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me note diary

2010年03月18日(木) 【R-15】SpiltMilk

 ひとつ先の停車駅が改札の目の前だから、半分のひとが降りて席が空くことを想定して、一番込み合った車両に乗る。そして次の駅で、扉に向かって殺到する人波に逆らって、あたしは空いた座席に腰を下ろす。ほっと目を閉じる。と、あ、という短い叫び声と嗅ぎ覚えのあるにおい。目を開けると、横倒しになったコーヒーのボトル缶と、こぼれた中身、開いたキャップが転がっている。ボトルはころころと転がって、多分落とし主ではないスーツ姿があわててそれを拾ってキャップを閉めた。電車のドアが閉まる。黒い液体は慣性の法則に従って、動き始めた電車と反対の方向へ、触手を伸ばすように細く、長く、延びていく。床に荷物を置いた少女が飛び上がるように荷物を抱えた。
 こぼれた液体。
 長く、長く、延びていく黒いもの。
 流動的な。
 夕焼け。
 太陽。
 真っ黒な、影。
 誰の?
 ひとつのキーワードじゃ連想ゲームは難しい。でも、それが複数になったら? シナプスは繋がっている。ひとつの細胞が呟いたことばを受けて、次の細胞が新しくことばを吐き出す。それがどこかの中枢に達する前に、ダメだ。あたしは、無理矢理に目を閉じて眠りに落ちる。こみ上げてくるなにかより、疲れた身体には楽な刺激が受け入れやすい。あたしは、眠る。目覚めたときには、すべてが過ぎているといい。


 たどり着いた部屋は、殺風景だ。でも、夕方の太陽熱をまだ溜めていて、暖かい。本も、CDも、DVDも、ギターも、常に溢れていた灰皿も、アルコールも、なんだかわからない錠剤たちも、きみに必要だったものはすべて、あたしには必要じゃなかったことを、きみのものがすべてなくなってから、あたしは知った。服と靴は最小限。それだけはふたりとも同じだった。だけどあたしはすべてに於いて、最小限でよかった。きみはそして、それ以外にはすべてに於いて、貪欲だった。
 電車の床に流れた黒い液体は、降りる頃には揮発したのか、染み込んだのか、不特定多数のひとたちの靴の底にへばりついたのか、ほとんど残っていなかった。こぼれたコーヒーは残っていなかったけれど、あたしはすべてを思い出してしまった。あたしが、あたしたちがこぼしたすべてを。そして懸念していた、涙腺を刺激する神経は、どうやらすでに死んだらしいことを、今になって自覚した。




 手にしていた紙コップを落とした。入れてもらったばっかりのウーロンハイは氷と一緒にコンクリートの床にぶちまかれ、あたしの服と、きみの服を濡らした。かもしれなかった。
「ごめんなさい! 大丈夫? 濡れました?」
「や、大丈夫。いや、大丈夫じゃない。酷いよ」
 言いながら、きみは笑顔だった。
「責任とって、今夜うちに来なさい。・・・・・・なんてね。そんな顔するなよ」
「ええと、ごめんなさい」
「どうするの? 責任とってくれる?」
「そういう責任のとりかたはちょっと」
「だよね。仕方ない。じゃ、キスして」
「なんで!?」
 きみは笑っていた。悲しいことに、あたしはきみの、笑った顔しか思い出せない。


 ホテルに行くと、きみは広いバスタブにいっぱいにお湯を張りたがった。真夏でも。ラベンダーの匂いのする入浴剤と、ヒノキの匂いのする入浴剤と、バブルバスにする入浴剤と、アメニティの三つの小袋を持って悩んだ。
「いいよ、ぜんぶ入れちゃおう」
 ぜんぶの匂いの混じったお湯は、どの匂いもしなかった。なんとなく甘くて、そしてお湯を張った後に入れたバブルバスの素は、ほんのちょっとの気泡を湯船に立たせただけになった。
「もったいなかったね?」
 あたしはシャワーを止めながら言う。
「これからもっともったいないことするんだよ」
 ほら、早く、とあたしの手首を掴んで引き寄せ、そのままのリズムで裸のままお姫様抱っこをされた。うれしくて悲鳴を上げる。
「滑るから暴れるなよ。ほら」
 そして彼ごとあたしごと、一緒に湯船に沈む。表面張力ぎりぎりに湛えた39度のお湯が勢いよく溢れ出す。擦りガラスのドアの隙間から、室内にこぼれてしまうんじゃないかと思う。どうも浴室というのは、うまく作られているらしい。すごい音で溢れる温水に、あたしはきゃーきゃーはしゃぐ。
「もったいない!泡も、ぜんぶいっちゃった!」
「豪勢じゃん。ハレムの風呂の使い方だぜ」
「女、ひとりだけど?」
「おまえで、百人分だからいいの」
 こぼれたお湯の勢いがやっと収まってくる。


 西日の強い部屋で、フローリングの床に、透明な体液と、白い体液と、赤い体液が、流れて、染みて、固まった。何度も。何度も。
 ふたりは怠惰だ。きみは仰向けのままタバコを吸う。
「のど、乾いた」
 無表情の声できみが所望すると、あたしが身体を起こして傍らのボトルを掴む。生のままのウィスキーなど、いつの間に飲めるようになったんだろう。瓶に自分の口をつけ、流し込む。口の中で揮発する感覚が嫌で、昔はロックでも飲めなかった。いつの間にか、揮発する分はほんのわずかだと知った。一口目を飲み込み、もう一口含んだ琥珀を、きみの上に跨って、目を閉じたままのきみの口に移してやる。微かにのどが鳴って、生きているんだとわかった。それを口にすると、きみはためらいなく言う。
「死んだんだ。でも、やっぱり死ねないんだ」
 あたしは放り出されたコンドームを逆さにして、白い液体をフローリングにこぼす。それを指で延ばしてハートを描く。
「涙で絵が描けるか?」
 いつの間にか目を開けたきみが聞く。
「そんなにいっぱい泣けない」
「それ、舐めろよ」
 あたしは指についた白を舐めて向き直る。
「ゴムの舌触りがする、気がする」
 きみはまた目を閉じている。
「俺の体液、ぜんぶ飲めるか?」
「胃液はやだな。髄液も、なんかやだ」
 きみは目を開け、上半身を起こす。
「おまえ、よくそんな気持ち悪いことばっか出てくるな。もっとメジャーな液でいいよ」
「ぜんぶって言ったじゃない。メジャーな液って。変な表現」
 きみはまた、目を閉じて仰向けに倒れる。あああ、と欠伸とも悲鳴ともつかない声を上げる。
「血が止まらない、気がする」
 あたしの爪が引っかいた跡を指して言う。止まらないどころじゃない。ほとんど、滲んでもいない。
「全身の血がアルコールになって沸騰してる、気がする」
「沸騰したら、揮発して水になるよ」
「もったいねぇなぁ」
「じゃあ、飲むよ」
 ハート型の白い液体は、すでに固体じみている。ミルクというより、ババロアだ。




 たくさんのものをこぼしてしまった。覆水盆に返らず。英語では、こぼれたミルクのことで嘆くなとかなんとか。たくさんのものを、もったいないと思いながらこぼしてしまった。誰かがこぼしていった、電車内のコーヒー。落とし主はそれに気づいたのだろうか? 多分、気づいたろう。でも、戻ってはこなかった。こぼれた液体は戻らない。それをもったいないと思っただろうか? それはわからない。
 あたしは、なにを本当はこぼしてしまったんだろう。とりかえしのつかないなにかを、こぼしてしまった感覚だけがある。それは、後悔とか、虚無感とか、そういうことばで表現できるものじゃない。
 きみは、背が高かった。だから、西日に見送られながら、去っていく影が、長く、長く、長く、延びて、あたしが最後に見たきみは、その黒い影。いつまでも途切れることがないような、そんな黒い影。けれど、途切れた。気づいたときには、きみがそこにいたという痕跡だけが、そこに。きみはギター以外は、連れていかなかった。だから、あたしはきみの痕跡を、自ら殺さなくちゃいけなかった。けれど、壁紙に染みついたヤニと、床に染みついた液体の跡だけはそのままで。
 あたしは、本当に、本当はなにをこぼしてしまったんだろう? ウーロンハイよりも、バスタブいっぱいのお湯よりも、いろんな色の体液たちよりも、持ち主不明のコーヒーよりも、もっと大事ななにかをこぼした。それは時間か? きみといた時間。きみが去ってからの時間。しっくりこない。それはきみか? きみの流動的な笑顔を固形化して、あたしの隣にとどめておくべきだったのか? いいえ、これは納得して選んだ結果。それじゃああたし? あたし自身をぐるぐると、排水口に流してしまったのか? これが一番、正解に近い気がする。でもやっぱり、答えではない。
 ねぇきみ、あたしたちがこぼしたすべてを集めて、こねあわせて形にしたら、どんな形になったろう? それはウエディングケーキくらいになったかしら? それは他人が「しあわせ」と名付けるようなモニュメントにでもなったかしら? いいえ、きみはきっとこう言うだろう。
「それは墓標さ。それか、絶対に形になんかならないもんさ」
 だからあたしは、きみの側にいたかった。永遠などない。垂れ流し続けたら、ミルクはいつか、こぼれるんだ。


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管理人:サキ
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