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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年12月31日(月) 今年もお世話になりました 「心の家路」は、今年も多くの人のアクセスに支えられました。
31日の午前5時までの1年間の統計です。
送出バイト数 81.2Gbytes
ビジター数 1,074,421
ページ送出数 5,181,450
ファイル送出数 5,895,213
ヒット数 7,041,617
以前海外の安いレンタルサーバーを借りた頃は、送出バイト数が数ギガ程度だったので、およそ10倍になりました。といっても、その半分ぐらいは掲示板に広告書き込みをしようとするスクリプトだと思われます。
8月のアクセスが突出して多いのですが、それはきっと「殿下」の影響でしょう。
数字の話はさておいて、今年も携帯電話対応には着手できませんでした。来年こそは、皆様が無用なパケット代を使わなくてもすむようにしたい、とは思っていますが、再来年になってしまうかも知れません。
メディアというのは、送り手がどんなに懸命になっても、受け手がいてくれなければ成り立ちません。「家路」も読んでくださる皆さんがあっての存在です。最近では更新の頻度がめっきり下がり、雑記ばかり書いている気がします。そもそも「日々の雑記」はおまけの存在でした。「家路」を見に来ても更新されていないければつまらないでしょうから、せめて雑記ぐらいは日記形式でちょくちょく更新しよう・・と思ったのですが、最近では雑記を書くだけでエネルギーを使い果たしている感じです。
ここ2〜3年ブログが流行っていて、それを使ってネット上で情報発信する人が増えてきています。好ましい傾向だと思います。依存症の人のブログもたいそう増えました。けれど、ブログを書くだけで終わってしまって、その先へと展開する人が少ないのは残念なことだと思います。やはり「ブログ」と「ブログ以外のもの」の間には、厳然たる境界線がある、と古いタイプである僕は思ってしまいます。
この雑記は、常に肩肘張らずに書こうと務めていますが、最近では知り合いで読んでいる人が増えたこともあって、人物が特定できるような話題は取り上げづらくなってきました。自分の生活の話をしようにも、それほど変化のある生活でもありません。いきおい観念的な話が増えてきています。
「家路」も、しょせんアル中のすることですから、いつまで続くか分かりません。けれど、読んでくれる人がいるうちは続けようかな、と思っております。
本当に一年、ありがとうございました。
来年もまた、僕のつまらない話におつきあいいただければ、これほど嬉しいことはありません。
2007年12月30日(日) 休日の一日 土曜日に出たAAミーティングが今年最後になります。来年2日のホームグループのミーティングは(会場係であるのに)休ませていただいて、3日の病院メッセージがAA始めとなります。
たいした進歩ではありませんが、今年も自分は進歩したと思います。AAでも、今まで見えなかったことが見えてきた部分がありますし、今までにない習慣を身につけたりしました。仕事でも、去年よりは人の役に立てたし、収入も改善しつつあります。家の中も多少は落ち着いてきました。
けれどそれは、あくまで1年前の自分と比較しての話にすぎません。人と比べたら、決して威張れたものじゃありません。AAでは僕より回復した人はたくさんいるし、職場でも僕よりバリバリ仕事をしてたくさん稼いでいる人もいます。隣の芝生を見れば青々と茂っているようにしか見えません。
けれど、焦って背伸びをして歩いても疲れるだけですし、何かにつまづけばすぐに転んでしまいます。また焦って走り出しても、すぐに息が切れるのは、今まで何度も思い知らされてきました。
回復しなければ神さまに愛されない、ということは「決して」ないと思います。ハイヤー・パワーの愛は、そのような条件付きの愛ではありますまい。が、人より早く回復しようと焦る人は多いようです。
休みに入って年賀状作りも終わると、パソコンの前に座っている時間はぐっと短くなります。すると目の痛みも、肩こりも、腰の痛みも減ってきます。普段(仕事とはいえ)パソコンに向かいすぎなんでしょう。
大掃除は30日までに済ませる、という義父の規範があるので、一応掃除をしました。たぶん普通の家なら、普段しているぐらいの簡単な掃除ですけど。冬休みだからと言って、何も特別なことはなく、家族でゴロゴロ過ごしています。
子供たちの骨折は、もう痛みが取れたようです。不登校気味だった次女も、休み前には平気な顔をして学校に行っていました。子供の復元力はつくづく強いと思います。娘たちがパパ、パパとまとわりついてくるのも、あと数年のことでしょう。いずれキャッシュカードとしか思われなくなる日が来るはずです。
紅白でなく、第九を見たいのでありますが、大晦日ぐらいは婿養子らしくおとなしくしていなければならないでしょう。
2007年12月29日(土) 今年一年 毎年年末になると、自由なテーマを選ぶAAミーティングでは「今年一年を振り返って」というトピックが挙がるのですが、ここのところ僕が出たミーティングは、BBか12&12を読むところばかりだったので、一年を振り返る話はありませんでした。
アルコール依存症の人と一緒に暮らしている家族は、依存症の人の言動に一喜一憂することになります。酒を飲んで欲しくないし、もし飲んでも迷惑をかけて欲しくないと願っています。けれど、アル中さんはさまざま理由を付けて飲むし、飲んでやらかすことにも言い訳をします。そしてたいてい「それを人のせいにします」。
お前のせいだと責められて、自責の念を持たない人はいません。そしてそれが習慣になります。
だから家族は、何とかアル中さんを(飲まないように、暴れないように)コントロールするために、いろいろ考えたり行動したり、まさにジェットコースターに乗っているような気分が続く日々を送ります。
はたまた、ACと呼ばれる人たちは、親の言動次第で、自分の気持ちが上がったり下がったり、これもまたジェットコースターに乗っている日々を子供の頃から暮らしてきたわけです。
「目の前で起きている人の言動に、大げさに一喜一憂しない」という新しい行動原理を身につける・・これが、今年アラノンの人たちからいただいた回復の鍵でした。
別に誰かの気分(機嫌)に僕が責任を負っているわけじゃありません。機嫌が悪い人を明るい気持ちにさせてあげる義務もありません。その人の問題は、その人の責任です。けれど、怒っている人の話を聞いてあげたり、落ち込んでいる人を励ましてあげたりするのは、人としての当然の優しさであり、必要なことでしょう。
でもそれは、自分のことができていればこそ、できることです。
AAの仲間やスポンシーが飲んだとしても、それは別に「僕が飲ませている」わけでもありません。当然なんですけど。上司の機嫌を取るのは僕の仕事の責任の範囲外です。
その人の問題と自分の問題を、きちんと切り分ける作業をしていく。これは一生の作業なんでしょうね。
2007年12月27日(木) 自助グループと呼ぶのは誤り? 上の子が学校で階段から落ちてくるぶしを骨折。2週間のギブス。同じ日に下の子が学校の授業でスケートに行き、転んだ時に手首を骨折。こちらも2週間ギブス。なんとも仲がよい姉妹です。
車のタイヤを縁石にこすってしまい、見事にバースト。修理がきかず、買い換えになってしまいました。タイヤは4本単位で流通しているので、1本だけ買うには注文しなくてはいけません。泣く泣く4本まとめて買いです。昨年買ったばかりのスタッドレスなのに。その金があったらDSが何台買えるんだか。
他にもイロイロ「ついていないこと」だらけですが、へらへら笑いながらやっています。会社の同僚に誘われてボーリング。5ゲームやってスコアが517。
さてさてさて。
AAとか断酒会とかその他を合わせて「自助グループ」と呼びます。これは英語のセルフ・ヘルプ・グループを訳したものです。自ら助けるグループというわけです。
ところが、海の向こうでは5年か10年ほど前から self-help group という呼び名はやめようという動きが活発になってきたそうです。self-help という言葉が誤解を生みやすい、本質を現していない言葉だからだそうです。
そもそもアル中の人は「アルコールに対して無力」なのです(断酒会でも酒に対して無力だといいます)。AAは無力な人の集まりです。ところが無力なのに、自ら助かるのも変な話です。無力な人がいくらたくさん集まっても無力のままです。ゼロはいくつ足してもゼロですから。自ら助かる力は無いはずです。
ハイヤー・パワーという自分(たち)以外の「力」によって無力が解決されるのであって、自分ではありません。
そこで別の呼び方をするのだそうです。例えば mutual aid group。これを「相互援助グループ」とか「互助グループ」とか訳してしまっては、言葉を変えた意味がないのでしょう。でもなかなかよい日本語になりませんね。
単純にサポートグループという呼び名の方がよいのかも知れません。
いずれにせよ、今後日本でも「自助グループ」という呼び方が廃れ、より適切な言葉が使われるようになるにちがいない、なって欲しいな、というお話を、複数からうかがいました。
2007年12月25日(火) 人のせい アル中的性格について、いろいろなことが言われていますが、僕なりの表現で言えばこうです。
「人から言われたやり方で成功するよりも、自分のやり方で失敗する方を好む」
挙げ句に失敗は人のせいにするのです。
さて、僕が初めて今のAAホームグループの会場に顔を出したとき、そこにいた人たちは全員ニックネームを名乗っていました。動物っぽい変な名前を使っていました。その中で僕だけが植物っぽいニックネームを使うことになりました。
そのうち、ニックネームを使うのは変だと言って、本名の名字を使う人たちが増えてきました。あるいはアメリカ風に、ファーストネーム(下の名前)を使う人たちも増えてきました。そこで、僕もニックネームを使うのはやめ、下の名前を使おうと思った時期もありました。
本名は「すすむ」と言うのですが、これをそのまま使うのは、どうも気恥ずかしい。そこで、ショートネームを考えることにしました。
例えばAAの創始者ビル・Wのフルネームはウィリアム・ウィルソン。ビルは「ウィリアム」のショートネームです。ドクター・ボブも、フルネームはロバート・スミス。ボブはロバートのショートネームです。
Susumu のショートネームは何でしょう? Susie(スージー)というのは女性名ですね。SとUとMが入った名前だと Samuel というのがあります。愛称はサムかサミー。というわけで、「サムと呼んでくれ」という事にしたのですが・・・。
「このアメリカかぶれめ、アンタのことをサムなんて呼べるものか!」
と怒られてしまったので、仕方なく「すすむ」にして、さらに1年後に元のひいらぎに戻してしまいました。そういう僕のバカな話とは無関係に、最近は下の名前を使う人が増えてきました。悪いことではないんですけどね。
それでつくづく思うことは、日本人の下の名前って、みんなよく似ていて憶えにくいということです。
えみ・えみこ・みえこ・みえ・りえ・りえこ・・・もはや誰が誰だか。
みんな変なニックネーム使っている頃の方が、憶えやすくて良かったなぁ。だからもし呼び間違えても、それは僕の記憶力のせいじゃありません。最近の風潮が悪いのです。
2007年12月24日(月) 飲酒のコントロール アルコール依存症は「飲酒をコントロールできない病気」だと言います。
一番コントロールが効かないのが「飲酒の量」で、適量でやめておこうと思ってもやめられない、というのがその症状です。他に飲む時間(朝から飲む)とか、飲む場所とか、飲むシチュエーションなどなど・・コントロールできないことはたくさんありますが、ここではとりあえず量の問題に集中します。
では、依存症でない人は、はたして「飲酒をコントロールしている」のでしょうか?。ふつうの人は、もっと飲みたいのを我慢して、途中でやめているのでしょうか?
たぶんそうではないのでしょう。
宴会でもう少しビール飲みませんか? と勧めても、「いや、もう結構」とか「飲み過ぎると気分が悪くなるから」という答えが返ってくるのが通例です。つまり、ふつうの人は飲みたいのを我慢してなんかいないのです。彼らは、飲みたいだけ飲んでいるからこそ、2〜3杯でやめられるのです。
つまり、コントロールもしていないし、意志の力も使っていない、ただ満足するまで飲んで、もうそれ以上飲みたくないだけの話です。別に意志も強くないし、高潔なわけでもありません。人間満たされれば欲張りはしません。
一方、適量でやめられないアル中は、「意志が弱い」とか「意地汚い」とか道徳心がないとか責められます。しかし、いったん飲み始めてしまったら、体が次の酒を欲しがってしまい、それがあまりにも強いので途中でやめられないだけの話です。
いったん依存症になったら、もう満足するまで飲むことはできないのです。
これを聞いて「いや、俺はアル中ではないが、いつももっと飲みたいのを我慢して途中で切り上げているんだ」と話す人がいたとします。確かにその人は依存症ではないのでしょうが、すでに危険領域に入りつつある「プレ・アルコホーリック」(アル中予備軍)という状態でしょう。病気にならないうちに酒をやめるのが一番です。なってからじゃ遅い。
年賀状の準備で一日パソコンを見つめていたら、ドライアイになってしまいました。
2007年12月23日(日) なんだか面倒 その昔に言われた、オウム真理教とAAの共通点。
実名で呼び合わず、怪しげなホーリーネームを使っている。
イニシエーションと呼ばれる通過儀礼があり、それをやっていないと半人前だと言われる。
なんだか普通じゃない話ばかりしている。
奥義を究めると解脱し救済されるとか言う。
みんな「修行するぞ、修行するぞ」とうるさい。
怪しげな行政機構がある。
施設で修行してくるとポイントが高い。
まじめにやらないと地獄に堕ちるとか言われる。
こういう冗談を言っていると、ムキになる人がいて困ったりします。
今夜宅配のピザを食べ、明日ケーキを食べる作戦だったのですが、ピザ屋の予約が一杯でしたので、今夜ケーキで明日ピザとなりました。
年賀状やらなくちゃと思いながら手がつきません。というわけで雑記もテキトーです。
早く寝たいのですが、僕が寝る部屋にテレビがあり、まだ皆が見ているので布団を引いて静かに本を読むわけにもいきません。どうしてこんなにテレビばかり見るのでしょう? こいつらテレビホーリックじゃないかと思いますな。
2007年12月22日(土) 自然治癒? ずるずると続けてきた病院メッセージをお終いにしました。あとは地元のグループのメンバーが続けていってくれるでしょう。もう自分が行くのはお終いにしよう、と決めてから、実際に実現するまで1年以上経過しています。
実は、今のホームグループが別の週の病院メッセージを冬場の3ヶ月担当するので、春までは通うのが続いちゃいますが。ちっとも終わってません。
10年そこへ通いましたから、数百人の依存症患者さんの話は聞いたでしょう。入院が初めてという人も少なくありませんが、2回目(あるいはもっと)という人が多かったように思います。
前回の入院からどれぐらい経過しているか、それも人さまざまで「一日持たずに即日再入院」という人もいれば、年単位という人もいました。たいていは、退院→シラフの期間→一見正常に飲めている期間→酷い飲み方の期間→再入院、という経過をたどります。病気がある程度進んでしまえば、飲まない期間は長くて数ヶ月で、飲んでいる期間が長くなるのですが、中にはシラフで長い時間を過ごす人もいます。
しらふの期間が10年以上という人は3人いました。3年、5年飲まなかったという人はザラです。実はそういう人は自助グループ(AAや断酒会)や医者にまったく通っていないか、通っていたとしても最初の数ヶ月だけだったりします。
断酒のために積極的な努力をしなくても、断酒が続いていく人が実際にいるのは確かです。しかしその人たちがまた飲んだからこそ、僕がお会いするチャンスを得たわけです。その人たちは再飲酒した理由は、短期間で再飲酒する人たちと変わりません。大きなトラブルが乗り越えられずに酒を飲む人もいれば、何気ない日常の中でふと飲んでしまう人もいます。
僕が2回目の入院の時に「生まれて初めて会ったアル中さん」は入院経験二十数回のツワモノでしたが、それでも十数年前には何の努力もなしに2年間酒をやめていた経験があると語っていました。
アル中はたまたま何年か酒をやめることがある。その事実は以前の僕を恐れさせました。自分はそれなりに頑張ってAAをやり、そのおかげで飲まないでいると思っているが、実はたまたま酒がやまる何年間かと、自分のAAの何年間が重なっているだけで、断酒は偶然の産物なのではないか・・と。
そういう不安を打ち明けると、仲間に「あなたのように努力している人がAAの恩恵を得てなかったとしたら、他の誰が得られるというのか」と諭され、それもそうだよなとテキトーに納得したのでした。
でも今では、僕の最初の何年間かの断酒は幸運によるものだと、はっきり知覚しています。あの頃は実に危なかったのだと。自分の力で酒をやめていましたからね。
ミーティングのあと、若いメンバーとお茶していてそんな話を思い出したのでした。たとえ何年酒をやめていても、飲んだときのみじめさに違いはないぞよ。
2007年12月21日(金) 近況 会社の忘年会。いくら何でも一次会が4時間というのは長すぎる。6千数百円というのも高すぎ。まわりの人が酒を飲んでいるのは気になりませんでしたが、タバコの煙が煙いのはとても気になりました。
いつもパソコンに向かっているサラリーマンは、50才になっても、55才になっても、目尻にしわが寄らないものだ・・などと考えていました。
ここのところ数ヶ月、次女が不登校気味です。
朝に母親が大騒ぎしても、次女は眠いらしくて起きてきません。いじめられているとか、勉強が分からないとかではなさそうですが、友だちがいなくてつまらないそうです。だいたい子供のくせに夜更かしするのが良くありません。
先日父兄面談があって、保健の先生から「精神科にかかったらどうか」と勧められ、市内の開業医へ受診しました。精神科と聞くと気後れしてしまって、ということは我が家ではまったくありません。パパもママも精神科にかかり続け、おねーちゃんも以前に通っていたのですから、「むしろその方が普通」だと思っているでしょう。
例によって、ホンのちょっぴりの薬が乳酸菌の粉に混ぜて処方されたのと、「DSとパソコン禁止」と言い渡されました。長女はこの件とは無関係ですが、「おねーちゃんだけDSオッケー」というわけにもいきませんので、二人とも禁止です。
二人で「どうぶつの森」にゴキブリが出ちゃうと心配しています。
薬よりもDS禁止のが効果があったと思うのですが、とりあえずここ2日ばかりは、次女も自分で起きて学校に行っています。一時的に良くなっているだけかも知れないので、あまり期待感を抱いてはいけないでしょうが。
抱えている悩みや苦しみを言語化することが下手だと、なにか他の手段で表現せざるを得ないのでしょう。夜更かしや不登校もその表れですね。たぶん。
ちなみに長女のほうは、新しい携帯でメールに夢中です。
2007年12月20日(木) 傷つけること 4回精神病院に入ったうちの3回は、いわゆる「アル専」でない一般の精神病院でした。当時、日本の精神病院の9割以上のベッドは、統合失調症の人に使われているとされていました。それは今でも大きく変わっていないと思います。
最初に断っておくと、病院に入院しているのは、社会生活に支障をきたすほど病気の症状が出てしまった人たちであり、統合失調の人の大多数は普通に社会の中で暮らしているということです。社会生活できないほど症状が重い人が入院する、という点では依存症も同じです。
もうひとつ断っておくと、統合失調の人に危害を加えられたことはありませんし、他の人が暴力にあっているのも見たことがありません。あることはあるのでしょうが、僕は見ませんでした。それよりも「しらふのはずの」アル中さんたちのケンカや暴力沙汰はたくさん見かけました。暴力という点ではアル中さんの方がずっと危険です。
とはいえ、統合失調の人との生活は気苦労があります。なぜ怒っているのか、なぜ傷ついているのか、なぜこんな行動を取るのか、了解不能な行動にまごつくばかりでした。まごつくばかりでなく、それに接するこちらの心も疲れ、傷つきました。人が了解不能な行動を取ることは、それに巻き込まれた人を傷つけます。
依存症者が酒を飲みだすとコントロールが効かずに変になってしまう、ということは本人も家族も比較的簡単に納得するようです。その背景には、酔っぱらってしまうと理性が効かなくなるから変になる、という理屈があるようです。逆にしらふの時はまとも(正常)だという思い込みがあります。
ところが「もう二度と飲まない」と誓った人が、また飲み出すのが依存症という病気です。マトモな人がなぜ酒をまた飲むのか? それは狂気だからですが、そのことは本人も家族も否定したい。だから、意志の弱さとか道徳心の欠如に原因を求めてしまいます。実は狂気だから了解不能な行動をしているだけなんですが。
ともあれアル中の了解不能な行動(再飲酒)は、周囲の人を激しく傷つけます。暴力や暴言が無かろうとも、再飲酒が了解不能であるから周囲は傷つきます。
だから、私たちが「傷つけた人に埋め合わせをする」時に、なぜ私たちの行動があれほど了解不能だったか、ということは説明する必要があるでしょう。それをすっとばして謝罪だけですますのは片手落ちだと思います。
性格的欠点うんぬんのまえに、まずはその狂気と自分が向き合わなくては。自分の問題と向き合っていない人から謝罪されても、印象が悪いだけでは?
2007年12月19日(水) 怒り ブログのほうにもちょっと書いたのですが、PHSを機種変更しました。
通常機種変更は端末をお店に持ち込む必要があります。通信販売の場合には事前に端末を宅急便で送ってから、数日後に変更後のが届くという面倒な手順が必要でした。ところが今回は、通信販売で申し込んだ2日後にはPHS端末が届き、その書類に記載された日時になると、特に手続きなく以前の端末が使えなくなり、新しい端末が使えるようになりました。ネットワーク経由で切り替えができる。便利な時代になったものです。
端末選びは悩みました。アドエスというWindows Mobileを積んだPDA式の機種は2万円以上するので手が出ません。安い(0円)のは音声通話が基本の端末ばかりです。東芝のは(いまや携帯電話では当然の)赤外線通信とmicorSDが使えますが、操作性が悪い。京セラのは操作性が良いものの、赤外線もSDも使えません。
最終的に不満ながらも京セラ製を選びました。
そうしたら二日後に「アドエス無料」という年末キャンペーンが始まってしまいました。
それを見て、しまった失敗した、あと2日待っていれば(高いから諦めた)不満のない端末が手に入ったのに・・という後悔とも怒りともつかない感情に襲われました。
割賦販売で機種変更してしまうと、その端末を2年使うという条件がつきます。2年は機種変更ができない。2年後にはこの年末キャンペーンは終わっているでしょう(当たり前)。
「私は著しく不満である」、この不満をぜひとも表明しなくては・・・。
と勤務中にもかかわらず、僕は携帯電話に手を伸ばし、ウィルコムオンラインストアに電話をかけました。そして「2日前に機種変更して、今日届いたばかりですが、今日からアドエス無料キャンペーンが始まったので、やっぱりそっちに換えてもらえませんか?」と話しました。
するとウィルコムのお兄さんは「あのキャンペーンは新規契約だけで、機種変更は対象外なんです」とやさしく教えてくれました。
し、しまった。感情が先走って、キャンペーンの内容を良く読むのを忘れていました。機種変更は対象外なのか。僕は何かの利益機会を逃したようで怒っていたのですが、実は最初から何の利益機会も与えられていなかったのです。持っていないものを奪われたといって怒る理不尽。非は100%僕にありです。
というわけで、僕は「誤解をしていました。お忙しいところお手数をおかけして申し訳ありません。ごめんなさい」と謝ったところ、お兄さんは快く許してくれました。その言葉の明るさは仕事の仮面以上のもののように思われました。あー、良かったと思いましたよ。
以前の僕だったら、自分の非を認めたがらなかったに違いありません。新規契約だけって書いてある字が小いせえよとか、相手も仕事だしとか、難癖をつけて過失割合を減らそうと努力したでしょう。謝りたいから謝るのではなく、「謝らされている」という感覚が抜けなかったでしょう。
しかし、何であれ「相手に余計な手間をかけさせてしまった」という事実からは逃れられません。だから、ともかく相手の手間に対して感謝と謝罪をしたかったのです。
努力してこうなったのではありません。いつの間にか(おそらく神さまが)僕を作りかえてくれたのでしょう。僕は欠点を取り除いて下さいとお願いし、欠点の除去とは直接関係ない(ように僕には思える)別のことをしていただけでした。不思議な効き方をするものです。
え? そもそも最初にそんな怒りを感じること自体がおかしい? 電話してごねようと思うのが変? まだまだ回復途上でありますから。それに抑圧するとうつになったりするし。
2007年12月18日(火) 共依存に関して 妻が駅ビル商店街の抽選で当てた家電製品は3択式で、イオン式ドライヤー、フット・バス、iPod shuffleから選ぶようになっています。僕としては、iPod を金を出して買うことは一生ないと思うので、ぜひ iPod にしたいと提案しています。
白樺湖から先は圧雪路でした。今期初めての雪道なので、おっかなびっくりの運転でした。スキー場はもうナイター営業中です。帰り道、「滑るから気をつけてくださいね」と言われたのですが、標高の低いところは温度が高いし、道も白くないと思って油断していました。
トンネルから出た北斜面がすっかり凍っていて、あっと思った瞬間にはもう車が回り出していました。とっさにカウンターが当てられませんでしたが、幸いブレーキが効いてくれました。ABS付きでなかったら、ガードレールまで行っていたでしょう。
しかし最大の難関は、その次の峠で立ち往生したトラックがいくつも路上に放置されて、通行を妨害していたことでした。
さて、アルコホリズムを、肉体の病気と精神の病気に分けて考えるAAのやり方を、共依存というテーマに当てはめてみましょう。「医師の意見」の病気を表現したくだりに、
「飲んでいないときのアルコホーリクは、落ち着きがなく、いらいらが強く、不機嫌であって、飲んでいっぺんにふっと楽になる感覚を再び体験せずにはいられない」
というのがありますが、これを
「共依存関係にハマっていない時の共依存者は、落ち着きがなく、いらいらが強く、不機嫌であって、再び共依存の関係にハマることで、ふっと楽になる感覚を再び体験せずにはいられない」
と言い換えてみましょう。
「そこで、多くの共依存者は欲求に負けて共依存関係を再開する。すると、より深い共依存関係への渇望現象につかまる。そこでお決まりの段階が始まり、関わりすぎては、後悔に襲われ、もう絶対に関わらないと固い決心をするという悪循環が、何度も何度も繰り返される。心理現象のような霊的変化が全面的に起こらなければ、その人には回復の希望はほとんどない。」
ちょっと関わっただけなのに、より深い共依存関係へと進もうとする「渇望現象」が起きてしまうのは、最初の一杯に手をつけたアルコホーリクが次の酒を求めるのと同じ肉体の病気です。その渇望は具体的には脳の中で起きています。
一方、理性が働いているはずのしらふのアルコホーリクが、なぜか最初の一杯に手をつけてしまうのと同じように、何度も繰り返した悪循環への一歩を踏み出してしまうのも「精神の狂気」です。
その処方箋は「心理現象のような霊的変化」です。
過食拒食、買い物、共依存というような、ゼロにするわけにはいかない依存の場合、abstinence の境界線をどこに引くのかは難しいことですが、一度始めてしまうと起こる「渇望現象」と、やめていたはずなのにまた始めてしまう「精神の狂気」に分けて考えれば、おのずと境界線が見えてくる・・・と思うのです。
2007年12月17日(月) 3つの表について 恨み・恐れ・セックスと3つの表に分けて棚卸しすることに疑問を感じつつあります。恨みの背後には、満たされないことや奪われることへの恐れが潜んでいます。どうして表を分けるのでしょう。自分で書いていてもそうだし、人の書いた棚卸表を拝見しても、やっぱり別の表に分ける意味がわかりません。
同じことが、3つのすべてに載ってしまうということもあります。というわけで、3つを統合した表を作ってみようと思います。
さっきから15分以上筆が止まっているので、今夜はこれでお終いにして早く寝たいと思います。
2007年12月16日(日) ぐったり 疲れが出て、一日ぐったりしていました。
日曜日にしか休みの無い人には申し訳ないのですが、やっぱり土曜日のイベントのほうが助かります。翌日に休めますから。日曜日に疲れてしまうと、どうにも月曜日が調子悪くていけません。2泊3日のラウンドアップあけの月曜日には、有給休暇を取る人も多いのだとか。僕は土曜日の晩の夕食が済んだら帰るパターンが好きですね。
一月の成人の日が思いやられます。
一日ゆっくりしていたいのはやまやまでしたが、いつ雪が積もるとも限らないので、タイヤの交換だけはやりました。
新しい生き方を身につけるのは、タイヤを履き替えるのに似ている、と表現した人がいました。すり減ったツルツルのタイヤを、新しい溝のあるタイヤに変えるのだと。
その人は、車のスリップ事故と、再飲酒(スリップ)をかけて、こんな事も言っていました。スリップには2種類がある。すり減った古いタイヤを変えないまま、日常の街角の中でスリップしてしまうパターン。せっかく新しいタイヤに変えたのに、峠に走りに行って技量を超えてスリップしてしまうパターン。
なんだそうであります。
タイヤの保管場所が車庫の天井なので、下ろしたり上げたりが大変です。タイヤの寸法が1割増えただけでも、体積や重量はその3乗増えるわけです。
話があっちこっちですが、ともかくタイヤの交換しかしない一日だったのです。あと、夕食にギョーザを食べに行ったぐらい。
ニュース検索にイザのブログが引っかかっています。しばらくすればGoogle側でチューニングされて、ひっかからなくなるでしょう。以前もITmediaのブログが引っかかる現象がありました。
2007年12月15日(土) なんか今日は長い お酒の問題や依存症の治療について、いろいろと社会を変えようと努力している人たちがたくさんいるのは知っています。けれど、世の中はゆっくりとしか変わってくれません。行政が変わってくれればいいのでしょうが、集めた税金の使い方はそう簡単には変わらないものです。
でも「回復のための資源」は今すぐ必要で、誰かが用意してくれるのを待ってはいられません。これから来る人のための必要でもありますが、自分の安全を担保するためでもあります。今日の集まりを、「資源」を自分たちで用意するために、やむにやまれず自分たちで行動を開始した人たち、と表現した人がいました。会場の熱気は、そうした渇望が駆動していたものだと思います。
AAに限らず12ステップのグループは「メッセージを運ぶ」ことを目的にしています。ではそのメッセージとは何か。ステップ12には「このメッセージを伝え」と書いてありますが、その言葉の前には「これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め」とあります。
僕の考えでは、伝えるべきメッセージとは、霊的な目覚めと、その目覚めに至るための手段としてのステップです。アディクションからの回復とはその目覚めです。
では霊的目覚めとは何か? ここで今日の集会とは無関係に「心の痛みの三つの原因」というネタを引っ張ってきます。
1.自己肯定感の欠如。
2.他者との親密さの欠如。
3.神との親密さの欠如。
つまり、自己肯定感があり、他者とも神とも親密である状態が「霊的に目覚めた状態」=アディクションが再発しないでいられる安全な状態です。この三つが欠けていたから心が痛み、その痛みを例えばアルコールで解消しようとした挙げ句、依存症という病気になってしまいました。そこで酒をやめてみても、実は心が惨めな状態に戻るだけです。そりゃ酒がぶり返しもします。
ステップの中身を見ると、自己を点検すること、欠点を告白すること、償いをすること、祈りや黙想をすること、奉仕することなどなど、なんとなく人生修行みたいな印象を持ってしまいます。でもステップは人格を磨くのが「目的」ではないのです。霊的目覚めという解決を実現するための「手段」にすぎません。別に「いい人」にならなくたっていいんですよ、目覚めさえすればね。
世の中には、目的と手段がごっちゃになり、手段が目的になっている物事や仕組みがいっぱいあります(手段の目的化)。そうなると本来の目的は忘れられがちです。
ステップは依存症という「病気の治療の手段」。目的はソブラエティ(飲まない落ち着き)。
とはいえ、ステップは一日ではできません。でも、ステップができなくても、ともかく飲まない状態は続けてもらわないと、ステップはできません。飲みながらステップやっても回復しないですから。だからスポンサーは「セックスするな」など、つまんないアドバイスもしなければならないのですが、それはステップの提案とは別物であります。
自分の場合には、あまりにも早くセックスした(子供を作った)ので、特に上の子には可哀想なことをしたな、と思います。子供ができたりして、環境の変化があると、その変化に対応するのが精一杯でステップどころじゃないですから。親が回復してなくても、子供の成長は止まらないし。夫婦だと、できても仕方ないかっていう油断がありますからね。あの時に賭をしていたら、みんな「ひいらぎが飲んじゃう」ほうに賭けたと思いますよ。
そりゃあ子供は「もっと遅くに生まれたかった」とは言いませんが、子供を作ってといてからステップやるってのは、どうも順番が逆だな、と。
2007年12月13日(木) 慣れ 「今度こそ本気です」と言うから、ミーティングに通うこと、それから毎晩7時に電話をよこすこと、と申し渡しておきました。まだ入院中だからミーティングは無理にしても、電話だけは確実にと念を押しておきました。
ところがこれが、二日しか続きません。三日目には昼間のうちに「今夜は電話できません」という言い訳の電話がかかってきて、四日目にはもうこない。
病院に踏み込んでみると、ナースステーションで「もう二日前に退院されてます」と言われました。またまた医者の言うことを聞かずに自主退院かよ。
電話してみると家にいました。「入院してないならミーティングに来なさい」と言えば、いつもどおりミーティングに行けない言い訳が始まりました。
「そうやって自分の考えを使ってきて、結果がこれだろう。いつも同じだ。また同じことを繰り返すつもりか? それとも今度は自分の考えを窓から投げ捨ててみるか?」
「自分の考えでもう少しやってみます」
「じゃあ自分のやりたいようにしなさい」
ちゃんちゃん。
いぜん、統合失調症が精神分裂病と呼ばれていた頃、ある精神科医がこんな話を書いていました。
「彼の頭の中で、神と悪魔が世界の運命をかけた闘いを繰り広げているにしても、現実の彼の生活は、ベッドに横になりヘッドホンステレオで音楽を聴きながらマンガを読む毎日である」
本人の心の中はとんでもなく苦しくても、端から見るとかなり安楽に見える・・ということはよくあるものです。
一泊で出かけますので、明日は雑記の更新はお休みです。
2007年12月12日(水) 1年セックスレス論 酒を飲み出すときに、アルコールの与えてくれる「心地よさ=快感」を求めていることは間違いありません。もし酒が苦しみしかもたらさなかったら、だれもスリップはしないでしょう。
例えば、抗酒剤を飲んでから酒を飲むとかなり苦しいことになります。だから、誰しも抗酒剤なしで酒を飲もうと思うのが当然です。(抗酒剤を使って酒量を制限するという高度なテクニック?には触れません)。
話は変わりまして、なんで断酒後1年間は、たとえ夫婦であってもセックスするな、と言われるのでしょうか。それは多分セックスが「心地よい=快感」だからですね。精神的にも、肉体的にも気持ちがいい。それはアルコールの代わりになり得るものです。セックスがあることで断酒が続くのなら結構な話ですが、いつの間にかセックスなしでは断酒が続かなくなっているかも知れません。
ところが、セックスパートナーは酒と違って人間ですから、その気にならない時だってあるわけです。そんなときに、夫婦だからと無理強いしたりとか、拒まれたから外にパートナーを求めたりとか、金で手に入れようとしたりすると、ろくな結果になりません。セックスが手に入らなくても、酒ならいつでも手に入るもんね、ということになりかねません。
そんなことなら、最初から1年間しないことに決めた方が確実です。酒を飲めば死ぬかも知れません。けれど、1年間セックスをしなくても命に別状はない、ということは多くの男女が証明しています。
回復に集中するためには、退屈なくらい変化がないのが一番です。環境が変化すると、その変化に対応するのが精一杯で、回復どころではなくなってしまいます。だから、1年は大きな決断はするな、つまり結婚も離婚も就職も離職も引っ越しもするな、と言われるわけです(やむを得ないケースもありますが)。
1年は恋愛もしない方がよろしい。恋愛だけしていれば満足でセックスは不要、という人はいませんから。
じゃあ、ひいらぎお前は最初の一年は奥さんとしなかったのか? と聞かれると、そりゃ新婚でしたからやってましたよ、当然じゃないですか。
この業界?ダブル・スタンダード、トリプル・スタンダードは当たり前です。そして、自分ができなかったことを平気で「やれ」と言えなくては、スポンサーは務まりません。別にいじめているわけじゃない、相手のためを思ってであります。ほんとだって。イヒヒ。
2007年12月11日(火) 「飲酒欲求がない」だって!? 「飲酒欲求がない」という人がいます。
その言葉を微笑んで聞くしかありますまい。
僕がある程度飲まないでいた後でスリップ(再飲酒)したときの気持ちを振り返ってみると、自己破壊的な衝動で飲んだことはありません。いつでも、もう少し幸せを感じたいとか、辛いから少しでも楽になりたいという「幸せを希求する気持ち」から最初の一杯に手を出していたのです。
時には、「くそー、俺をこんな風に粗末に扱いやがって。俺が飲んだらどんなに困るか思い知らせてやる」という気持ちから飲んだこともありましたが、それですら「きっと胸がすっとするに違いない」というある種の幸福感を求めてでした。
どの場合でも、飲んだ結果は悲惨でしたから、「幸せを求めて酒を飲む」のは長期的展望を欠いた短慮に過ぎなかったのは明らかです。しかし、幸せを求める行為そのものは悪くはありません。悪い心(悪意)で酒を飲んだのではなく、良い心(善意)から飲み始めたのであります(ただ狂っていたけど)。
「飲酒欲求がない」という話は、おそらく「次の酒を求める肉体的な渇望が消えた」と言っているに過ぎません。飲み出せば止まらない病気であり、次の一杯を求める渇望はあまりに強力です。「お酒は次第に遠ざかります」とスポンサーから言われたように、酒をやめ続ければ、肉体的な渇望は次第に静まっていきます。
しかし「あれだけ痛い目を見てせっかくやめたのに、また飲み出してしまう」という精神的とらわれのほうも、実は一生ものです。その狂気は最初の一杯を飲ませようと、手ぐすね引いて待っています。それは飲酒欲求というほど強く感じられる欲望ではないかもしれませんが、飲酒欲求には違いありません。
「幸せを求めて酒を飲む」という論理は、深く脳に刻まれてしまったために、もう消えることはありません。僕らはそのぶり返しに対して無力です。
だから、幸せになりたいアルコホーリクには、例外なく飲酒欲求が潜んでいるのだと、僕は思っています。
アルコホーリクは自分をごまかすのが上手ですから、飲みたいという気持ちすら、うまくごまかして「ないこと」にしてしまいます。だから、毎朝粕漬けの魚を焼いて「俺は飲みたいんだぞー」とアピールするのは、実に自分に正直な態度です。家族にも危険度がよく分かりますから。
「飲酒欲求がない」と言っている人は、何に対して無力なのか分かっていない困ったちゃんであります。
2007年12月10日(月) 10 years ago (19) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (19) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
その入院ではいろいろな人たちと知り合いました。そして、そのつきあいが、退院後も細いながらもずっと続いていったのが、その前の入院と違っていました。
ロビーでタバコを吸っていると、Sさんというおじさんが声をかけてくれました。若い奴が入ってきたので面倒を見てやろう・・と思ったのかどうか知りませんが、まさこんな生意気なヤツだとは思いもしなかったでしょう。
「明日保護室から出たら、部屋の隣のベッドが空いているから来いよ」と言ってくれましたが、一介の患者に過ぎない彼にそんな権限があるのかどうか・・ところが彼は、翌日になると保護室からぼくの荷物を勝手にそのベッドに持って行ってしまい、それを既成事実として看護婦さんたちに認めさせてしまったのです。
そんなわけで、2ヶ月の入院期間中、わりと多くの時間をSさんと過ごすことになりました。
入院したのは県立の古い病院でした。病棟は二つの建物があり、一方には痴呆の老人ばかり、もう一方は統合失調の人ばかりで、そちらの3階にアルコールの人々が集められていました。2ヶ月入っていた間にアルコールの人は増減しましたが、少ないときで5人ほど、多きときで12〜3人ほどでした。そして、アルコールのプログラムも、特に充実しているわけではありませんでした。
だから、というわけではありませんが、ぼくは猛然と「こんな所にいてはいけない、何の役にも立たない」という焦りに襲われました。入院早々、僕は退院したくてたまらなくなりました。
担当医は毎日病棟まで上がってきては、ナースステーションで患者のカルテを見て、必要であれば患者を呼び出して面談していく習慣でした。患者のほうから医者に話をしたいときは、朝の点呼の時に「面談希望」と伝えておけば、その時に呼んでくれます。
僕は毎朝「面談希望」を出し、毎日担当医に「僕がここにいてはいけない理由」を並べ立てました。医者も「あなたは自分の希望でここに入院してきたのにねぇ」と苦笑いしていました。いてもたってもいられない焦燥感は、単なるアルコールの禁断症状に過ぎなかったのでしょうが、先生もわかっていながら丁寧に付き合ってくれたと感心します。
「自分は仕事と家庭を放り出して来たのです。すぐにでも退院して、その面倒を見なくてはいけないんです」
などと言っても、そんな状態で退院してこられても皆が困っちゃうだけなんでしょうが、それが分からないのが断酒初期というものです。
最初の数日は、病棟内禁足で、外に散歩にも出られません。そのうち、昼間だけ敷地内を散歩してもいいよということになりました(夜間は施錠されるので外出不可)。
入院して初めての日曜日は、AAの病院メッセージというのがある日でした。その日に病院を訪れるのは、入院以前に1年間に僕が断続的に通ったAAグループのメンバーでした。そのメンバーには、スリップしたのがとても恥ずかしくて、顔を合わせられない気持ちもありましたが、同時に僕の焦る気持ちを分かってもらえるのも、その仲間だけだという確信もありました。
そしてその日曜日・・・。
2007年12月09日(日) 恵まれている 「恵み」という話とちょっと違って、「恵まれている」という話。
僕が初めてAAのミーティングに出たのは、勤務先がある市内のクリニックの3階でした。それはAAグループのないその地方のために、県内の他の地方のメンバーが月1回やっていた「出前ミーティング」でした。
住んでいたのは車で二十数キロ離れた田舎町で、そちらでは仕事がなかったので、ほぼ1時間かけて自動車通勤していました。だから家の近くにAAミーティングがあったわけでもありません。けれど、通い慣れた街にあっただけでも助かりました。
その出前ミーティングをやっていた人に、うちのグループへおいでよと誘われて行ったのが最初のホームグループでした。自動車免許を取ってようやく初心者マークがとれた僕が、地図を片手に峠を越えて見知らぬ街へ行ったのでした。自宅から50〜60キロぐらいでしたでしょうか。夕方に仕事が終わったらAAに行き、帰りは高速道路を使っても帰宅が10時過ぎ。夕食を食べるのが11時ころでした。
当時は一週間に一回それをやるだけでも、ずいぶんしんどく感じられました。
でも「恵まれていた」んですね。行けるところに会場があったのですから。それでも遠いと文句を言っていたら、じゃあ自分ちの近くに自分で会場を作りなさいと言われました。自給自足であります。作りなさいと言われること自体が「恵まれていた」と思います。
通っているうちにKさんという人が現れました。その人は、僕の初めてのホームグループ(諏訪)が出来る前からAAにいた人でした。住んでいたのは伊那のあたり。そこから、当時県内にあったAA会場へ通ったのだそうです。更埴、上田、小諸、佐久。高速は金がかかるから国道で。仕事もしながら大変だったでしょうと訪ねると、だってそれしかなかったんだから、と笑っておられました。
また別に、メールで伺った話ですが、一番近いAA会場まで特急電車で2時間という環境の人もいるわけです。それでもあるだけ「恵まれている」んでしょうね。
まあ、普通に恵まれているだけではだめで、仕事も家族も失って、施設へ行って1日3回のミーティングという「チョー恵まれた環境」でないと回復できない人もいるわけですけど。
2007年12月08日(土) 10 years ago (18) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (18) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
ひととおり僕と妻と話を聞いた後、精神科医はこう尋ねました。
「で、どうしたいのですか?」
妻がしゃべる始めるのを制して、医者はさらに尋ねました。
「いや、ご本人がどうしたいかです」
僕の答えは、「入院させてください」でした。
妻は入院して欲しくなかったようですが、医者の「本人がそう言っているのだから」という言葉に押しとどめられました。入院先として、神奈川のK病院、東京のM病院などが挙げられましたが、僕が「遠すぎるから無理」というので、群馬のA病院か、どうしてもと言うなら県内の県立K病院にするか、という選択肢になりました。それで、一番近いところを選んだだけの話です。
医者はその場で病院に電話をかけ、ベッドを確保してくれました。入院の前日、僕はコンビニでハイネケンの缶ビールを二本買いました。あまりにも肝臓が弱っていたため、体調が悪く、その日はビールを一本開けたものの、飲みきることができませんでした。翌日病院へと出発する前に、その気の抜けたビールを飲み干し、ついでに残った一本も飲み干しました。今のところ、それが僕の最後の酒になっています。
事情を聞いて駆けつけてくれた母と、妻と、僕の三人で、僕の車に乗って出かけました。運転していたのは妻でしたが、道行きずっと泣きながら運転していました。後日母に聞いた話では、帰りも泣いていたそうです。
待合室で待っている時間が、ひたすら長く感じられました。診察そのものは5分もかかりませんでした。そして、入院のためのインテイクがまた長く感じられました。「どうしてこの病院を選んだのですか?」という質問に、僕は「ほかの病院の治療成績は2割がせいぜいだそうですが、ここは3割だと聞いたからです」と答えました。もちろん口からでまかせであります。
入院直前は、もう肝臓が弱っていたために、缶ビール1本か2本で泥酔する状態でした。あまり量を多く飲めない状態になっていたので(つまり末期的ということですが)、「保護室が必要というわけではないが、酒臭いのでほかの患者さんに迷惑だから」という理由で、鍵をかけないという条件で保護室に一晩泊まることになりました。
夕食は重湯にしてもらったのですが、それも満足に食べられませんでした。点滴が終わったので、保護室を抜け出してロビーへたばこを吸いに行きました。そこにいるのは見知らぬ人ばかり、そして窓の外の風景も、まるで見知らぬ景色でした。それを見て、非常に切ない孤独感を感じたのですが、ともかく「これで酒を飲む毎日からは脱出できたはずだ」と少し安心しました。
けれど、それで出口が見つかったわけではありません。
さて、今日は何日だろうと思いました。一月に出した一ヶ月の診断書の期限が切れたのだから、二月の中旬ぐらいか・・。いや、飲んでいると日付の感覚が狂うから、二月の下旬ぐらいかも知れないな。そう思ったのですが、実はもう翌月で、3月の6日になっていました。
それが何か特別な意味を持った入院だったのか・・と聞かれても、それほど特別な要素は見あたりません。でも、ターニングポイントとなった入院でありました。
考えてみれば、その半年前に細かなスリップを繰り返している段階で入院しておけばよかった、そうすればこんなに酷い状態にならずに済んだのに・・とまあ、後からするからこそ後悔というのでありますが。
(またそのうち続く)
2007年12月07日(金) 10 years ago (17) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (17) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
新年早々、妻の職場の親睦会でボウリング大会がありました。夫婦での参加が前提であります。酒の飲み過ぎで唇が紫色になっているような状態で、ボウリングができるものか・・・不思議なもので、それが優勝してしまうのでした。
優勝賞品は、誰のアイデアなのか、缶ビール2ダース入りの箱でした。家に着くと同時に、妻はその箱をどこかに捨てにいってしまったので、僕の口には入りませんでしたが。
一月中旬ぐらいから、僕は会社に行くのを止めてしまいました。無断欠勤でした。そもそも妻の出勤時間の方が30分ほど早かったのです。妻が、「今日は仕事に行くんだよ。もし休むんだったら会社にちゃんと電話して」ときつく言い残して出かけていくのですが、妻の車が出ると同時に、僕はアパートのどこかに隠しておいた酒を取り出して飲み始め、そのまま布団に潜り込んでしまうのが常でした。
9時になると、今日も出てこないからと職場から電話がかかってきますが、それには出ません。すると昼休みに、上司が妻の職場に電話をかけまして、「今日も出てこない」と言われた妻が、僕に電話をかけてくる・・・。一日に何度も電話が鳴るのですが、僕はそれを完全に無視して飲み続けるばかり、という日々でした。
不思議と飲酒運転はしませんでした。直近の酒屋は、歩いて片道30分ほどのコンビニでした。さすがに面倒なので、妻に「酒を買ってきてくれ」「車に乗っけていってくれ」と頼んだりしましたが、むろん完全に無視されました。真冬の夜中2時、3時に、歩きながら星座を見上げ、酒をラッパ飲みし、そして「ああ俺は何でこんな生活をしているんだろう」と思うのですが、その生活からの出口がまったく見つかりませんでした。
あんまり会社がうるさいので、精神科医に「一ヶ月の休養を要する」という診断書を書いてもらい、こいつはもうダメだと見放されて、プロジェクトから外されました。その仕事は同僚に回りました。結婚だ病気だと理由をつけて、散々遅らせた仕事を押しつけたのですから、すんげぇ迷惑な話であります。
だがそんな状況でありながら、当時秋葉原でも品薄で入手困難だった機材を手に入れ、ISDN回線を引いてインターネット接続業者と契約までしている・・・よくまあ、そんなことだけはできたんだねぇ、と自分でも感心するのですが、話を戻します。
そんな生活を一ヶ月も続けると、さすがに妻も体調を崩し始め、昼間僕が酒を飲んで寝ている布団の隣で寝ているようになりました。結婚前に実家にいた数年間は、僕が飲んでいようといまいと、母が家事を続けていましたから、僕は家の中のことなど心配せず、ある意味安心して酒を飲み続けることができました。
しかし、結婚して二人になり、(どうみても僕のせいで)妻が倒れてしまうと、とたんに家の中のことが回らなくなってしまいました。
ようやくそこに至って、僕は「この生活をいつまでも続けることはできないんだ」という、当たり前の事実を認識したのでした。自分で酒を切れない以上、入院しかありません。いずれにしせよ、一ヶ月の診断書の期限は切れています。というわけで、妻と一緒に精神科医の診察を受けに行きました。
(そのうち続く)
2007年12月06日(木) われをすくいし ミーティングも残業もなく、とっとと帰るつもりだったのですが、自宅に電話しても「ご飯がないよ」ということだったので、喫茶店に立ち寄って夕食にしました。パスタと珈琲のセットで1,600円というのは、一人で食べる夕食にしては豪華すぎましたが、たまにはのんびり珈琲でもすすりながら本を読みたいのであります。
店内ではピアノの生演奏をしていて、手元に曲のリクエスト用紙もありました。けれど何でもいいというわけでもなく、いくつかの曲から選ぶ仕組みでした。店内の人はあまり熱心に聞いている様子でもなく、拍手があったのはリクエストに応じてハッピー・バースディの曲が終わったときだけでした(たぶんピアノへの拍手ではなかったのでしょう)。
曲目の中には「アメージング・グレース」もあり、別にリクエストしなくても待っている間にその曲になりました。なにせ初めて入った店なので、ピアノの生演奏が「12月だから」なのか、木曜日だからなのか、年中やっていることなのかは知りません。
それにしても、投げたブーメランがとんでもない方角から帰ってきたものです。1月14日は代々木にいるつもりですが、イグナチオにも行かないとダメですかねぇ。え? 朝から来い?
アメージング グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
賛美歌として歌われていますが、AAでは宗教とは関係なく信仰の歌として、国際コンベンションなどで歌われているそうです。この前の福岡でも使われたはず。
2007年12月05日(水) AV 「どうして殿方はアダルトビデオが好きなのか?」
えーと、詳しいことは忘れましたが、要は男は頭でセックスするからだそうです。だから、想像ですることもできるわけです。
じゃあ、女性はああいうビデオは好きなのかどうか? 私はああいうのは絶対見ない、と頑なな人もいます。男と一緒なら見るという人もいます。いや一人でも見るという人もいますが、これは少数派でしょう(たぶん)。
ちなみに妻はスカパーのPPV枠をたっぷり使ってくれたことがあります。
まあ、それはともかく、特定分野を除けば、ほとんどのアダルト映像商品は、男性によって消費されているのは間違いありません。
ただ男性でも、映像が無料で手にはいるのと、有料なのでは、消費行動にずいぶん違いがあるようですが、今回はそっちの話ではありません。
1980年代に、ホームビデオの普及を、アダルトビデオが牽引したのは間違いありません。それまでは8ミリフィルムで「ブルーフィルム」などという手間のかかるものしか存在しなかったのですから。
VHSとβの規格競争でVHSが勝利したのには、様々な理由が言われていますが、一番大きい理由は「VHSのみで発売されたアダルトビデオが多かったため」でしょう。だから、当時βのビデオデッキしか所有していないというのは、男としてかなり潔い態度でした(いや、アニメしか見ない危ない人たちだったのかも)。
家庭用ゲーム機も、ファミコンの時代にはアダルトが結構ありました。市場が立ち上がったスーファミ以降はアダルト禁止になってしまいましたけど。
DVDの普及もアダルトあってこそでしょう。パソコンのハードディスクの大容量化だって、ビデオ映像以外何を入れるんですか何百ギガも。光ファイバーだって、大容量高精細のビデオファイルの伝送に使ってるのじゃないんですか? 液晶画面の色再現性だって、どうしてそんなに人肌にこだわるんですか?
それにしても、ハイビジョンのテレビを見ながら思うのは、なぜ次世代DVDでアダルトが出てこないのか、という疑問です。次世代DVDがなかなか普及しない・・と、ハードメーカーも、コンテンツホルダーも悩んでいます。Blu-rayとHD-DVDと、どちらの陣営が勝利するか・・なんて報道されていますが、先にアダルト解禁した方が勝ちなんじゃないんですか?
やっぱハイビジョンだよねー。
2007年12月04日(火) 安易な癒しに逃げない 朝から雪がちらついていました。
夕方職場を出ると、駐車場の車の上に雪が積もっていました。
2週連続で火曜日のミーティングへ。2週連続でバースディなのでした。悪いとは言わないけれど、まとめることはできなかったのだろうか・・・と思ってしまいます。
中山道で有名な、信州の木曽谷にはAA会場がありません。断酒会ができたのもそう古い話ではありません(10年ぐらい)。木曽と伊那を結ぶトンネルが開通したのが去年の2月。今日の人は、そのトンネルを通ってAAに通った人でした。恵みを得た人です。
ぶっちゃけAAミーティングはアルコホーリクを回復させないと思います。
少なくとも、ステップが与えてくれる回復を、ミーティングは与えてくれません。
それから、生きることが楽なときには人は回復しません。生きることが辛いときに、楽になろうと何か(この場合はステップを)することで、人は回復します。
実はミーティング通い続けることで、生きることが楽になってしまうのは、大変困ったことです。だって、人は楽なときにステップをやろうとは思いませんから。そして「鉄は熱いうちに打て」の言葉ではありませんが、時間が経って楽になってしまった後では、いくら叩いても膨らみすぎた自我は凹みません。
うまくしたもので、楽だと思っていても、生きていれば辛いことはやってきます。そこで、ミーティングの数を増やしたり、AAのイベントに行って楽しんだり何かして、楽になってしまう・・とせっかくのチャンスが台無しです。そこで変わる努力ができたのに「安易な癒し」に逃れてどうする?
そんなだから、男に(女に)逃げたり、薬に逃げたりするんでしょ?
じゃあミーティングは何のためにあるのか? そりゃ多分ステップをやる力をつけるためですよ。辛いときしか回復しないとしても、辛くて飲んでしまったら元も子もないですし、前進のためのエネルギーを得る場所は必要ですから。
とはいえ、僕もAAイベントには遊びに行っているだけですが(家族には内緒だよ、美味しいものを食べていることも内緒だ)。
2007年12月03日(月) 10 years ago (16) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (16) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
さて、新婚の僕と妻は、僕の実家で年を越すことになりました。
当然、妻にも、母にも、兄にも、僕は酒を止めたことになっていましたから、何らかの手段で酒を持ち込まなければ苦しいことになります。僕は酒のディスカウントストアの店内をしらみつぶしにあたった後で、ドイツ製のビールを一箱買い求め、それを「ノンアルコールビールだ」と言い張って、家族の前で飲むという作戦に出ました。
父が亡くなった後の家で、母を一人暮らしさせるわけにはいかない・・・それには兄一家がローンの残る家を売り払って実家に戻るしかない。けれど、江戸時代から建っている古い家屋敷に入るのは、義姉が納得するはずもありません。そこで、新しい家を建てねばならないのですが、兄にはそんな金もなし。先祖代々受け継いできた土地を売って家を建てる金を作ったとしても、「俺たちは反対しないから」と叔父たちが兄を説得したとか、しなかったとか。
そんな相談が行われている最中、僕は確実に酔っぱらっていきました。
年が明けると、今度は妻の姉夫婦の家に挨拶に行かねばなりませんでした。ところがもうその日の自分はピキピキの禁断症状の真っ最中で、見知らぬ家で笑顔らしきものを顔に貼り付けているのは半日が限界でした。
帰りの車の中で、妻に八つ当たりしていると、「やっぱりあなた飲んでいたのね」と逆に責められることになりました。
正月休みが終わって、仕事が始まっても、当然まるで仕事になりませんでした。職場の椅子に座りながら、「なぜここで席を立って、すぐそこの酒屋の自動販売機でビールを買って飲んではいけないのだろう」という考えが、繰り返し繰り返し浮かんできました。
この時期に、仕事で浜松へ出張に行っているはずです。一人で行かせるには不安だからと、同僚がお目付役に付いてきました。だが、僕は名古屋に着いたことと、そこから新幹線に乗ったことは憶えているものの、浜松のことはまるで思い出せません。夕刻、名古屋から特急しなのに乗って帰るとき、僕と同僚は喫煙車両と禁煙車両に別れました。僕はさっそく車内販売でウィスキーを買って一息つきました。そのことだけははっきり憶えています。
仕事を放り出して入院するしかないのは分かっていました。けれど、なかなかその道を選べませんでした。プロジェクトは逼迫し、簡単に逃げ出せる状態ではありませんでした。もう家庭から新婚の喜びは消えていましたが、それも入院してしまえば、良い雰囲気を取り戻すチャンスはもう二度とないでしょう。
だから、なんとか入院しないで、現状のままで良くなりたい・・・そう言いながら、飲んだり止めたりを繰り返して、日にちだけが経っていき、状況がずるすると悪くなっていきました。良くあるパターンであります。
あの時に、誰が何と言っても、僕は入院しなかったでしょう。けれど、アルコールは偉大な説得者でした。とは言え、僕が入院を決意するまでは、まだその先二ヶ月飲み続ける必要がありました。
(続く・・かなぁ)
2007年12月02日(日) 10 years ago (15) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (15) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
10年前というタイトルで書き始めたこのシリーズですが、続きを書かないでいるうちに、もう12年前ぐらいになってしまいました。
さて、新婚旅行中にまた飲み出してしまった僕ですが、妻が「日本に戻ったらもう飲まない」という空約束を信じたおかげで、新婚早々夫婦げんかをして過ごすということは避けられました。けれど、たった数日の飲酒生活を送っただけで、酒が切れれば禁断の苦しみという依存症の症状もぶり返してしまい、身体の不調はごまかすことができませんでした。
まだ、日本に戻る飛行機の中は良かったのです。機内サービスの酒を飲み、なんとか禁断症状をなだめすかししていましたし、苛立ちの対象は、ただでさえ狭いエコノミークラスの座席に、妻が空港で買い込んだおみやげを手回り品で持ち込んだため、手足を満足に動かせないことに向かっていました。
けれど・・日本に着いてしまえば、もう言い訳はできません。成田から東京へ、東京から長野へと戻る列車の中で、早くも悪寒と震えがやってきました。
新居のアパートで過ごした翌日。僕はこの症状を和らげてくれる薬を処方してもらおうと、精神科医の診察を受けました。「やっぱり飲んだのですね」と尋ねる医者の言葉に、「ええ、飲んじゃいました」とためらいなく答える僕。その言葉を聞いて、初めて妻は「これは困った人と結婚したのかも知れない」と悟ったそうです。
二人でAAミーティングにも行って「スリップしました」と報告しました。けれど、それで何が変わるわけでもなく、僕は断酒後の抑うつ状態を抑える薬を飲みながら、ノンアルコールビールと普通のビールをかわりばんこに飲んでいました。
遅れに遅れていた仕事に復帰したものの、酒が止まっていない状態ではまるで仕事になりません。なんとか仕事をしなくては・・と1日2日酒を切ってみるものの、アルコールを体から抜いてみたところで、バランスを崩してしまった脳の調子は、すぐには戻りません。どんどん追いつめられていくものの、結局半月まるで仕事ができないままに年末の休みに入ってしまいました。
(そのうち続く)
2007年12月01日(土) オカマ計画失敗の巻 久しぶりにエレキネタ。
ソニーのFelicaリーダーライターが届きました。
これがあれば、どこにいてもパソコンさえあればSuicaの残高が確認できます・・って全然実生活に意味を成さないし。パスモもトイカもイコカも持ってませんし。
実はEdyのチャージが出来まして、JALのマイレージがつくクレジットカードでチャージして、飛行機に乗らずにマイル数を稼ぐという「オカマ計画」(丘マイラー計画)を立てていたのですが、何度やってもカードが登録できません。
パソコンの画面には「エラー:現在センターが混み合っています。時間をおいて・・・」と表示されるのを信じて、30分おきに5回くらい試したのですが、ちっとも混雑が解消しません。苛ついてカスタマーセンターに電話してみたら、「ああその会社のカードからはチャージできませんよ」とあっさり言われてしまいました。
Edyにチャージできるカードは、ANAマイレージしかつかないのか・・・。
話は変わりますが、減薬中なのでイライラします。アルコールの離脱症状に比べれば軽微なものですが、毎度毎度イライラさせられる体験です(当たり前か)。
さて、スポンサーシップはスポンサーを回復させない、と思います。
自分の回復は自分でステップをやらねばなりません。スポンシーに関わることで、自分がステップをする代わりにはなりません。いくらスポンシーが回復しても、それでスポンサーが回復するわけではありません。
それでも、スポンシーを持つことは大切だと思います。
鉄は熱いうちに打て、という言葉の通り、酒の止め始めの苦しい時期は「苦しさ」がステップに取り組む動機になります。その時期を過ぎてしまうと、なまじミーティングに通い続けるだけで、半年・1年・2年・・と飲まない生活が続いてしまい、ステップをやる動機が失われてしまいます。冷めた鉄を打っても形は変わりません。
そういう意味では、何年経っても苦しいままってのは福音ですね。
僕はスポンシーを持って、初めて自分が「伝えるべきもの」を持っていないことに気がつきました。そこで再び自分がステップをやる動機が与えられたのです。実は苦しいままだったってのもありますけどね。
「自分がまだ手にしていないものを人に手渡すことができないのははっきりしている」P240。
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