無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年07月16日(月) 私のマスコミ嫌いも根が深い/『雪が降る』(藤原伊織)/『新ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)ほか

 またもや今日も雨。
 なんかこの1ヶ月、完全に一日晴れてた日なんか、二日くらいしかなかったけど、どうやらようやく今日で梅雨も開けるらしい。
 タクシー代を散財するのも今日あたりが最後か。
 仕事帰りに乗ったタクシーの運ちゃんに、「雨の日のほうがお客さん、多いですか?」と聞いたら、「学校の送り迎えのお子さん連れからの呼び出しが多くなりますねえ」とのことだった。
 贅沢しているなあ。って私もだけど。


 マンガ家の秋本治氏が第30回日本漫画家協会賞大賞受賞。
 受賞作は『こち亀』。……それ以外にないよな。
 受賞にケチをつける気は毛頭ない。でも、なんだか首を傾げたくなるんだよなあ。
 ……「協会賞」っての、つまりは「永年勤続賞」ってことなのかい?
 『こち亀』をマンガとして評価しようと思うと、それは実際、無茶苦茶難しいことなのだ。
 岡田斗司夫さんが『ドラえもん=こち亀』説を唱えたのは記憶に新しいが、ある状況に両さんが介入して暴走を始め、カタストロフィに至るという展開、別に『ドラえもん』にルーツを求めなくても、コントというかコメディスケッチの基本パターンなのだよな。
 『8時だヨ!全員集合』のコントのラストの「屋台崩し」なんて、両さんの「派出所破壊」とそっくりじゃないか。
 いや、マンネリがいけないってことじゃなくて、そのマンネリにこそ偉大なる価値があるって、審査員が考えた上での受賞なのかってことなんだよね。
 更に評価が難しくなっちゃうのは、マンネリでありながらも時々とんでもない実験作を秋本さんが試みてるってことだ。
 俯瞰のアングルのみでマンガを描く、上下段で違うマンガを描く、少女マンガ、児童マンガ風に描く、真っ白な画面を続ける、これだけ聞くとまるで赤塚不二夫か唐沢なをきのギャグマンガだ。内容的にも「神様」出した時点で「なんでもアリ」になっちゃってるし。
 で、それを面白いと判断しての受賞なのかどうか。
 秋本さんがそういう実験作を描き始めたのは別に最近のことじゃない、だとしたら、10年、20年前に受賞してたっておかしくないはずなんだが。
 やっぱり「21世紀まで続いた」ってことで受賞させたんじゃないのかなあ。そのせいで、本来、今年受賞すべきはずの作品が何かオミットされてたとしたら、ちょっと問題なんじゃないかとも思うのだけれど。
 

 夕べは余り充分な睡眠時間が取れなかったが、今日はそれほど仕事がキツクなかったので助かった。実はもうちょっとで仕事がひと区切りつくのだが(だから入院することもできるのだけれど)、それまではもうひと山くらいありそうなのである。一つ山越しゃホンダラッダホイホイってか。
 帰宅して、日記を書きながら漫然とテレビを見る。
 『そんなに私が悪いのか』という古館伊知郎が司会するトーク番組で、「ミスコンは女性差別だ廃止せよ」「いや、ミスコンは女性の自立を促すものだ、続けろ」みたいなバトルをやっていた。
 ミスコンなんてあろうがなかろうが私にはどっちでもいいことなんだが、こういう「今あるナニナニは差別的だからなくそう」と言われてるモノについては、実はそう言ってるヤツらのほうが差別的ってことが往々にしてある。
 「女を容姿だけで判断するな」という意見に対して、ミスコンの女王と言われた女性が、「容姿だけで判断するミスコンなんてない」と反論したのは面白かった。今時のミスコン、筆記試験まであるのだねえ。考えて見れば、ミスコンって、たいてい「キャンペーンガール」として使われてるわけだから、ただ立ってニッコリしてりゃいいってもんじゃない。受け答えがきちんとできなきゃダメなんだよな。例えば「ミス福岡」が福岡のことをなーんも知らんじゃ話になるまい。
 言ってみりゃ、ミスコンってのは期間限定の契約社員みたいなものなのだから、それを阻害するってのは職業選択の自由を犯してるってことにもなるわな。
 ミスコン反対派の女性から発せられたこのセリフがまた笑える。
 「でも、ブ○って言われた時、女性がどんなに傷つくかわかりますか?」
 ……それはなにかな、ミスコンに出場するヒト、ミスを選ぶヒト、ミスコンを楽しんで見るヒトがみんな、「○スを蔑むためにそういう催しをしている」とでも言いたいのかな?
 遠慮なしに言わせてもらうが、それこそ被害妄想であり、「ブ○の僻み」である。テレビじゃそこまでは言い切れなかったようだが、視聴者はほぼみんなその言葉を心の中で反芻していたことだろう。この場合の「ブ○」はもちろん、外面のことを言ってるわけじゃない。
 「あなたは心のブ○よ!」(某アニメのセリフをアレンジ(^▽^笑))
 美しいものを見たい、美しいものに憧れる、その気持ちがあるから、芸術だって生まれてくるのだ。そしてその「美しさ」ってのは「外見」だけに拘ってるものじゃない。ソトヅラだけよくて腐った心根が表情に現われてるようなヤツと、まあ、そう顔が整ってなくても、愛嬌や優しさが表情に表れてる子がいたら、どちらが受賞するかは解りきってるじゃないか。
 ミスコンを支持してるのはスケベな男ばかりじゃないってこと、フェミニズムを標榜してるヒトたちは、ちと考えてもらったほうがいいと思うがな。
 こういう問題になると必ずしゃしゃり出てくる田島陽子センセが今回はゲストに呼ばれてなかったな。単に忙しかっただけなのか、ああいうアホ(わざとアホを演じてる可能性もあるけど)が出て来るとさすがに番組自体がオフザケやヤラセと勘違いされると思ったのかどうか分らないけど、まあ、誰を呼んできたって、こんな企画はアホを見て嘲笑うものにしかならないわな。


 エンターブレイン『20世紀少女マンガ天国』読む。
 ああ、少女マンガの歴史も『20世紀』でくくられるようになったのだなあ。
 現代の少女マンガのルーツを手塚治虫の『リボンの騎士』に置く見方は、間違いとは言えないが、その前後の解説の記述がやや不足しているように思える。
 少女小説の挿絵画家たちや、倉金章介の『あんみつ姫』などがカットの一つも紹介されてないのはどうかという気もするが、編集者たちが紹介したいメインのマンガ家たちが、24年組以降の作家たちであるのは明らかだから、多少の偏りは致し方ないのであろう。
 評論誌的な体裁を取っているようだが、その批評性は薄い。執筆者たちが、キャラクターやテーマに感情移入してしまった結果、客観的に作品を見ることができなくなってしまっているのだ。ここには、「少女性」とか「夢物語」「愛と哀しみ」「ナイーヴさ」「想像力」「感性」など、何かを語っているようでいて実は何一つ作品分析に寄与していない言葉が浮遊している。こういうのは一種のカタログ雑誌として読むのが妥当なところだろう。
 あ、でも「少女マンガ誌の読者はどんなマンガ道を辿るか」ってので、『花とゆめ』から流れる≪白泉社ライン≫は少女マンガ・オタクへ通じる道って解説には笑った。確かに『花ゆめ』→『メロディ』→『プータオ』(出版社違うけど『WINGS』や『ASUKA』に流れる読者も)って流れ、ありそうな感じだものなあ。
 この本を読んで初めて知ったこと。
 『雨柳堂夢噺』の波津彬子、花郁悠紀子の妹さんだったとは。しかも花郁さん亡くなってたなんて……。少年マンガ家さん以上に少女マンガ家さんは、年齢やプライバシーを隠したりする例が多いし、全然知らなかった。
 三原順が死んだの知ったのも一年以上あとだったし。
 生々しくリアルなマンガを描いていながら、その作家の存在が現実のものとして私たちの目の前に現れてくるのが、当の作家の死の瞬間だというのは、切なくて寂しい。
 それこそ少女マンガじゃないか。


 『少年画報大全 20世紀冒険活劇の少年世界』。
 月刊誌『少年画報』が廃刊になったのは昭和46年だ。もう若い人はその存在も知らないよなあ。
 私にしたところで、ウチで『画報』を買ってたのは子供のころのごく一時期だ。しかも既に記憶が曖昧で、年譜を見てみても、いつごろ買ってたのか断定できない。桑田次郎の『バットマン』を見てたような気もするが、そうなると昭和41、42年ごろ。3歳か4歳だ。ちょっと早すぎる気もするなあ。同時期の連載に森田拳次の『ロボタン』や手塚治虫の『マグマ大使』があるが、アニメや特撮の印象の方が強くて、マンガのほうまで読んでたかどうか、記憶にない。後年、単行本で読み返しはしてるけど。
 でも藤子不二雄の『怪物くん』がバタ臭くて嫌いだったという記憶は鮮明に残ってるから(このころから、FさんとAさんとの嗜好の違いを見分けていたのだなあ。3歳のガキのくせに生意気である)、読んでたのは確実なんだが。

 もちろん、私は『少年画報』を代表する二大マンガ、福井英一・武内つなよしの『赤胴鈴之助』や、桑田次郎の『まぼろし探偵』の時代には間に合っていない。だから、今回の特集で復刻された幻の福井英一版『赤胴鈴之助』を読めたのは感無量だった。(マンガ研究家には常識だが、『鈴之助』はもともと福井英一が第一回を描いた時点で急死し、あとを武内氏がつないだものなのである。現行の単行本では、第一回も武内氏が書き直しているため、福井版第一回は本当に幻になっていた)
 読んでみると、鈴之助の顔がやはり福井タッチで、『イガグリくん』少年版といった感じだ。
 ついでに言えば、東京ムービー製作のテレビアニメ『赤胴鈴之助』(キャラデザインは多分楠部大吉郎か小田部羊一)の顔だちが、原作は細長いソラマメ型なのに、随分丸顔で違ってるなあ、と思っていたのだが、原作の後期の絵柄がアレに近かったのだね。マンガのつねとして、細長く設定された顔でも、連載が長期化するにつれ、だんだん丸くなってしまうのである(リメイク版でまた細長くなるのはご愛嬌)。

 梶原一騎の小説デビュー作なども収録したこの雑誌、細かく読みこんでいくと新発見がたくさんある。梶原一騎、昭和38年に『新戦艦大和』と称して、世界征服をたくらむキラー博士から地球を守るため、「空中戦艦大和」を建造する「沖田艦長とその子供たち」って設定の原作を書いているのである。
 ……こわ持てで知られるカジワラ氏、よく『宇宙戦艦ヤマト』公開当時に「おれの原作を盗んだな!?」と文句をつけなかったな。
 もっともそんなカジワラ氏自身、東宝の『海底軍艦』がこの年の12月に公開されてるから、ストーリーを小耳に挟んで、いち早くマンガにパクったただけかもしれないけど。
 
 付録に創刊号の完全復刻(当初のタイトルは『冒険活劇文庫』)が付いているが、巻頭連載が永松健夫版の『黄金バット』!(加太こうじ版のほうが今は有名になってるけど、こっちのほうがオリジナル作家)
 紙芝居版は散逸して完全復刻は不可能だろうから、こちらの雑誌版はどこかで復刻してほしいなあ。


 藤原伊織『雪が降る』。
 ミステリーだと思って読んだらただの普通小説集。
 ……ちょっと詐欺にかかった気分だ。
 乱歩賞・直木賞のW受賞、『テロリストのパラソル』でも「文章の練達さ」が評価されてたけど、確かにヘタじゃないんだけど、この人の文章のうまさって「底が見える」うまさなんで、あまり誉めたくないんだよなあ。
 物語に読者を引きこむテクニックの一つは、読者を「おやっ」と思わせる「違和感」をいかに導入するかってことにあるが、ワザトラしすぎると鼻につくんだよね。

 例えば『トマト』。
 主人公の「ぼく」をバーに誘ったゆきずりの女が言う。「私は『人魚』なのよ」ここで乗るヤツは乗るが、引くヤツはもう引く。
 何とか乗って読んで行っても、女がバーで頼むのは「丸ごとのトマト」。
 人魚の世界にはトマトはないのだそうな。なぜなら野菜か果物か分らない中途半端なものだからだって。
 「中途半端」だとどうして存在できないのか、その理由もよく分らないけれど、別にトマトは中途半端じゃないんじゃないか。あれを「果物」と思ってたヤツなんているのか。それとも大阪(作者は大阪人)じゃトマトが野菜サラダにじゃなくフルーツポンチに乗ってて出てきたりするのか。
 更に女は「ぼく」に言う。
 「なぜわたしがあなたをトマトの案内人に選んだかわかる? それはね、あなたが一番むごたらしい顔をしてたからなの」
 ……まあ、人魚だからねえ、違和感のある言葉を使わせるってのはわかるよ。でも、それりゃほんとに人魚だったらの話だ。人魚のフリした人間が人の顔を評するのに「むごたらしい」なんて言葉使ってちゃ、ギャグにしかならんわ。

 他の短編もみんな、浅田次郎の線を狙ってちょっとなりそこなったって感じが強い。大阪人に粋な小説を書くのは難しいってことなのかな。
 でもラストの『ダリアの夏』は三幕ものの舞台演劇を見ているようで面白かった。キャラクター自体が、演劇的なのである。
 アルバイトの宅配屋が立ち寄った、庭中がダリヤで埋め尽くされた屋敷。
 少年が一人、ダリアの花を一輪、金属バットで打って言う。
 「花殺しじゃないよ」
 もと女優の自堕落な母親が言う。
 「ねえ、私は今年でもう、三十八になるのよ」
 この二つの謎のセリフが終盤で交錯し、解明されていく様は見事だ。この程度の「違和感」なら、充分さりげなく、わざとらしくなく、情趣も醸し出せる。
 演劇は基本的に長い時間の流れを描くものではなく、人生の「点景」を切り取るものである。本格ミステリーではないが、ミステリー風味をまぶした点景小説として見るならこの短編集、まあまあ読めたと言っていいかな。


 マンガ、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』10巻。
 金大中大統領が「冷静な対応を」と言っても韓国国会は批判決議をするし、日韓交流を破棄する自治体も多い。逆に「教科書問題と文化交流は別」と、サッカー親善の催しを続行するところもある。「別」と割りきって考えることができなくても、交流しなけりゃお互いの誤解は解けまいに。
 ともかく『新しい歴史教科書』についても、『ゴーマニズム』についても、内容をよく読みもしないで居丈高に批判する連中が多いのが困りものなんだよなあ。よく読みゃ小林よしのりは「南京虐殺はなかった」なんて言ってないし、「慰安婦なんていなかった」なんてヒトコトも言っちゃいないがねえ。
 南京の件については、ジョン・ラーベの『南京の真実』を読んでもなお民間人の死者は少数ではないかと主張する小林さんの意見に対して、それは資料の拡大解釈だと反論できる。もちろん中国側の30万人の死者って数字だっておかしい。それこそラーベの『南京の真実』に、「金持ちがどんどん避難して出ていく」としっかり書いてある。貧乏で他の土地に行けない連中が残ってたとして、それが30万もおったんかい。
 何度も書いてるが、いい加減「話し合え」。
 話し合いを拒絶している韓国側のほうがおかしいと考えるのは自然だぞ。
 ニュースを見る限り、韓国でいきりたってるのはやっぱりジジババばかりだ。日本を叩く以外に他にアイデンティティがなくなってるんだろうなあ。でもそういうジジババとだってトラブル起こしたくないと低姿勢に出る連中が日本側に多いから、問題は何十年経っても解決しないのである。

 少なくとも「小林よしのりの言っていることは全て間違い」という見方は明らかに誤りだ。当たり前のことだが、世の中に「全て正しい」人間がいないのと同じように「全てが間違ってる」人間だっているわけがない。
 「小林よしのりの意見の一つ一つを粉砕したって仕方がない。他人を洗脳しようとするそのやり口自体を批判すべきだ」とか宮台真司はアホなこと言ってたが、岡田斗司夫の『ぼくたちの洗脳時代』でも読んだらどうだ。今の時代、モノを語ることが即「洗脳」になるのは解りきった事実だし、そう言ってる宮台の言質自体が「洗脳」のやり口の一つではないか。
 ましてや「小林よしのりの人格自体を否定せよ」なんてのは好き嫌いを通り越して、差別・迫害そのものだ。
 人格を全否定するのは結局、一つ一つの意見を吟味することを怠ったただのヒステリーである。なぜみんな小林さんに関してはこうも冷静になれなくなるのだ。
 そりゃねえ、私だって日常生活の中で人間関係がめんどくさくなりそうなときには「あいつはバカやけん、うてあわんどきい(あいつはバカだから相手にするな)」と言って、無視することはあるよ。でもそれがいいこっちゃないってことは自覚してるよ。
 それに、それで全てを終わりにできない場合だってあるのだ。例えばここでの「バカ」の一例はウチのしげだったりするが、自分の妻に対して永久に「うてあわん」ことなんてできるわけなかろう(^_^;)。

 小林さんの洗脳方法よりも、マスコミの偏向報道のほうに、より胡散臭さを感じてしまうのは、私に言わせれば日中国交回復の昭和47年以来、「台湾問題」をどうしてこうも無視しつづけるのかってことがあるからだ。
 マスコミが台湾についてちったあ報道したってのは、最近では李登輝の入院についての時だけだが、そのときだって政治的な問題についてマトモな解説をどこのテレビ局もまるでしてなかったぞ。
 これでは戦後の事情を知らない若い人は、中国がなぜ日本に抗議をしてたのかってことも、全然理解できまい。
 10巻の欄外で小林さん、「今までの歴史教科書では、台湾は存在しない。『つくる会』の教科書には書いてあるぞ」と書いてるが、本当じゃないか。
 マスコミの一面的な報道を私だって、この何十年か見続けてきているのだ。小林さんが正しいとも思っちゃいないが、中国・韓国の理不尽な要求についてヘイコラする必要もないってこたあわかるぞ。
 「かつての旧日本軍の侵略・虐殺行為を認めて謝罪しようと思いながらも、同じように中国、韓国の迫害・虐殺行為だって許さない」という、マスコミに躍らされないでいる日本人も大勢いるってこと、中国は自覚すべきじゃないのか。



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