだった。
昔な話をするときの夫婦は。なんともいえない郷愁に似ていて。穏やかな笑顔など。 微笑ましく。時の流れなどを愛しくも思い。懐かしさで胸がいっぱいになったりもする。
そうしてそれぞれの休日をする。夫はもはや自室となった茶の間でTVやらプレステやら。 妻はこれも恵まれた自室に篭り。エアコンで惜しみなく暖めては読書にふけるのであった。
夕暮て。今日もまた『おでん』にした。というのも『一条さん』といえばおでんで。 若き日同じ職場だったふたりには格別それが尊い思い出であるらしく。会社では。 その日は無礼講で。お客さんには振舞い酒をし大鍋でおでんをことこと煮ていながら。 その具が足らなくなると女子社員は近くのスーパーへ買いに走らされたものだった。
ガゾリンスタンドであるから。当然お客さんは皆クルマに乗って来ているのだけれど。 ガソリンを入れたら最後。そのまま真っ直ぐ帰れないのが『一条さん』なのであった。 常連さんはもちろんのこと。たまたま通りすがりでも容赦なく。ここで引き止められるのは。
今思えば大いに不謹慎でもあるのだけれど。それが土佐中村の無礼講であるものと言える。
町をあげての『一条さん』は商家民家を問わず。通り掛かれば皆古き友にもなり得。 昨日までは見ず知らずの人でさえ互いに肩を並べて。とにかく酒を酌み交わすのであった。
懐かしさを語ればきりがなく。今はそんな風習も悉く影を薄めてしまったのは寂しく。 よき時代だったと語り合うひとが。そばにいてくれるだけで心が和むものでもあった。
さて。ひと煮したおでんを台所のストーブに設え。あたりがすっかりおでんな匂いに満ち。 妻としては。まだ午後四時にも関わらず、純米しぼりたてと銘打つものなど喉から手が出て。
されどこっそりとはさすがに気が咎めるものだから。一応はお伺いを立ててみるのが道理。
すると茶の間でふんぞり返っている彼の言うことに。「今日は無礼講だぞ!」と。 見るともうすでに缶ビールを飲んでいるのであった。おっし、おっしそれはいい。
純米しぼりたては。冷やでくいっといくのがなかなかによいものであった。
なんと幸せなことだろうと。窓の外冷たい雨にゼラニウムの紅色も鮮やかに見え。
気がつけばどれほどの時を過ごしてきたものか。
すべてが思い出とは。なんとありがたいことだろうと思うのだった。
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