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me note diary

2013年01月18日(金) 茉莉花--【アンドロイドは源氏絵巻の夢を見るか】三ノ宮

 温室に入ると、むっとする空気が顔を覆うように貼りつき、癖のある匂いが鼻から喉へ射しこんだ。一瞬詰めた呼吸を解き、口から肺の奥の空気をできるだけ吐き出すと、三ノ宮は思い切って鼻から息を思いっきり吸い込んだ。甘い花の匂いと、濃い土の匂い、熟れた果実の匂いに、めいっぱい水分を含んだ緑の匂い。他にもなにか香辛料のような匂いが混じって、つんとした、だらけた匂いが身体中に行き渡るのを感じた。


「みゃーお」


 襟巻きのように首に巻きついてじっと目を瞑っていた彼女の唐猫が、ぴくぴくと耳を動かし、ぴっと目を開けて、小さく鳴いた。顔の前でしっぽがぱたぱたと揺れるのを押さえて、三ノ宮は首からそっとその相棒を外し、煉瓦敷の床に降ろしてやった。両前足をぐいーんと伸ばした唐猫は、ちょっときょとんとした表情をし、小首を傾げて三ノ宮を見上げた。


「みゅ?」
「そうね、なんだかちょっとだけ、おうちに似てるわね」


 辺りを伺うように首を回して、とてとてと歩き出した唐猫を視界に入れつつ、三ノ宮はぐるりと周りを見回した。そう広くもなさそうな温室は、青白い照明がいくつかあるだけで、ドーム型の天井越しに、夜空の星が綺麗に見えた。月はまだ昇っていない。自分の故郷はあの辺りだろうかと、三ノ宮は一際高く伸びた一本の樹木の近くに光る黄色い星を見て思った。


「みゅーん」


 唐猫の声がエコーがかって聞こえ、三ノ宮は前を向いた。遅いと云いたげに、こちらを向いて行儀よく座り、丸い大きな瞳で三ノ宮を見つめている。


「今行くわ。大丈夫よ」


 しかし二三歩進んだところで三ノ宮は足を止めた。この匂いは知っている。ふと顔を上げると、数メートル先に白とピンクの中間色のような小さな花がカーテンのように群れ咲いているのが夜の闇にふうわりと浮き上がって見えた。甘い、きつい、脳を溶かすような匂い。三ノ宮の口元に笑がこぼれた。
 思い立って、履物を全部脱いで素足になってみた。一歩、二歩、爪先立ちで脚を踏み出してから、そっと足の裏をぺたりとつけてみる。温室の中であっても、冬の夜の煉瓦はひいやりと冷たく、しっとりと濡れていたが、それが心地よかった。粗く焼いた煉瓦の気泡と湿気で発生した苔の感触が柔らかく、少しくすぐったい。滑らないように慎重に、それでも気分は徐々に高まって、ついに三ノ宮は駆け出した。すぐに唐猫の留まっているところまで辿り着き、そのまま駆け抜ける。猫も彼女を追いかけて、軽く飛び跳ねた。その首の小さな鈴が、楽しげに音を立てた。




 その植物の名前を、確かに三ノ宮は知っていた。蔓性の植物で、蔓の先端が壷状の妙な形になっている。ぱっくり開いた口のような部分に指で触れると、ぬるぬると湿っていた。


「危ないですよ」


 不意に声がして三ノ宮が振り返ると、淡い色の夜着を着た、背の高い青年が立っていた。少し困ったような顔をしている。三ノ宮がここにいることに戸惑っているのか、彼女が触れているその植物に対する警戒心なのか。


「春宮様」


 慌てて三ノ宮が煉瓦敷の床に跪こうとするのを、青年が抱きかかえるようにして留めた。


「おやめください。あなたがたはわたしのお客人。臣下ではないのですから」
「そうでしょうか」


 口にしてから三ノ宮はしまったと感じた。あまりに生意気なことを言ってしまったと思った。自らの身分と、ここに遣わされた目的を身につまされていたからこその発言であったが、それでもこの言葉は、彼、春宮ゲンコウの意にそぐわないであろうことは確かだった。果たして青年は困惑していた。さっきよりも明らかな理由で。


「ご無礼を。お許し下さい」


 三ノ宮は腰を折り、深々と礼をした。客人としての礼を。


「いえ。わたしの方こそ。何分……」


 女性の扱いに慣れぬゆえ。飲み込んだゲンコウの言葉を、三ノ宮は心の中で補足した。不思議な王子様だと改めて思った。


「この植物は、人を喰らうのだそうですよ」


 ゲンコウは話題を変えるように努めて明るく、三ノ宮の触れていた植物を指し示した。


「サクが申しておりました。まぁあれの言うことだからアテにはなりませぬが。わたしはなんだかこの形がもう気味が悪くて。ほうら、指など噛まれてはおりますまいな?」
「まぁ、そんな」


 三ノ宮はからからと笑った。ちりちりと鈴のなる音がし、唐猫が足元でくるくると楽しげに跳ねていた。


「春宮様とサク様は本当に仲がよろしゅうございますこと。でなければサク様がそんなことおっしゃるはずがございませんもの」
「どうやらわたしはからかわれたと仰せられる?」


 そして猫にも。一瞬不機嫌そうな表情をしたゲンコウが、三ノ宮に釣られてくすくすと笑い出した。


「これは人を喰らうものではございません。小虫を喰らうものですよ。他の植物のように、根っこから栄養を摂るのが上手ではない植物なのです。だからこの袋の中に小虫を誘い込み、中の液体で溶かして養分を取り込むのです」


 けれどこの温室の中で、それができるかどうかは三ノ宮にもわからなかった。


 温室の中の東屋は二階にあって、星がより近くに見えた。それは一階よりも、生い茂る植物の枝と葉に邪魔される空が多少少ないだけだったけれど。


「三ノ宮殿は動植物にお詳しいようですな」
「父は動物、母は植物に関する研究を行う学者でもありました。わたくしの周りにはそのための動植物がたくさんあったのです」


 すぐ隣の貴公子と、遠い彼方の故郷と、周囲の植物と、三ノ宮は正直どこを見て話をしていいかわからなかった。だから膝に乗ってぐるぐると喉を鳴らす唐猫を撫でながら、目を伏せて答えた。


「でも、動植物がお好きで……だからこのような時間にこのような場所においでなされた」
「え、ええ……」


 本当のところ、動植物が好きなのと、ここに来たことに因果関係があるような気はしなかった。ただ、昼間見つけたこの場所の夜の姿を見てみたかっただけだった。三ノ宮は、温室に故郷の匂いを感じていた。だが、それを口にするのははばかられた。


「春宮様は?」
「わたしは……」
「……入口付近に咲いている香りの強い花をご存知ですか?」
「? ……いや、そういえばなにか甘い匂いがしたような」
「あの花を茶葉に混ぜて香りを移したお茶をお飲みになられるといいですよ。眠りを誘うのに役立ちます。きっとサク様がご存知でしょう。……あ……差し出がましいことを……申し訳ございません」
「いや……三ノ宮殿は勘がよろしいのですね。まるでサクと話をしているときのようだ」


 ゲンコウは苦笑したが、三ノ宮にとっては手痛い失言であった。


「そろそろ戻られた方がよろしいでしょう。ほうら、勘の鋭いのがもうひとり、やってきた」




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「只今、戻りましてございます」


 障子越しに声をかけた従者をゲンコウは招き入れた。一礼をして入ってきたサクの顔はいつもどおりのポーカーフェイスで、乳兄弟であるゲンコウをしても、そこから彼の表情を読み取ることは困難であった。


「無事、三ノ宮殿をお送りしたであろうな」
「は。恙無く」


 その時、微かに甘い、あたたかな匂いにゲンコウは気づいた。サクの手元の盆に、茶器がひと揃い、携えてあるのが目にとまった。


「それは?」
「三ノ宮様よりお話を伺いまして、僭越ながら」


 サクは、急須から小ぶりの湯呑にほこほこと湯気を上げる液体を注ぎ入れ、恭しくゲンコウの前に置いた。


「あの温室の花の茶、か」


 湯呑を持ち上げると、爽やかな甘味が鼻腔をくすぐった。数度息を吹きかけて口をつけると、意外に中の茶は甘くはなかった。さっぱりとした、なんとも安らぐ香りと味であった。


「三ノ宮殿は、どうもお前に似ているようだ」
「はて。そうでしょうか」


 もちろん、この従者が答えるはずがない。それはいい。これは自分に与えられた試練なのだから。


「ご苦労だった。下がってくれ。明日、この茶の礼は三ノ宮殿にお伝えしなければな」


 ぴくり、とサクの眉が動くのを、ゲンコウは見逃せなかった。


「いや、すまぬ。サク、お前にも礼を言わねばなるまいな。なかなかの茶である。まこと心が安らぐようだ。ありがとう」


 とんでもございません、と神妙に頭を下げたサクだったが、再び目線を上げた時、その瞳は微笑んでいた。


「おやすみなさいませ」
「おやすみ」


 従者が下がり、やがて障子から漏れる灯りが小さくなった。十一の月の末。緑の星の若き春宮ゲンコウの心の中。とあるリストからひとつの名前が消されることとなった。


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管理人:サキ
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