夢の先は、実感も無くおぼろげで、霞んだその先は、 一体、何色をしているのかも知らない。解らない。
爪の先を見つめると、マニキュアの剥がれた地の爪が、 少し擦れて、ぼんやりしている。
この爪は何色に塗られたいんだろう?
無難なベージュ、ラメ入りのピンク、薄紅の桜貝。 ビビットなオレンジ、艶のある黒、フレンチネイル。
何でも良いけど、いつでもキレイに構ってあげたい。 キレイなものや、柔らかい桃に触るとき、自分の爪は 綺麗な方が気分が良い。
優しい桃と甘い匂いと、あなたの作る周りの空気と、 透明の夢が、その先にはあるように。
冬の冷たく透き通った空と、凍らないように冷ややかに 瞬く星は、この先も、毎年ずっと変わらない。
同じように、自分の中にある物は、ずっと変わらずありますように。 そして、綺麗に磨かれた爪が、光を掴みますように。
たまに綺麗になった心で、冷えた空を見ながら、そう思います。
役に立ちたい、というのは。付き合ってると、普通に思う。
だって、こんなに平凡で、普通の人生を退屈に送ってる 自分が、彼に出来る特別の事なんて、ひとつも無いからだ。
例えば、虫歯が痛んで、頭が痛くて、立てないくらいに 酷くても、痛みは私のものじゃあ無いから、彼には何も してあげられない。痛みを無くしてあげられるのは、 私じゃなくて、歯医者さんだ。
お腹が痛くても、私じゃ治してあげられない。
痛みを分ける事も、肩代わりしてあげることも出来ない。
それなら、私に出来る事はなんだろうって、思う。
答えはひとつ。結局、何も無い。
ただ、一緒にいて、満たされるだけが、お互いに出来る事で、 それ以上も、それ以下も、そこには無いんだよね。
そう思うと、悲しいような、ひとりぽっちになるような、そんな気持ち になる。けど、淋しい時に、あの人の顔を思い浮かべて、 頑張ろうと思うとき、私はひとりっきりでいるよりも、ずっと 幸せなのかも知れないなあって、思う。
ひとりで居ても、ふたりで居ても、淋しさは消えないけど、 だったらせめてふたりで居たいと、私は思う。
あの人はどうだろう。
同じ事を思ってくれるといいな、と思う。
童話の中で、とても好きだった話。 いまでも好き。 人魚姫は、人を好きになって、好きで好きで仕方が無い。 自分の声と引き換えに魔女にもらった脚は、 歩くたびにナイフで突き刺されたように痛む。 それでも王子様に気持ちを伝えたいと想った彼女は、 痛む脚で、唄の代わりに舞を踊る。
人魚には涙が無い。 だから、泣けない。涙も出せずに悲しみをこらえる時は、 人間の数倍は辛くて苦しいのだそうだ。
王子様の愛が自分に向かない事を知った彼女は、王子様の 肝を食す事で、人魚に還ることが出来る。だけど、好きな人は殺せない。
最期は海に命を返すように、その身を投げるのだけど 彼女の躰は、海の泡に消えて、その泡の欠片は、空に昇って 空気の精になる。神様の奇跡なんだ。
空気の精になって、彼女は生まれて初めて涙を流すのだけど その時の声が、かつての何倍も澄んだ声で空気に溶ける。
最期は、海の泡になって終わりだと思っている人が多いんだけど、 彼女は、空気の精の仕事を全うした後は天国に昇るんだ。
日記をこうして書いているのは、まぁ趣味と言うのもあるんだけど、 書いてないと色んな事を忘れていってしまうからだ。
私はとても忘れっぽい性質で、大事な事も、好きな人の言った話も、 大事な約束も、その時の気持ちも、余程心に突き刺さってなければ 時間と一緒に流れていってしまう。
勿論私がバカだからなんだけど、そうして何でも忘れていってしまう事が 私は、怖い。
忘れる事は、昔の自分が、そう思った頃の自分が死んで行くような気がして 怖い。今ある自分と過去の自分は、確かにちゃんと繋がっているもの なのだけど、どこかで、それが切れてしまったような、そんな不安が 胸に湧くのだ。
過去から少しずつ自分が消されて行くような、そんな感じ。
それが怖くて、思ったことを書いておくようにしている。死ぬのは、怖い。
かといって、ここにある文が何かの偶然で消え去ったとしたら、それはそれで、 今の私は変わらないし、納得もするのだろうけれど、少し前に思ったことや、 ちょっと前の自分の気持ちを、時々どこかで読み返す事ができたらいいな、とは やはり思う。文章としての形なんて、あってもなくても、結局は変わらない。
私は死にたくないと、思う。けれど、普段から会えない人は、死んでいるのと そんなに変わらないのかも知れない、とも思う。本当に死んでしまった人には、 一生、今後、会える事が無いというだけで。
私はたまに死んだ人の事を夢に見るけど、そうすると目が覚めた後にとても 不思議な気持ちになる。だって、夢の中では彼らは生きていて、ちょっと したらまた会えるのかも知れないとか、まだどこかで生きているのかも知れない とか、そんなふうに感じるからなのだ。
過去の思い出は、だんだん、夢の世界との境界線を曖昧にする。
あれは、夢だったのか、過去の事だったのか。
それをはっきりさせたくて、やはりこうして文を書きつづけるのかも知れない。
人を傷つけるのは悲しい。
人の心を傷つけるのは、悲しい。
けど、善人面して近寄ってきて、誰かを心の中で蔑んでいる人が
いるとしたら、それはもっと悲しくて、さびしい事だと思う。
心の中では蔑み嘲笑しているくせに、口では善いことを言う。
こんな事思うのは私が卑屈だからかも知れないけれど、そう言う人、
必ずいるんだもの。…隠すのが上手くて解らない人も居る。
上手ければ上手いほど、悲しいと思う。
なんでこんな事を言うのだろうか。
それは、私もそういう事をしてた事があったからだ。
出来れば、人であるならば、その価値に優劣をつけないで人と付き合いたい。
だけどそんな事、出来る人は居ない。居ないはずだ。
少なくとも私はまだ会った事が無い。
だから私は、私が大事だと思う人のことだけ考えて、その人たちが
私によって傷つけられない事を願う。
そして、その人たちが他のひとによって傷つけられる事が無いといいなと思う。
それくらいのことくらいしか、私には出来ない。
もしも心が無かったら、きつく抱きしめてもらっても
何の意味もない。ただ、虚しさを感じるだけだ。
心の底では、辛いだけで、ずっとそんな感じだった。
ぼくは暖かい手が欲しかった。それも、偽物じゃない本物の手。
本物じゃなかったら、手でなくとも、言葉も目線も、愛も声も
はらはらと落ちる雪みたいに、肩に当たって、溶けるだけ。
乾いたあとには何も残らない。淋しい。
そんな人生ならいらない。
そう思って、一人で生きる方を選ぼうとしたら、
たまたま君に出会ったんだ。
ぼくはこれで、一人で生きなくてもいいと思った。
友達のフリして隣りで笑うより、 恋人として顔を見ながら思い切り泣く方が良いと、
気付かせてくれて、ありがとう。
作家の山田詠美氏の作品「120%COOOL」の中の あとがきの部分に、彼女が書いてること。
それは、“幸か不幸か、いまだに、私は20パーセントモアを 求めて右往左往している”という一文。
100%じゃ足りない物。+20%MORE。 …いいんじゃない?と思う。
生きてる限り、こういう事は大切だと思う。気持ちの上で、だけど。
人生はほとんどの事は65%も出来れば上等だと思うけれど、 自分の欲しい物や、追いかける物に対する気持ちはいつでも100% を越える気で、臨める自分でありたいと思う。
たとえそれが机上の論でも、それがはかない理想論でも、だ。
人間が生きて行くのに当たって、基本的には私は <衣食住+裕+遊> (裕は余裕。遊は遊び、趣味など) だと思っている。
衣食住は人間の基本だけど、そこを狙って、女の人の中には “男は胃袋を押さえておけば離婚しない”というのを 信じて疑わない人がいるらしい。まぁ、離婚しないで居てくれれば それで満足だ、と言うならそうしてれば良いんだろうけど、女として それだけの役割しか与えられてなかったら、その人は悲しいんじゃ ないだろうかと心配に思う。
男なんて放っておいたって、腹が減れば飯を喰うし、眠ければ寝る。 服だって着たい物を着たいように着せときゃ良いんじゃないでしょうか?
だって、女がわざわざ彼氏を快適にさせるために労力はたくなんて、 よく考えるとおかしくないかな?(そのために男は女に金使ってんだ! って言われたら仕方が無いけど。)
今日、本で読んだのだけど、ある女優さんは仕事で忙しい時も、 月曜日には必ず家に帰って、旦那さんのお洋服の着合せを考えて、 一週間分の服をたたんで、クローゼットに置いておく、と言うのだ。
…世間はそれを「素敵な奥さん」「女優でも夫を気にかけてくれる優秀な妻」 だとか言うのかも知れないけど、逆に私は、着てく服まで妻に考えて もらわなければ一週間ろくなものも着れない男、という立場に負い込められた 夫の方が、哀れで可哀想にすら思えて仕方が無い。
遊びや趣味の範囲ならば、男女ともに相手に働きかけてあげたら良いとは 思うけど、せめて20を超えたような男女なんだったら、せめて、 基本の<衣食住>くらい、それぞれ自分で養って欲しいと私は思う。
男だって、飯くらい作れなきゃどうする?! ご飯は黙ってたって出てくると思ってる小学生みたいな男に、私は 興味がありません。
女も男も、もっと美しく生きれないと、ちょっと悲しいと思う今日この頃。 愛情って、ご飯作ってあげる事でも、服を選んであげる事でも、 部屋を掃除してあげる事でもないよ。もっと、きっと根本的な事なんだと 思う。それに気付けないままだったら、女の人は半生、男の家政婦みたいに なったまま生きてかないといけないよね?それが望みなら止めはしないけど。
だから、私はお袋の味なんかでつられる男はごめんです。 自分のくいぶちは自分で、は基本。ついでがあったらご飯を作るのも 掃除も洗濯もするけど、それは“思いやり”であって、愛ではないから。
My body is not expensive.
私の体は高くない。それどころか安い方だと思う。 ただし、私が愛する人にだけ、だ。
世の中には、愛と体を結びつける女の子が多いみたいで。 だけど、そんなのが価値あるものとしてまかり通るのは せいぜい10代の女の子までだ。最近は彼女たちですら そんな事に価値を置くのがバカらしいと気付き始めているのに、 一昔前の少女漫画の主人公でも気取っているのか、花の操を 守らなきゃ!私の体はキレイなの!だとかいう人がたまにいて、 そしてなかなか居なくならないのだから、不思議である。
愛と体は別の物だ。体はそのまま、人の欲望に直結している。 欲望と体とが直結してひとつになって、それが二人分揃った時に、 はじめて、それらは愛とかいうのにアクセスする権利を手に入れる んじゃないだろうか?最近そんなふうに思う。
一生懸命体を使って愛し合っても、結局心まで届くのは、 体による快感とか衝撃では、決してない。心が最初から一生懸命で 無かったら、何をしたって、されたって、たいして感じないんじゃ ないかしら。
私は私の体を使って、相手をいい気持ちにしてあげるのが好き。 だから好きな人には出し惜しみしない。 ちゃんと恥じらう気持ちも持っているけど、もったいぶって じらすだとか、そんな無駄で阿保みたいなことはしたくない。 彼に対してだけは、私の体はチープだからだ。
世の中には、体なんて使わなくても、心だけでトキメキ合ってる 人はたくさん居る。体だけで、心が乾いてる人も、同じくらい居る。
そんな中で、好きな人と体を使って愛に向かえるなんて、幸せなんじゃ ないだろうか。…本当は、体を合わせることになんて何の意味も 無いけれど、そこに何かがあると思えるんだから、人間はすごいね。
やさしいものに囲まれてるのは好きです。 可愛い物にも弱いです。きれいな物にも弱いです。
自分では全然買わないんだけど、結構好きなのが ぬいぐるみとか、編みぐるみとか、そういうもの。
やさしい物に囲まれてると自分も癒されて優しい気持ちに なれる気がする。今日、おもちゃ屋さんに行った時に 買った白いクマのぬいぐるみ。妹に買ってあげたんだけど、 妹が他の店を見ている間、彼と二人で椅子に座って ぬいぐるみ抱きながら、話をしながら、待ってた。
ほのぼのして、幸せな気持ちになった。
手を繋いで歩ける休日。そういうものも良いものですね。
2001年10月09日(火) |
LEMON SHAMPOO |
私がまだ小学生の頃、5つ年上のいとこのお姉ちゃんが 良くうちに泊まりにきた。うちは本家だから、長期の休みや お正月などにはよく来客があるのだけど、このいとこの お姉ちゃんの訪問は、私の楽しみでもあった。
お姉ちゃんは、来るたび私に女の子の秘密を教えてくれた。 ひらひらのお洋服に、くりくりの髪。可愛いポーズの作り方。 家事の手伝い方。お茶の淹れ方。
レモンのシャンプーも、そのひとつで、私の大のお気にいり だった。
それは、小さなボトルに入った黄色いシャンプーとリンスの セットで、とろとろした黄色い液の中には、小さなぷつぷつが 入っていて、髪を洗う時にぱちんとはじけて、レモンの香りを 髪に漂わせるのだった。
私が気に入ったのを知って、お姉ちゃんはそのままそれを置いて 行ってくれた。私へのプレゼントだと言って笑った。
私は初めて、髪にいい匂いを漂わせる事の気持ち良さを知った。
大人になって、そういう努力は、オトコノヒトのためにする事 に変わって行った。自分の髪の触り心地や匂い、肌の感触は、 自分の男に対してだけ意味を持つ。彼の心をチョットでも良いもの に変えられますように。そう思って一人で居る夜は、とても 気持ちが良くて、暖かい。
私は、レモンの香りが好きだ。
訳も無く、淋しいと思う事があって、 それは誰と居ても、恋人と居ても、親友と居ても思う事で、 そんな時、私の心はしとしと濡れている。
そんな時は、いつも一人。
誰と居ても、雑踏の中に居ても、町を歩いてても、 何処にいても何をしてても、一人だなって思う。
昔と違って、今はやりたいこともやっているし、 生活に多少の不満はあるものの、不自由はしていない。 それなのに、私に足りない物というのは一体なんなんだろう?
毎回、こんな気持ちになるたびに思う。
そして自分に聞く。 何が淋しいのか、何が悲しいのか、何が足りないのか。
わかんないのね、でも。…で、わからない事は知りたいと思う。 思うだけでは進まないのも知ってるけど、方法がわからなくて、 また途方に暮れる。毎回、黄昏てしまう。
今日図書館で釈迦来迎絵図など、仏教関係の本を見た。 私は仏教絵画が好きだ。曼荼羅なんかだと解り易いけど、 あの絵には、ある一定の方が決まっている。
これはタロットカードの絵柄やキリスト教絵画でも同じで、 要するに型が決まっているという訳。例えばある人を描く時、 この人だったら、この人を象徴する、物だったり、ポーズだったり、 向きだったりが決まっていて、どの絵であっても(あえて型破り をしているものは除くが)それが徹底されている。
…同じ題材を同じパターンで描いていく訳だけれど、だからこそ 描く人のセンスやら癖やら工夫やらが見れるので、それを考えながら 見ていると、とても楽しいのだ。
んで、今日はそういう画図を見ていて、その解説にあたる部分を 読んでいたら、そこにちらりと書かれていた文章に、少し魅せられた。
人は、何で神様の絵を描きたがるのか、という説明の中で、筆者は語る。 人は、「目に見えないもの」だけど、きっと存在すると思われるモノを 信じているのだそうだ。で、それを見たいから、絵に描いて、 見えないものを目に見える形で表現している、とのこと。
見えないものを見ようとする。その為に絵を描く。強く思い描く事。 これらはそのまま、人の夢をみる力に影響するんだそうだ。 なるほど、と思った。
現在の人達は、欲しい物や見たい物を、ちょっと苦労したり何かを使えば 簡単に見る事が出来てしまう。それも、他人の力でだ。誰かが 作った物。誰かが提示する物。既にそこにあるイメージを、簡単に、 手軽に拝見し、拝借する。そういう課程のなかで、私たちは夢を見る “力”や、心に思い描くものを失ってきているような気がする。
今、何をして良いのか解らない。何が欲しいのか解らない。 空っぽの心の飽和状態。外から何かを入れてこないと、いつでも 心は空っぽが溢れてきて、どんなにどんなに詰め込んでも、それらは時間と ともに流れていってしまうの。だから、多分淋しいんだ。
もっと強い夢が見れる世の中になると良いと思う。 そして私自身もそうした強い夢がもてると良いと思う。
私が必要としてる時は、必ず側に居て欲しい。 私が大丈夫な時は、自分の好きな事をしてて欲しい。
いつでも24時間、365日側に居てほしい訳ではない。 そんなうっとおしいのは、ちょっとゴメンだ。 それは、誰でもそう。
喉が渇いたときのミネラルウォーターみたいに、 必要な時に必要なだけ、愛をくれたら良いと思う。
私も、そんなふうにあの人に必要とされたい。
そうしてずっと、上手くやって行けると良いなぁと思う。
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