心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年10月31日(水) めげめげ

仲間の奥さんから、ご本人が亡くなったという電話を受けました。
連絡に忙殺されました。ミーティングの日で、普段より自由な時間が短く、さらには自分の心のケアもしないといけません。
昨日から、失踪する人、ODする人、顔がむくんでいる人、足を引きずっている人などなど、いろいろな現実を突きつけられて、少々メゲていたところへ、さらに追い打ちです。みなさんお酒は止まっている(いた)人たちです。
ちょうど今日のミーティングは第3章の後半でした。3章最後の文章。
「その力は、ハイヤー・パワーだけが与えてくれるのである」

仲間の笑顔に依存して酒をやめていてはいけない、と自分に言い聞かせる夜であります。


2007年10月30日(火) Windowsと同じで・・

感情の乱れを物理現象として捉えれば、それは脳のバランスの乱れです。
つまり感情が乱れている時は、脳内の化学物質の比率や、神経細胞の興奮ぐあいが偏っているということです。「心」の実体とはそういうものです。

人間の体には恒常性(ホメオスタシス)があって、崩れたバランスはある程度自動的に修正されるようにできています。脳も体の一部なので、脳内の偏りも時間が経てば元に戻っていきます。

人にはたまたまどこかの器官の復元力が弱いってことはあり得ます。私は胃が弱いとか、腸が弱いとか、肩が凝りやすいとか、人によって違いはあるでしょうけれど。

で、うつ病の人というのは、脳の復元力が弱いのです。脳内のバランスが崩れやすく、元に戻るまでに時間がかかるので、復元前にまた新たな乱れが加わって、さらにバランスが(つまり心の乱れが)増していきます。結果がうつです。だから積極的に脳の乱れをリセットし、バランスを取り戻していく必要があります。

その具体的な行動の提案が「祈りと黙想」です。これを朝晩、あるいは日中のどこかで行うことを習慣として身につけると、やがて違いが明らかになってくると思います。心を静かに落ち着ければ、どんな方法でも脳のバランスは戻ると思いますが、自分の経験からすれば「祈りと黙想」ほど効果的な手段は他にありません。しかも無料。
ですから、薬を飲み続けてもなかなかうつ病が良くなってこない、という人にはこの手段がお勧めであります。

また、うつでなくても、アル中の人たちは、脳のバランスの乱れを翌日に持ち越しがちです。「感情の二日酔い」というヤツで、昨日の怒りや恨み、自己憐憫を今日も引きずって悩む癖があります。これにも「祈りと黙想」は有効です。

ともかく、「祈りと黙想は脳に効く」「バランスのリセット」ということは憶えておいて損はないと思います。


2007年10月29日(月) 金銭と性欲

5月ころに「最近金遣いが荒くていけないな」と思いました。
要するに金がない、困ったぞってことです。

以前、金がなくて困ってます、という相談をスポンサーにしたら、家計簿をつけたらどうかなという提案をもらいました。なぜなのか、どうしてなのか、という説明はあまりしてくれないスポンサーでしたから、どんな提案であっても、その理由や理屈はこちらで考えねばなりませんでした。
家計簿をつけることで、自分がどんな使い方をしているか気づくことが必要でした。「金銭の正しい使い方が終わるところから、誤った使い方が始まる」と本にあります。自分のことは分かっているようで分かっていない。表にしないと分からない。棚卸しの理屈に似ています。

今回はエクセルのシートで自分の小遣い関係だけ毎日記録し、集計するのを続けることにしました。そうすると見えてくることがあります。たくさん金を使っていると思ったパソコン分野には、実はあまり使っていないこと。性欲関係には実は自分の予想以上にたくさん使っていたことなどです。
(どこまで性欲関係に含めるのかとか、具体的に何に使ってるの、という質問にはお答えできませんので、あしからず)
男ですから、それはゼロには出来ません。

家計簿の提案のころ、別のすごくソーバーの長いメンバーから「男のAAメンバーがソブラエティを続けていくためには、性の問題をなんとか処理しなくちゃならない。そのとき綺麗なことは言っていられないんだ」というシェアをもらいました。後年、女性のメンバーから「それは女だって同じよ」と教えてもらいましたけど。

「自分は性の問題を一つ解決した」という話を聞くこともありますが、ひがみっぽい僕は、そりゃ年取って衰えただけじゃないの? とか思っちゃったりして、いけませんね。

珍しくマイ・スポンサーに電話したついでに、「もう一人別のスポンサーを持とうと思う」と話したら、すごく良いアイデアだと言われました。そして奥さんから「あなたがひいらぎさんのスポンサーなんじゃなく、ひいらぎさんがあなたのスポンサーしたようなものよ」と言われたと笑っていました。いやいや、そんなことはない。
マイ・スポンサー、あなたの一番のスポンサーは奥様だと思いますよ。グランドスポンサーも、そう言っていたような・・・。


2007年10月28日(日) ごちゃごちゃ

夏の終わりに居間のカーペットを交換したのですが、古いカーペットが捨てられずに置いてありました。さすがに可燃ゴミでは出せないので、市のゴミ処理場まで処分に行きました。ついでに、家庭ゴミでは出せないもろもろも持っていきました。
ノートパソコンを一台処分。掃除機購入。
雨の週末、ユニクロへ行くものの駐車場へなかなか入れず、やっと入っても試着室が長蛇の列で諦めました。AAミーティングにも遠来の訪問者。

9月に二台目の携帯電話としてソフトバンク・モバイル(SBM)のを契約しました。ホワイトプラン月々980円というやつです。それを買うときの条件として、Wホワイト契約とか、パケット定額、その他いろいろのオプションを契約させられました。そうしないと売ってあげないと言うのだから仕方ありません。
最初の2〜3ヶ月は、そうしたオプションは無料サービスになっているので、その間に自分で不要なのを解約してください・・・と言われていたのですが、面倒なので放置してきました。来月からさまざまな課金が始まってしまうので、あわててこの週末に細々とキャンセルしたところです。
自分でオプションを解約するすべも知らず、高い料金を払わされて続けている人もいるんじゃないかと思います。

SBMは様々な手段で顧客数を増やしています。事業は順調に見えるのですが、それを支えるインフラの脆弱さは隠しようがありません。すぐ圏外になりますし、ネットワークは常に混雑気味です。それでもSBMしか使ってなければ、それが当たり前だと思うのかもしれません。

会社更生法を申請した例の英会話学校も、顧客数、店舗数を伸ばしているうちは順調でした。けれど、それを支える英会話講師(インフラ相当?)の整備が追いつかずに事業が回らなくなったのが破局の始まりでした。SBMにも同じ危うさはないのでしょうか。事業が破綻して携帯は使えないけど、割賦販売の請求だけが月々きたら嫌ですよ。

さて、以前にミーティング会場を借りたとき、その部屋は30人ぐらい入れる会議室でした。もっと狭い部屋もあったのですが、狭いのは会議室をパーティションで区切って二つに分けているような部屋だったので、隣室に会話が筒抜けになって、プライベートな話をするAAにはふさわしくありません。
だから、人数はごく少なかったものの、毎回30人用の部屋を借りていました。その施設の最上階には100人収容の大会議室がありましたが、平日夜にその部屋が使われることはまれでした。
そのうちに30人の部屋が人でいっぱいになるんだ・・いやいや、そんなもんじゃない。100人部屋を毎週満員にするぐらいになるぞ、とアル中らしい誇大な妄想を抱きました。しかも、それを実現するのは「俺だ!」ぐらいに思ってましたから、スポンサーに「お前はキチガイだ」と言われて当然であります。
個人の力でそんなことできるわけがない、というのが一点。もうひとつは、夢は夢でどんな夢を見てもいいけれど、誰とでも、本当に誰とでも協力できる自分にならなければ、夢は夢のままに終わってしまうということ。

あのころはスポンサー以外にも、いろんな仲間がひいらぎに、ごちゃごちゃアドバイスをしてくれました。ありがたいことでした。そういうのを言われなくなるのは淋しいものです。


2007年10月27日(土) 新浦と野茂

仲間に「五つの小さい章からなる自叙伝」で検索すれば見つかるよ・・・と言ったものの、帰ってから自分で検索すると見つかりません。うーん、「5つの短い章からなる自叙伝」でした。
僕がこの詩を知ったのは、このサイトを始めたころ atsuko さんという方のサイトに掲載されていたのを読んででした。同じ穴に落ち続ける、落ちないように別の行動を選んでいると思いながらも、実はやっていることは変わらなくて、やっぱり同じ穴に落ちてしまう、そういうアルコホーリクの癖に、うまく当てはまる気がします。

さて、雑記用のメモに「新浦と野茂」とだけ書かれていました。
いったいこれをメモしたときに、僕は何を考えていたのか・・・。

メジャーリーグをクビになった野茂英雄が、ベネズエラのウィンターリーグに参加したものの、やはりそこでも打ち込まれているというニュースがありました。スポーツ選手は、キャリアの絶頂期に引退してしまえば、格好良くやめられるのでしょう。新庄とか、定岡みたいに。でも、僕はあまりそれが格好良く思えません。ぼろぼろになっても燃え尽きるまで続けていく選手を応援したいと思います。

新浦壽夫は巨人の速球派投手でしたが、肘を痛めて解雇されました。普通ならそのまま引退なのでしょうが、彼はできたばかりの韓国プロ野球リーグへと移籍し、技巧派投手として成功します。3年後に日本球界に復帰し、大洋で活躍した後、1992年にはヤクルトへと移籍します。当時ヤクルトファンだった僕には強く印象に残っている選手です。同じ年には角盈男もキャリアの最終年をヤクルトで過ごしていました。

もはや速い球が投げられない投手が、コントロールと配球でアウトを取っていくのは、野球のおもしろさの一つだと思います。三振をぶんぶん取る投手もいいのですが、やはり技巧派、遅い球でも巧みにバットの芯を外して内野ゴロの山を築き、走者が出ればダブルプレーで切り抜ける・・というタイプが見ていて面白いのです。

のんびりテレビで野球中継をまるまる一試合見れるような、そんなのんびりした生活を送りたい・・・と思うこともあるのですが、実はテレビ中継は30分も見ていると飽きちゃったりするのです。のんびりしていちゃいけないような、そんな強迫観念に取りつかれているのです。絶頂期に引退する選手を好きになれないのも、そういう心理が影響しているのかも知れません。


2007年10月26日(金) 信用(その2)

(その1から続く)

彼は最初のころは毎日ミーティングに出ている人でした(当時の長野県でですよ)。ソーバー3年近くたった当時も、週に4〜5回出ていたでしょう。スポンサーもいたし、ステップ4・5の棚卸しもしていました。毎月県外のAAイベントに出かけていて、知り合いも多いようでした。とんでもない遠くのAAの話を聞かせてくれたりしました。ともかくAAの活動に熱心で、来年からは東京での地域委員会にも行くんだと言っていました。
僕にとって彼は、回復の見本でした。ここまでやれば誰でも回復できるという、AAの回復の体現者だと思っていました。逆に言えば、自分はそこまで活発に活動できないのがコンプレックスでした。いや、コンプレックスではあるものの、いざ自分も追いつめられる時があったなら、彼のようにAAを熱心にやれば、自分がどんなにひどい状態でも助かるに違いない・・と信じる対象でした。

その彼がスリップ(再飲酒)してしまったのです。一体僕は何を信じればいいのか? どんなメンバーを信頼して、アテにしていけばいいのか? ちょうどそのころ、ミーティング会場にメンバーが増え始め、また県内でサービス委員会を作るという話が出てきて、それまで飲まないだけで精一杯だった自分が、AAで他のメンバーとより深く関わる必要が出てきました。その時誰を信用していけばいいのか?

冒頭のシーンは、そこから発せられた疑問でした。

「信用できるメンバー、できないメンバーを、どう見わけたらいいのか」

という質問に対し、その経験の深い仲間は、こう答えました。

「自分の力で酒をやめている人は信用できない」

なるほど、僕は饒舌になって自分の考えを言いました。「つまり、ミーティングにたくさん出て、仲間と一緒にいて、それで力をもらって・・・」
しかし、その人の答えは意外でした。

「お酒は神様がとめてくれるんです。神様のないメンバーは信用できない」

普段は、神だとかハイヤー・パワーだとか言わない人ですし、人一倍仲間との交流に熱心な人ですから、その人の口から「神」なんて言葉が飛び出してきて、びっくりしました。同時に、神様のない自分は、まだこの人に信用されていないんだなと、少し動揺しました。

とはいえ、僕がハイヤー・パワーの存在を願うのは、もっと後のことです。

(この項終わり)


2007年10月25日(木) 信用(その1)

ソーバー2年目の時でした。あるAAの集まりの帰りに、ソーバー10年以上のAAメンバーを車で送っていく事になりました。
その人とは何度もミーティングを一緒にやっているものの、それほど親しい間柄でもなく、車中の会話は途切れがちでした。当時、AAのサービスという得体の知れない物に関わるようになった僕は、そこで抱えるようになったひとつの大きな疑問を、この先輩にぶつけてみることにしました。

「信用できるAAメンバーと、信用できないAAメンバーって、どうやって見わけたらいいんですか?」

・ ・ ・

そのことと時期は前後しますが、こんな事がありました。
毎年夏になるとAAメンバーが集まってバーベキューをしていたのですが、僕はその夏の準備部隊の一員に選ばれました。難しいことではなく、買い出しと、現場の準備をするだけです。でも、僕はそれまでバーベキューをほとんどやったことがありませんでした。だから、何をどう準備すればいいのか、買い物も肉は一人何グラム? 野菜はどれをどんだけ? 焼きそばとかどうするの? 飲み物の量は? 燃料は? 油は? 調味料は? 道具は? と分からないことだらけでした。
幸いなことに、僕より1年半ソーバーの長いメンバーがいて、「俺は経験があるから任せておけ」というので、僕はほっと胸をなで下ろしました。彼はAAでの活動が活発でしたから、信用し大丈夫だと判断していたのです。
ところが、いざ買い出しに行くと雲行きが怪しくなりました。肉をどれだけ買うのかも決まりません。そもそも今日何人集まるかも分かりません。二人でうーんと唸っているだけ。結局、ろくに買い物もできないままにバーベキューサイトに戻りました。

AAでは仲間の失敗は許してくれます。準備ができてないことで、その後大もめにもめることもなく、管理人さんに頭を下げたり、皆で追加の買い出しに行ったりして、なんとかそろった物でバーベキューをやりました。誰も文句は言いませんでしたが、僕の経験の中で最も悲惨なバーベキューでした。責められはしなかったものの、準備部隊の一員として、どうしてこうなったのか考える必要があると思いました。

数週間後、彼が行方不明になり、さらにその後再飲酒で入院したと聞きました。思うに、あのバーベキューの時にはもう飲み始めていたのでしょう。

(続く)


2007年10月24日(水) 長い話と体重計

ホームグループの会場係を別のメンバーにお願いして、自分は他のグループのミーティングに出かけてきました。そのことにどんな意味があったのか、それは自分では分かりません。

僕は初めてAAにやってきた時、「AAはお酒をやめるところで、そのためにお互い手助けをするところだ」と教えられましたし、ミーティングハンドブック先頭の序文にもそんなことが書いてありました。けれど、ミーティングで話されることは、過去の飲酒のひどさであったり、小難しいステップの話しであったりして、ちっとも酒のやめ方を教えてくれないじゃないか、と僕は不満でした。ステップと酒をやめることに何の関係があるんだ? って感じです。
しかし時間をかけて理解したことは、ステップこそがAA流の酒のやめ方であり、その経験を分かち合うことこそが「お互い手助けをする」最大のことだということです。

そんな話をしようと思ったのですが、飲んでいた頃の話も含めて枝葉が多くなり、12分ぐらいしゃべっていました。最近どうも話し出すと10分を超えてしまいます。せいぜい5〜6分にならないかと思うのですが、話が下手でいけません。

そちらのミーティング会場に寄った後は、実家の母のところに寄るのが通例ですが、旅行大好きな母は旅の空の下なので、夜の安曇野を走り抜け、ラーメン屋で食事して帰ってきました。

お腹を下していたはずなのに、体重が1Kg増えてしまいました。これは不思議なことではなくて、硬軟どちらでも(便秘でも下痢でも)腸の働きが鈍っていることに違いはなく、蠕動運動が鈍って腸内に滞留する質量が増えれば、それが体重計に反映される理屈だと思います。
普段でも体重計に乗りながら、最近どんどん増えるのは夜食?に柿ピーとコーラを楽しんでいるのがいけなかったか・・などと反省したりしています。これも日々の棚卸しかもしれませんね。

自分の精神状態も体重計みたいに簡単に計れればいいんですけどね。


2007年10月22日(月) 続・腹が痛い、トイレと仲良し

AAの集まりで本名を使ってはいけないとか、フルネームを使ってはいけないという決まりがあるわけではありません。あくまでも世間に公表するときには、つまりメディアに載るときには、本名を伏せて顔も出さないという原則があるだけです。

だから、グループの中ではフルネームを名乗ってもちっともかまいません。でも、別にそうする必要も感じないので、僕はニックネームである「ひいらぎ」を使っています。AA用の名刺には本名もちゃんと書いてあります。

先日、とある仲間から、その本名が「マンガの登場人物みたい」と言われました。そう言われてみれば、そうかも知れません。姓(名字)のほうは難しい字ではないものの、世間では珍しい姓のようで、親戚や近在以外に同姓の人を知りません。作家のペンネームでこの姓を使っている人がいますが、本名ではないようです。旅館や料亭の名前に使われていたりします。

婿養子なので男のくせに旧姓もあり、そちらは珍しい姓ではなく、サッカー選手やマラソン選手、女優や政治家などに見あたります。マラソン選手は同郷人です。

いずれにせよ、本名は生まれたときに決まってしまい、本人の選択の余地がないわけです。結婚するときに姓だけ変えられたとしても、名前で相手を選ぶわけじゃありませんので。まあ「読み間違いがない」という点は気に入っています。

ミーティングで話していて、依存するということは、依存対象に支配されるに等しいという考えが浮かびました。アルコールに依存すればアルコールに支配され、ギャンブルに依存すればギャンブルが日常を支配します。共依存というのは、その相手に支配されてしまうのでしょうか。

というあたりまで考えたのですが、本日は朝からゲリピー気味で、何事にも集中できない状態でしたので、考えるのもそこまででした。毒素が体全体に回ったのか、そこらじゅう痛くてたまりません。明日はお休みかも知れません。こういうときは正露丸で正解でしょうか。


2007年10月21日(日) 腹が痛い、トイレと仲良し

はっきり約束をした憶えはなかったのですが、朝9時に起こされて「そば祭りに行こう」と連れ出されました。今回はジジババとセットであります。5人乗りの車に6人で乗っていきました。ジジの理屈だと「子供二人で一人分だから大丈夫」なんだそうですが、教習所で習った理屈では「子供3人を大人2人とカウントする」ルールだったような気もします。

この週末は、ともかく「生産的なことは何もしない」つもりでいました。頼まれているあれやこれやを放り出して、ゴロゴロ寝て、本を読んだりビデオを見たり・・。結局それすらしなかったのです。

さて、AAミーティングにも「波」があると思います。たとえば人数の波です。20人以上集まっていた会場が、3ヶ月後には7〜8人まで減っていたりしますし、その逆もあります。そこに参加する個々人にも、気分や都合の波があって、おそらくはその重なり合いが会場の波を形作っているのでしょう。
会場のいい雰囲気が気に入っている人は、雰囲気が変わると去っていったります。それはその人の目的が「いい雰囲気」なんだから仕方ないことです。そういう人に限って「以前は良かった、今の悪い雰囲気を誰か何とかしてくれ」と解決は他人任せだったりするんですが、それは別の話としましょう。
最近あそこの会場は雰囲気が良い、という評判が立てば人が集まり、暗いとかギスギスしていると言われれば来る人は減ります。
おそらく、「酒をやめたい」という純粋な願いだけで全員が集まっていれば、波は小さくて済むのでしょうが、自分だってそんなに純粋な気持ちでミーティング通いを続けているわけでもありませんから、人に文句を言えた義理じゃありません。
同じことは、ネットの掲示板やメーリングリストにも言えます。

自分の評判にも波があります。行いが悪ければ評判が落ち、善ければ評判が上がる・・・とは限りません。そこが難しいところです。「あの時、あんなに褒められるほど善いことをしたとも思えないが、今こんなに悪し様に言われるほど悪いことをしたとも思えない」と嘆いた経験はないでしょうか。
良い評判をもらえば自信がつき、自信がつけば気持ちに張りが出て、生きていくのが楽しくなる・・・それはそうなのですが、評判の善し悪しは自分がコントロールできないものである以上、良い評判を目的にすると、他者の視線ばかりが気になって、かえって辛く感じられるものです。それゆえ評判から自由になることは大切だと思います。
とはいうものの、頑張って仕事したのに、給料が上がらなくてやる気をなくしたりなどなど、人はなかなか評判から自由になれないものです。

たとえ他者が努力を認めてくれなくても、その人の中の神さまは、必ずその人の努力を認め、褒め讃えてくれるのは確かだと思います。


2007年10月20日(土) 安心して病む

午前中から家族で買い物に出ました。
僕が欲しかったのは、ワイシャツ1枚だけで、ついでに100円ショップでボールペンでも買ってこれれば十分でした。その用件だけ済ませるなら、自分一人で行動した方がず〜〜っと早いのです。
なんで女の買い物は、こんなに長いのか?
子供の服を買って、100円ショップによって、ソフトクリームを食べて、本屋によって、食料品を買って帰ると、もうすでに2時間経過していました。買い物だけでぐったりと疲れてしまいましたが、それに付き合うことになんか意味があるのでしょう、きっと、たぶん。

さて、妻はうつ病であります。
最近彼女はゴロゴロ寝てばかりですが、以前は元気でした。でも、病気は結婚前からのもののようです。結婚前後、僕が飲んでいた頃、そして酒をやめた後の数年は、妻は元気で、僕は彼女がうつだなんて気が付きもしませんでした。だがそれは仮の姿で、酒飲みの亭主と結婚し、旦那を「何とかする」ためには、自分が「一生懸命頑張らねば」と、元気を必死で演じていたようです。

やがて、その緊張の糸がぷつんぷつんと切れだしたらしく、次第にうつで寝込まれるようになりました。僕は自分の健康に自信がないだけに、健康な女性と結婚したつもりだったのに、すっかり当てが外れてしまいました。二人とも病気のことは正面から話さずに結婚したので、そりゃもうお互い様なんですが。

困ったなあと言いながら生活しているときに、ある人からこんな事を言われました。要するに、ある程度旦那の酒が止まり続ける見通しが立って、彼女も安心してうつを病んでいられるようになったのではないか、ということです。僕が酒をやめているから、社会で暮らしているから回復しているというわけでもなく、安心して病気を病むこともできない、緊張が続く生活を強いてきたのだと考えると、妻の病気を恨む気持ちも薄らぎました。
おそらく、僕が酒を飲んだりすれば、妻の鬱なんて吹っ飛んで消えるでしょう。妻が元気なときは、こちらの状態が良くないサインであります。

主婦に寝込まれると外食が多くなって、経済的にも、栄養的にも大変ですが、ともかく家族が餓死せずに暮らしているのですから、安心して病んで欲しい・・と生暖かく(?)見守っております。

それにしても・・・、東京のカウンセラーに行くって話は、またどこかへ行っちゃったのか? なんだかんだ言っても、アラノンに行ってもらうのが良いと思うのですが、思うようにはならないのであります。


2007年10月19日(金) こたつ

こたつを出しました。パソコン部屋用には電気ヒーターを出しました。

10月の始めにこたつを出すのが通例でしたから、今年はずいぶん遅く、おそらく気候が暖かかった(夏が暑かった)のだと思います。実家では9月の終わりに秋祭りがあり、それにあわせてこたつを出すのが習慣でした。

昔は秋祭りと言えば、盆暮れと同じように、親戚が集まる機会でした。おじさんおばさんから小遣いをもらって、神社の夜店に行くのが楽しみでした。田舎の小さな神社ですから、派手な祭り行事があるわけでもなく、夜店もせいぜい数軒でしたが、楽しみなものでした。

近年、母が秋祭りも帰省してこいというので、子供二人を連れて行ったことがあります。子供たちもお祭りだというので、楽しみにしていました。しかし田舎の祭りはますます寂れ、誰もいない神社の境内に、一軒だけの屋台をテキ屋のおにーさんが守っているという状態で、子供たちは「これがお祭り?」とメガテン状態でした。
彼女たちにしてみれば、道の両側にずらりと夜店や屋台が並んでいるのがお祭りですから、無理もないことでしょう。

話変わって、僕の誕生日は6月の終わりなんですが、小学生の頃に描いた誕生日の絵日記には今にこたつが描かれていました。地球温暖化以前は、6月後半にもこたつがいるぐらい寒かったのだ・・という話ではなく、ずぼらな母が片づけなかっただけの話です。

当時を思い起こすと、居間などはかなり散らかっていました。母も祖母も片づけませんでしたから。新聞などが散乱していて、父が新聞を読み終えてから「今日の新聞だと思って読んだら、3日前のじゃないか」など怒り出したりしていました。。
そんな環境で育ったので、僕もなかなか片づけができない人間になってしまったのです(言い訳?)。

この頃実家へ顔を出すと、母が部屋をきれいに片づけてあります。まあ、それは年寄りになってヒマができたからなんでしょう。しかし、そのきれいな部屋を見ると「過去のあの散らかりようは何だったんだよ!」とツッコミたくなるのであります。


2007年10月17日(水) ひいらぎQ&A

・ホームページ左上の葉っぱは柊か?

あれは柊(ひいらぎ)の葉ではありません。素材データ集から拾ってきたもので、元は夏の草の葉をスキャンしたものだそうです。本物の柊の葉っぱは、周囲にトゲトゲがあります。「ひいらぐ」という言葉は、ずきずき痛む様子を示します。柊とは、人を傷つける痛い葉を持つ木という意味です。

・心の家路ってどんな意味?

人生という旅を終えた後に、魂が「家」へと帰っていく行路です。なので、人が亡くなると、その人の心の家路が安かからんことを、という祈りの言葉が雑記に出たりします。

・もっとおじさんかと思った。

なぜか文章でだけ僕を知る人は、50代だと思うようですね。

・どれぐらいAAミーティングに出ているんですか?

現在は週3回です。

・AAが嫌になったことは?

そりゃもう何度もあります。
でも本当に嫌になったら、もう続けていないと思います。

AAでもなければ、家と職場の往復の淋しい人生ですよきっと。


2007年10月16日(火) 謙虚以前の問題

小学校から中学へ進むときには、同級生がみんな一緒でも、高校になるとバラバラです。いや、小学校から中学への進学でも、慣れた場所を離れる辛さはあるでしょう。
僕は18で親元を離れ、大学を中退した後は、仕事は転々と変えてきました。AAのホームグループも、今のところが延べで5カ所目(実数だと3カ所)。来年はまた別のグループでバースディをやりたいと思っています。父親はすでになく、母親も老齢、夫婦といってもどちらかが先に死ぬのが通例です。

かように人生とは、誰かと親しくなっては別れ、場所に馴染んではそこを離れるという、別離と喪失の連続です。どうにも孤独であるのが人生の実態だと思います。

自分を愛せない人は、その孤独に耐えられないと思います。耐えきれず辛いからこそ、人を愛してみるものの、そもそも自分を愛せず、尊敬できず、信頼できない人間が、他の人を愛し、尊敬し、信頼できるわけがありません。結局、自分を満たす道具として相手を利用したあげく、喪失の嘆きを真の愛と勘違いしてみたりします。

孤独の人生にも、最初から最後まで自分につきあってくれる友人がいます。最も近しいその友人、つまり自分自身を最良の友として、愛し、尊敬し、信頼する。謙虚だ謙遜だなどという話は、それができた後の話であります。

世の中には自分を愛することが自然にできる人がたくさんいますが、アル中さんには少ないように思います。自分を愛する能力のない者が、その能力を獲得するのは大変です。でも、その能力の有無が人生の質を大きく左右するのですから、意識的な努力をしてみる価値はあると思います。

ニュース検索を更新しました。MSN毎日→毎日.jp、産経新聞→MSN産経への対応。検索元が空欄になるバグ修正。Googleニュースのチューニングなどです。


2007年10月15日(月) 300:100000000

初めて300bpsのモデムを買ったのは1985年だったと記憶しています。
値段の記憶は曖昧ですが、5万円と10万円の間だったと思います。それでも安くなったからこそ手が届いたのでした(bpsはビット/秒)。

ちなみに、初めて買ったプリンターは信州精器製で15万円ぐらい。初めて買ったパソコンは、本体20万・フロッピーディスクドライブ30万・白黒モニタが10万でした。だんだん年寄りの昔話になってきたので、ここらへんで止めておきます。

300bpsだと、調歩同期で1秒間に30文字。全角だと15文字伝送できます。読むのが早い人なら、秒間15文字は読めるでしょう。だから当時の電子掲示板システムには、記事を伝送表示ししている最中にスペースキーを押すと、その記事の表示をスキップする機能が付いていたりしました(つまらない記事を読まずにすますため)。

その後に1200bpsと4倍になり、2400bps、9600bps、14.4Kbps、28.8Kbps、33.6Kbpsとどんどん高速化していきました。電話回線がディジタルになって64Kbps。ADSLが1.5Mbpsあたりから始まってどんどん高速化。現在光回線を使っている人は100Mbpsでしょうか。

100Mbps=100000000bpsです。300bpsと比べるとものすごく高速で、ビデオ映像をリアルタイムで伝送できたりします。

でも、なぜかその高速回線を使って、300bpsの時代と変わらない電子掲示板という仕組みを使っていたりします。不思議と言えば不思議な話です。

疲れたので早く寝ます。


2007年10月14日(日) ヒューマン・ファクター

病院メッセージの輪番。この病院は3ヶ月ごとの輪番なのですが、4月は「ド忘れ」、7月は埼玉にいたので、9ヶ月ぶりでした。

さて、僕が日常で顔を合わせる人はせいぜい十数人でしょうか。生活の中ですれ違う人は多くても、コミュニケーションを取っているわけではないので、人間関係のあるには十数人ぐらいです。AAのミーティングに行っても数人〜十数人増えるぐらいです。

ところがコンピューターネットワークを介すると、その人数は飛躍的に増えていきます。そうすると、日常生活の十数人との間では、大きなトラブルのなかったコミュニケーションが、勢いトラブル含みになってきます。
僕は相手を知らないし、相手も僕を知らない、そう言う人たちが僕があちこちに書き散らした文章を読んで、さまざまな事を感じたり、考えたりします。そうすると、僕の予想を大きく越えて、さまざまな反応が起こってきます。良いことも悪いことも起こります。それがネットの醍醐味でもありますし、同時に怖さでもあります。

その怖さから「ネットの無名性」を使って逃げる人もいます。ある意味卑怯な手段ではありますが、やむを得ない自己防衛だってあるでしょう。ただ、逃げているのは、相手からではなく、自分からですね。たぶん。

日常生活で出会うわずかな人たちと、一見うまくいっているように見える人間関係も、実は潜在的にはトラブルの種を抱えているのでしょう。それがネットを介することで、相手の人数が一桁も二桁も、時にはもっと増え、試される機会が増えるだけ、潜在していた問題があぶり出される確率が上がるだけなんだと思います。

ネットの怖さといのは、実は日常の人間関係がうまくいっている(ように見える)のは単なる幻想であることを伝えてくれます。この場合も、危機が訪れたのではなく、幻想が終わっただけの話です。

1985年からネットに出ていますが、ネット上で起きる人間関係のトラブルは昔も今も変わりがありません。どんなに技術が進歩しても、おそらくそれは変わらないでしょう。なぜならそれは、ネットという技術の問題ではなく、それを使う人間の抱える問題だからです。


2007年10月13日(土) 自己決定

気に入らない仲間(AAメンバー)というのはいるものです。
僕は回復途上なので、たいていどこのグループに行っても「こいつは気に入らないな」という相手が一人はいるぐらいです(必ずいるわけではありませんぞ)。
でも、気に入らないのは、相手の問題ではなく、自分の問題です。

「気に入らない」と決めているのは、あくまで自分であって、相手ではありません。もし、相手の言葉や行動が自分に「気に入らない」という感情を呼び起こしているとするなら、それは相手に自分の感情を支配されているということです。
誰かに自分の感情を支配されるなら、それはおそらく不幸でしょう。
自分の感情ぐらい自分で決めたいものです。

というわけで、「気に入らない」のは自分の選択であって、相手の言葉や行動のせいではありません。「気に入らない」と思うのをやめることも、自分の自由な選択肢であるわけです。しかし所詮コントロール喪失なので「気に入らない」のを止めることも、なかなかできなかったりするわけであります。

今日は仲間のステップのお手伝い。でも、慣れないことなので、結構疲れました。緊張していたということでしょう。


2007年10月11日(木) AAで通用すれば・・

「AAでは通用しても、社会では通用しない」
という言葉があります。要するに、甘えているということでしょう。AAの仲間は甘えの行動を許してくれても、世間様は許してくれるとは限りません。

しかしながら、AAで通用すれば、社会でも通用するとも思います。
誰かが開けてくれているミーティングに通っているだけでは、その理屈は理解できないかも知れません。ひとたびAAを維持する側に回れば、「なんで俺はこんな苦労をしているんだろう」と思うぐらい、いろんな物事が発生してくるものです。

なにせAAは病気の人間だけで構成されている共同体です。ソブラエティの長短にかかわらず、性格の偏りは激しいし、「古い考え」ってのが染みついている人ばかりです(自分もね)。自分中心の人たちが一緒にやっていくわけですから、トラブルがないわけありません。

一方世間のほうは、おおむね健康な人間が(おそらく)半数以上を占めているでしょう。局所的な偏りもあるでしょうけど、それはおいといて。健康な人が多ければ、健康な論理で物事は進みます。

「自分がAAを出て行けば、飲んでしまい、やがて死んでしまう」と思っている人は強いですね。生き残りたいから、ミスを認めもするし、謝りもします。一緒にやっていかなければならないから、仲間を許します。ほのぼのした人間関係というボンドでくっつきあっているんじゃなく、プログラムに対する信頼という紐帯で結びついているからこそ、同じトラブルの繰り返しでも続けていけるのでしょう。

そうやって、トラブルから逃げ出さずに対処する訓練をAAで積んでいけば、世間の中で時折起こるトラブルにも対処していけるものだと思います。

日付が変わってから帰宅する日々が続くと、うんざりって感じなんですが、それでも高速バスで東京まで行って一日AAの会議に出てくるほうが、よっぽど疲れたりするのです。


2007年10月10日(水) 高すぎる目標設定

最初の頃は日常の記録など書いていたこの「雑記」ですが、次第に現実生活から乖離していっています。一番書いていておもしろいのは、AA関係の出来事です。けれどあまり生々しいことを書けば「私のことを書かないでくれ」と言われることになりますし、それを言われないなら言われないで恐ろしいことです。かといって、AAネタを避けても、家の中や仕事にそれほど変化があるわけでもありません。
AAミーティングでは、なるべく生(なま)の話をしようと思っていますが、この雑記では逆へと指向して、実際にAAでどんな活動をしているか具体は避けて書くしかありません。

ある人から(AAの)「ネットの巨人」「ネットセレブ」と揶揄されました。悪意があっての言葉ではないと分かっています。ただまあ、ネットの片隅でひっそりとやっている頃のほうが、気楽で良かったと時々思います。背負うものが重くなったなと。それと、アクセスカウンターが景気よく回っていたとしても、実際に雑記を読んでくれているAAメンバーの数が実は二桁だったりしないか、と検証しようのないことを考えたりします。

さて本題。

志が高いのは結構なことですが、高すぎる目標を設定するのは「挑戦」の気概ではなく「逃避」の心理だといいます。仮に目標を実現できなかったとしても、自分が傷つかないための「安全装置」であると。

年収10億円になるとか、100人の男に見せびらかしたら全員が羨ましがるほど「いい女」を手に入れるとか、文学賞を取って一躍人気作家とか、ニートだけど司法試験勉強中でいずれ弁護士だとか。

その夢に届かなかったとしても、周囲が(そして自分も)「所詮無理な夢だから」という一言で済ませてしまいます。

年収○百万、ともかく一人の異性の獲得、発表しなくても一本の小説を最後まで書く、どこでもいいから就職、という程度の実現可能な目標を設定するのは、実はしんどいことです。

この夢に届かなければ、自分はこんなこともできないのかと、落ち込む羽目になります。だから高い目標を設定することは「逃避」なんだそうです。

欽ちゃん(萩本欽一)が「若者は夢を見てはいけない」と言っていました。若いころに成功できるのはほんの一握りで、その他はこつこつ努力を続けて、やっと中年になる頃に夢への階段がおぼろげに見えて来るのがせいぜいだ。若い頃から夢を見すぎると、夢のとばくちすら見えてこないのにうんざりして、努力をやめてしまう人が多いのだそうです。

ま、今日一日。


2007年10月09日(火) 1円の謎

またアマゾンで本を買ってしまいました。
マーケットプレイス(つまり古本屋)のを2冊。いずれも1円のやつです。1円とはいえ、送料は各340円かかるので、支払総額は682円となります。

果たして、アマゾンと契約している古本屋が、1円で本を売って儲かるのか否か。真偽のほどは定かではありませんが、以下のような説があります。

1円の本でも340円の送料がかかり、そのうち260円がアマゾンから業者にわたる仕組みだそうです。宅配便の業者には、受け付け件数の多い顧客に対して、大幅に運賃をディスカウントする仕組みがあるそうです。今月もう少し売ればディスカウント運賃に達する古本屋が、1円でもいいから本を売れば大幅に利益が増すというケースがあるようです。すべて伝聞情報なので、確認のしようがありませんけれど。

それにしても本を読んでるヒマもなし、仲間と分かち合う時間も必要最低限という感じです。no input, no output であります。

Sobriety Medallion
これを注文すると、裏面の日付の刻印がない状態で届きます。同封の申込書に日付を入れてエアメールで送ると、同じくエアメールで刻印されて返送されてきます。
"The Day My New Life Began" とは「私の新しい人生の始まった日」。
無闇にプレゼントすると無駄にされるので、慎重に見極めて・・。

それにしてもHazeldenって、だんだん高くなりますな。


2007年10月08日(月) ばちが当たる

「ばちが当たる」という言葉があります。元は「仏罰が当たる」という言葉で、天罰覿面(てんばつてきめん)という言葉もあります。

世の中には、間違ったことをしているのに、その制裁を受けていない人というのがいます。どうかその人にバチを与えてくださいと、(神にでも仏にでも)祈るのは、ある意味正直なことだと思います。自分には相手を罰する能力がないものだから、代わりにより大きな力に罰して欲しいと願うわけです。懲らしめを願っているのは、この場合自分です。その願いは我意です。

いっぽう、「ああいう間違った事をやっている人には、いずれバチが当たるのだ」と思っている場合には、我意が巧妙にごまかされています。正義を望んでいると言い訳しながら、実は懲らしめてやりたい自分の願望がちゃんと陰に存在しているはずです。

正義が行われて欲しいと願っていても、それは所詮「私の正義」にすぎません。あいつにはバチが当たって当然だと考えるのは、神様仏様が「私の正義」に賛同してくれるという根拠のない自信(つまり思い上がり)の現れです。自分が神様と同等レベル、あるいはより上になっているわけで、AAの言葉で言えば「神を演じている」状態です。神様には神様の正義があることを認めようとしません。

世の中に、悪行の報いを受けていない人間がうようよいたとしても、それは単に「自分の正義」が「神仏の正義」と一致していない事を示すだけのことです。憎しみを正義感にすり替えないように気をつけましょう。


2007年10月07日(日) 欲望

たまには本から引用して雑記を書きましょう。

『12のステップと12の伝統より』

151ページに、私たちが持つ欲望について羅列してあります。

・感情的な安定や富に対する欲望
・名声や権力に対する欲望
・恋愛に対する欲望
・家庭が充実するようにと言う欲望

これが同列に並べてあります。
12&12の考え方では、欲望とは人間が生存していくために神が与えた本能です。しかし、本能も行き過ぎると(犯罪を含む)トラブルへと発展します。本能そのものは悪くなく、良いものですが、行き過ぎないように制御する必要があります。
ところがアルコホーリクは全般に「自己規制力を持たない」ので、簡単に欲望が暴走してしまいます。

「名声を求めすぎる」のは良くないよ、とAAでは教えてくれます。また、金を求めすぎても自分が苦しくなるばかり、というのも経験から知ります。そうやって、いくつかの欲望については、「行き過ぎは良くない」と納得することはできます。

けれど、ある程度ソーバーの長い人間でさえ、「感情的な安定」や「家庭の充実」に行き過ぎなどあるはずがない、と思ってしまいがちです。心の平和を求めて何が悪い? 家庭が安定して何が悪い? そう言いながら、平和や安定がないことを嘆いているのは、やはり欲望が過度なんでしょう。
お金がない、名声がない状態を「あるがまま」で受け取るように、平和がない、安定がない状態も「あるがまま」で受け取るのが12番目のステップ、ということでしょう。


2007年10月05日(金) メールアドレス

メールアドレスも長く使い続けていると、どうしても「汚れて」きます。
つまり、SPAMと呼ばれるような、勝手に送られてくる広告メールが増えてきます。10年以上前から使っているメールアドレスなど、ユーザー登録やアンケートなどにも使っているので、汚れまくっており、多い日には100通以上のSPAMが届きます。

それでもパソコン用のメールアドレスは、迷惑メールのフィルターを入れれば済むので、まだマシです。接続プロバイダーのメールアドレスなら、有料無料でメールフィルターの機能を提供しています。僕は余計な金を払うのが嫌なので、自前でPOPFileというWindows用のフィルタリングソフトを使っています。精度はあまり良くないのですが、Thunderbirdにもフィルタリング機能があります。

問題なのは携帯電話のアドレスで、こちらのフィルタリングは電話事業者まかせにするしかありません。僕は、携帯電話のメールはほとんど使っていないので、それほど苦労はしていません。(とは言え、買ったばかりのソフトバンク携帯に、さっそく架空請求メールが届いたのにはげんなりしましたけど)。

パソコン用であれ、携帯用であれ、迷惑メールが届くようになって困っている・・という相談はたまーに受けます。いろんな手段がありますが、完全にシャットアウトしたければ、メールアドレスを変更するしかありません。

しかし、メールアドレスをお手軽に変更しちゃうタイプの人は、そもそも迷惑メールに困っていないわけで、相談してくる人というのは「お気に入りのメールアドレスなので変更したくない」というこだわりがあるのか、それとも「私には何も落ち度がないのに、なぜ自分がアドレス変えて逃げるようなことをせねばならんのか」という怒りがあるのか・・・、変えたくないという人が多いですね。

メールアドレスを変える以外に、何とかならないか、と言われてもねぇ。


2007年10月04日(木) 愛するということ

仕事が炎上してしまいました。
と言っても、ある程度は確信犯だったのです。9月に雨が降り出して涼しくなった頃から体調を崩し、どんどん仕事が遅れていったにもかかわらず、策も打たずにきたわけですから。

昨日の晩「今夜は深夜残業、徹夜かもね」という話をしていたら、隣の同僚が「去年の秋は、毎週会社に泊まっていた」という話をしてくれました。金曜日の晩は夜2時まで仕事をして、そのまま椅子を並べて就寝、土曜日は休日出勤ということにして夕方まで勤務。それを8月から11月まで続けたのだそうです。
仕事できない人だと思っていたのに、「あっという間にWindowsプログラマになったな、意外と楽勝で壁を乗り越えたもんだ」と侮っていたのですが、陰でそんな努力をしていたとは知りませんでした。

それに比べて、最近の自分は過去の実績にあぐらをかいていて、職業人として失格であろうと反省しました。12時間後の来客までに、歯を食いしばって仕事を完成させなくては・・・と思ったのですが、もう若くはないので1時過ぎに体力の限界が来て帰宅してしまいました。

風呂に入って、6時に起こしてくれと妻に言い、3時間ほど寝ることにしました。妻は「6時に起こさなくては」と緊張してしまって、一睡もできなかったそうです。3時間後、布団から体を引っぺがすのに苦労しましたが、なんとか起きて出勤しました。

週末のAAのイベントだと、睡眠時間が短かろうが、朝5時だろうが、自分で起きていくのであります。それはひとえに、僕がAAを愛しているからです。もっとAAのことに積極的に関わっていこうと、なんだかんだ忙しくしています。
ところが、仕事となると、いつまでも布団の中でぐずぐずしています。そういう態度の違いが、結局は自分の首を絞めているのです。もっと仕事を愛さなければならない、愛が足らないから仕事が苦しいのである、そう思うと気分が楽になって、朝の高速道路を走っていきました。

家を出る前に、起きてきた子供たちと話をしました。ママは本格的に寝ることにしたらしく、もう起きてくる気配がありません。「ご飯どうするの?」ときいたら、「自分で何か用意して食べていくからいいよ」と事も無げでした。僕はいつも遅くまで寝ているので、詳しくは知らないのですが、たびたびそう言うことがあるのでしょう。

昼過ぎに来客が到着しても、仕事はまだ完成していませんでした。最大の問題は、画面に何も表示されないことでした。何も表示されなくても、きちんと動作していることを説明するのは骨が折れました。その種の「本来無用な苦労」をする人は少ないはずです。宅急便を集荷してくれない時間まで仕事がおすので、夜のヤマト運輸営業所に駆け込むのも僕だけでしょう。
とりあえず、大トラブルが、中トラブルか小トラブルぐらいに収束したので、ほっと胸をなで下ろしました。

愛することによって、その対象に支配されてしまうことは、ままあります。僕は耽溺しやすいタイプですから、それには気をつけなければなりません。それでも・・
仕事を愛すれば、仕事が楽しくなり、生きることを愛すれば、人生が楽しくなる。それは真実だと思います。そして、愛するか愛さないかは「自分で」決められます。仕事が楽しいかどうか、人生が楽しいかどうか、決めているのは自分であって、環境とか他者ではないはずです。


2007年10月02日(火) ステップという治療

まあ何というか・・・、という感じであります。

AAでアルコホリズムのことを、身体の病気・精神の病気・霊的な病気、と三つ並べたときの「身体の病気」。それは肝臓や膵臓が悪くなるとか、血圧が上がるとか、大腿骨頭壊死とか、そういう身体の病気という意味ではないのです。

どうにも次の一杯が飲みたくてたまらない、あの強迫的な飲酒欲求のことです。酒をやめ続けていれば、飲みたい気持ちは次第に薄れていきます(ゼロにはならないと思いますが)。が、再び飲み始めると、どうにも飲みたくてたまらない状態に逆戻りしてしまいます。

あの飲みたくてたまらないのは、気持ち(心)の問題ではなくて、肉体的な問題だよというのがAAの考え方です。それは根性がないとか、だらしないという問題とは違うんだということです。

この「身体の病気」というのを、別の言葉で表現すれば「脳の病気」です。脳の中で酒の飲み方を司る部分が壊れてしまって、それは一生治りません。だから、まともに酒を飲めるようには一生戻りません。

ともすると、AAミーティングでも、この脳の機能障害という問題から離れて、依存症とは心の持ちようの解釈へと流れていきがちです。

でも、生き方の問題だとか、謙虚だとか正直というのも、根底は「壊れた脳という体の病気(というか障害)」に対処するための手段であります。何のためのステップなのか、それはアルコールをコントロールできないから、それを忘てしまったらAAも怪しい啓発セミナーと変わらなくなってしまうと思います。


2007年10月01日(月) リタリン

なんか久しぶりに雑記を書いている気がします。

遷延性うつ病の友人で、リタリンを頓服で飲むことで、なんとか仕事を続けているという人がいます。この人はたぶんリタリンがなければ生活保護で暮らすしかないんじゃないかと(素人判断で)思います。
僕の主治医は「うちのクリニックにはリタリンを置いてないですから、処方できません」とはっきり言います。実際リタリンをまったく処方しない主義の医者は少なくありません。その理由は依存症が怖いからだそうです。リタリンを飲まないと働けないようなら、生活保護で入院して働けなくてもやむを得ない、とまで割り切っての話なら納得できます。

そのリタリンも、製造元がうつ病への健康保険適用を取り下げる動きがあるようです。現在は遷延性うつ病とナルコレプシーの両方に適用になっています。ナルコレプシーが脳波を計ることで診断できるのに対し、うつ病が遷延性(難治性)なのかどうかという判断は、医者の経験に任されています。つまり曖昧なのです。
リタリンを処方するのに慎重な医者でも、「前のクリニックでは出してもらっていた」と患者が言えば、わりとすんなりと処方してしまう・・なんて話もありました。前の医者に判断の下駄を預けてしまいたいほど、難しい判断なのかもしれません。
適用の対象からうつ病が外されてしまえば、うつ病者がリタリンを処方してもらうには保険外の自費診療しかありません。部分的な自費診療が許されていない以上、診察全体の10割負担ということになりゃしませんか?
遷延性の人の中には、リタリン以外の薬が効かない人も多い以上、いずれジェネリック医薬品によって代替されそうな気がします。

そういった話をしていて思い出すのは、頭痛薬セデスGの廃止のことです。一般薬として薬局で売られている新セデスとは違う処方用の薬で、頭痛を含む痛み止めとして一般的に使われていました(顆粒)。しかし、大量服用者が肝機能障害を起こして死亡という理由で製薬会社が売るのをやめてしまいました。僕も当時セデスGにやっかいになっていたので、肝臓大丈夫でしょうかと医者に尋ねたのですが、「あなたの50倍ぐらい使っている人の話です」という答えでした。
今では代替品としてロキソニンというピンク色の錠剤が使われていますが、「セデスのほうが良く効いたよね」という話もちらほらあったりします。

いずれも一部の処方薬依存者の乱用によって、多くの善良なる使用者が迷惑するという事態になっているわけです。僕はリタリンは飲んだ経験がありませんし、鎮痛剤もたまに使うだけです。個人的には影響がないニュースではあったものの、膨大な処方薬依存の全体のうち、たまたま表に出てきた部分だけ、トカゲの尻尾のようにちょんと切ってお終いにする話には暗い気分にならざるを得ませんでした。

一部のアル中のアルコール乱用の結果として、日本が禁酒国になるというのと同じ類の話でありますから。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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