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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年11月30日(金) 恋愛上下関係論 今日はお休みの日であり、午前中布団の中で一日の計画を練っておりました。
ここのところずっと職探し中だったスポンシーから、正社員採用されたという知らせが先日届きました。彼とは毎週ミーティングの前にビッグブックの分かち合いを続けている、毎回4ページぐらいしか進みません。細切れになると、どうも集中力を欠きます。しかも、来週から彼が勤務を始めてしまえば、それが続くかどうかも不確定です。
これはどうも良くない。
「よし、自宅まで押しかけてやろう」(ヤサは知っていることだし)と思いついて、携帯にかけてみると、あに図らんや、わずか5分ほどの距離にいることが判明しました。こういうのを偶然と呼ばず、神の意図と呼び習わすのだ、と先ゆく仲間から教えられているのです。
そんなわけで、平日昼間のカラオケボックスで、中年男二人が、歌も歌わずに3時間半、ビッグブックの分かち合いをしたのであります。第2章途中から第3章のお終いまで一気に進めました。ここは結構厳しいところですね。「お前は酒に関しちゃマトモな判断のできないキチガイだ」って言っているところです。厳しいスポンサーで申し訳ないとは思うのですが、ヌルいことは言っていられません。
夕方は精神科のクリニックへ。昼間眠くてたまらないので、増えた薬を元のように減らしてもらいました。最近ずっと患者の注文どおりの処方になってませんか、先生?
さて、ステップはドミノ倒しという話を書こうと思ったのですが、今日は真面目な話はもう飽きたので、「恋愛の上下関係」というヌルい話にしましょう。
恋愛依存症の人に教えてもらったのですが、「恋愛とは上下関係」なんだそうです。ここで、男女は平等であるとか、恋愛はお互いのリスペクトが大切なんていう話は脇に置いておいて、単なる恋の駆け引きの話です。
デートでもセックスでも、お互いの合意がないと成り立ちません。
「今度の週末デートしようよ」と誘っても、相手に「ダメ」と言われたらそれっきりです。この場合「ダメ」と言っている方に主導権があり、これを上とすれば、誘う方は下です。
逆のパターンもあり、「今度の週末デートしようよ」と誘われたときに、都合が悪くて断ってしまうとこの先当面デートできないような場合は、今度の週末は万障お繰り合わせの上デートにはせ参じなければなりません。ここでは誘っている方に主導権があります。
たいてい「より愛してしまった」方が主導権を握られ、愛された方が主導権を持つことになります。もちろん、恋愛の気持ちには波がありますから、この主導権は男に移ったり、女に移ったりしていきます。プレゼントを贈ったり、体を許したりなどなどして、主導権の奪い合いをするのが「恋の駆け引き」の楽しさでもあります。
だから、天にも昇る気持ちになるときもあれば、○| ̄|_ になるときもあるのが恋愛です。恋愛だってストレスなんですよ。
ところが精神的ストレスに対する耐性が低い人の場合、相手に主導権を握られた恋愛に耐えられません。なんとか主導権を奪い返し、望むときにデートし、望むときにセックスしたい・・でも回りくどい手順を踏んだり、時機の到来を辛抱強く待つのも嫌だとなれば、あとは力づくの解決しかありません。
というわけで、デートの時に暴力をふるって相手に言うことを聞かせようという「デートDV」になってしまうわけであります。
いつも心地よい思いだけしていたい・・という点では依存症と似ているのかも知れません。
砕けた話をしようと思ったのですが、最後はなんとなく真面目な締めになってしまいましたね。あなたも、いつもだらだらと長いこの雑記を、よく最後まで読んくれますねぇ。それは結構すごい能力かも知れませんよ。
2007年11月29日(木) 我が役者 さすがに社長肝いりのプロジェクトが佳境の時に、一週間休職したら、大事な仕事からは外されてしまい、毎日定時で帰れる身分になってしまいました。まさに神様は必要なものを与えてくれる、という仕組みになっております。
そもそも神様は、僕に「そのままでオッケーだよ」と言っていてくれるのですが、僕はそういうポジティブなメッセージが耳に入らないのであります。
例えば一日会社を休んでしまっただけで、「ああああ、また休んじゃったよ、俺ってダメ人間」という自己嫌悪と落ち込みの沼にズブズブとのめり込んでしまいます。そういう自虐的、自罰的なところから、実は歪んだ満足を得ていたりもします。
ようやくその泥沼を脱して、「調子が悪いんだから、休んでも仕方ないじゃーん」と開き直れた頃、仕事を休んだついでに、母と実家で夕食を食べる約束もすっぽかしたことをすっかり忘れていたせいで、実家からの電話に間抜けな声で出てしまったりすると、母が、
「お前、また仕事休んでるんだろう?」
と、ダメ出しが出てしまい、せっかく退けた自虐の心がぶりかえして、一からやり直しだったりするのであります。かように親というのは、60歳、70歳になり、よぼよぼになっていようが、恐ろしいものは恐ろしいのであります(いろんな意味で)。
神様の愛は無条件なので、「ステップを使って回復しなければお前を愛さない」というような条件(値札)はついていません。それは「回復しなかろうが、酒を飲もうが、浮気をしようが、人を殺そうが、お前を見捨てはしない」という深く揺るぎない愛情なのですが、未熟な僕はそうした無条件の愛をついつい生身の人間に求めて、結果お互いダメになってしまったりするのであります。
他方、神の愛の無条件が信じられず、常に誰か(何か)の役に立っていなければ、品行方正でいなければ、自分は無価値な人間なのではないか、だから辛くても頑張らないと・・という強迫観念の虜でもあります。そりゃ生きるのに疲れ果てたりもするって。
結局の所、自分が神の役を演じている間は、どうにもなりません。
別段そんなことは「神」というコンテクストを使わなくても説明できることなんですが、「生身の人間からは得られない深い愛情を与えてくれる存在」というのを説明するのに「神」という言葉が一番分かりやすくて便利なのであります。
2007年11月28日(水) 奇妙な安定 例えば旦那さんが飲んだくれのアル中で、奥さんが一生懸命旦那の世話をしているとします。この関係は不健康ながらも、奇妙な安定のもとにある場合が多いのです。だから、現状維持の圧倒的なパワーが働き、なかなか事態が変わりません。
奥さんが、これではいけない、と思って、医者へ行ってみたり、断酒会やアラノンへ行ってみたり・・・そういう行動を始めると、奥さんに変化が訪れます。すると、不健康ながらも安定していた関係が不安定になってきます。健康な関係に変化するためには、これは避けて通れないフェーズのようです。
そこで(おそらくは意識せずにでしょうが)旦那さんが以前より大きなトラブルを起こして、奥さんの変化を止めようとする行動に出ることがあります。それによって、奥さんが引き戻され、ふたたび夫婦は以前の不健康な安定を取り戻す・・というパターンが繰り返されます。
逆もあって、旦那さんが酒を止め始めたら、奥さんがうつ病になったり、浪費に走ったり、男に走ったりして、旦那が安心して家を空けられないということになり、またずるずると酒を飲む生活に戻っていく、というパターンもあります。
奥さんがアル中の場合には、シラフで家を空けがちな奥さんよりも、飲んだくれでも家にいる奥さんの方が良い、っていう旦那はいっぱいいそうです。なので、旦那が奥さんの回復の足を引っ張る引っ張る。結局離婚するまで回復が始まらない場合もしばしばです。
同じことは親と子でも起こります。この場合の abuse な関係も、不健康ながらも奇妙に安定しています。子供が多少回復して、精神的に自立しようとすると、親の方がなんだかんだと圧力をかけて、元の abuse な関係に引きずり戻そうとするのもよくあります。
酒を止めるのと親子の関係の整理が同時進行する場合、親と同居ってのは、実は大きなハンディキャップだったりします。ただ、金銭的にも不安定な時期なので、親のすねを囓れるだけ囓るってのも必要だったりします。
けれど、優先順位からしたら、多少経済的に無理をしても(つまり生活保護を受給する羽目になっても)、親元から離れた方が順調にいくと思います。まあ、酒が止められなければ孤独死しちゃうかもしれませんけど。
(僕は見たことがありませんが、親の回復の足を、子供が引っ張るっていうケースもあるそうです。その場合引き離すべきかどうかは、専門家でも意見が分かれているようです)。
アル中の奥さんがやっと離婚して回復が始まると思ったら、実家に戻って今度は親に足を引っ張られたり・・・。回復を応援しながら、同時に足を引っ張る人間は多いのであります。
2007年11月27日(火) もう少し believe と faith について この「とりあえず信じてみよう」は大事です。
世の中には様々なダイエット食品が溢れています。ダイエット食品などという曖昧な名称ではなく、減量食品と名付ければよいと思うのですが、そこまで直球な名前はつけられないのかも知れません。
我が家の食卓には、プロテインやら健康茶やらの、さまざまなダイエット食品が並んでいます。並んでいる=消費されずにそこに並べられている、ということです。使わないんだったら、邪魔だから捨てちゃえばいいのに・・・と思うのですが、捨てるとすごく怒られます。「高かったんだから」と責められます。なので捨てられません。困ったものです。
さまざまな広告を見て、これを食べれば(飲めば)痩せるかも知れない・・・と妻が思う=believeであります。そして、買うという行動に出ます(まったく相談もなしに、誰が稼いだ金だと思ってんだよ)。ところが、実際には痩せるという結果が出ないために、この beleive は faith に変わらずに終わってしまいます。
なぜ結果が出ないのか、それには二つの原因があると思います。
ひとつは、そもそもその食品に痩せる効能がなかった場合、つまり実力(power)がないという可能性です。例えば、お茶を飲むだけで痩せるとは、僕にはとうてい信じられません。
別の可能性は、買うところまでは行動が伴ったものの、そこから先が続かないパターンです。例えば○イクロダイエットという商品の場合、一日3食のうち、1食は食事制限せずに普通に食べて良いことになっています。残りの2食は、まずそうな粉末ジュースを飲むことで食事の替わりにしなければなりません。その粉末は「ダイエット時に不足しがちな栄養を補ってあまりある」そうなんですが、腹は減りそうです。これが続く人は少なそうです。
そう「行動を伴わない信仰は死んだ信仰」であり、役に立たない=結果が出ないのであります。
こうして我が家の食卓には「死んだ信仰」の残骸が積まれていくのであります。
2007年11月26日(月) 短いお話 ひさしぶりの勤務で疲れたので、昔いただいたメールのコピーなどでお茶を濁してみます。
「満足している漁師」というお話。アントニー・デ・メロという人の作。
北部から来た金持ちの実業家が、パイプを吸いながら自分の船のそばにのらくらと寝そべっている南部の漁師を見つけて、大変びっくりしました。
「なぜ漁に出かけないのかね?」と実業家は尋ねました。
「だってわしは今日の分のをもう捕まえましたからな」と漁師は言いました。
「何故それ以上に魚を捕まえないんだね?」と実業家は言いました。
「それがどうだって言うんです?」と漁師が尋ねました。
「もっとお金が儲かるではないか。それであんたはモーターをあんたの船に取り付けられる。それでもっと深い海に行き、もっとたくさん魚が捕れるではないか。ナイロンの網が買えるではないか。そうしたらもっと魚が捕れ、もっと金が儲かるではないか。間もなくあんたは2そうの船が買えるだけのお金を持てるだろう・・・多分もっとたくさんお船だってね。そしてあんたは、私のように金持ちになるだろうに」
「それがどうだって言うんです?」と漁師が尋ねました。
「あんたは何もせずに人生が楽しめるってわけさ」と実業家は言いました。
「では、わしが今していることとどう違うのですか?」と、満足しきっている漁師が言いました。
2007年11月25日(日) 頼りになる? AAのサービス関係で東京へ。東京は暖かいですね。年内はサービス関係の遠出はこれでおしまいです。
さて、たとえ話であります。
あなたが、身に覚えのない多額の損害賠償を請求されたとします。「そんなものを払う理由はない」と突っぱねたところ、相手は弁護士を立てて裁判になってしまったとします。ところが、あなたには法律の知識が何もないものですから、このままでは相手の良いようにあしらわれて、多額の債務を抱えること必至です。
自分の問題なのに、自分では解決の能力がない(法律上の実力がない)。これをアルコールの問題に置き換えると「酒に対して無力」ということ、あなたはアルコールの問題をかかえているものの、自力では解決の能力がありません。ステップ1です。
法律の問題に戻りましょう。
そこであなたは、頼りになる弁護士を探す必要に迫られます。でも、世の中にはクライアントを食い物にするような悪徳弁護士もいるようです。あなたは方々で聞いて回った結果、「かんた」という弁護士が頼りになる、という話を聞きつけます(きっとかんたさんは優しいから、ここで名前を出すことを許してくれますよね)。
「私は法律の問題があると、かんたさんにお願いすることに決めているの」とその人は言います。これがAAのミーティングで聞くステップの経験談に相当しますね。
あなたはその話を聞いて、かんたさんを信じてみることにします。ここでの信じるは believe。これはステップ2。ニュアンスで言えば「とりあえず信じてみようかな」というか「ものは試し」であります。
次にあなたはかんたさんの事務所を訪問し、専門家としての援助をお願いします。これがステップ3です。そしてかんたさんの指示に従って、あれやこれや準備をし、裁判に臨みます(ステップ4以降の実行)。はたしてかんたさんの評判は本物であり、あなたもかんたさんを信頼してその指示によく従った結果、見事裁判を無事に切り抜けます(アルコールからの解放)。
料金も適正かつ良い結果が出たことで、あなたはこの専門家(かんたさん)にお願いして良かったなと思い、かんたさんを深く信頼することになります。あなたはもし次回、どこかで法律のトラブルに巻き込まれたときには、またこの人にお願いしようと決めるほど、かんたさんを信じるようになります。ここでの信じるはすでに believe ではなく faith 信頼あるいは信仰です。結果によって実力が証明されることで faith となります。
繰り返し証明されることで、この信仰は深められていきます。
さらにあなたは、法律のトラブルに巻き込まれている人を見かけると「それはかんたさんにお願いすると良いよ」と紹介するようになります(ステップ12)。
この最初の「とりあえず信じてみようかな」が大事です。最初から疑ってかかって、指示に従わないようでは、たとえ神様と言えども実力を証明しようがないのであります。
2007年11月24日(土) 予備の原稿 正直になると言うことは、怒っているのに、怒ってないふりをするということではありません。傷ついているのに、傷ついていないふりをすることでもありません。
どうして、怒っていないふり、傷ついていないふりをする癖がついてしまったのか。それはおそらく、自分を守る手段だったのでしょう。怒っていること、傷ついていることを表現するよりも、じっと黙って耐えた方が安全だったのでしょう。表現すれば、もっと嫌な思いをし、もっと傷つけられる羽目になるから、平和を装ってきたのです。
その怒りを溜めに溜めて、あげくにどーんと爆発する。爆発のきっかけを作ってしまった人は、「普段おとなしいこの人が、こんなに怒るなんて、私とんでもなく悪いことをしてしまったかしら」と思い悩んだりします。可哀想に。でも、膨らみすぎた風船が、静電気のパチっというショックで割れただけの話です。
怒りを適切に表現する、なんて話もありますが、そんな高度がテクニックがすぐに身に付くんだったら、こんなひねくれた大人に育っていません。
仕方ないから、小出しに出すしかないでしょう。仲のよい夫婦というのは、「お互いに」ギャーギャー文句がうるさいものです。でも、毎日夫婦げんかをしているのとは違います。
我慢するのが解決方法で、怒らないようにするのが回復だと思うのなら、それは勘違いですよ。怒らない日が3日あって、1日怒っただけだとしても、3日溜めた分だけヒドかったりしますから。
怒りを根本から取り除くということは、人にできる業ではないと思います。
2007年11月22日(木) サクリファイス あまりに多くの時間、あまりに多くの情熱、あまりに多くの金銭などなどを「AAに捧げ」、それ以外のことを犠牲にしている人もいます。まるでその人の人生はAAのためにあるかのようです。
そうなると、依存の対象がアルコールからAAに変わっただけではないか、という批判も出てきます。もっとバランスを取り、自分本来の人生を大事にしたらどうか、という提案も出ます。AAがカルト的で恐ろしい所にも見えてきます。
そういう問題について、僕も今まで考えてこなかったわけではありません。
いままで僕の考えが変わってきたように、将来も意見が変わるかも知れませんが、ともかく現時点での僕の結論は、「そういう人には、それだけAAが必要であり、それ以外の人生はあり得ないのだ」ということです。「あまりに多くをAAに捧げ、その対価としてソブラエティを手にする」のか、あるいは「飲んだくれに戻る」のか、二者択一しか許されない状況の人がいると解釈しています。
それが不幸なことなのかは分かりません。本人が自分の選択に納得しているなら、人がとやかく言うことではないでしょう。
逆に言えば、依存症とはそれだけ厳しい選択を人に迫る(こともある)病気なのです。
もちろん、それほどAAに傾倒しなくても酒が止まり続けている人もいます。家のローンを払うために仕事が忙しく、年に何回かしかAAミーティングに来れない人もいます。けれどそういう人のAAに対する感謝も、どっぷりAAにハマったひとの感謝も、違いはないと思います。
そして、自分が「どっぷりAAにハマる必要がある」か、「たまにAAに顔を出すだけですむ」のか、残念ながら自己決定できる選択ではありません。俺はAAに人生を費やしたくないと言いながら、酒に人生を費やしているようでは話になりません。定期的にスリップしていたり、酒が止まっていても感情のトラブルを抱えているなら、人生の他の部分を犠牲にして、AAにより深くハマってみるしかないでしょう。
病気の重さは自分では決められません。
サクリファイス(sacrifice)とは生け贄を捧げるという意味です。手放したくないと思っていた何かをサクリファイスしなければ、次の人生が開けてこないってことは、何もAAに限った事じゃないでしょう。
ミーティングの数を減らしていって、酒を飲んでしまったら減らしすぎだった、ぐらいしか判断の方法がないのであります。
2007年11月21日(水) 研修会メモ書き(primary disorder) 長野県北部には断続的に雪が降るという予報でした。
実際にミーティングからの帰りには、雪が舞っていました。ただ、気温がまだ零度付近なので、積もるようになるのは先の話でしょう。
さて、研修会の話。
非常に基本的な話として、依存症全般は「原発的な疾患」であるという話。
依存症ではない人が、例えば大失恋という辛い体験が乗り越えられなくて、酒に溺れることで失意を紛らわそうとしたとします。この人が毎日酔っぱらっていたとしても、大元の原因である失恋が取り除かれれば・・・、つまり時間の経過によって脳がバランスを取り戻すとか、別の恋愛をするとか・・もはや酒を飲んでごまかす理由もなくなるので、酒に溺れることもなくなります。
心の悩みという原因があって、飲んだくれという結果が生まれます。
精神科医やカウンセラーのところに持ち込まれるトラブルには、表面的な症状とは別に、トラブルの原因となっている他の問題が潜んでいることが多いのだそうです。
一方依存症の場合には、最初は他の問題のために飲酒が始まったのかも知れませんが、この病気になってしまったら、もう原因を取り除いても、飲酒が止まるわけではありません。飲んだくれていることが、さらなるトラブルを呼んでいるわけで、トラブルを周囲の人が解決したからといって、依存症は治まりません。
依存症そのものが primary 第一の、主要な、おおもとの病気です。家族(奥さんやお母さん)から、こんなに本人が飲んだくれているのは、なにか心の悩みが原因ではないか、という相談を受けることがありますが、原因探しをしても始まりません。
だから、女優のお母さんが記者会見して謝罪しても、何も解決しません。親の育て方が悪かったという話でもありません。だって息子ももう成人男性なんですし、問題は薬物依存という病気なんですから。NAでもDARCでも、金があるなら海の向こうのどこかの施設でも、放り込んであげるのが適切な行動ということです。
2007年11月20日(火) サプリメント ドラッグストアに行き、「アミノ酸のサプリメントはどこですか?」と聞いてみたものの、パートのおばちゃんにはよく分からないらしく、結局自分で探す羽目になりました。
必須アミノ酸トリプトファンは、精神を安定させ、睡眠を促すといいます。脳内物質セロトニンの原料であり、逆に言えばトリプトファンが不足すれば、セロトニン不足になってうつになるとも言えます。最近人気のゴマのサプリに入っているのだそうです。
同じく必須アミノ酸のフェニルアラニンはノルアドレナリンとドパミンの原料です。これを補うのもうつ病に効果があり、例によってうつ病に効果のあるものはADHDにも効果があるというわけです(ただし摂りすぎればセロトニンの合成を阻害するそうです)。
見つけたアミノ酸のサプリメント剤は、「アミノダイエット」という名前でした。これを飲めば痩せられるなどとは一言も書いてありませんが、妻は痩せられるかもと期待を持っていましたが、単に名前にだまされやすいだけの話です。減量時に不足しがちな栄養素を補うサプリメントという名称でしょうね。
あと、カルシウムとマグネシウムの入った「マルチミネラル」と、ビタミンB群の安い錠剤を買って、しめて4千円でした。二人で飲んだら半月も持たないでしょう。本来であれば、栄養のバランスの取れた食事で補うべきなのでしょう。とはいえ、理想は理想、現実は現実と区別するのがAAメンバーとしての生き方であります。
いろいろ教えていただいてありがとうございます。
ジョー・マキューの本を読むと、ビッグブックは cover to cover、表紙から裏表紙まですべて読めと書いてあります。僕のホームグループのビッグブックミーティングは、隅から隅までよむことで知られていますが、さすがに表紙とか、目次とか、奥付は輪読しませんな。この場合でもやっぱり「中途半端は何の役にも立たない」のか、それとも「理想は理想、現実は現実」なのか・・・。
悩むところです(いや、悩まなくていいか)。
2007年11月19日(月) なぜか熱く語る 医者に行き、「一週間」という注文で診断書を書いてもらい、それをそのまま郵便局で会社宛に差し出しておきました。ともかく今週はお休みです。銀行によって帰ろうと思ったら、近くで火事があったらしく、規制がかかっていて大渋滞でした。
妻が優しい。精神的にも肉体的にも調子が悪そうですが、旦那が一週間で元気になって欲しいという気迫を感じますし、またそのがんばりも一週間続けるのが限度だろうということも感じられます。
ユニクロでハイネックのTシャツを買いました。首筋が暖まると、これほど暖かく感じるとは思いませんでした。体温のセンサーは、後頭部の下の方、首の上あたりにあって、それで体表の血流量を制御しているんだとか。入浴中もその部分までお湯に浸かると、全身がぽかぽか温まります。それと同じ原理でしょうね。
食欲が落ちているものの、体重も減りすぎているので、頑張って食べています。
さて、
親との関係が改善していないと「回復していない」と見なされてしまう、日本のAAの奇妙な文化はどうにか変えられないものか、と強く思います。ミーティングで親への恨み言をしゃべったりすると、「親には感謝しなくてはならん」というツッコミが各方面から入って可哀想なことになっている人を見かけたりします。
「私は親に感謝している」と言い、お前も感謝しろという「提案という名前の非難」をする人に限って、じゃああんたは定期的に帰省して親孝行しているのかよ、と聞くと、答えがごにょごにょだったりします。
僕は親には感謝していますが、正直24時間以上一緒にいると、ストレスのほうが大きくなります。だから帰省しても夜はAAミーティングに逃げ出したりしていますし、自分の能力以上のことをする必要もないと思っています。距離があるからこそ安定する人間関係ってのもあります。
「ミーティングで親への恨みを言うと、回復していないとみなされて、あなたのAA内での評判が落ちるから、言わない方が良いよ」
という類は、僕に言わせれば最低のアドバイスです。それを言わねば回復できない時期あるんですから。ましてや、同居していて現に親との関係にストレスがあるのに、「それは言うな」と言ってしまえば、回復の手足を縛ることにしかなりません。言いたいことを言えない縛りから、自分を解放することが必要なのに。
「親には感謝しなくてはならん」という縛りを与えたのは、おそらくはその人の親でしょう。ミーティングで夫や妻に対する恨み言は笑って聞いていても、親への恨み言となるとシーンと会場が押し黙るのも変な話です。
それと、「AAの中での自分の評判」なんてものを気にかけたら、AAが、AA以外の世界と変わらなくなってしまいます。僕は良い評判よりも、回復のチャンスの方が欲しいですよ。
それから、信用できるAAメンバーと、信用できないAAメンバーがいるわけではありません。自分が相手を信用するかしないかです。そして、信用できる人が多いほど、感情は安定し、孤独からも解放されます。つまりそこも自己決定です。
2007年11月18日(日) 寒い寒い 一気に寒くなりましたね。
山には雪雲がかかり、北風で里まで飛ばされてきた雪が、にわか雨になって降る一日でした。
易怒性という言葉があります。病的に怒りっぽいという意味です。
怒りっぽいのに似て、病的に疲れやすいというのは、なんて表現するのでしょう。易疲性? いや易疲労性か。起きた瞬間は、けっこう調子よく感じて、今日はいろいろ出来るかもしれないと思うのですが、3時間も活動すると疲れてきます。
ホームセンターに、エアコンを外した後の穴に被せるキャップを買いに行きました。それだけなら何のことはないのですが、「パパと一緒に行くヤツはいるか?」と家族に声をかけたのがいけませんでした。なぜか、ユニクロに寄る羽目になってしまいました。日曜日のユニクロが、こんなに殺人的に混んでいるところとは知りませんでした。おかげで途中で3時間タイマーが切れてしまいました。
さて、生まれてくる赤ちゃんの性別は、男51に対して女49ぐらいになるといいます。これは男の赤ちゃんが病気にかかりやすかったり、男の方が好戦的であるために、寿命全体を平均したときに、ちょうど50:50になるという自然の摂理であるようです。
しかし今は文明の時代、医学も進歩し、戦争も職業化してきました。結果的に、成人した後の人口比も51:49という偏りを残ったままとなりました。
これだけなら、男性の約2%がパートナーにあぶれるだけで済むはずです。しかし、今の日本社会に、結婚できない男性がもっと目立つのはなぜでしょうか。
その背景には、人口減少の影響があるようです。もう30年以上、生まれる赤ん坊の数は毎年減り続けてきました。ところが、男は結婚相手として、自分より年下の女性を選ぶ傾向は変わっていません。自分の世代より若い世代は人口が少ないということは、つまり女性の絶対数も少ないのです。
現在、女性の生涯非婚率が6%程度なのに対し、男性は12%とほぼ倍になるのは、実は人口減少の影響だそうです。さらに、男性は進学や就職で都市部へ移動する率が高いため、都市部ではさらに危機的な状態になのだとか。農村部の嫁不足よりも、都市部の男あまりの方が深刻なのだとか。
若者諸君(この場合は男性のみ)! 酒なんかに溺れている場合じゃないぞ。
2007年11月16日(金) 研修会メモ書き(体験的真実) うつがぶり返すのは、栄養面で不足があるのでは、というご指摘をいただきました。ありがたいことであります。サプリメントも試してみようと思います。
我が家の栄養面を取り仕切っている主婦も、僕と同じようにうつ病持ちで、「ツルヤで買ってきたコロッケを温めて出すのも辛くてやってられない」という状態もしばしばで、あまり頼りになりません。「だいたい、何の料理を作っていいのか分からない」と言われます。
うつの症状で判断できない面もあるのでしょうが、他にも原因はありそうです。見合いの釣書には「調理師免許」と書いてありました。それは嘘ではなくて、ちゃんとその系統の学校へも行っているのですが、そもそも母親からちゃんとした料理を食べさせられた経験がないのがハンディキャップです。義母も料理が下手ではないのでしょうが、「塩分は毒」とかイロイロ変なこだわりがあって、塩味のしない塩鯖とか、塩味のしない野沢菜漬けとか・・・。
とはいえ、僕が男の料理ってワケにもいきません。そこで今夜は「まいどおおきに食堂」へと食べに行ってきました。明日はドラッグストアに行く予定です。
僕のうつの方は、今日診察の日でしたが、薬より休養が必要だろうと、薬は減りました。社長肝いりのプロジェクトからは外された格好で、週末の休出はキャンセルです。
さて、科学的真実がそれほど大事か・・というお話。
ビル・Wは、酒を飲んでの入院中に霊的な体験をしたことになっています。第一章ビルの物語にもそれは書かれていますし、『AA成年に達する』にも詳しくあります。伝記映画 "My Name Is Bill W." にも、ベッドで寝ている彼が白い光に包まれるシーンがあります。
ビルが入院した1930年代の精神病院で使われていた薬は、現在の精神科治療に使われる薬ほど洗練されていませんでした。つまり、副作用が激しかったのです。それは例えば幻聴や幻覚です。重症アル中患者であるビルの、離脱症状を抑えるためにそうした薬が投与されていたのは当然でした。
だから、ビルの「神々しい白い光に包まれ、すがすがしい風を浴びた」体験も、客観的に見れば、薬の副作用で幻覚を見ただけの話です。
その体験に驚いたビルが「自分は気が狂ったのではないか」と相談した相手、シルクワース医師が、もし「ああ、それは薬の副作用の幻覚ですから、気にしないで下さい」と言ったら、おそらく今日のAAは存在しなかったでしょう。先生はその代わり「あなたの中の何かが変わったのだから、それを大事にしなさい」と、霊的体験を真実として認めたのです。
回復に必要なのは「体験的な真実」であって、客観的にそれがどういう現象なのか、そこにこだわってみても役に立たないと言うことです。
2007年11月14日(水) これも病気の症状か 自分のバースディミーティングは、自分のホームグループでだけやることにしています。
一度だけですが、ちょうど自分のバースディの日の近くに、AAの泊まりのイベントがあって、そこで「ついでだから」という理由でお祝いしてもらいました。沢山の人に「おめでとう」と言ってもらえて、なんだか舞い上がってしまいました。
そして、自分のグループで本番のバースディミーティングをしたときに、イベントで祝ってもらって舞い上がった話をしたら、他のメンバーに「なんだこいつ」みたいな顔をされてしまいました。
これは逆の立場に立ってみないと理解できませんでしたね。せっかくお祝いしてやろうと集まったのに、本人は他で浮かれてきた話をしている・・・。しらけて当然であります。
それ以降、ホームグループでしか、自分のバースディは祝っていません。あっちこっちでやる人もいて、それはその人の自由でありますが、単に「僕はそういうのは感心しない」と言うだけの話です。
ちょうど5年になるころは、仕事が忙しく、出張続きで、ろくにミーティングに出ていませんでした。グループに人もいなかったし。なので、バースディもやらず、メダルもなしでした。もらったソブラエティに感謝を表明する機会を失ったわけで、それは残念なことでしたが、一生の記憶に残るギフトでもありました。
普段の生活や、普段のミーティングが「ケ」であるならば、バースディミーティングという「ハレ」があって良いと思います。けれど、ついつい「ハレ」という非日常を求めすぎてしまうのも、アルコホリックの病気の部分だと思います。
AAのイベントとかで、異常にテンション高く盛り上がっちゃっている人を見ると、「ああ病気の人だ」とついつい思ってしまうのであります。
2007年11月13日(火) 最初が肝心 久しぶりに仕事をしたような気がします。
目標がおよそ半分にカットされ、さらにその半分をほかの人にお願いすることになりました。一週間以上病気で無駄にしてしまったことを考えると、妥当なところかも。
最近ぼつぼつ "A Program For You"
http://kokoiede.exblog.jp/7116218/
を読んでいます。ビッグブックによる生き方のガイドという副題が付いています。
確証はないのですが、おそらく『ビッグブックのスポンサーシップ』(キャリメ)を書いた人を含んだ複数の著者によるものです。
キャリメの本が、スポンサーをやるためのガイドブックとすれば、こちらはダイレクトにメッセージを伝える本となっています。
最近つくづく思うのは、第5章に達するまでが長いのは十分意味があるんだということです。「医師の意見」から始まって、第1章「ビルの物語」、第2章「解決はある」、第3章「さらにアルコホリズムについて」、第4章「私たち不可知論者は」、ここまででおよそ100ページはあるでしょうか。
アルコホリズムが、飲み始めると止まらない渇望現象(身体の病気)と、せっかくやめているのにまた飲んでしまう精神的な囚われ(精神の狂気)の組み合わせであること。そして自力では助からないよ、ということを延々と説いていきます。
スポンシーとビッグブックの読み合わせをしていても、なかなか先へ進まなくて正直うんざりするところもあります。でもそこが「なぜステップが必要なのか」理解するのに必要な段なのでしょう。
よく言われるように、いきなり第5章を読んで、さああなたは無力ですよ、キチガイですよ、そしてこれが12ステップという解決法ですよ、さあ取り組みましょう・・・と言われてやる気になる人は、滅多にいるわけがないのです。
おそらく、3年とか5年とかミーティングに出続けていれば、本なんか読まなくても病気の本質は肌で感じられるのでしょう。でもミーティングに出続けることで、何年か酒が止まっているなら、あえてステップに取り組む理由はその人にはないわけです(だってこの先もミーティングに出続ければ酒は止まるでしょうから)。
でも3年とか5年ぐらいでミーティングを離れていく人は沢山います。
やはり鉄は熱いうちに打たねばなりません。「どうやって」ステップを実行するかも大切ですが、それ以前に「なぜステップが必要なのか」が伝わらなくてはどうにもなりません。
というわけで、僕はいつもビッグブックを一緒に読み合わせる仲間を求めているのであります。自分のためにも。
2007年11月11日(日) ああ、イライラする。 うつも底をついて、回復へと向かいつつあるようです。
だんだんうつが酷くなっていくときもイライラするのですが、良くなってくるときは輪をかけてイライラします。これはこの病気の症状の一つだそうです。
良くなってきたというのは自分でも分かります。だから早く活動を開始したい・・・とは思うのですが、まだ完全には良くなっていないので、いろいろ思い通りに自分が動けません。体もしんどいし、頭も考えがまとまりません。けれど、遅れた仕事のことなど考えると、気持ちばかりが焦ります。焦った結果がイライラです。
このイライラは要注意で、事実うつ病の人の自殺も、悪化していくときや、最も症状の酷いときではなく、良くなってくるときが一番多いのです。気持ちの辛さも、実はこの段階が一番辛いのかも知れません。
ここで無理をするとぶり返すので、明日は多分仕事は休みにします。社長肝いりのプロジェクトで、メインのユーザーインタフェースができてないと、立場がなくなりそうな感じですが・・。そんなことは心配しても仕方ありません。御身お大事であります。
仕事や経済の点ではちっとも僕は安定しません。感情もいつもふらふらしてばかりです。とてもトラブルの多いソブラエティで、周囲から見て「立派なソブラエティ」とは言えたもんじゃないと、自分でも思います。
けれど、「立派なソブラエティ」を送ることが目的なのではなく、ふらふらよろめきながらでも、次から次へとやってくる問題を、ひとつひとつ乗り越えていくことが、ソブラエティの目的とか価値ではないかと思います。
ともかく今は、焦らない、焦らない。
2007年11月10日(土) すでに限界を超える 今週は久しぶりにうつの波がやってきて、二日休んでしまいました。
医者に行ったところ、「あなたは、数日会社を休むための診断書を買いに来たのか、それとも追加の薬を買いに来たのか」と選択を迫られ、「うーん、薬ですね」と答えてしまったために、半年かけて減らしてきたレスリンの量が3倍になってしまいました。本当に必要なのは休みの方だったのかも知れません。
薬のおかげで、うつは楽になったものの、昼間ぼうっと眠い状態になりました。
で、この一週間ドタバタしている間、次女もお腹が痛いとか言いながら、しばしば学校を休んでいました。まあ登校拒否であります。
二人の娘は、ときどき「学校行きたくない」と宣言して、実際学校を休んでしまうこともたびたびです。親の方にいろいろ事情が重なり、精神的に辛いときに限って、子供の「学校行きたくない」が始まるので、「こっちがイッパイいっぱい限界状態なのに、ここでさらにトラブルを増やすなー」と思わず叫びたくなってしまいます。
でも、親がイッパイいっぱいの限界状態だからこそ、子供も学校が嫌になるのが真実のようです。「学校行きたくない」と言われると、すわ「学校で何かあったのか!」と原因を学校に押しつけたくなってしまいます。けれど、過去に先生に問題があったのが一回、同級生に問題があったのが一回。残りの全部は家庭の側の問題(だと思われます)。
大人が仕事に行って疲れるみたいに、子供も学校に行けば疲れるみたいです(当たり前か)。家に帰ったら、精神的にも肉体的にもゆっくり休んでくつろぎたいのは当たり前。ところが、家で大人たちが「限界ギリギリ」の緊張状態だったら、やっぱり子供も休めなくて、心に疲れがたまり、学校に行くエネルギーが枯渇してしまう、という仕組みではないかと・・・。
こういうときは、子供を責めずに、今やっていることを放り出してでも、「親が」のんびりするしかありません。子供に症状が出てからでないと、自分が(限界ギリギリではなく)すでに限界を超えていることに気づけない、そういう親でごめんねであります。
というわけで、この週末は休日出勤届を出してあるものの、今日に続いて家でゴロゴロするのであります。
2007年11月09日(金) 研修会メモ(自然的回復) さて、アメリカではアルコール医療も自助グループも(少なくとも日本と比較すれば)充実しています。
アルコール依存症治療の調査研究を進めていくうちに、医療ともサポートグループとも無縁に酒をやめ続けている人が想像以上に多いことが分かってきたそうです。こういう一人で酒をやめているケースを、ナチュラル・リカバリー(自然回復)と呼びます。
医者も嫌い、自助グループも嫌い、酒をやめるぐらい一人でできる・・と主張する人はたくさんいますが、ある程度の年数継続できたという人は数えるほどしかいません。では、アメリカでの調査で「意外とたくさんいた」という自然回復者は、どんな人たちでしょうか?
その人たちは、主に都市部にいるのだそうです。そして「個人的な脆さ」を抱える人たちです。
たとえば、親がアルコホーリクで、小さい頃から飲酒の過酷な現実を見せつけられ続けた人たち。あるいは長年DVの被害を受け続けた人。小さい頃から性的虐待を受け続けた人など。講師の先生は、回復のための内部資源(internal resource)と呼んでいましたが、その内部資源が少ないために、誰とも人間関係を結ぶのが難しく、結果として医療の現場にも、自助グループにも登場できない人たちです。
つまり、一人で回復=自然回復を好んで選んでいるわけではなく、それしか選びようのない人たちが、やむなくアルコールや薬物の依存から自然回復の道を進むというのです。
また外部資源という意味では、あまりにも過疎地に住んでいるために、医療もサポートグループも存在しない条件の人もいるそうです。
回復のための内部資源、外部資源というアイデアは、いままで考えたこともないものでした。
2007年11月08日(木) 研修会メモ(自然的回復) さて、アメリカではアルコール医療も自助グループも(少なくとも日本と比較すれば)充実しています。
アルコール依存症治療の調査研究を進めていくうちに、医療ともサポートグループとも無縁に酒をやめ続けている人が想像以上に多いことが分かってきたそうです。こういう一人で酒をやめているケースを、ナチュラル・リカバリー(自然回復)と呼びます。
医者も嫌い、自助グループも嫌い、酒をやめるぐらい一人でできる・・と主張する人はたくさんいますが、ある程度の年数継続できたという人は数えるほどしかいません。では、アメリカでの調査で「意外とたくさんいた」という自然回復者は、どんな人たちでしょうか?
その人たちは、主に都市部にいるのだそうです。そして「個人的な脆さ」を抱える人たちです。
たとえば、親がアルコホーリクで、小さい頃から飲酒の過酷な現実を見せつけられ続けた人たち。あるいは長年DVの被害を受け続けた人。小さい頃から性的虐待を受け続けた人など。講師の先生は、回復のための内部資源(internal resource)と呼んでいましたが、その内部資源が少ないために、誰とも人間関係を結ぶのが難しく、結果として医療の現場にも、自助グループにも登場できない人たちです。
つまり、一人で回復=自然回復を好んで選んでいるわけではなく、それしか選びようのない人たちが、やむなくアルコールや薬物の依存から自然回復の道を進むというのです。
また外部資源という意味では、あまりにも過疎地に住んでいるために、医療もサポートグループも存在しない条件の人もいるそうです。
回復のための内部資源、外部資源というアイデアは、いままで考えたこともないものでした。
2007年11月07日(水) 医者の妻 高校卒業25周年で同窓会をやるという案内が来ました(年がバレますな)。
案内が届いたのは実家です。高校の同窓会には、今の名前、住所などは伝えていません。同窓会名簿に掲載されてしまうと、株やら先物やら英会話やらの勧誘の電話がうるしさいし、同窓会の記念事業の寄付願いもうっとうしいので、実家の住所に戻しておいたのです。
昔の同級生(女性)がわざわざ実家まで持参してくれたそうです。彼女はいわゆる幼なじみですが、小学校の途中で親の転勤で転校していきました。その後、高校で偶然同じクラスになります。上野にある芸術系の大学に進学したそうですが、その後郷里に戻って精神科医と結婚したと噂で聞きました。
母が転送してくれた案内のはがきを見ると、確かに返信先の名字が、いつもAAの病院メッセージでお世話になっている精神科の医者と同じでした(いまは独立して開業している)。かように田舎は世間が狭いのであります。
普段は土日は確実に休みなのですが、同窓会のある週末は仕事が忙しくてつぶれる可能性大です。お断りの返事だけでなく、わざわざ葉書を届けてくれたお礼も伝えることにして、はがき記載の携帯番号へと電話してみました。声を聞いても昔の彼女の顔はおぼろげにしか思い出せませんでした。「30周年には会えますよね」と言われたので、5年後にまた彼女にはがきを運ぶ役をさせるのも悪いと思い、はがきに現住所を書いて差し出しておきました。
同窓会へ行くと、どうしても人と自分を比較してしまうので、あまり行きたいとは思いません。けれどその判断はまた5年後まで延期されたというわけです。そういえば、もう一人の幼なじみも医者と結婚したんだっけ。
ミーティングテーマ「狂気」。
きちんと酒をやめていても、なぜか「また酒を飲んでも大丈夫」という気持ちに、いつかなってしまう。これを知識とか理性では防げないからこそ「アルコホリズムの狂気」です。もちろんAAの仲間という人間的な力でも、ミーティング場という時間や場所に制約のあるものでも、それは防げないでしょう。
ステップ2は契約の機会だと思います。その契約の結果、僕はステップ3〜12を行う責任を負います。一方神様の方は、僕を正気に戻すという責任を負ってくれます。
自分を正気に戻すのは僕の責任ではないし、余計なことをする必要もありません。僕がきちんと自分の側の作業をしていれば、神様もきちんと僕を正気に戻してくれます。
だから、将来また狂気の瞬間が訪れて、ふたたび酔っぱらってしまうのではないか・・という心配は無用で、自分がステップをできているかどうかを心配すれば済むのです。
2007年11月06日(火) 研修会メモ書き(霊的・宗教的・世俗) とある若い女性に「どうしてAAの人たちって、初対面でもこうなれなれしいのか」とチクリとやられてしまいました。・・・あいかん、さっきの態度はなれなれしすぎたかと、内心反省しました。
考えてみると、初対面の女性になれなれしすぎる話し方をするなんて、自分がいかにこの10年で変わったかを感じました。10年前の自分は、女性を目の前にすると何を話していいのか分からなくなるくらい緊張していたのですから。(女好きの本性が現れてきただけじゃん、という話もありますが)。
相手が男であれ女であれ、自分がどう思われているか気にしすぎている頃は、初対面で話をするのには極度の緊張がありました。でもそういう心理的障壁を乗り越えなければ、寂しい思いをさせられるのが今の日本のAAであります。トレーニングを積まされたということでしょう(なんか絶妙な自己正当化かもしれない)。
さて、アメリカにはアルコールにも様々なグループがあります。
まず、スピリチュアル(霊的)な系統として、12ステップを使うAAがあります。
より宗教的なグループもあります。キリスト教系(Alcoholics Victorious, 1948, 150グループ)、イスラム教系(Millati Islami, 1992)、これはどちらも12ステップを使います。
宗教とも12ステップとも無縁な「世俗の」グループもあります。Secular Organizations for Sobriety(断酒のための世俗組織、1986、2万人)、Women For Sobriety(女性のためのソブラエティ、1976、150グループ)。アンチAAとして(?)有名な Rational Recovery(理性的回復)はグループを組織せず、人数も公表された数字がありません。
面白いのが Moderation Management(節酒管理、1993、20グループ)で、これは節酒を目指す人のグループです。これがなぜ広まらないのか、なんとなく分かる気もするのですが・・・。
このMMグループに参加すると、最初の30日は禁酒を言い渡されるのだそうです。が、たいていのアル中さんは30日の禁酒ができずに、諦めてAAに向かうそうです。30日後からは決められた少量の飲酒へと移るのですが、ここでも失敗してAAに向かうのだそうです。節酒を成功させる人は少ないのでしょうね。
MMが全米に広がれば、それはAAへの良いインテークになるだろう、という皮肉な見方も紹介されていました。日本でもMMグループができて広まると良いですね^^)。MMのホームページに行くと、メンバーが毎日何杯飲んだかネットに公表していたりして、中には節酒は諦めた方が良さそうな人もいて面白いです。
日本には断酒会という世俗系の大きなグループがあるので、その名前も何度も出てきました。先生は Danshukai を「デーンシュケーイ」と発音していました。
2007年11月05日(月) 研修会メモ書き(ジキル博士とハイド氏) しばらく前に妻から聞かされたのですが、義姉(妻の姉)が「将来両親が没した後には、(今僕らが住んでいる)土地を更地にして売り、妻と義姉で折半して相続したい」という話をしていたそうです。
僕がこの家に婿養子に入る際、嫁に出ていた義姉は将来の相続を放棄するという約束だったはずですが・・・まあ義姉さんのところも、最近は経済的にずいぶん苦しいらしいので、そういうアイデアが出てくるのも理解できなくはありません。
とは言え、義姉さんもずいぶん気が早い。まだまだ義父母は健在で、この先に介護などの問題が待ちかまえていて、それがキーポイントです。その更に先の話でありますから、今心配したところでどうなるものでもないでしょう。
さて、アルコホーリクはジキル博士かハイド氏か?
酒に酔うと理性のタガが外れて本音が出ると言います。そうなると、始終酔っぱらって迷惑ばかりかけているアル中は「ハイド氏」となります。依存症は内なる悪を暴く、シラフの時は理性による制御が効いているが、酔っぱらってしまうとダメ人間ぶりが表に出てくるという捉え方です。
しかし、依存症治療の分野では「ジキル博士」と見ます。例えば12ステップの考え方では、人間性の根底には「善なるもの」が必ず存在しているという揺るぎない信頼があります。つまり本当のその人とはシラフの時であり、依存症によってその人の内なる良さが堕落してしまっただけという捉え方です。
不思議な話ですが、アル中本人は、周囲からどちらに思われているか敏感に察知する能力があります。
散々迷惑を被ってきた周囲(たとえば家族)が、ハイド氏解釈に傾くのはやむを得ない事かも知れません。結果として、酒をやめたアル中は家族の中で居心地悪く(針のむしろに)感じるでしょう。居心地が悪いから逃げ出すのか、居心地の悪さに怒りを覚えるか、本人の反応は様々でしょうけど。
AAグループがきちんと機能していれば、メンバー同士はお互いに「霊的な病気」であり、性格上の欠点ばかりが目立っていたとしても、それぞれの人の奥底には善(その人のハイヤー・パワー)が宿る事を認めているでしょう。それが仲間意識です。
だからこそ、AAに行ったときに「ふと気の休まる思い」を得ることができるのだと思います。
お互いの善性を信じることができないグループは機能不全状態であり、ミーティングは続いていても「ヨロイを着て風呂に入る」ような不自然が行われているわけです。メンバー一人一人が、ハイヤー・パワーへの信頼を持つことが「ひきつける魅力」につながるのでしょう。
2007年11月04日(日) さすがに疲れました 二日続けて「アディクション・カウンセリング」という分野のセミナー(研修会)に参加させてもらいました。おまけに宿泊は仲間の家に泊めてもらいました。
カウンセラーを職業にする予定は、今後も一切ありません。カウンセリングというのは、あくまでもプロフェッショナル対クライアントの関係です。一方、AAのスポンサーシップはアマチュアの関係です。しかし、AAのスポンサーシップを大事にしていくために、今回は何か得るものがあるかも知れないと思って行ってきました。
アメリカのアディクション治療250年の歴史を振り返るところから始まり(その本の出版記念も兼ねていました)、アディクション回復者がその分野のプロとして働くことの意味、現実にその分野で働いている人たちによるパネル、アメリカの現状の問題点とそれを克服する動きと続きました。
今は自分の頭の中に知識ばっかり詰め込まれた状態です。
この知識を何かに生かしていけるかどうかは、今後の自分次第です。
パンパンにふくれた頭の中で、ちゃんと残って使われていく知識はわずかだと思います。それでもすべてを経験から学んでいけばいいほど、人生は長くありません。経験という教師は「授業料」が高すぎるのであります。
久しぶりにメモをたくさん書いたので、右手が痛くなりました。その中身についても、折々取り上げていきたいと思います。
酒をやめた後も「気分を変える薬」の乱用が続くなら、それはシラフとは呼べません。不要な薬は使わないのが一番です。しかし、様々な精神科の薬が必要な人はたくさんいます。質問の機会があったので、そこらへんを尋ねてみました。
アメリカでもそういう「薬を使いながらのソブラエティ」という人は増加傾向で、それは世界的な傾向なのだそうです。またそういう人たち専門のグループも複数あるのだとか。
薬が必要な人もいますが、一方で不要な薬を処方されている危険な状態の人もいます。それをどうやって見わければいいのか・・という素人丸出しの質問に対し、高名な先生は簡潔に答えてくれました。
「それは解毒してみなけりゃわからんね」(とかなんとか)
どういう意味なんでしょう、とほかの方に解説を頼みました。
「薬も断ってみて、それで問題が起これば、やっぱり薬が必要だったんだって分かるんじゃないですか」
なるほど、まずいったん薬も断ってみなければ分からないということですか。考えてみれば当然ですね。
2007年11月02日(金) アンコン(とは略さないか) 早く寝たいので、ネタはテキトー。
テレビをつけたらアンガー・コントロール(怒りのコントロール)についてやっていました。
物をつかんでいたら離す
→それで叩いたり、投げつけたりするのを防ぐ。
握っている拳を開く
→殴らないようにね。
手を後ろ手に組む
→同じく。
おしりに力を入れる(尻の割れ目で鉛筆をはさんでいるかのように)
→前のめりにならない。
ともかくその場から離れる 10分避難する
→現場から離れる。
叩かなかった自分を褒める
→これは大事。
しゃがみ込む
→もはやどうしようもない時の緊急対処法。
相手より目線が上(見下ろす感じ)なのは、怒りをコントロールする側にとって不利。例えばしゃがむことで、子供と同じかより低い視線にする。
土日と、代々木で研修会に出てくるので、更新はお休みです。
2007年11月01日(木) また仕事に救われる 6時間はぐっすり寝たはずですが、7時半に目が覚めたものの、そのまま10時半まで起きられずにいました。死んでしまった人のことよりも、生きている人間のドタバタのほうが、どうにも心に引っかかっていけません。
よっぽど仕事を休みたいと思いました・・が、客先に行ってデバッグするという約束があったので、仕事に出ないわけにはいきません。11時半に出社し、車に機材を積んで出かけたものの、どうにも集中力がありません。抑うつ状態というやつです。
この車で自宅へ帰って、布団で寝たいと心底思いましたが、おそらくそうして寝ていても、いろいろな事がぐるぐる頭の中を回るだけで心が安まらないでしょう。そうこうするうちに、車は客先の工場に着いてしまいました。
僕のやっている仕事は(野球で言えば)エースピッチャーや四番バッターの仕事ではありません。どちらかと言えば、守備固め要員、ピンチランナー、バント職人みたいなもんであります。取引量の多い客によっては、わがままで無理っぽい注文を出してくるところもあります。主要メンバーが本来の仕事に集中できるよう、嫌な注文を片づけるのが僕の仕事です。
手渡された防塵着に着替え、エアシャワーを何度かくぐって、工場の奥へ奥へと潜っていきました。騒音の中で、持参したノートパソコンを開いてデバッグを始めると、不思議と気持ちがプログラムに集中されるのがわかりました。絡まったスパゲティーを解きほぐすように、ひとつひとつの問題を解決していく、この過程が一番好きです。
3時間後にそこを退出する頃には、昼まで僕の頭を支配していた様々なことは、僕の頭の中で本来あるべきサイズまで縮んでくれたようです。「今回は仕事に救われたな」とつくづく思います。
出社があまりに遅かったので、夜9時まで働いても1時間の残業にしかなりません。まだ働いている人もいましたが、僕は携帯電話で話ながら職場を出て、AAミーティングに出ていた仲間と落ち合って一緒に食事をしてから帰りました。僕はいろんなものに恵まれています。
そんなわけで、日本シリーズは全く見ていませんでしたが、帰ってニュースを見て「やっぱり落合ってすげえ」と思いました。やはり勝つために全力の野球が素晴らしい。
1996年のオールスターゲーム、すでに点差が大きく開いていたため、全パの監督仰木は9回裏ツーアウトの打者松井秀喜に対して、投手としてイチローを登板させました。これは仰木の遊び心だったのでしょう。しかし、これを勝負に対する侮辱と受け取った全セの監督野村は、高津臣吾を代打に送りました。これで高津がヒットを打っていたら人々に名勝負と記憶されたかも知れません。が、結果はショートゴロ。
もちろん、松井がイチローからホームランを打っても、イチローが松井を三振に取っても、どちらも名勝負にはなり得ないわけです。
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