無責任賛歌
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| 2002年07月18日(木) |
芸能界の宿便/『名探偵コナン』38巻(青山剛昌)ほか |
野村沙知代が浅香光代と渡部絵美を相手取って、名誉毀損の民事訴訟を起こしたとか。 ハズしてねえよなあ、と感心しながら笑っちゃったのだけれど、これは野村沙知代が自分のキャラをハズしてないということであって、世間的には今更またサッチーミッチーかと、どうにも困ってるんじゃないかと思う。 何しろ、これを報道しているスポニチの記事からして、サッチーの肩書きは「元タレント」である。アレがタレントだったかどうかも疑問だけど、「元」だぜオイ。そうまでして肩書きをつけなきゃならんのかと思うが、ニュースの送り手としても困ってるんだろうな。 はっきり言っちゃえば野村沙知代なんて、もう終わっちゃってるのだ。というか、終わらせたいのよね、世間はもう。なのにまた出てくる。しかも以前と全く変わらないキャラで。これはもう、「困ったねえ」としか言えないのではないか。さっきからほかの表現がないかと考えてるんだがあとは「参った」くらいしかない。いや、降参したわけじゃないからやっぱり「困った」だね。うーん、困った(~ー~;)。 昔はみんな、サッチーに対して本気で怒ってたんだろうと思うのだ。彼女が嫌われ始めた始まりが何だったかはもう忘れたが、経歴詐称疑惑だのなんだのあったよね。個人的には豊島園かどこかのCMで水着になったとき、あの人絶対誰かに刺されるぞと思ったが、意外に世間は寛容であった。もっとも、あんなのと刺し違えて人生棒に振るバカもそうそういまいが。 問題はそこなのである。 誰もがサッチーを悪役の象徴として見てはいたが、さて、ではアレが悪人として大物であったかというとそこまでは言えない。RPGでアレがラスボスだったら、倒す前にそのゲーム買わないと思う。倒してカタルシス覚えるかって言ったら、覚えないね。まず、ゲームに費やした数時間が人生の無駄であったと実感するだけだろう。 要するに、アレって「クソババア」の粋を一歩も踏み出ちゃいないのだ。あんなのの講演会になぜかオバサン連中が集まってたってのも、ババアんとこにババアが群れてたってことなんで、不思議でも何でもない。傍若無人で自分が正義、他人を蹴り倒してトンズラこくババアはそのへんにだってゴマンといるし、多分、今、コギャルとか呼ばれてるバカオンナどもも数年後にはそうなる。で、残念ながらこいつらは法律では取り締まれない(-_-;)。手を出せば傷つくのは自分のほうだということもよーく解ってる。 だから、サッチー、ミッチーの争いは、視聴者にとっては渡りに船だったわけだ。毒をもって毒を制す(^o^)。スポニチの記事、浅香光代の肩書きも「タレント」だったぞ。無知ではあるが、サッチーと同列にしか見られてないってのも事実だ。ネコの首に鈴をつけるのを別のネコにしてもらった感じか。 最終的に脱税というコツブな罪で起訴。っつーか、元々たいした悪人じゃないんだから、これが限度だろう。それでも世間はホッとした。溜飲が下がるというより、「やっと終われる」感が強かったのではないか。 マスコミもつい悪ノリしすぎていたのだ。 時代は常に悪役を必要とする。現実に巨悪というか、ほんまもんの悪役はホレ、おソトを見回せばいくらでもいるのだが、ホンモノに噛みつくのは怖いからできない。だからサッチーだのムネオだの、コツブで叩きやすいキャラを用意して妥協する。ビフテキが食えないから吉野家の牛丼でガマンするようなもんか。 でもそんなのって、言ってみればただの虫抑えだしね〜、長持ちゃしないしさせるわけにもいかないのよ。なのに腸のどこかに宿便みたいに残ってたものだから、早いとこ流したかったんだよねえ、マスコミは特に。 けど、流しきれなかった(^_^;)。おかげで屁が臭い臭い。祭り上げたマスコミもすっかり持て余して、その臭い屁にやられているのだ。で、私ゃそのマスコミの「困った」ぶりを見て「いい気味だ」と思ってるのである。どーでもいー悪人を仕立て上げて、もっと責めなきゃならない悪人を見逃してきたツケがちょっとだけ回ってきてるのだ。少しは困って屁を嗅いでろや。
昼、同僚たちと季節外れの慰労会。 近所の寿司屋から出前を頼むが、久しぶりに食う回転でない寿司はやっぱり美味い。 2500円のワリにネタが小さい気はしたが、まあ、それは言いっこなしか。
今日もしげ、ハラを壊して迎えに来ない。 どうしてこうもしげがハラを壊すかと言うと、太っているからである。 近年、しげの体型は著しく紡錘形をなしつつあり(ディバインですな)、当然のことながら、ハラの部分が最も外気の影響を受けやすくなっている。 シャツはハラとの摩擦によって徐々に薄くなり、そこへ風が当たるものだから、しげのカラダの中で最も体温が低くなるのがハラなのである。 寝ているときは更に顕著で、布団との摩擦でシャツは容易に捲れあがり、鏡モチ三段がさねのハラが毎晩お供えされることになる。 これでハラを壊さなかったらウソだ(^_^;)。ハラ巻き買えや。 そんなアホしげであるが、ほっとくわけにもいかないので、コンビニでファイブミニほかハラ薬を買って帰る。なんか親切しすぎって感じ?
なんだかもー、書きたくもないニュースがまた一つ。 女優の戸川京子さんが亡くなった。しかも自殺。 夕刊見たときにはお姉さんの戸川純の間違いじゃないかと思ったが、間違いなく妹さんの方だ。理由は分らないけれど、発作的なものじゃないのかなあ。あの姉さんをほっといて先に逝くってのがとても信じられない。 特別、ファンだったってわけでもない。何のドラマに出てたかと思い出そうとしても、こないだ見た『ケンちゃん』シリーズ再放送に子役で出てたなあ、ってくらいのもので。ああ、最近では『ガラスの仮面』の紫のバラの人の秘書さん。原作じゃ超美人なんだけど、戸川さんだと少しキャラが弱くなってないかとかシツレイなこと思ってたなあ。お姉さんと違って、個性的な役は似合わない人だったような印象なのである。 なのに、やっぱりショックを禁じえないのは、伊藤俊人さん、ナンシー関さんに次いで、戸川京子さんまでって印象があるからだろう。30代後半、40歳になったばかりでの死なのに、あまり夭折って感じがしない。みんな、どちらかというと、人生にくたびれて、何かふっと心に穴が空いた瞬間に死が襲って来たって感じなんだよ。 私も自殺を考えない日はない。これは本当で、子供のときからの習慣みたいなものである。いろいろカラダにケガだの病気だの持ってると、これは自然なことなんで、あまり深刻に取られても困るのだが、それでもこうして生きているのは、生きてる人との絆がどうかってことより、「生きてる理由もないけど死ぬ理由もないしなあ」といういささか消極的な理由だったりする。交差点なんかで、「ここで一歩踏み出したら車にはねられて死ぬなあ」とは思うけれど、それを思いとどまっているのは、死ぬのが怖いってことより、周囲やあとに残ったものたちに「事件」を提供してやるのがばかばかしかったりするからだ。私ゃ自分の人生の意味をいちいち他人に云々されたかないからね。私の人生のモットーは「できるだけ意味のない人生」だから、人知れず死んでくのがいいです。「あれ、あの人って生きてるっけ死んでるっけ」。そう思われるのが理想なんだよね。 こういういい加減な生き方してるほうがかえって死なないものなんであるよ(^_^;)。 戸川さん、もしかしたら一生懸命生きてきて、なんかふと「人生の意味」なんてこと考えちゃったのではないか。もしそう考えさせるきっかけが、お姉さんの存在だったりしたら悲しすぎるんだけれど。今は戸川純さんがあと追いなんかしないことを祈るばかりだ。
テレビで『サトラレ』を初めて見るが、展開はほとんどオリジナルみたいね。 設定さえあれば原作どんな風に改変してもいいっていう傲慢さが表れてるみたいで幻滅。神田うの、何の役なんだ。 これ見てるのって、本当に原作ファン? オダギリジョーファンは見てんだろうけど。
マンガ、青山剛昌『名探偵コナン』38巻(小学館/少年サンデーコミックス・410円)。 なぜか表紙のコナンのコスプレはスタン・ハンセン。本編でプロレスが題材になってるからだろうけど、ハンセン知らない人にはイカレたカウボーイにしか見えないんじゃないかね。 さて、もう毎回ツッコミしてくれと言わんばかりの『コナン』なんだけれど、今巻もどこから突っ込んだらいいものか(^^)。 でもねー、最近はもう、『コナン』に関しては読んでも感想書かないですましちゃおうか、という気もしてきているんである。いやね、この日記読んでる人で、本気で立腹してるコナンファンがいて、クレームが凄くって……というのはウソで、もう毎回書くことが同じになっちゃってるからなんだよね。一応、ミステリのマナーに則ってトリックを具体的に書かないようにして批評してるんだけど、それだとおおざっぱな感想しか書けないから、変化のつけようがないんだよ。 概ね「動機が弱い」とか「トリックがちゃっちい」とか「トリックが物理的に不可能」とかで、要するに「幼稚」ってこと。 そんなに貶すんなら、読まなきゃいいじゃないかと言われそうなんだけれども、「幼稚」ではあっても、「卑怯」じゃないから読むわけですよ。青山さんが新本格などに毒されていない、昔ながらのミステリファンだってのは、巻末の「名探偵図鑑」に取り上げられている探偵たちのほとんどが、1950年代までのミステリ黄金期に発表された作品に登場しているものからチョイスされていることからもわかる。「犯人はあの人だ!」でヒキを行うのも、エラリー・クイーンの「読者への挑戦状」の故智に倣ったものと受け取れる。青山さんのミステリ作家としての創作態度がフェアであることは間違いないのだ。
問題はねえ、挑戦状を送られたってさあ、「どうせ適当な動機で適当なトリックで適当な犯人なんだろ?」って結末が予測されちゃってマジメに受け取る気になれないってことなんだよねえ。 えーっと、まんしょんのいっしつから、だいじなだいじなかけじくがなくなりました。それまでそのへやのおばあさんが、おひなさまのひなだんにさわっていました。さて、かけじくはどこにかくされていたでしょう? ……このトリックを見抜けない読者がいると思いますか? 私ゃもう、見抜きたくもないです。青山さんが読者を小学生のみに限定しているのならともかく、いくら何でも幼稚過ぎる、という批判が出てもしかたがないよ、これじゃ。だいたい、こんなの、警察がすぐに見つけちゃうからコナンの出番なんてないって。 周囲の人間をみんなバカにして、一人だけ名探偵に仕立てるなんて、一番安易な方法だ。いっぺん純正なコナンファンに聞いてみたいんだけれども(私の周囲にいるコナンファンはたいていただのアホなんで参考にならん)、ミステリとしてあれを評価してるのかね? まあ『探偵学園Q』よりマシだってことは認めるけどね。
黒の組織とはまた接点が切れちゃいましたねー、これでもう50巻だって60巻だって行っちゃいそうな気配ですね〜。サンデーの連載の中では最長不等距離を達成しそうですかね。まだ『おそ松くん』は抜いてないと思うよね?(誰に聞いてるんだ) ちょっと笑ったのは、雛壇の事件のときに、少年探偵団の連中にコナンが、「どうして大人相手に喋るときだけ声のトーンや口調が幼くなっちゃうんですか?」「不気味だぞおまえ」と突っ込まれているところ。 作者が意識してるかどうかは知らないが、これ、アニメ版の高山みなみ批判になってるぞ(^_^;)。本人がこのエピソードのアニメ化のときにどう感じるか、聞いてみたいもんだ。
裏表紙折り返しの名探偵図鑑、もうネタが尽きてきたのか、「黒門町の伝七」。 いきなり「『よよよい、よよよい、よよよいよい、めでてえな!』と二本締めで事件解決を祝う」とか書いてるけど、それ、テレビだけの設定で原作にはないんだってば。イラストも中村梅之助の似顔絵だし。 こういういい加減なこと書かれると、青山さんのミステリファンぶりも底が浅いよなあって感じしちゃうよね。まあ、「原作は陣出達朗でなくて捕物作家クラブ」って書いてるところはよく知ってたなあって思ったけど。
マンガ、青山剛昌原案・平良隆久プロット・阿部ゆたか・丸伝次郎まんが『名探偵コナン特別編』15巻(小学館/てんとう虫コミックス・410円)。 一応こちらは完全に子供向けだろうから、トリックがチャチでも文句はつけないよ。モノによっては本編より出来いいのもあるし。 ただ、子供向けなら子供向けとして、殺人の表現と動機などの扱い方にはもちっと気をつけてほしいようにも思うけれど、あまりそのことを強調すると、モラルでがんじがらめにしちゃうことにもなりかねないから、あまり言わないでおこう。 あとは特別編らしく、もう少しゲストをうまく使ってほしいってとこかな。新一の父ちゃんや小五郎の奥さん、せっかく出したのにあまり目立ってなかったぞ。
2001年07月18日(水) 夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか
| 2002年07月17日(水) |
それさえも平穏な日々/『脱ゴーマニズム宣言』(上杉聰)/『潜水艦スーパー99』(松本零士)ほか |
朝、目覚めたときには、空はカラリと晴れていたのである。 いつものように、冷蔵庫を開けて牛乳を飲む。 いつものように、便所で血便を搾り出す。 いつものように、しげのロドリゲスに乗りこんで、職場まで運んでもらう。 ここまではなんの変哲もない一日の始まりであった。
車から降りて、職場の玄関の階段を上ろうとした途端、それは起こった。 そのとき、私は窓を背にしていたのだが、それでも一瞬、世界がまっ白になったのを感じた。 閃光。 間髪を置かず轟音が空気をつんざく。 まさに青天の霹靂だった。 思わず階段からコケ落ちそうになったが、なんとか踏み止まった。振り帰ると窓の外は突然の豪雨、それこそ「雨が降る」なんてレベルじゃない、水滴どころか濁流が天から降り注いでいる。 職場のあちこちから悲鳴が聞こえる。突然の雷鳴は、大地震に見舞われたかと錯覚するほどのショックを我々に与えた。 向後10分ほどは仕事にならなかったね。
とはいえ、これも典型的な夏の通り雨で、午後になるころにはウソのようにカラッと晴れあがっちゃったのだが、ふと気づいたのは、なぜこんな突然の気象の変化が起きるのか、その物理法則を全く知らないってことである。 いやね、雨が空気中の水蒸気が重くなって降ってくるって理屈はわかるよ、けど、なんでこう、いきなりドバッと降ってくるのか。まるでホントに空にカミナリ様がいてだよ、雲をギュウッと雑巾搾ったみたいなんだよね、これだけ一気に、しかも大量に落ちて来るんだから。正しいリクツよりなにより、そういう「手作業」が空で行われたと言われたほうが、感覚的には納得できてしまうのだ。
京極夏彦みたいなことを言ってしまいそうになるが、つまりは「妖怪」の類は文化的には「実在」しているのだ。科学的な知識がどんなに増え、それが常識になろうと、我々は目の前にあるもの、実際に耳にしたもの、触れたものを実態と感じるようにできている。そしてその感覚に従ったほうが、実は我々は幸せなのではないか、という気持ちにもなってくる。 地球が太陽の周りを回ってるんじゃないよ、太陽が地球を回ってるんだよ。 人間は神様が作ったんだよ、類人猿から進化したんじゃないんだよ。 生半可に科学の知識があると、かえって、西原理恵子が電車やバスの中で飛び上がっても置いてかれないのはなぜ? なんてことで一生悩むハメになるのである。 「愚か」であることが「徳」であるとは、そういうことなのだろう。 それにしても、この豪雨の中、ロドリゲスで帰るしげは大変だろうな、と思っていたのだが、実際、前もほとんど見えない状態だったらしい。それでもなんとかウチに帰りつきはしたものの、途中、山と山の谷間の坂道が水没して、車が動けずに困ってたそうな。 ……って、職場からその坂道に差し掛かるまで、掛かっても7、8分のはずだ。そんな短時間で水没。どれほどの豪雨だったか、分ろうというものだ。 しげ、迎えに来た車の中で、「あんたのせいでひどい目にあった」と悪態をつく。 「なんでオレのせいになるんだよ、天災だろ? 当たるなよ」 「アンタに当たらんで誰に当たるん」 「誰にも当たらなきゃいいだろ!」 ……やっぱりいつもの会話である。
晩飯はどうしようか、の問いに、しげ、またしても「王将かめしや丼」と答える。私はもうナゲヤリである。 「いいよ、もう、めしや丼で」 「なん、好かんとやなかったと?」 「好かんでも行くとやろ? だったらもうオレ、メニューの右端から順番に食ってくからいいよ、それで」 「なん、それ」 しげ、声を出さずにぐふふと笑っているが、バリエーションのない外食ほどつまらないものはない。せめてしげが買い物や後片付けしてくれる程度の手伝いをしてくれるんなら、毎日違ったメニューの食事を作ってやるくらいのことはするんだが。……って、既にしげに料理を作らせようという発想がなくなってるなあ(-_-;)。 で、めしや丼でこないだ食ったメシの隣にあったのは「ウナギ定食」なのであった。しげはチキン南蛮定食。しょっちゅうこればっかり食ってるが、よく飽きねえよなあ。美味しいと感じる味覚が多分、通常の人間の十分の一程度しかないのだろう。
しげ、またもや私が作ったブレンド茶に文句をつけ始める。 苦くて飲めないというのだが、苦いのがお茶だ。こいつはカレーライスの甘口ですら「辛い」と文句つけるやつだから、お茶の微妙な味わいなど分るはずもない。 「美味いじゃん、グァバ茶」 と言っても、いっかな受け付けようとしない。 「グァバ茶以外のお茶を作ったら教えて」と言う。 「ワガママだよ、オマエの」と言い返すと、 「オレだってアンタに煮え湯を飲まされてるんだからね」と反駁。 「……ちょっと待て、なんだよその『煮え湯を飲まされる』っての。言葉の使い方が変だろ?」 「違ってないよ、ホントに『煮え湯』飲まされとうっちゃけんね」 「いつだよ、言ってみろよ!」 子供の喧嘩である。
しげから今朝見た夢の話を聞く。 私も最近よく変な夢を見てはいるのだが、起きるとたいてい忘れている。私以上に記憶力のないしげはそれこそすぐに忘れてしまうのだが、今日はたまたま覚えていたそうな。 「あのね、ビールを注いでいたら、足りなくなって、樽買いすることにしたと」 それだけ言って、しげ、にこにこ笑っている。いつまで経っても続きがしげの口から出て来ないので、シビレを切らして問い返す。 「……で?」 「それだけ」 「……そんなん聞いてどうしろってんだよ!」 誰か、しげとどうやったら会話できるか、教えてください(T∇T)。
今年の新作ゴジラが『ゴジラ×メカゴジラ』になることは聞いていたが、その正式な製作発表が16日に行われた。 ヒロインはなんと釈由美子である。こりゃ、『修羅雪姫』の熱演が買われたのかもな。驚いたのは、そのコメント。 「この役が来るまでゴジラを見たことがなくて最初は実感がわきませんでしたが、過去の25作全部を見て、なんてすごい大作なんだろうと思いました」 いや、驚いたのはゴジラ映画を今まで一本も見たことがない、ということではない。若い世代の女の子ならそれも仕方がないことだ。それより役作りのためかもしれないが、過去の全作を見たってことだ。当たり前と言えば当たり前なんだけれど、実際にはそこまでするアイドルはあまりいないぞ。しょっちゅう天然みたいに言われてる釈由美子だけれど、意外に根性あるんじゃないか。 ゴジラシリーズのヒロインって、昔の「右往左往タイプ」からだんだん「戦うヒロイン」に移行してきているけど、前作がイマイチだっただけに、もしかしたら今回゛一つの頂点を極めることになるかもしれない。 いや、ヒロインだけ期待しても仕方ないって文句ある人も多いと思うけどね、じゃあ、他にナニに期待して見に行くっていうのよ(^_^;)。
アニメ『ヒカルの碁』第四十局『白星の行方』。 ヒカル対伊角の対局、決着編だけれど、どうも伊角の作画が冴えない。 今回も主要スタッフは外注っぽいな。原作の人気を越える作画や演出をしていくのが大変なのは分るけれど、プロ試験中の作画なんだから、もう少し気を入れてほしいものである。
CSチャンネルNECOで映画『どら平太』を再見。 全く、何度見てもイマイチだなあ。いい役者といい演出だったら、ずっと面白くなるのに、この脚本。市川崑監督、撮り方がとことん暗いよ。これはもっと明るくさっぱり撮らないと。
上杉聰『脱ゴーマニズム宣言 新装改訂版 小林よしのりの「慰安婦」問題』(東方出版・1260円)。 「出版差し止めにはなったんだから勝訴だ」と小林さんが言いはっていた例の批判本だけれど、改変していた部分をもとに戻して再出版したのだから、もう小林さんのほうはもう一度この本を訴えても勝ち目はない。さて、今度は小林さんはどう言い訳をするつもりだろうか(多分しないだろうけれど)。 著作権法におけるマンガの引用権が明確に認められた点については、この判決はもう諸手をあげて賛同を示したいことだ。小林さんの『新ゴーマニズム宣言』での反論はもう支離滅裂、常軌を逸していると言われてもしかたがない慌てぶりだったものね。それもしかたがないところで、この本、小林さんの慰安婦についての論がことごとくいい加減で、資料の誤読、牽強付会ぶりをいちいち指摘していてそれが実に的を射ているからだ。これに再反論するのはなかなか難しいわなあ。
では、本論である「慰安婦」問題についてはどうか。 小林さんの(他にも同じこと言ってる人いるけど)「慰安婦は商行為」という論理は、たとえそれを認めたとしても補償の対象にならないとは言えないだろう。商売してても、使用人がヒドイ待遇受けてたら補償せにゃならんでしょうに(^_^;)。 それに「軍の関与はなかった」というのは当時を知ってる人が聞けば一笑に伏すしかない暴論。もとからそこに娼館があったのならともかく、軍部が来ることになって建設し、軍人しかそこを利用してなくて、行軍にも付いて行かせたんだから、軍の関与がないわけないじゃんか。まだ生きてる人がいるんだから、こういうすぐバレるウソをついちゃいかんよねえ。 と言うことで、同じ博多出身で身贔屓したい小林さんではあるけれど、慰安婦問題に関しては小林さんの意見に賛同はしがたいのである。
けれどじゃあ、上野さんの意見に全面賛成、というかというと、そうでもないのだ。論理が破綻している点では、実は上野さんの文章も相当ヒドイ。 例えば、肖像権の問題について、「公的場にいる安倍(英)氏のような者が表現の対象となることは許されるべきだ。しかし、私的な一個人を描く場合には、おのずと限度というものがある」と主張するのはそりゃそうだと思う。けれど、その「私的な一個人」の例として、川田龍平、佐川一政、麻原彰晃、梶村太一郎、佐高信、糸圭(すが)秀実、西部邁、鳩山由紀夫を挙げてるのはどういうわけなのか? この中に一人でも「私的な一個人」がいるのか? もともと、この上野さんは小林さんを自分たちの陣営に取り込もうとして失敗した左翼の人だから、イデオロギー先行の思考をするところが多々あって、このあたりの論理の破綻も、まずは「小林批判」をしなければならないってアタマがあって、よく言葉を吟味しないで論を組みたてたための齟齬だろうと思われる。私ゃ左翼の人達が本気で慰安婦問題を考えてるとは到底思えない状況を知ってるので、こういう我田引水な文章にぶち当たると、またかい、と思っちゃうのだな。
細かい批判をしていったらこれもキリがないから、総論的に言っちゃうけど、「従軍慰安婦」と言うのは当然いたのである。否定のしようもない事実であり、日本の罪だ。それは間違いない。 では、カミングアウトした朝鮮人慰安婦への国家補償がなぜできないかと言うと、これもちゃんと歴史を知っている人間なら自明のことなのだ。それは別に「補償はもう終わった」ってことじゃなくて、それをやりだすと「日本人慰安婦の補償はどうなるか」って問題が浮上しちゃうからなんだよねえ。 日本のおばあちゃんたちの中には、今もなお、あのころの慰安婦たちが生きていて、それをカミングアウトしないまま暮らしているのである。もう過去の傷に触れてほしくないと思っている彼女たちに、周囲に悟られないように補償だけをするというのは不可能なことだ。日本人慰安婦への補償が始まれば、当然、好奇と偏見の目に晒されることになる。そんな目に会うくらいなら、黙って死んでいったほうがいい、そう考えるのが日本人の精神性なのである。白黒ハッキリさせないと気がすまない朝鮮人の精神性とは天と地ほども違う。 日本、朝鮮双方の意志を満足させられる方法は存在しない。だから、よくないことは分っていても、日本人への補償ができないように、朝鮮人への補償もできないのだ。どんなに非道であっても、国としての立場はそんなものだ。 朝鮮人に憎まれることを覚悟の上で補償を拒絶せざるをえないのは、日本という国が未来永劫贖罪できないまま背負って行くしかない業なのである。 「なら、朝鮮人にだけ補償して、日本人はほっとけ」と言いだすヤツもたまにいるけど、そうなるとこれがもう戦後補償や差別や迫害云々の問題ではなくて、単に日本に「復讐」したいって低劣なレベルの主張でしかないことが顕在化しちゃうよね。それはやっぱりしちゃいけないことなんだよ。 誤解を招きそうだから、これもハッキリ書いておくけど、私は「朝鮮人慰安婦に補償をするな」と言いたいのではないのだ。補償はしようよ、やったことはやったことなんだから。国にできないことなら、「民間補償」しか手はない、そう考えてるんである。日本人なら、そのことはすぐに見当がつきそうなものなのだが、それでもあくまで「国家補償でなきゃダメ」って主張する人たちがいるんだよねえ。それは、やっぱり「左」の方々なんであって、イデオロギーや政治的な立場で発言してるだけなのである。そのことを隠して、「善意」を振りかざしている上野さんの偽善性が、私はどうにも好きになれない。 やっぱり「小林よしのりに賛成する人間も反対する人間もトンデモ」って法則は成り立っちゃうんだねえ。
マンガ、松本零士『潜水艦スーパー99』(秋田文庫・760円)。 どっひゃあああ! まさかこんな「古典」まで文庫で復活とは、長生きはするもんである。なんたって初出が1964年の『冒険王』だよ。この日記読んでる人で、連載読んでた人間、どれだけいるって言うんだ。私だって連載時には読んでない。子供のころ“貸本屋”で当時の単行本、サンデーコミックス全二冊を10円で借りて読んだ。ははは、ざっと30年前ですな。 松本零士と言えば『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』と思いこんでる若いファン(と言ってもそれすらオタクん中じゃ旧世代になっちゃってるけどよ)には「松本零士って海洋モノも描いてたの?」とびっくりした方もおられるでしょうが、私たちの世代には、『ヤマト』以前にはこっちのほうが松本さんの代表作だったんですよ。しかも当時、海洋モノでは小沢さとるという大御所がいらっしゃって、『青の6号』『サブマリン707』と傑作を連発してたんで、松本さんの『スーパー99』はどうしても二番煎じの印象が強かった。 松本さんがブレイクしたのはむしろ『男おいどん』のような四畳半モノで、初期のSFものはことごとくコケてたんですよ。そのころの印象が強いもので、私などはどうしても松本さんはSF作家としては二線級、と思いこんじゃってたんですね(ホントは『ヤマビコ13号』のような傑作を描いてたんですけれど子供のころは知らなかった)。 『ヤマト』の本放送だって、第1話見て、「なんだ、『スーパー99』のリメイクじゃん」と思って、最終回まで見なかった(今でも『ヤマト』はたいした作品とは思っていない)。松本さんって凄いなあ、と考えを改めるようになったのは、その代表作たる『男おいどん』をSF化した『銀河鉄道999』を読んでからなのだね。イヤハヤ、松本さん以外の誰に、「大宇宙の大四畳半」なんて呆れたイメージを思い付けるものか。
『スーパー99』に話を戻せば、実際、ストーリー展開や細かい設定、ネーミングなどに、後の『ヤマト』のモチーフとなったものが随所に見られる。西崎義展との原作者争いで負けちゃったのが不思議なくらいである(まあ、『ヤマト』を宇宙に飛ばすってアイデアは西崎さんのだから、しかたないけどね)。 ナチス・ドイツの流れを汲み世界征服を企む秘密組織・ヘルメット党の侵略から地上を守るために、科学者である父の開発した新造潜水艦スーパー99に乗り込む少年、沖ススム。誰かと誰かを合体させたような名前だけど、こっちのほうが当然元祖(^o^)。「侵略者を撃て」ってのは定番だとしても、敵はやっぱりドイツ系になるんですねえ。昔から思ってたことだけど、ドイツ人が『ヤマト』や『銀英伝』見たら本気で怒りゃしないか(『銀河英雄伝説』のドイツ語タイトルのスペルが間違ってて、ドイツ人から『銀河狼伝説』になってたという指摘があったことはなにかで読んだことがあったが)。 総統の名前がルドルフ・ヘチだなんてのも、もう少し工夫のしようはなかったのかって文句つけられそうだけれど、60年代のマンガ家のネーミングセンスは概してこんなもんなんだよね。 けれど冒険モノとしては定番なだけに、古い作品であるにもかかわらず前半は読んでて実に面白い。分割潜水艦なんてアイデア、今でも使えるよ。けれど、後半ラスト近く、「真の敵は海底人ゼスだった」なんてムリヤリな展開にしたのはいただけない。必然性もないし、しかももともと地上侵略の意志はなく、人類とは共存したかったというのだから、敵に設定する意味もない。物語を完結させようとするとボロが出る松本さんの悪いクセもこのころから現れていたのである(^o^)。
2001年07月17日(火) 何年ぶりかの酒の味/『水木しげる貸本漫画傑作選 悪魔くん』上下巻
| 2002年07月16日(火) |
乱れる話いろいろ/『ぴたテン』1・2巻(コゲどんぼ)/『桃色サバス』1巻(中津賢也) |
島根でのSF大会、どうやら無事に終わったようである。 DAICONFILMが話題になっていたころからSF大会には興味があったし、これまでにも何度となく参加する機会はなくもなかったのだが、学生時代はともかくカネがなくて、参加は夢のまた夢であった。 当時、学生で参加してた人も多かったようだが、みんなそんなに金持ちなのか? と不可解に感じていたものだったが、あとになって判明したところによると、ホントにみんな金持ちなのであった。いいなあ、いいとこのボンボンは。 じゃあ、オトナになって就職して、いよいよ行けるようになったかと言うと、今度はヒマがない。病気でしょっちゅう仕事を休んでるくせに、と言われそうだが、趣味を優先させてまで仕事を休むってのはそんなに簡単にできることではないのよ。あ、意外と私も常識人か?(^.^) しげも行きたがってはいたのだが、ともかく完全宿泊というのがイタイ。 ともかく回りは見知らぬ人ばかりである。人見知りの激しいしげにとってみれば牢獄にぶち込まれるようなものであろう。私やAIQのみなさんが一緒にいられるのは昼間だけで、夜は別々である。どんなに外見上女っぽく見えなくても(こう書くとしげが男のように見えるのかと誤解されそうだが、しげの名誉のために補足しておくと、しげはオトナには見えないのである。……誉めてないか)、生物学的に女である以上、しげはたった一人、女部屋に宿泊せざるを得ないのだ。いっそのこと、こっそりしげを男ということにして、一緒に泊まろうかとも画策したのだが、私やしげは平気でも、さすがに周りのみなさまがどうにも困ってしまうであろう。 それやこれやで、結局毎年、参加を断念している。 「SF大会、経営ジリ貧!」なんてウワサを聞くに連れ、まがりなりにもSFファンの端っこにはいるんじゃないかと思ってる身にしてみれば、多少ボラれてもいいから協力してさしあげたいなあ、と思っていたのだが、結局未だに参加を果たしていない。 こうなるとなんかもー、一生参加できないかもなあ。 唐沢俊一さんご夫妻やエロの冒険者さんの日記等を拝見すると、今回の大会、旅館の待遇にいろいろと問題があったらしい。田舎の旅館なんてのは、ご当地が一番と思いこんでるから、料理も接待も実はいい加減というところが多い。そういうのにはしげは敏感に反応してしまうから、参加しなくて正解だったのかもしれない。
今日もしげは迎えに来ない。 電話を入れても全く応答がないからやっぱり爆睡しているのであろう。 仕方なくタクシーを拾って帰る。 コンビニに寄って、少年ジャンプを立ち読み。と言っても『ヒカルの碁』しか読んでない。 何と巻頭カラー、ということは佐為がいなくなってもまだ人気は落ちてないってことなのかな。伊角さんが桑原本因坊とタメ張れるところまで来ているけれども、これも人気故の措置か。初登場の目立たなさを思うと、これも意外な展開だ。 再連載が始まって、そろそろ山になるような出来事を起こさないといけないんじゃないかと思う反面、あまりムリヤリな展開にはしてほしくないとの思いもある。あと10巻くらいは続けてほしいと思ってるんだが、ヒカルたちがちゃんと一年一年トシを取ってることを考えると、少年マンガとしてはそのあたりが限界だろう。あるいは、その後はヤングジャンプに移籍して『ヒカルの碁 青春編』みたいにしちゃうというアクロバットな手もありはするが。 でも、そこまでしちゃうと、さすがについてくるファンも激減すると思うが、どうか。
しげに突然、 「アンタ、今朝、腕が痛くなかった?」 と聞かれる。 「別に? なんで?」 と答えると、 「なら、いい」 といかにも隠しごとをしているような返事。 「なんか隠してるな、言えよ、なにしたんだよ」 と問い詰めると、困ったような顔をして、白状する。 「昨日、仕事から帰ってきたとき、寝てるアンタの腕踏んだんだよ」 「あ、ひでえ」 「覚えとらんと? 返事したよ、アンタ」 「……覚えてないなあ、なんて言った?」 「覚えてないけど、なんか返事した『痛い』とかなんとか」 どうやらマトモな受け答えではあったようだ。 しげは寝言ではたいてい意味不明な「しげ語」を喋る。多分どこかから電波が飛んで来てるのではないかと思うが、その悪影響を受けていないかと、心配していたのだ。 まあねー、いくら意識がなくてもね〜、私って理性的だから、間違っててててても、常軌を逸したようなイカレたような気が触れたような脳が腐れたようなことは言ったり言ったりイッたりしないと思ってた信じてたんだけどもちょっとだけ心配してたって言うか大丈夫だったんで安心したって言うかキモイって感じーなわんだほー。b;f−ysiet;qtqx^@zr.eskmkw@f3ljpy<tZwi6mebyw@g(4q@ydue94i,>
『言語』8月号の特集、「日本語は乱れているか!?」。 一応この雑誌、マジメな言語学の雑誌なんだけれど、エクスクラメーションマークにクエスチョンマークを重ねるあたり、なかなかサバケているのである。 けれど「乱れているか?」って疑問形で問題提起されたら、これは「乱れてる」と答えるしかないよなあ(^_^;)。で、そりゃ今に始まった話じゃないし、もともと言葉は時代の変化に従って乱れ、変化していくものである。「乱れ」と「変化」の厳密な区別は言語学者にだって簡単にできるこっちゃない(だから専門誌でこんな疑問形の特集が組まれるわけである)。 問題にすべきなのは、世代間のコミュニケーションが取れなくなっているという事実だ。若い世代の使っている言葉がオトナ世代には分らない、いや、意味は通じるのだけれど、ニュアンスにどうにも違和感を感じてしまう。大人は若者の言葉を「乱れ」と糾弾するが、若者はそれが自分たちの自然な喋りかたなのだから、と反発する。これでは会話が成り立たないのも無理はない。 そしてこの勝負、常に敗れるのはオトナ世代なのである。だって先に死ぬのはオトナの方だからそりゃ負けるってば(-_-;)。若者言葉が敗れるときは、更に若い世代が新たなる言葉を台頭させてきたときである。要するにトコロテンだわな。 しかし、負けが分っているからと言って、敗北宣言したまま諦めるのは、それこそオトナが若者とのコミュニケーションを放棄することになる。若者に反発されようと嫌がられようと、「日本語使え、バカヤロー」と怒鳴りつけてやるくらいのことをしないと、貧弱な言語で満足している若者のメンタリティーは、どんどん鈍化していく。だってよう、いい40代のオトナの男が「〜だしィ、〜だしィ」なんて接続詞使えない状況(会議の席での発言だぜ)が生まれてるんだぞ。こりゃなんとかせねば、と思うのも私一人の独善ではなかろうと思うがいかがか。
もちろん、私とて、決して「正しい日本語」などは話せていない。 この日記においても、堅苦しい言いまわしを避けて、若者言葉に迎合している面もある。「〜とか」「〜ヤツ」「〜のほう」など、ある一定の世代以上のオトナには耳障りな言葉遣いも、あえて使っているところがある。これらはギリギリ昔からある言葉の応用だと自分で納得できるからだ。 けれど、「オレ的には」「ワタシ的には」みたいな「的」の使い方は、私にはできない。 「個人的には」という言葉があるのに、なぜわざわざ「自分」を前面に出して主張するのか、これってただの独善ではないか(「個人的には」という言い方自体、あまり使いたくはない)。 同様に、「オレって○○な人だから」という言いまわしもしない。……これ、我々の世代の、しかもオタクがやたら流行らせたんだよね〜、本人は自己アピールのつもりで使ってるんだろうけれど、実際には相手との間に「オレとキミとは違う」って壁を作ってるだけなんだよなあ。そのことに気づいてなかったバカな男って多かったよなあ。昔、この言葉遣いのせいでフラレた男、何人も知ってるぞ。 80年代、オタクな男がもてなくてもてなくて苦しんだ背景には、こういう言葉遣いのヘタさにも原因があったと思う(女性でこの「〜な人」を使うのは、初めから相手の男を拒絶してる場合が圧倒的に多いのがまた悲しい)。
今号の寄稿には、もう今更それを言ってもなあ、と感じる「乱れ」の例も少なくない。「生きざま」「温度差」「視野に入れる」などの誤用は、もう止められないのではないか。なぜなら、これらは「若者言葉の乱れ」ではなく、「オトナ」が政治的な都合で自ら作り出した「乱れ」であるからだ(40代以上でも、これらの言葉のどこがどうおかしいのか、説明できない人、多いのではないかな)。 ファミレスのウェイトレスさんの「よろしかったですか?」も、北海道、東北、九州を支配し、今や東京を席捲しつつあるようだ(ネットで検索したら千件以上ヒットしたぞ。やっぱり不快に感じてるオトナは多いのだ)。全く、使い始めたのはどこのどいつだ。 この根の深い「乱れ」に対して異議を唱えるのはまさしく蟷螂の斧だなあ、とは思う。けれど私ももう老い先短いカラダだし、「小言幸兵衛」になろうと決心したので(^o^)、イタチの最後っ屁よろしく、無責任に妄言を吐いて行こうと思う。 ここで再確認しておくが、私は言葉に「正しさ」を求めているのではない。 工夫のない、心を感じられない言葉に満足している連中を、大人であろうと若者であろうと「タコ」呼ばわりしたいのである。 最もタコなのは自分の使う言葉が絶対だと思いこんでいる連中だ。意志の疎通に支障を来たした場合、その原因はどちらか一方にあるのではなく、常に双方にある。それくらい常識として知っておけよなあ。
マンガ、コゲどんぼ『ぴたテン』1・2巻(メディアワークス/DENGEKI COMICS・各578円)。 アニメは未だにオープニング以外全然面白くないんで、さて、原作マンガは読んでみようかどうしようかずっと悩んでた。……悩むほどのことかとは言われそうだけれど、ともかくちょっとでも興味を引いたものには手を伸ばしてみようと思ってるのだよ。 ああ、でも原作はアニメほどひどくないね。 いかにも同人誌上がりの絵柄を嫌う人はいるだろうが、表情のバリエーションが意外にも豊富でいい。湖太郎の困ったり苦しんだり照れたりホッとしたりを微妙な線で描き分けてるよ。作者、きっと女の人だろうと思ってネットで調べてみたらやっぱりそうだった。一般的にキャッチーなのは美紗や紫亜なんだろうけれど、やはり湖太郎や御手洗大のほうがキャラとしては立っている。 『デ・ジ・キャラット』のキャラデザインもこの人だそうだけれど、概してアニメは原作の描線を生かしきれてないねえ。原作の線は、一見、均質に見えるけれど微妙な強弱があるし、コマ割りやレイアウトもアニメみたいに単調じゃない。……アニメのスタッフ、アニメ化に際して露骨に手を抜いてないか? もしかしたらこの原作を、あまり好きじゃないんじゃないのかも。 確かに、ドラマとして考えると設定も人物配置もありきたり過ぎる。今どき『二級天使』をやるかってのはアニメを最初に見たときにも思いはした。けれどこの人がマンガ家としてバケるのはもうちょっと後ではなかろうか。なんか「習作」ってイメージがすごくするのよ、これ。とりあえずは「先物買い」ってことで。 それはそれとして、この人の「コゲどんぼ」ってペンネームの由来ってなに?(@_@)
マンガ、中津賢也『桃色サバス』1巻(少年画報社文庫・620円)。 80年代の『少年サンデー』はともかく面白かった。 高橋留美子の『うる星やつら』とあだち充の『タッチ』を2枚看板に、島本和彦の『炎の転校生』、細野不二彦の『どっきりドクター』『GU−GUガンモ』、六田登の『ダッシュ勝平』、上條淳士の『ZINGY』ほか、よくもまあ、これだけオタク好みの濃いマンガを載せてて、しかも部数を伸ばしてられた(一時期『ジャンプ』を抜いていた)ものだ、と感心するラインナップが揃っていたのだ。 中津賢也(「なかつ・けんじ」と読む)さんも、その一角を担ってたのは間違いないのだが、私は面白いと思っていた『ふぁいてぃんぐスイーパー』、これだけ濃い作家に囲まれてると不利だったのか、2巻で打ちきり(後、未収録の短編を寄せ集めて3巻を出す)、『増刊サンデー』に連載した『黄門じごく変』『徳川生徒会』(結婚した後で知ったが、しげもファンだったそうだ)も2巻で打ちきり、作者本人が自嘲気味に「2巻作家」などと自称していたくらいだった。 確かに中津さんのマンガは、ページ数の関係もあるのか、面白くなる寸前で尻切れトンボで終わるものが多かったんで、作り手も読み手もドラマ嗜好の強い『サンデー』ではイマイチ人気が取れなかったのも分るのである。残念なことだが、『サンデー』ではシチュエーションコメディは受けても、スラップスティックは受けない。 実のところ、中津さんのギャグの本質はスラップスティックであって、シチュエーションコメディにはない。高橋留美子とは違うのだ(『うる星』ではスラップスティック的要素が強かったのが、『めぞん一刻』以降、どんどんシチュエーションコメディに偏っていった)。サンデーの編集者、中津さんを無理やりシチュエーションコメディの枠に嵌めこんだせいで違和感が生じちゃってたのではないか。
角川での今はなき『コミックコンプティーク』での数本の連載を経て、『YANG KING』に移って、ようやく中津さんは本領を発揮したように思う。 『虹色サバス』では、魔神ベルゼビュート(「蝿の王」ですな)の魂を宿した高校生、魔道玉吉を守るために魔女カゴメがやってくるって基本設定はあるものの、エピソードを重ねるにつれ、ほとんどそんなのはどーでもよくなっている。 要するに「追っかけ」と「エッチ」が描けりゃいい、というように開き直っているのだ。だから、出てくるキャラが「カゴメのヌードが撮りたくて追っかける」玉吉のオヤジとか、「玉吉の精液がほしくて追っかける」魔女マユとか、そんなんばっか(^o^)。しまいにゃ「発情期になったカゴメを玉吉が追っかける」なんてパターンまで出て来たぞ。ホントにナニしかないのな、このマンガ(^_^;)。 でも、その開き直りが、この作品でついに2巻作家(ほんとはもうちょっと描いてるけど)を脱出できた一番の理由。角川まではずっと中津さん追いかけて買ってたんだけど、まさか『サバス』でバケるとは思ってなかったから、単行本買ってなかったんだよね。 いやはや、不明の至りであります。
2001年07月16日(月) 私のマスコミ嫌いも根が深い/『雪が降る』(藤原伊織)/『新ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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