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2005年02月02日(水) 迷子石
数年ぶりの大雪で、浮浪者がふたり、凍死したというニュースが天気予報の中で語られた(二日後にはもうひとり、雪に埋もれた状態で発見された)。
そんな天候だから、通りを歩いている人などほとんどいない。神社境内にある迷子石も、昔話のかさじぞうよろしく、白い雪を重たそうにかぶっていた。
迷子石――奇縁氷人石とも言う。数百年前に建てられたものだろう。迷子を知らせる掲示板のようなもので、右側に「たずぬる方」、左側に「おしゆる方」と彫ってある。子どもにはぐれた親たちは、その子の名前や特徴を書いた紙を「たずぬる方」の方へ貼り、迷子の子どもを保護したものは、やはりその子の特徴を書いた紙を「おしゆる方」のほうへ貼り付けていく。寺社や市の立つところなど、人の出が多いところに、民間で立てられたものであった。
現在はほとんどの場所で、そのようなものは見当たらない。見当たったとしても、それはもはや旧跡遺跡の類で、その本来の役目を果たすことは、すでになかった。
その迷子石の中央に貼り付けられた奇妙な紙切れを、最初に発見したのは、札売りの巫女のアルバイトに来ていた女子高生だった。彼女にはその紙切れの意味するところはおろか、迷子石がなんだかも知らなかったが、薄気味悪くも感じたので、それを神主に渡した。渡された神主のほうも、その紙切れを見て、しばらく考えてしまった。悪戯かなぁなどと呟きながら、しかしと思い、それを今度は神社の経営者に手渡した(昨今、寺社も経営されているのである)。さて、経営者もまた、それを渡されて困ってしまった。神主のほうは荷が下りたとばかりに、
「それではわたしは交通安全祈願のお払いがありますので」
とさっさと辞してしまった。もう内部には上役のいない経営者は、困った挙句に徒歩10分の交番に行くことにした。そこでまた、紙切れを見た警察官が困るはずであったのだが、そこに偶然大手新聞社の記者が居合わせたことで、この出来事は大掛かりな事件に変貌するのだった。
「これはおもしろいじゃないですか。ねぇこれを記事にさせてください。ほら、ここにだって生まれはこの土地ではないという意味のことが書いてある。ここだけで人探しをしたところで、この人が望むような結果は出ませんよ」
「しかしあなた、ここを見てください。悪戯じゃないですか?あきらかにおかしい……」
「年号が明治だったからって、なにがおかしいんです?これはきっと、この人の親御さんがこの人を迷子にした日です。そう考えれば説明がつくでしょう?えぇ、きっとそうに決まってます。任せてください。わたしが記事にして、きっとこの不幸な親子の縁を結んであげますよ」
そしてそういうことになった。警官としても、このようなやっかいな人探しは、他人任せにしたいというのが本音で、正直ほっとしていたことだ。
さて、やっかいなその紙切れの中に書かれていたことを、ここでやっと紹介することにしよう。内容はこうである。
みや 五歳 をんな児
迷子になりたるときは白い西洋風の木綿服を着用
右目の下に目立つほくろあり
初詣の夕刻、○○神社参詣時にはぐれつるが 在はよそにあり
明治四十三年 元旦 きく
そして記者は、これを堂々と、全国版の一面にそのまま載せたのであった。のみならずその手紙の内容に、迷子石の歴史、舞台である神社の明治時代の市がどのようなものであったかと現在の様子、また、そのころの風俗に絡めて「白の西洋風の木綿服」がどのような階級の人間を表すのかなどの説明を加え、仕舞いに記者の独断と偏見によるお涙頂戴の母子物語が付け加えられた。それはよくできた話だったが、ここでは割愛する。
さて、その新聞が発行されるや否や、大変な反響が巻き起こった。
まず、冒頭の神社はものめずらしさもあいまって、一気に参詣人が増えた。迷子石に人探しの願をかけに来る者も多く、石の別名、「奇縁氷人石」が男女の縁結びにも転じていることが触れまわされ、さらに参詣人は増大した。そうなると神社のほうでも、縁結びや失せもの探しのお札やお守りを販売を開始する。それを浅ましいとは言い切れぬのがそんなものを必要とする人の情で、いつのまにか縁結び神社として定着してしまった。
それから新聞社のほうには、毎日数十通の、当時“みや 五歳 をんな児”だったと自称する手紙やらなにやらが届き、さらには涙声で電話をかけてくるものすらあった。けれど、どれをとっても結局は悪戯でしかなかった。数ヶ月も経つと、すっかり鳴りを潜めてしまった。
そしてさらに数ヶ月。
多くの人が、これら一連のことを忘れ去ったある日の朝刊に、小さく、投書めいたものが載せられた。
拝啓
過日は○○神社迷子石の件でお騒がせいたしました。あのように取り上げていただけて、大変感謝しております。
迷子石に張り紙をしたのはわたくしでございました。しかし、あれにわたくしの名前は出ておりません。
みやというのは、わたくしの母、きくというのは母の実母の名前でございます。
母、みやは明治43年の正月に、神社参詣時に母親とはぐれたそうです。とりあえず保護はされましたが、親は迎えに来ず、孤児となり、わたくしの父と結婚するまで、ひとりで生きてきたひとです。
母は捨てられたということはよくわかっていた、と言います。良家の子女であった母がそんなことを言うのには理由があるのですが、ここではそれは言えません。お許しください。
そんな人生を生きてきて、大変気丈な母でしたが、歳もとり、夫であるわたくしの父を亡くし、そんな中昨年病気をしてからというもの、ずいぶんと気弱になりました。無理もないことと思います。そして、口癖のように昔のこと、そうです、明治43年の正月のことを言うようになりました。
「あのとき、母が探してくれていたら……」
と。
そんな母を見ながら、わたくしは迷子石のことを思いついたのです。母の夢にでも母を探す張り紙が出てきてくれればと、願掛けのような気持ちであの日、迷子石に紙を貼り付けました。母を捜していることを知らせる一方で、母はここにいるのだと知らせたい気持ちで、「たずぬる方」、「おしゆる方」の真ん中に紙を貼り付けたのはそのような理由からでした。
その後、母の夢枕に実母が立ったそうです。母はわたくしに涙を流しながら何度も話してくれました。
「お母様が探しにきてくだすったんだよ。……ごめんねと……探したんだよと……一緒に帰れなくてごめんねと……。帰れなくとも、それだけで充分なのに。ねぇ。……ほんとうに、ほんとうに……」
先日、母も他界いたしました。きっと、本当に、実母に迎えられたのでしょう。そう信じられるほどに、安らかな臨終でした。
わたくしは、母と母の実母を結び合わせてくださった迷子石と○○神社様に感謝をささげます。そして、貴社のおかげで○○神社様が多くの、離れ離れになった親と子を結びつけてくださるようになったことに感謝しています。ありがとうございました。
かしこ
××新聞社様ならびに関係者の皆様
みやの娘
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