心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年06月14日(金) もちろん「底つき」は必要ですとも(その2)

(続きです)

さて、12&12のページを先に読み進めると「底つき」について書かれています。最近では底つき不要論も出てきて、AAの本に「回復には底つきが必要だ」と書かれているのは古いんじゃないか、という指摘もあります。しかし、それについて話をしようにも、

「底つきとは何か」

という共通理解がないと、話がかみ合いません。少なくとも「AAの本では<底つき>はこういう意味で使われています」ということをハッキリさせないと、それぞれ違う底つきについて話してしまい、かみ合うはずがないのです。

では、底つきとは何か。AAができたばかりの頃は、重症で「死にかけ」の人たちしかAAで助からなかったと書いてあります(12&12 p.31)。

これは「どん底のケース」low-bottom case、底つきが深い人たちの話です。AAが始まった頃は、そういう人たちしか助かりませんでした。これが、仕事や家族や財産などを失わなければ「底つき」できないという誤解につながったのでしょう。

しかし、この本(12&12)はそうした「何かを失う底つき」の必要性を明確に否定しています。

ところが驚くべきことに、それから数年で、事情がすっかり変わった。まだ元気で、家族もいて、仕事も失わず、そのうえガレージには車が二台もある、といったアルコホーリクたちも、自分のアルコホリズムを認めはじめた。この傾向が広がって、まだほとんど潜在的アルコホーリクと言ってもよいような若い人たちも加わった。この人たちは、私たちが通った、文字通り地獄の十年ないし十五年を経験しないですむようになった。ステップ一は、思い通りに生きていけなくなっていたと認めることを要求しているのに、この人たちはどうやってそれを実行できたのだろうか。(p.32)

何も失わなくても底つきはできる、とハッキリ述べています。そのためにどうすれば良いか。それはAAメンバーが新しい人に対して、自分が気付いたよりずっと以前から、すでに飲酒のコントロールが効かなかっていたこと、それはアルコールによる死の始まりだったことを伝えれば良い、としています。

それを伝えるためには、新しい人に「渇望現象と強迫観念」の二つをしっかり伝え、あなたももうこの悪循環に陥っているのじゃないか、と問いかけることが必要です。そして、それに同意しない人を無理矢理説得する必要はないとも書かれています。

このような受け止め方はすぐに具体的な効果を示した。一人のアルコホーリクの心に、もう一人のアルコホーリクがその病気の本質を植えつけたなら、その人はもう以前と同じではありえない。それが分かったのだ。それ以後、飲むたびにその人はこう考えるだろう。「ひょっとすると、あのAAの連中の言う通りかも」。そしてこういう経験を何回か繰り返し、最悪の状態になる何年も前に、納得して私たちのところに戻って来る。その人も私たちと同じように本当に底をついたのだ。

「アルコホーリクの心にその病気の本質を植えつける」というのもビルの修辞ですが、これは新しい人に「渇望現象と強迫観念」の二つをしっかり伝えるということです。

新しい人はこれが「その二つは自分には当てはまらない」と否定するかも知れません。そして、適量の酒を飲み続けようとするでしょうが、渇望によって飲酒のコントロールが効かないし、強迫観念があるため自力での断酒も続かない。そこで「ひょっとすると、あのAAの連中の言う通りかもしれない」と考えて、納得してAAに戻ってくるでしょう。

これは基本的な介入技法の提案です。まずこの病気についての基本的な情報を教えること。相手がそれに納得すればAAに留まるでしょうし、納得できなければAAを去り、節酒あるいは自力断酒にチャレンジするでしょう。それに失敗し続けたとき、私たちが伝えた情報が生きてきます。AAを拒む人を無理に説得する必要はなく(病気の本質を伝えさえすれば)あとはアルコールがその人を説得してくれるとしています。

「アルコールは偉大な説得者だった。アルコールはとうとう私たちを打ち負かし、正しい状態に叩き込んでくれた」(AA p.70)

少々遠回りのやり方に見えますが、実はそれが一番時間が早いのでしょう。アメリカのAAでは、AAに来なくなった人が再びAAに来る確率は高いという話です。日本のAAはどうでしょうか。もし、一度AAを離れた人が戻ってこない率が高いのであれば、それは私たちのミーティングやスポンサーシップが「病気の本質」から離れてしまい、渇望現象と強迫観念を伝えられなくなっているからだと考えられます。

ただ、発達障害を抱えた人の場合には、このような「情報を教えること+アルコールによる説得」がうまく機能せず、歯止めなく悪化する一方になる可能性もあるので、その見極めをしないといけませんが。

私たちがどうやってAAのメッセージを運んだら良いか、そのやり方もビッグブックに書いてあります。第7章「仲間と共に」は12番目のステップについての章ですが、p.132からp.133には、新しい人に渇望現象と強迫観念のことを伝えることについて書かれています。

これはビル・Wがドクター・ボブを手助けしたやり方と同じです。ドクター・ボブはすでにオックスフォード・グループのメンバーでしたから、ステップのやり方について、ビルに教えてもらう必要はありませんでした。ボブに必要だったのは、ステップ1の情報、渇望現象と強迫観念だけです。ニューヨークからやってきた素人のビルが、医者であるボブに病気についての情報をもたらしました。それによって、ボブはプログラムに取り組む意欲が与えられたのです。

なぜ私たちが飲酒にまつわる体験をミーティングで共有するのか。それは渇望現象と強迫観念の情報(つまりステップ1)を伝えるためです。酒にまつわることであっても、飲酒の武勇伝とか、自分がどんなに酷い酒飲みだったかしゃべれば良いというものではありません。渇望と強迫観念のことがちゃんと相手に伝わるように、自分の経験を整理して話す必要があります。

こうして整理してみれば、「底つき」が何であるか明らかです。底つきは、失うことではありません。底つきは社会の底辺に落ちることでもありません。底つきは、渇望現象と強迫観念という病気の本質を理解し、それが自分の飲酒体験に当てはまることを認めることです。つまり、底つきとはステップ1そのものです。

「AAの誰もが、まず底をつかなければならないというのはなぜだろうか。底つきを経験してからでないと、真剣にAAプログラムをやってみようと思う人はほとんどいない、というのが答えだ。なぜなら、AAの残りの十一ステップを実践することは、まだ飲んでいるアルコホーリクには夢想すらできない態度と行動を取り入れることだからだ。」(12&12 p.33)

底つきをしないと残りの11個のステップに取り組もうとしないからだと書かれています。これからも「底つき」がステップ1であることが分かります。そしてステップ1は決して何かを失うことを求めていません。

「底つき概念」はアディクションに関わる人たちの間に広がっていますが、おそらくその元はこの12&12のステップ1の部分でしょう。だとすれば、「底つき」はずいぶん誤解されて広がっていることになります。ビッグブックを読まずに12&12だけ読んでいれば、渇望現象と強迫観念のことは理解しづらいはずです。この雑記のエントリで見てきたように、12&12にもこの二つのことは簡単に触れられていますが、翻訳の用語の問題もあるし、そもそも説明が短すぎてこれだけで理解しろというのは無理です。

さらに、文中の「どん底のケース」(low-bottom case)と「底つき」が混同された結果、底つきとは失うことであるとか、社会の底辺に落ちるとか、死にかけることだ、という誤解が広がってしまったのではないでしょうか。だとするなら、それは日本のAAが12&12ばかり使って来た結果です。その誤解のおかげで、いったいどれだけ多くのアルコホーリクが無駄に苦しんで死んでいったことか。それを思うと切なくなります。

いま、アディクション業界全体に「底つき不要論」が広がっています。しかしその底つきとは、誤解に基づいたどん底体験を指しており、失う体験の必要性が否定されているだけのことです。ステップ1の必要性を否定しているわけではないので、「底つき不要論」と12&12の文章に何ら齟齬はありません。

さて、12&12に渇望現象と強迫観念の説明がちょっとしかない、ということは、12&12だけ読んでステップ1をやるのは大変難しいということです。さらに、底つき(=ステップ1)がなければ、残りの11個のステップには取り組めないとされています。・・・ということは、12&12だけ使っていたのでは、12ステップには取り組めない、ということになる。どうしてもビッグブックが必要ということです。

ビルは『AA成年に達する』という本の中のAAプログラムの解説で、渇望現象と強迫観念が vital だと書いています。つまり、この二つは必須であり、欠かせないものだ、ということです。それがビルがAAを二十年続けた結論でした。

渇望現象と強迫観念を理解せずに「底つき」を語るべからず、ですよ。

(この項おしまい)


2013年06月13日(木) もちろん「底つき」は必要ですとも(その1)

今回は、重箱の隅を突くような話です。

ステップ1では、

・身体のアレルギー(渇望現象)
・精神の強迫観念(再飲酒をもたらすもの)

この二つを抱えていることを認めることが大切です。

ビッグブックでは強迫観念という言葉はあまり出てこず、代わりに「狂気」という言葉が目立ちます。例えば「ビルの物語」に、「知らぬ間にあの最初の一杯への狂気が襲ってきて、一九三四年の休戦記念日にまた飲み始めた」(p.12)というふうに使われています。

では、このアレルギー(渇望現象)と強迫観念が『12のステップと12の伝統』(12&12)で、どう扱われているか。ちょっと調べてみましょう。

12&12の目次(p.5)には、各ステップの概要が書かれていますが、そのステップ1のところには

強迫観念身体のアレルギー(Mental obsession plus physical allergy)

精神の強迫観念と身体のアレルギーとハッキリ書かれています。

ステップ1についての文章はp.29から始まっていますが、そのページに「強迫観念と身体のアレルギー」のことが書かれています。

スポンサーになってくれた人たちは、私たちが人間の意志の力ではどうしても打ち破ることができない、言いようのないほど強力な精神的とらわれ(meltal obsession)の犠牲者になっていたのだと断言した。

精神的とらわれと訳されていますが精神の強迫観念のことです。

自分の意志の力だけで、この強迫観念(compulsion)と戦って勝つ方法はなかったとも言った。

ビル・Wの文章は、同じ言葉を繰り返さない、同じ事を表現するのに違う言葉を使う、という修辞法が多用されますが、ここでも obsession を compulsion と呼び変えています。(それが同じ強迫観念に翻訳されているのはちょっと皮肉だ)。

私たちのとまどいにもかかわらず、その人たちは、アルコールに対する私たちの感覚がますます過敏になっていることを指摘し、それは一種のアレルギーだとも言った。

「私たちのとまどいにもかかわらず」の部分の原文は Relentlessly deepening our dilemma ですから、「私たちをますます深刻なジレンマに陥れたのは」という意味です。ジレンマとは二つのことの板挟みになることですが、その一つは前述の強迫観念(再飲酒をもたらすもの)、そしてもうひとつはここで「アレルギー」だと言っています。

そのアレルギーとは our increasing sensitivity to alcohol ・・・アルコールに対して私たちがますます過敏に反応するようになってきたことです。渇望現象のことですね。

続きを読み進めましょう。

アルコールという暴君が私たちの上に双刃(もろは)の剣(つるぎ)を振るった。

強迫観念と渇望現象の二つを「両刃の剣」という詩的な表現で表しています。(あぁ〜、ビルの修辞法ってめんどくさいね)。

まず私たちは、狂ったような衝動、飲み続けるようにと宣告されたような衝動にかられた。次いで、自分自身を破壊することになる身体のアレルギーに打ちのめされた。

渇望現象が、もっと飲み続けたいという狂ったような衝動である(だから酒量がコントロールできない)ことが分かります。この渇望現象がアレルギーそのものです。(飲んだせいで肝臓とか痛めるという話じゃなくて)。

この戦いで孤軍奮闘して勝利を得た者はほとんどいない。アルコホーリクが自分の力で回復できたことはほとんどない。これが統計上の事実である。

この渇望現象と強迫観念のタッグチーム相手に、自分の意志の力で戦って勝利し、回復できた人はほとんどいない(つまりあなたはアルコールに対して無力だ)ということを伝えています。

こうしてみると、12&12でも渇望現象と強迫観念というステップ1の情報について、ほんとうに簡単にではあるけれど、一応言及されていることがわかります。とは言うものの、こんなわずか数行の文章で内容を理解するのは無理なことです。ステップをやるための重要な情報を伝える役割はビッグブックに譲り、12&12はビッグブックを理解した人向けに補足情報として書かれたことが分かります。

ついでに、この数行を読むと、AAに新しく来た人に渇望現象と強迫観念について教えるのは、スポンサーの役割だということが分かります。

メッセージ活動に意欲的なグループでは「仮スポンサー制度」というのをやっています。12ステップはスポンサーと一対一のペアを組んでやるものですが、新しい人が相手となるスポンサーをなかなか決められず迷い続け、そのままAAを離れてしまうことがよく起きます。そこで、グループメンバーが仮スポンサーを務めることをします。(言わば仮にスポンサーを「あてがう」わけです)。それが本当のスポンサーシップに発展することもあるし、もし相性が悪いとなれば、日常の相談に乗りつつ、本当のスポンサーを見つける手助けをするのが仮スポンサーの役目になります。渇望現象と強迫観念について新しい人に伝えるのは、この仮スポンサーが適任じゃないかと思います。

「AAに行ったのに、渇望現象と強迫観念については教えてもらえなかった」という人がいるなら、それはAAがステップ1を伝える機能を果たしていないわけですから、私たちAAはそれを自分たちの問題点として認識して改善しなければならないと思います。

さて、12&12のページを先に読み進めると「底つき」について書かれています。最近では底つき不要論も出てきて、AAの本に「回復には底つきが必要だ」と書かれているのは古いんじゃないか、という指摘もあります。しかし、それについて話をしようにも、

「底つきとは何か」

という共通理解がないと、話がかみ合いません。少なくとも「AAの本では<底つき>はこういう意味で使われています」ということをハッキリさせないと、それぞれ違う底つきについて話してしまい、かみ合うはずがないのです。

(続く)


2013年06月04日(火) 危機と成長

このサイトへのアクセス数はこれまで3,000/日ぐらいだったのが、3月から6,000/日とほぼ倍増しています。3月の何が影響したのか(あのシンポジウムか?) 無差別なアクセスが増えている可能性もあるので、セキュリティ対策のためCMSのアップデートをしておきました。

さて、少し前に掲示板でこんな文章を取り上げました(文章は田辺等先生のもの)。

> G.キャプランという、かつて地域における精神保健活動で指導的な活躍をした精神科医は、危機は、人がそれまでのその人なりのやり方では解決できないが故に危機なのであるが、そうであるからこそ、人は平時以上に、新しい対処法、新たな取り組みへの助言や指導に耳を傾ける。だから、危機は、人がそれまでにない新たな方法を身につけて、大きく成長していくチャンスでもある、という主張をしています。
http://www.knt.co.jp/ec/2013/jhcpa56/aisatsu.html

キャプランの危機理論というやつです。

「危機」は、問題を克服できない状態です。そこには混乱と動揺があります。

「アルコール依存症になって、飲みたい酒をやめなくてはならなくなった」という事情そのものは危機ではないと思います。多くの人が自分なりのやり方で酒をやめてみようとします。そして、ある程度それに成功します。

自分のやり方で断酒が続いているうちは、その人に危機という意識はないか、あっても薄いものでしょう。このまま断酒が続いて酒の問題が解決されていくという希望を持っていますし、周囲の人もそれを期待します。

しばらくすると、再飲酒が起こります。目端の利く人なら、次は別のやり方で酒をやめてみます。それでも失敗すると、また別のやり方を試します。そうやって何種類かの解決手段を試し続けるうちは、やっぱりまだ「危機」とは言えないのだと思います。

やがて万策尽きます。その人の行動レパートリーの中に解決手段が含まれていないことが明らかになります。つまり自分のやり方では酒をやめられない、ということが分かります。これこそが本当の危機です。

その人は混乱し、動揺(絶望)するでしょうが、危機は成長へのチャンスだと言います。つまり自分のやり方では解決できなかったのだから、新しい方法を身につければ良いのです。そのために、それまで拒んできた助言や指導に耳を傾けることができるようになります。

イネーブリング理論とか底つき理論は、この「危機」を早くもたらすために、周囲が本人を手助けせずに突き放す必要があるという考え方でした。最近この理論が否定されつつあるのは、本当の危機が訪れるまでには長い時間がかかり苦しみや損失を不必要に増やすこと、また絶望して死を選んだり、危機に直面しても変わることが出来ない人が多い、という欠点があるからです。

人間には知能があって、未来を予測することができます。自分が飲まなくても、同じ病気の他の人が飲んだことを知って、再飲酒が自分の身にも起こる危険の高いことを知ることもできます。十分な情報を提供されれば、実際に危機と絶望を体験しなくても、いま自分が十分危機的立場に置かれていることが理解できる人は少なくありません。デタッチメントからコミットメントへと時代は変わりつつある(はず)。

AAで「自分の考えを使うな」と言われるのも、「新しいやり方を身に着ける」という考え方をすると理解しやすくなります。今までの自分が持っていなかった(持っていても使えなかった)やり方だからこそ、「新しいやり方」が必要なのです。

人は信念や信条というものを持ちます。信念や信条はどうやって身につくのでしょうか?

生きていれば大小いろんな問題が起きます。問題に直面して、人に教えてもらったり、自分で試行錯誤して、何とか解決手段を見つけ出し、問題を克服します。次に同じ問題が起きたとき、今度はもう試行錯誤を繰り返すことはせず、前回やってうまく解決できたやり方で問題を解決します。こうして成功体験を繰り返すことで、「こういう場合には、こう考えてこう行動すると良い」という信念・信条が出来上がります。

その信念・信条が、問題をうまく解決できているうちは「危機」ではありません。でも、解決できないからこそ危機になったのであり、そのときに「自分の考え(信念・信条)」を頼っていたのでは、危機を克服できません。

人間は、問題に直面し新しい対処方法を身に着けることを繰り返して、徐々に精神的に成長・成熟していくのだと思います。人生の中でこれがたくさん起こるのは、思春期から20代前半でしょう。この時期に若者たちは、現実にぶち当たり、苦悩し、そして精神的に成長していきます。

アルコホーリクはこの時期に酒を飲みだした人がほとんどです。他の人たちが、悩み、成長している一方で、アルコホーリクは苦悩を酒でごまかして、自分を成長させることがないまま、おじさん・おばさんになってしまったわけです。ジョー・マキューは、私のところに来るアルコホーリクの考え方はたいていティーンエイジャー並だと言っています。僕はむしろ加藤諦三の言った「五歳児の大人」という言葉のほうが合っているように思うことが多いのですが・・・。

こちらによれば、五歳児どころではない「二歳児」だといいます。こうなると霊的な幼稚園どころじゃない、乳児院だよ。

クズ野郎の正体、または二歳児にバスを運転させない方法
http://powerless.cocolog-nifty.com/alcoholic/2013/05/post-4525.html

話し変わって、「危機」は二種類に分けられるそうです。ひとつは「状況的危機」で、これは震災や事故、死別、離別などによるもの。予期し得ない出来事によって、それまでの安定していた状態が脅かされるものです。

もうひとつは「発達段階における危機」です。アルコホーリクの危機がどちらの危機なのか、言わずもがなでしょう。ある医師が「12ステップは、その人が大人になる過程で身に着け損ねたものを、まとめて身に着けさせてくれる手段だ」と表現したそうです。賛成です。

(身につけ損ねるばかりでなく、せっかく身につけたのにアディクションに耽溺する中で失ってしまったものも少なくないだろうと、考えています)。

アルコールの人も、薬物の人も、ギャンブルの人も、そのほかの依存の人も、ACの人も、みんな頭の中はティーンエイジャー(or五歳児or二歳児)みたいなものです。「精神的に若い」のと「精神的に幼い」のは違います。頭の中が幼いままで、社会から大人としての役割を期待されたら、そりゃ人生はストレスばっかりでしょう。解決は自分が成長することです。

12ステップは「今のあなたのままで良い」とは言いません。成長、つまり変化を要求します。

(ただ、世の中には「変えられないもの」もあります。例えば最近話題の発達障害などは、変化できないからこその障害です。変化できないものを変化させようとすれば、苦しみはかえって増大します。けれどまったく何もかも変わらないわけではありません。「二つのものを見分ける賢さ」が必要なのは言うまでもありません)。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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