無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか

 今日で外でのお仕事もおしまい。
 長かったなあ。
 入院明けにいきなり肉体労働だもんね、どうなることかと思ったが、なんとかついて行けたのは、一応、体調がよくなっていたからだろう。
 けれど昨日あたりから、早くも一日の疲れがやはり取れなくなってきているのである。風呂に入っても寝ても、次の日起きてみると、カラダの節々が痛い。けれど筋肉痛ではないのだ。
 つまり、退院して気付いたことなんだが、「椅子に座る」って、それだけですごいストレスになるのだ。
 腰は痛くなるし、背骨はイビツになるし、ベッドの上というのがいかに楽か。
 全てのオフィスの椅子をアームチェアやカウチベッドに換えて、ゆったりした環境の中で仕事させるようにしたら、サラリーマンのストレスも随分軽減されるのではないか。
 ……居眠りが増えるだけだって(^_^;)。


 帰宅してみると、やっぱりしげは寝ている。
 土産の弁当を「食うか?」と聞くと、ガバッと起きあがって「食う食う」。
 これじゃまるで川原泉のマンガに出てくる「食欲魔人」だよ。……あるいは『うる星やつら』のレイか?(覚えていますか? あのブタ牛です)
 台所に行ってみると、いい加減溜まりに溜まった食器が異臭を漂わせている。何日か前から、あまりのしげのグータラを叱りまくり、しげも「ごめんなさい」なんて珍しくも殊勝なことを言ってたから、少しは反省して自分から掃除や片付けをするかと思っていたら、やっぱり何もしていないのだ。
 ……なぜそこまで臭いかと言うと、夕べ、しげの枕もとに、半年以上も食い散らかして放置してあった食器の山を見つけたのだ。いやらしくも枕や布団で見つからないように隠してたりする。
 「さっさと台所に出せ!」と言ったのだが、出しただけで洗っていないのだ。
 ……普通、洗うぞ、どんなバカでも。
 私も、どうしてこんなものまで洗ってやらねばならんのかと思うと、やる気がどんどん殺がれていくのだが、放置してたらますます臭くなるばかりだ。しげの鼻はもともと腐っているから平気なのかもしれないが、私はたまらない。
 泣く泣くジョイをドバドバ食器にふりかけて金ダワシで擦るが、こびりついたヨゴレがなかなか取れない。殆ど重労働だよ、これじゃ。
 半分ほど洗ったところで、食器置き場が一杯になったので、残りは明日に回す。どうしてここまでしげに振りまわされねばならないのか。
 これで私がしげを怒ると、こいつは「アンタって優しくない」「私のこと嫌い?」なんて言うのだよ。
 ……虚しいのは私の方だってば。o(ToT)o ダー。
 どんなに言い訳をし、反省したそぶりを見せようと、しげが生まれながらのウソツキであることはこれだけでも証明されてしまうと思うのだが、どうだろう。
 誰かこいつを弁護できるヤツ、いるか?


 神戸市の中国自動車道で、七月下旬に中学一年生の上家法子ちゃんが手錠をかけられ、路上に放置されて轢き逃げされ死亡した事件で、車から転落させた犯人として、中学教師の福本謙容疑者が逮捕された。
 ……また、教師の犯罪か、というのは呆れるばかりだが、やはり知り合ったきっかけはテレホンクラブだったようである。
 事件が起きた当時は、中学生なのにテレホンクラブ、ということで、被害者の少女のほうもやや非難に近い論調でコメントされることも多かったのに、ここにきて、犯人が教師だったことで、少女の不行跡のほうはなんとなく不問に伏された感じになってしまった。
 でもなあ、女の子の親が、インタビューに答えて「教師のくせに……」なんて憤ってるのを見てると、「キサマが言えた立場か」と言いたくなるなあ。
 もともとテレクラ遊びするような状況にまで娘を追いこんだのは親だろうが。自分の責任で娘が死んだとは思わんのか。そういう親だから娘もテレクラに走ったんじゃないのか。
 別に犯人を弁護する気は全くないが、被害者の家族に同情する気も起こらないのである。


 テレビ、8時からの『これマジ!?』をなんとなく見る。
 えなりかずきがUFO信者だとは知らなかったが、自ら「エナリアン」なんて名乗ってんのは何なんだか。
 えなりクン、最近はつんくのプロデュースで歌も歌ったりして、相当勘違いしているみたいだが、多分ナンシー関がどこかでこのイタさ加減を皮肉ってんじゃないかな。マスコミや芸能界がどれだけ役者に対して冷たいかっていうのは、こういうとき本気でたしなめてくれるスタッフがいないってことだと思う。
 同じ顔の弟も登場してきて(笑)、こちらのほうが「UFO否定派」だというのはいかにもツクリっぽいが、ともかく紹介されるフィルムが誰が見ても特撮だっわかるシロモノなのは視聴者をナメてないか。
 ……すごく単純な疑問なんだけど、UFOが目の前を横切っていくのに、カメラがそのUFOを追いかけないというのはどういうわけかね。追いかけてるやつもあるけど、それは弟クンが指摘したように、ただの鳥だし。
 えなりクンがマジで肯定派だとすると、知能の程度が知れるが、これくらい顔と言動が一致してるタレントってのも斎藤清六以来じゃないか。……いや、『渡る世間は鬼ばかり』を見る限り、えなりクンを「役者」とは呼びたくないんだよなあ。


小此木啓吾『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析 パーソナリティ そのミクロな狂い』(新潮OH!文庫・650円)。
 明確な精神分裂症でなくても、ちょっとオカシイ、という類の人間はいつの世もいるもので、まあ、危険がない限りそういうオモロイ人はいても全然構わない。
 ところが別に精神的にヘンとはとても言えないのに、いつの間にか周囲に迷惑をかけてしまう、という人間のほうが、現実的には「困ったちゃん」であることが多いのだ。
 ここで取り上げられているのは、意地悪な人、いじめる人、冷たい人、酒癖の悪い人、暴力をふるう人、嘘をつく人、冷酷な人、意志の弱い人、無気力な人である。
 なんだ、全部私だ(^_^;)。
 でも、実際、現代社会なんて、こんな人たち「だけ」で構成されてると言ったっていいくらいなのだ。作者の小此木さん、こういう人たちを片っ端から容赦なく「ブンセキ」してくれるのだが、タイトルに「職場や家庭のアノ人たちにどう対処するか?」ってあるのは全くの看板に偽りアリで、対処法なんてこれっぽっちも出て来ない。
 例えば、依存型のパーソナリティーを持っている女性が、恋人に捨てられないだろうか、という不安から情緒不安定になってヒステリーを起こし、鬱病になり、アルコールに溺れ……なんて書いてあるから、てっきりその女性をどう治したかってことが結論として書かれてるんじゃないかと思ったら、結局「恋人と別れました」。……コラ、全然治療できとらんじゃないか。
 全てがこの調子で、精神分析関係の本でこれくらい役立たずな本を読んだのも初めてである。
 作者は、こういう「困ったちゃん」のサンプルを集めて、「自分はこいつらより人間的にエライ」と思い込んでるだけじゃないのか。この作者が一番「困った人」だったという陳腐なオチでありました。 


 マンガ、園田健一『砲神エグザクソン』4巻(講談社・530円)。
 「ガルフォース』以来、園田キャラは好きなので『ガンスミスキャッツ』に続けてかってるんだけど、どうもスカッとした侵略者撃退ものにならないのがモドカシイんだよなあ。
 主役の砲一、前巻までは、敵と戦うことをためらったりして、どうにも煮えきらなくて、それがドラマのノリを悪くしてたんだけど、今巻じゃ逆にキレまくって敵を殺してる。この変貌ぶりにどうにも説得力がないのが結構大きな欠点。ヒーローって、基本的にエールを送りたくなるようなキャラじゃないとマズイと思うんだがな。アムロやシンジ君みたいなうじうじキャラに予め設定されてたのならばともかく、もとから猪突猛進型である砲一には、もっと早い段階で、覚悟を決めた行動とっててほしかった。
 インベーダーのリオファルド人も、最初のころはキンバー先生のように、侵略そのものを否定的に見る人物なんかを出したりして「人間」であることを強調してたけど、もう最近はただの悪役だ。
 ……だったらもっとスッキリと、単純な勧善懲悪モノにしてたほうがよかったと思うけどねえ。


 マンガ、有希うさぎ『グルメな情事』(秋田書店・410円)。
 しげがいきなり衝動買いしたマンガだけど、これが意外に面白い。掲載誌は……『ボニータCUBE』?
 滅多なことじゃ手にすることもないな。
 「父は一流料理人、姉は女子アナ。美食と美人に慣れきった高校生、譲史には、どんな女の子も『埴輪』に見える」……わはは、こういうバカバカしい設定は大好きだ。
 まあ、「埴輪」ってところが少女マンガらしくていいやな。男が描くと、まず間違いなく「イモ」とか「ダイコン」になるだろうし。
 そんな譲史の家の隣に引っ越してきた料理上手の美少女、いつき。
 もちろん一目ボレしてしまった譲史、偶然の事故でいつきとベッドインしちゃったのはいいものの、なんといつきのアソコには見なれたモノが……。
 さあ、究極の選択。
 可愛くて料理上手の「男」と、料理上手で女の子だけど「埴輪」。
 どっちを選ぶ?
 ……まあ、「見える」だけで中身は「女」なんだから、「埴輪」を選べばいいように思うかもしれないけどね〜、やっぱ、リビドーに「視覚」は重要なのよ(^^*) ホホホホ。

2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか


2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか

 昨日までの雨天が、今日はカラッと晴れてポカポカ陽気。
 まだまだ外でのお仕事は続いているので、都合がいいといえばいいのだが、今度は日中、眠くて眠くてかなわない。
 新しいクスリ、やたらと副作用が強いと言われてるが、そのせいなんだろうか。でも、以前から7、8時間寝てても眠いときは眠かったからなあ。
 しげの眠り病が移ったかな(^_^;)。


 1995年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)をめぐって、ホテル代を水増し請求させて4億2300万円を騙し取ったとして、外務省課長補佐が逮捕。
 外務省も次から次へとトラブル続きだが、別に昨日今日のコトではなく、長年の澱のように溜まっていた腐敗体質が、今になって一挙に噴出した印象だ。
 ラジオで、なんとかいう評論家が「田中真紀子大臣に代わったので、これまでの不正をなんとかしてくれるんじゃないかということでリークが相次いでるんじゃないか」なんて意見を語っていたが、もちろん、「田中大臣に全ての責任を取らせよう」という動きだと捉えることもできる。
 田中さん、つい先日自ら給料カットしたばかりだし、これで結構動きを規制することもできるかもってことなんだろうけど、さて、これでおとなしくするようなタマかね。もともとが放埓な人だから、ますますイキリたって、暴走して、外務省の中を引っ掻き回してくれりゃ面白いんだが。
 だいたい官公庁で不正をしていないところがあるなんて、国民は一切信じちゃいないんだよねえ。使途不明金や放漫会計、別に内部事情に通じてなくったって、役所の近所の居酒屋で聞き耳立ててりゃいくらでも情報は手に入るぞ。
 なのに、この程度の告発で済んでいる、ということのほうが僥倖なのである。まだまだ10億や20億程度の税金が宙に消えてんだろうから、一連の騒ぎで慌てふためいてボロを出す人間がもっと出て来てほしいもんだね。
 

 『キネマ旬報』9月下旬号、映画『ファイナルファンタジー』の特集。
 全米2649館での公開、これはなかなかの規模で、しかもそれなりのヒットは飛ばしたらしい。CG映像に食傷気味の昨今だが、それでも『FF』の映像は結構ショッキングだったということなのだろう。
 映画を見る前にはできるだけ情報を入れずに見に行こうと思っているので、監督の坂口博信と押井守の対談も斜め読み。
 でもチラッと「ゲームと映画とは違う」というようなことを二人が語っているのを見て、ああ、これは期待していいかも、と思った。
 実は私は「ファイナルファンタジー」シリーズも「ドラゴンクエスト」シリーズも、RPGモノはほとんどやったことがないのだが(ビデオゲームではなく、実際に知人同士でやったことはある。当たり前の話であるが、ビデオより圧倒的に面白かった)、ちょっと考えただけでも、ゲームと映画とではその性質が水と油、ほとんど相容れないものであることは見当がつく。
 ゲームと映画とでは、そもそも楽しみ方そのものが違うと言っていい。
 ゲームに参加しているアナタは、主人公自身であるが、映画を見ているアナタは、主人公の冒険を見ているただの傍観者である。
 経験値を挙げるために、延々とザコキャラを倒していく、なんてことは、ゲームの中で自分が主人公となってやっていることだからこそ楽しいのであって、それを2時間程度の映画でただ傍観者として見せられるのであれば、こんな退屈することはない。
 従来のゲームの映像化は、ゲームをなぞることに汲々として、とても映画とは言えないシロモノになっていることが多かった。『ストリートファイター』など、これがラウル・ジュリアの遺作かと思うと情けないやら悲しいやら。『弟切草』に至っては、存在そのものが冗談としか言えないような出来だったし。
 坂口監督が、“ゲームとは違う”「映画」を作った、というのは、これまでのゲームの映像化を考えると大言壮語にすら聞こえる。CG技術がどうのより、私はゲームは本当に「映画」たりえるか、ということのほうが気になってしまうのである。


 今日で公開が終わる『王は踊る』、しげが見に行きたがっていたので、仕事を1時間早引けして待ち合わせ。
 キャナルシティあたりで上映してくれてたなら、家からもそう遠くないし、早引けする必要もないのだが、KBCシネマと言う、天神というよりは長浜に近い映画館での上映なのである。
 私なら自転車で40分弱で辿りつけるが、しげが一緒だと多分1時間ちょっとはかかる。時間に余裕がないと、しげは絶対ヒステリーを起こすので、仕方なく早引けしてるのだ。ちっとは感謝してもらいたいもんだよ。

 しげ、腹も減らしているので、天神ショッパーズの地下で、柳川定食を頼む。
 ウナギを卵とじにしているが、ウナギ自体が薄くてそれを卵で誤魔化してる感じがしてそれほどうまくない。
 最初はマクドナルドでハンバーガーを買って行こうって言ってたのになあ。
 しげに『キネ旬』を見せると、「もうこれ『FF』じゃないよ」なんてウンチクを垂れる。だから私ゃもともとの『FF』を知らないんだってば。


 『王は踊る』、実は全く予備知識を持っていなかったので、タイトルの「王」ってのが誰のことなのかも知らなかった。監督は『カストラート』のジェラール・コルビオ(すまねえ、この人の映画見たの初めてだ)。
 アホな話で、インド映画の『踊るマハラジャ』の続編かなにかか、なんでしげは独善的で能天気なだけのお寒いミュージカル映画を見たがっているのだ、などとぼんやり思っていたのだなあ。
 でも、これがもう、見てビックリ。いや、これだけ見応えのある映画も久しい。やっぱりスカスカなハリウッド映画ばかり見てちゃダメだよん。

 ……「王」って、“太陽王”「ルイ14世」だったんだねえ。彼が若いころバレエ・ダンサーだったとは全然知らなかった。
 宮廷作曲家として揺るぎない権勢を誇っていた、ジャン=バティスト・リュリ。イタリア人である彼がフランスに帰化したのは、若き日、ともに踊ったルイ14世に対する思慕の念ゆえであった。
 しかし、男色を嫌う14世は次第にリュリを敬遠するようになる。30歳を越えた王は、既に自ら踊ることもなくなっていた。それでもリュリは王を称える音楽を作りつづけ、盟友である劇作家のモリエールとも決別する。失意のうちに喀血、舞台上で死んでいくモリエール。その姿に自らの運命をも重ね合わせるリュリ。 そして、リュリの最後の演奏会に王の姿はなかった。リュリは指揮棒で誤って自らの足を傷つけ、「王と踊った足を切るな」と叫び、死ぬ。
 リュリの死の床に顔を見せようともせぬ14世は、一言「今日は音楽が聞こえぬ」とだけ呟く。

 リュリは本当に男色家で、14世に報われぬ恋心を抱いていたのだろうか。それが果たして史実なのか、映画上の演出なのか、寡聞にして私は判別が出来ない。
 しかし、14世とリュリの、「朕に友はおらぬ」「ならば私も同じでございます。私にも友はおりません」という、「拒絶によるシンパシー」とでもいうべきパラドキシカルな会話は、見ていてかなり切ない。
 臣下であるリュリは、純粋に王への恋慕を告白しただけかも知れない。しかし、14世にしてみれば、「王」に生まれるということそれ自体が、重大な「欠落」を持っているのだという事実を突きつけられたも同然である。多分、その「欠落」は、「友」だけではあるまい。

 ジャン=バティスト。その名は「洗礼者ヨハネ」に因むが、リュリのみがその名を持っていたわけではない。モリエールの本名もまた、ジャン=バティスト・ポクランである。
 諷刺喜劇の第一人者と評価の高いモリエールも、この映画の中では、14世に媚びを売るただの追従者である。14世の庇護を受けられなくなった後も、最後まで舞台から客席を見て「王は来られぬのか」と悲痛な声を漏らす。
 つまりこの映画は、二人の「王に見捨てられた男たち」の物語なのである。
 映画のラストが、この二人の死を重ね合わせるように描いているのは、彼らが殉じていたものがいったいなんだったのかを観客に対して問いかけているかのようだ。
 彼らは果たして「美しかった」のだろうか。

 なんだか辛気臭い書き方になっちゃったけど、これって、本当に当時の歴史的事実なの? と言いたくなるようなエピソードも満載で、見ていて退屈しないどころか、結構笑えちゃうのだ。
 ともかく14世、なにかあるたびに楽隊引きつれてBGM代わりに音楽鳴らしてるのね。
 ベルサイユ宮殿建設予定地で、「ここに壮大な宮廷を!」と叫んで、ひときわ音楽が高まった途端、14世が沼にハマって泥まみれになる、なんてまるでコントだ。
 最高に笑ったのが、愛人とのベッドインの真っ最中にまでBGMを演奏させてること。しかもその演奏を指揮してるのが14世にホの字のリュリだから、彼がジェラシる表情がいじらしいやらおかしいやら。……しかし楽隊に見られてて、よくヤレるよな14世。

 公開は終わっちゃったけど、ビデオでも出たらどうぞご覧あれ、お勧めの一本です。でもなあ、ベルギー映画(性格にはベルギー・フランス・ドイツ合作)なんて、そうそう近所のレンタルビデオにゃならばないかもなあ。


 映画が終わったのは9時近く。
 しげ、何が気に入らないんだか、妙に機嫌が悪く、声をかけてもぶっきらぼうな受け答えしかしない。
 しかも勝手に脇道にそれて見知らぬ路地に入りこもうとするので、こちらも腹を立てて「どこに行くんだよ!」と怒鳴る。
 「遠回りしちゃいかん? そんなに早く帰りたいの?」なんて嘯くので、もう、これは相手にしちゃいられないと思って、しげを放って、いつもの通り道を先に帰る。明日も私は仕事があるのだぞ。
 それに、色弱で夜目の効かない私が、見知らぬ道を自転車で行くということがどれほど危険か、今までもう何十回も口を酸っぱくして説明しているのに、しげは一切記憶しようとしないのだ。私が何度、夜道で電柱やらガードレールやらにぶつかってコケたと思うのだ。
 しげは、自分が自動車の免許を取ろうとしているのは、山道を自転車で通う私が心配だから、と理由を説明しているが、そんなの信じられるか。だったらなぜわざわざ暗い道を選ぶか。
 結局しげは、自分の気分で「親切ぶりっ子」をしたいときだけ、優しげに見せてるだけで、相手を本気で気遣ったりしてるのではないのだ。
 しげが免許を取ったとしても、その車に同乗する気は私にはない。そっちのほうがよっぽど危険だ。

 ドアに鍵をかけて、遅れて帰宅したしげを外に締め出す。
 これくらい強硬なことをしないと、しげは決して謝らない。
 ようやく「ごめんなさい」と謝ったので部屋に入れるが、結局それも口先ばかりで、なぜ勝手に横道に入ろうとしたのかとか、どうして機嫌が悪かったのか、とか、いくら問い詰めても理由をきちんと説明しようとしない。

 入院して以来、しげには振りまわされっぱなしである。
 故意に嫌がらせをしているとしか思えないことも多々あったので、何度も叱りつけるのだが「反省する」と言うばかりで、実際に反省したような行動は全くとらない。
 相変わらず家事は全くしないし、物忘れをしないように気をつけようともしていない。
 「わざと叱られるまねをしてるのか?」と聞くと、「そうだ」と答える。
 「どういうことだ?」と畳みかけるように聞くと、「失敗すれば、叱られるって結果の予測がつくけど、反省したらその先の予測がつかないから不安になるの」と説明する。
 ……これはもう一種の自傷行為だ。それにつきあってたら、マジでこちらの身が持たない。私生活のフォローだけで私にはもう限界である。これで日曜休日まで劇団の練習に潰されていたら、いつ誰がウチの家事をやるというのか。

 しげ自身が性格を変えるなり、セルフコントロールできるようにならない限り、劇団の手伝いまでつきあってはいられない。
 しげも劇団内で意味不明なこと喋りまくってるのに、みんな甘やかして放ったらかしてるんだものなあ。
 直観と言うよりは思いこみだけで何の理論も根拠もない発言をいちいち尊重してやらねばならんほど、私は芝居について不真面目ではいられないのだ。好きであるからこそ、しげの演劇をナメてかかった態度に対して、私は私生活ほどに寛容ではいられないのである。
 なのに、この期に及んで、しげはまだ私に「劇団にいてほしい」などと自分勝手なことを言っている。もともと、私が腹を立てて抜ける可能性が高いことを予測しないで、いつのまにか勝手に私をスタッフに組みこんでいた適当さ加減がこういう事態を招いたのだという自覚がないのだ。
 「プロデュース形式を取ったのは参加したい者だけ参加すればいいということじゃなかったのか? それをどうして引きとめる? もともと俺は、お前が感情的な行動をとらないなら、という条件付きで参加してたのであって、約束を破ったお前に付き合う義理はないだろう」と一蹴する。
 と言うか、約束なんて結婚してから守ってもらった記憶がないぞ。
 いくらでも反省できるチャンスはあったのに、それを全てしげ自身が潰してきたのだ。ここまでマジメに付き合っただけでもよしとしてもらいたいものである。
 ……どうせあのアホはまた何も反省しちゃいないんだろうけど。
 

 マンガ、星里もちる『本気のしるし』3巻(小学館・530円)。
 星里もちる、もう完全に柳沢みきおの亜流になっちゃったなあ。
 青春ほのぼのギャグマンガ描いてた人が、ドロドロした失楽園ドラマに走る法則ってのが何かあるのだろうか。私生活で何かつらいことがあったんじゃないかとか勝手に想像したくなるくらい、描かれる人間関係に救いがなくなってきている。
 意識的にか無意識的にか、はかない女を演じて男を弄んでしまう女。
 女に溺れれば身の破滅と知りつつ、その魅力にとりつかれてしまう男。
 「バカ、その辺でやめとけ」と思わず声をかけてしまいたくなるが、そこで立ち止まっちゃ、マンガも完結してしまう(笑)。
 見ていて男のバカさ加減に嫌気がさし、女の卑劣さに腹を立て、これじゃハッピーエンドは期待できない、こんなムナクソの悪いマンガがそうそうあるかと思いながら、いつの間にか固唾を飲んで、愚かな不倫に身をゆだねる男女の行く末を見守っているのだ。
 それは多分、私もまた愚かな男であるからなのだろう。


 DVD『アヴァロン』、吹替版で見る。
 押井守監督自身がアフレコを担当したただけあって、キャスティング、その演出、これが別録りでカラミがないとは信じ難い。
 アッシュ役の財前直見、私はこの人を『天河伝説殺人事件』でしか知らないのだが、たいしてよい印象はなかった。しかし、声優としてその“演技を聞いた”時、意外に口跡がハッキリしていて、凛としたムードを醸し出せているのに驚いた。
 ゲームマスター役の日下武史も『天河』に出演しているが、財前直見との再度の共演は偶然だろう。劇団四季の重鎮として長年鍛えてきた演劇的な口調は、『攻殻機動隊』の「パペットマスター」を彷彿とさせる。つまり、彼もまた「演出家」としての立場にありながら、「ゲーム」のキャラクターであり、「演劇」の舞台に立つ登場人物の一人に過ぎないことを暗示しているのだ。
 他のキャストも、役者の実力を見抜く押井監督の力量が見て取れる。
 山寺宏一(スタナー)、范文雀(受付の女)、田中敦子(ジル)、大塚明夫(ビショップ)、木下浩之(マーフィー)。
 なんとまあ、舌を巻く実力派揃いであることか。これを、舞台俳優と声優を組み合わせて演出したただの実験、と見るのは短絡的だ。なぜならここにはアイドルとかトレンディ俳優とか、シロウトに毛が生えただけの人気声優などは、ただの一人もいないからである。……石田ゆり子や田中裕子を使った某監督とは雲泥の差があるよなあ。

2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか


2001年09月06日(木) 裸という名の虚構/『アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝泉薫)ほか

 今日は小泉純一郎首相の写真集の発売日だそうな。
 世間の反応、「いくら人気があるからってやりすぎ」って人も多いみたいだけど、こういうキワモノこそが、後の代において「時代の証言」となることが多いのだ。
 人気なんて、泡ブクのようにあっという間に消えちゃうものだから、数年後、「あの小泉フィーバーは何だったのか」みたいな感じで振り返られることは必定。今、書店のコーナーを埋め尽くしている感のある小泉関連本が、水が引くように消えてなくなることも確実なのである。
 そうなると、更に十数年後、若い人に向かって「昔ね、小泉さんってライオン頭の総理がね、何の実績も示さないのに支持率だけは90%越してたことがあったんだよ」って言っても誰が信用するかってことになるのだ。
 そのとき、押入れの奥に隠していた「写真集」を取り出して、「ホラ、それが証拠にこんな写真集まで出てたんだから」と見せれば、ウソなんかついてないってことが証明されるのだよ。
 そのためには、初版を買うより、ある程度増刷が掛かったころを見計らって買うのが一番いいんだけどね。「ホラ、三ヶ月でこんなに増刷が!」とかってね。……でもタイミング間違ったりすると、増刷が掛かる前に絶版、ということも考えられるので、この辺の見極めがムズカシイのだ。
 ……え? じゃあ、お前は買うつもりがあるのかって?
 だから「小泉さんのファンの人」、恥ずかしくても買っといたほうがいいですよって言ってるんだってば(笑)。

 私は今、酒井法子の『のりピーちゃん』や飯島愛の『タイムトラベラー愛』(作画は武林武士)を買い損なっていることをちょっとだけ悔やんでいるのである(ちょっとだけだよ、ちょっとだけ)。
 
 
 朝方、J−COMブロードバンドから、「せっかく申しこんでもらって悪いけどよ、お前んとこ、電波障害があってよ、ブロードバンドできねえんだわ。引っ越したらまた声かけてくんな」って、ミもフタもないメールが届く。
 ようやく最近、「ブロードバンド」というコトバを覚えたので、「おお、これは便利そうだな」と、早速しげに頼んで(この辺がまだパソコンオンチな私の度胸がないとこ。しげに頼まないと何もできないのだ)、これからは画面一杯にサイトを広げてもフリーズしないぞと喜んでいたのだが、そう都合よく物事は運ばないものらしい。
 だいたい「ブロードバンド」なんてエラそうな名前を名乗ってるんだったら「電波障害」くらいものともしないくらいのスペックがあってもいいんじゃないのか。「ブロード」って「広い」って意味じゃないのか。「でもアンタんとこはダメ」なんて了見が狭いぞ。「バンド」って「帯」だっていうけど「紐」の間違いじゃねえのか。やさしくゆったり包んでほしいのに縛って絞めつけてビシバシしばかれてる気分だぞ。
 ……パソコンに詳しい人には大笑いの発言でしょうが、ご容赦下さい。イナカに住んでるんだなあ、とちょっと悲しくなったんです。


 夜、偶然、『ディズニー百周年SP クイズ$ミリオネア・新学期子供大会』を見ていたら、ちょっと変わった男の子が出ていた。眼鏡をかけた、ちょっと見は、なかなか利口そうな顔立ちの子である。
 番組はもう終わりどきで、「野口英世はなんの病気で死んだ?」という、我々の世代なら選択肢がなくたって即答できる程度の問題だが、小学生にはやはり難しいのだろう。ちょっと悩んで「ええ〜っ?」なんて言っている。
 その態度に物怖じした感じが全くないので、度胸のある子だなあ、でも一歩間違えたら生意気だって嫌われそうな感じだよなあ、と思っていた。
 男の子、ハッとして「黄熱病!」と答える。司会のみのもんた、あのねちっこい声で、「どうしてそう思ったの?」と聞くと、男の子、「う〜ん、どこかで聞いたような聞かなかったような、友達から聞いたような聞かなかったような」と言って小首を傾げる。場内、ドッと受ける。
 おやおや、これはなかなか「ツカミ」を知ってる子だ。
 もちろん、正解、75万円獲得!の瞬間、その子が前髪をかきあげてオデコをペろっと見せると、そこには「75万円」と書かれたハチマキが。
 おお、いいぞ、この子。アタマのいい子ってのは、それだけでナマイキに見られちゃうものだが、それを「崩す」手段を知っているのだ。こういうのが「知恵」ってもんなんだよなあ。しかも優勝の百万円は、クラスのユニフォームを作るために使うらしい。……ううむ、みんなに憎まれない根回しも万全だ。やるねえ。
 なんだか「知恵の一太郎」(江戸川乱歩の小説に登場する利口な少年)みたいだなあ、と思っていたら、名前が「小林くん」……おい、ホントに「小林少年」だ(笑)。


 『ニュース23』で、多重人格の母親を支える家族のドキュメント。
 日本には多重人格の症例は少ないと言われる。あっても詐病だと主張する医者もいるが、これは日本人の生活そのものが基本的に多重人核的だからだと説明されることが多い。
 詐病でもなんでも、本人がそう「思いこんでいて」、「回復しない」のであればそれは立派な病気だ。
 このお母さん、主人格のほかに、3歳、6歳、18歳のほか、年齢不詳の女、更には乱暴な男の人格まで、都合9つもの人格を持っている。やっぱり子供のころ、親に受けた虐待がもとになって、人格が乖離していったらしい。
 これを「逃げ」だと見なすのは、自分は確固たる人格を持っていると思いこんでいるモノマニアの「偏見」だ。
 こういう多重人格、言ってみれば本人による治療だと言ってもいい。果たしてビリー・ミリガンのように、一つの人格に統合しようとすることが正しい治療と言えるのかどうか。
 乱暴な男人格さえなんとかできれば、後は人格が九つあろうが百あろうが、生活するになんの支障もないのだ。他の人格と共存していけるのであれば、それも一つの生き方と受け入れていく方法を選択してもいいのではなかろうか。


 ここ二ヶ月ほど、日記の更新がなかったマンガ家の安奈さんへ宛ててメールを送る。
 個人的なメールを女性の方に送るのは、場合によっては相手に対して失礼になることもあるし、何よりしげにものすごくヤキモチを焼かれてしまうので憚られはしたのだが、ふと、もしも自分がツライときに誰からも声をかけてもらえないとしたらヤだなあ、と思ってお送りすることにしたのだ。
 幸い、夜中にご返事があって、感謝していただけたので、ホッと胸をなでおろす。
 安奈さんの描かれたマンガが、どんなのか無性に読みたくなってしまったが、こればっかりはご本人が匿名を守られている以上は、詮索できないんだよなあ。


 マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE』20巻(集英社・410円)。
 20巻の大台に入って、ルフィたちとバロックワークスとの戦いもいよいよクライマックスに近い印象。少年ジャンプの対決マンガの黄金パターン、「団体戦」が展開されてるのだけれど、スポーツの試合じゃあるまいし、全員で各個撃破したほうがずっと効率がいいだろうに、なんて突っ込むのはもう今更かなあ。
 でもねえ、「パターンをなぞる」ってのは、そこにちゃんとなぞるだけの「効果」があると自覚した上でないと、結果的に「陳腐」って印象しか与えないんだけど、そのことちゃんと編集者は尾田さんに教えてるか? 教えてないよな、だって『ジャンプ』だし。
 もう、『リンかけ』以来私ゃその手のパターンに飽きてるから、気分的にはもう、「絶対に勝ちそうにないキャラにいかに勝たせるか」って方に興味が行っちゃってるのね。
 たとえ初めにどんなに追いつめられたって、ルフィやゾロやサンジが勝つのは意外でもなんでもないのよ。
 ウソップやトニートニー・チョッパーをいかに勝たせるか。
 ここに作者の技量が現れると言っていいのだ。……そういう肝心なところを読み飛ばしてないかねえ、ヤオイ系の『ワンピース』ファンはよ?

 結論を先に言っちゃえば、尾田栄一郎、まだまだ捨てたものではない。
 ウソップとチョッパーの敵を、いかにも二戦級なミス・メリークリスマスとMr.4の二人に設定してるって点では、ドラマチックな要素がマイナスされちゃってるんだけど、演出でその弱点を随分カバーしている。
 NO.4の特殊能力を説明するあたりのテンポが実にいい。
 チョッパーが、「4番バッターで犬と一緒なんだ!!」。
 ウソップが「さっぱり意味がわかんねェぞ、どういうことだ!!!」。
 実際、全く解らない(笑) 。
 わかんないものだから、その間にウソップとチョッパー、メタクソにやられる。
 で、ホントにNO,4、「4番バッターで犬と一緒」だったんだものなあ(笑)。こういうシビアな対決をギャグでつないで緩急のリズムを作り出す腕は尾田さん、実にうまいのだ。
 ミス・メリークリスマスが「モグラ人間」に変身した途端、「ペンギン?」って突っ込まれるギャグは絵が下手なせいでイマイチ効果がなかったけど。ちゃんとモグラに見えてしまう絵を描いちゃいかんねえ。ペンギンに見間違えられるんだったら、ちゃんと色を黒く塗って、もっと下半身デブにしなきゃ。
 「5トン」のギャグはギリギリセーフかな。
 ウソップの持ってるハンマーがハリボテなのは、読者にはもうミエミエだから、それを誰にボケさせるか、ってとこでチョッパーを相棒に選んでるのはなんとか納得できるし(でもこれは本来、ルフィの役柄なんだよな)。
 最後、それまでのギャグで誤魔化してた対決が、二人の底力で勝利する展開、結構うまくまとめられている。
 これで『アラバスタ編』最大の山場は最初に終わっちゃったので(笑)、あとはさっさとゾロもサンジもルフィもズタボロになりながら復活して敵を倒す拡大再生産パターンをさっさと終わらせて、いい加減で音楽家を出して海賊ものに戻れ。シャンクスも出せよ。

 ……それにしても、一番気になるのは、作者が主役のルフィを扱いかねてるのが目に見えてわかっちゃうところだ。
 ラスボスを最初に倒しちゃうわけにはいかないのはわかるが、クロコダイルから「てめェの様な口先だけのルーキーなんざ、いくらでもいるぜ…!?」って言われてるけど、その通りだぞ。
 ルフィ、今までもそうだったけれど、肝心なところで役立たずだったこと多いのだ。こういう能天気なヤツを勝たせるには、「能天気だからこそ強い」という発想で描いてくしかないんで、作者によっぽど強引な力技を仕掛ける技量がないと続かないんだよなあ。
 それができないと、結局、敵のほうの「強さランク」を落として、「実はただのバカだった」ってことであっさり倒させるしかなくなる。「なんだよこの敵、初め出て来たときにはいかにも強そうだったのに、戦ってみると意外と弱いじゃん」って印象になっちゃうのはそのせい。『ドラゴンボール』も『るろうに剣心』も、それで失敗している。
 ……クロコダイルもいかにもそうなりそうなんだよね。ゴタクばっかり言ってるし、今巻でミス・オールサンデーのほうが実は黒幕だったっぽい伏線が張られ出したのも、明らかに次へのつなぎ。
 だから伏線ってのは、「先を読ませない」のが主眼にないと失敗するんだってば。これで結局、「ルフィたちは最後には勝つ。敵の中でミス・オールサンデーだけは今の話が終わっても再登場する」ってわかっちゃったじゃないか(もともとルフィたちが負けるわけないじゃんか、って突っ込みは的外れ。これは作劇における演出の問題を言ってるの)。
 作劇の欠点を若さと勢いでカバーできるのはせいぜいデビュー後4〜5年だ。この辺で連載終わらせないと、ホントに尾田さん、潰れちゃうぞ。

 ジャンプの「人気があるうちはいやでも続けさせ、なくなったら即打ちきり」っていう「作家使い捨て」体質を変えるためにね、「どんなに人気があっても20巻で完結」って制度にしたらどうかなと思ってるんだけどね。
 今日の読売新聞の夕刊を読んでたら、「囲碁」のページで『ヒカルの碁』のことが紹介されていて、集英社は「人気がある限り連載を続ける」と発言してるとか。
 「勇退」ってコトバ、誰か集英社に教えてやってくれ。


 宝泉薫編著『別冊宝島Real021 アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝島社・1200円)。
 私がこの本を読んでるのを、しげが見て、その目が無言で「私というものがありながら、なんでそんなの買ったの!?」と語っていたが、もちろん、これは「マジメな」研究本であって、ヌード写真なんて、引用のための小さなモノクロ写真が点在してるだけだ。変な疑い持つなよ。

 ヌード写真ではない、「アイドルヌード」というものはなんだったのか(これが過去形であることが重要)、80年代、90年代のサブカルチャーの重要な一端として捉えようとする著者の視点には大いに共感を感じる。
 女性は気を悪くするだろうが、「アイドル」というのは、たとえ脱ごうが脱ぐまいが、男にとっては「性の愛玩物」なのだ。
 その是非はともかく、なぜあの時代の若者たちが、ただのヌード写真ではなく「アイドルヌード」を欲したのか(あるいは欲さなかったのか)というのは、例えば「なぜオタクが美少女アニメに萌えたのか」というテーマとも密接な関係があり、戦後日本の文化的土壌を分析するための極めて重要な課題なのだ。
 ……思うに、戦後日本の最大のタブーってのは、天皇制の問題なんかではなくて、男性がどうして女性に性欲を感じるのかってことを秘匿してきたってことにあるんじゃないだろうか。
 男が女に性欲を抱くのは本能だと思ってる人が、下手すりゃ男の中にもいるだろう。でもそれは真っ赤なウソ。実は、男が性欲を燃え立たせるのは、その女体が持っている「物語」に対してなのだ。
 ……「男はみんな巨乳好き」とか思ってる女性の方、多くありませんか? 確かに男が母親から生まれた存在である以上、「女体に母を求める物語」が、男に受け入れられやすいものであることは事実です。でも、男がその内面で求めている物語はそれだけじゃないんですよ。
 いみじくも、かつてのアイドル、南野陽子は『寒椿』でヌードを披露した時、「私ってムネが薄いから、薄幸そうに見えるでしょ?」と言ってのけたが、つまり、「薄い胸」であっても、そこに何らかの物語を見出すことができれば、男は奮い立つのだ。
 80年代以降、一つのブームになったと言ってもいい宮尾登美子原作の「女郎もの」映画では、その女優の肉体について、いささかアザトイまでの「肉の振り分け」がなされていた。例えばそれは、エネルギッシュなキャラクターには肉感的な女優を配し(西川峰子やかたせ莉乃など)、耐え忍び病気に犯されるキャラは痩身の女優を配する(夏目雅子や真行寺君枝)、というように。
 だから逆に、肉感的な十朱幸代が薄幸な女性を演じても今一つ説得力がなかったりもしたのだ。

 もともと、アイドルには「アイドル」という「物語」が既に付与されていたのだ。そして、その物語には、「アイドルはヌードにならない」という物語が含まれていた。それは、大人のヌードではあまりに刺激的過ぎる少年たちに与えられていた、ささやかな性の解放だったと言える。
 ……実際、小学生のころの私なんか、スカートめくりまではしててもパンツ脱がそうとまでは思いもしてなかったし。……おっと、脱線(笑)。
 しかし、少年は大人になる。にもかかわらず、アイドルたちが脱がないままでいたらどうなるか。もはや、アイドルと大人になった少年たちとの間をつなぐ物語は存在しなくなる。アイドルたちが脱いでいったということは、「物語を変質させ、ファンとの間に、新たな共通の物語を持とうとした」ということを意味する。……失敗した例がたいていだったけれども。
 少年が大人になる前に、アイドルのほうが一足早く「変質」してしまった場合、少年は「置いて行かれる」。それが「アイドルに裏切られた」という心理になるわけだ。だから、その「変質」をどう受容してオトナになるか、というのも、当時の我々に課せられていた「性の通過儀礼」だったのだ。

 いくつかの「通過儀礼」を通じて、少年は大人になる。しかし、それは、「アイドル」を、「性の消耗品」として見るクセを我々が身につけたことにほかならない。何しろ、アイドルは次から次へと量産されていたからである。
 それは、言わば「神」として崇めていた偶像を自分のいる地べたにまで引き摺り下ろし、蹂躙する快楽なのであるが、その「快楽」こそが「大人になる」ということだったのだ。

 こうなるともうよりどりみどり、芸能界は妄想少年のハーレムと化す。
 初め、「アイドルに裏切られた」と嘆いていたファンも、すぐに「代わり」を見つけた。
 そうしていくうちに、彼らは、やがてはアイドルに「裏切られる」こと自体、どこかで期待するようになっていった。つまり「アイドルはいつか脱ぐ」、そのときがいつかを「賭ける」ことすらし始めたのだ。
 同時期にデビューした女性アイドルの誰が生き残り、誰が消えるか。そして、誰が脱ぐか。人気があれば、「賞味期限」は延びて、なかなか脱ぎはしないが、ユニットを組んだグループは、たいていが数年で解散し、脱いだ。
 トライアングル、パンジー、ギャル、少女隊、セイントフォーなどは、デビュー当時からみんな確信していたはずだ。「いつかは脱ぐ」と。でも、そう考えるほうが、当時の男たちにとっては「健全」な発想だったのだ。
 逆に「この子だけは脱がないだろう」という気持ちでアイドルのファンになる男というのは、より強い独占欲でアイドルを見ていたことになる。で、彼らはそのままストーカーになったりするのだ。
 
 結局、どう転んでも男は女を性の対象としてしか見ない。物語は女の側にあるのではなく、女の肉体を媒体とした男の方にしかないからだ。女が自立してるかしてないかは関係がない。
 女が自らを性の対象として見させないためには、そこに「男の物語を付与させない」方法をとるしかない。
 だから、フェミニストたちが「女性を性の対象として見るな!」と言いたいのなら、できるだけ女を魅力なく魅力なくしていけばいいんだけど、それを誰もしようとしてないのは、結局、自分たちを「性の対象」として見させたいことを肯定しているのだ。

 なんか、本の内容に触れる前に、個人的なアイドル論をぶち上げてしまったが、まあ、今、書いたようなことを前提に読めば、女性の方も「なんで男ってスケベなの?」という疑問の答えが見えてくると思います。

 本書にはアイドルヌードについての歴史が非常にコンパクトにまとめてあるのだが、やはの全てを網羅しきれるものではなく、ここはもう少し詳しく触れるべきではなかったか、という箇所や、調査が不充分と思えるところも多々ある。
 篠山紀信の「写楽」シリーズについては、もっとページを割いて解説してもよかっただろうし、従来の倫理観にとらわれない帰国子女のヌード、例えば川上麻衣子のものは、やはりエポックメーキング的な意味合いがあったと思われるのに全く触れていないのはどうしたわけか。
 また、「脱がない歌姫」でありながら脱ぐ以上のセックスアピールを出していた存在として、小泉今日子を筆者は挙げているが、ならば中森明菜の立場はどうなるのか。柏原芳恵は未だにバストトップを出してない、などと書いてるが、これも事実誤認で、ちゃんと脱いでいる。
 杉田かおるや、安達祐実など、子役が女優に生まれ変わろうとするときに辿った過程というのも、考察しておく必要があったのではないか。

 ……なんだか、自分でも「ヌード論」が書ける気になってきたなあ。読者の方で呆れてる人もいるかもしれないが、私が自分で一番呆れているのである。何しろこの本で紹介されている写真集で、その存在を知らないものがただの一つもなかったからだ(笑)。
 ここまで自分がスケベだったとはなあ。にもかかわらず未だに浮気の一つもしてないというのは、私ってもしかしたらモノスゴイ人格者なのではなかろうか(我田引水)。

2000年09月06日(水) 妖怪っぽい〜妖怪っぽい〜♪/『ブロックルハースト・グロープの謎の屋敷』(シルヴィア・ウォー)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)