心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2007年07月31日(火) 宗教の勧誘

一人暮らしのアパートで飲んでいた頃、良くやってきたのが宗教の勧誘でした。当時の多摩地方では、えほばやものみやまひかりなどが熱心に活動していました。まあ、たいてい僕は「間に合ってますから」と、新聞の勧誘を断るのと同じ言い訳でドアを閉めていました。

ある時、下北沢の居酒屋で3人で飲んでいたときのこと。メンツは僕と、僕のプログラミングの導師、それから北陸出身のパンクロッカーだったと思います。そこはよく行った店で、板さんにも、店長にも顔を覚えられ、つまみ類もお任せで頼んで飲んでいました。
その時も、終電の時間が過ぎて、たいていの客が帰った後も、僕らは飲み続けていました。すると、隣のテーブルで残って飲んでいた二人組が、「一緒に飲んでも良いですか」とこちらのテーブルに移ってきました。
しばらく世間話などしていたのですが、そのうち二人組が宗教の勧誘をはじめました。どうやら仏壇を売るところらしい。どだい3時間も酒を飲み続けてきた人間を相手に、さらに飲みながら布教しようと言うのだから無理な話です。
こちらはおたく3人組だから、相手の話を聞かずに自分たちの好きな話をするだけでした。おたくってそういうもんでしょう。その時も、布教の話はお構いなしで、共産圏のSF作家の話から、カルピスこども名作劇場の話へ、そしてヨーロッパのプログレッシブロックの話、ふくらはぎと太ももの太さの比率論などへと変遷していきました。
ますますこれは救済しなければならない魂だと思ったのか、大学生二人の勧誘は熾烈を極めましたが、残念ながら閉店の時間が来てしまいました。

勘定を済ませて店を出ようとした僕らに、おたくにあしらわれたのが気に入らなかったのか、なおも食い下がろうとする二人。「常連さんに迷惑かける客は出入り禁止」と言い出した板さんと、「うるせー俺たちゃ客だ」と言い出す二人組との間で口論が始まったようでしたが、僕らは店を出されたので、その後どうなったのか知りません。

その後は、小田急OXで酒を買って、導師のアパートで朝まで飲み直したんだと思います。

そう言えば兄が家を新築した頃、おばさん二人組が宗教の勧誘で訪れたという話もありました。兄は玄関先で焼酎を飲みながらおばさんたちの話を二時間聞いたそうで、4号瓶の焼酎が二本空いたそうです。もちろん、おばさんたちは迷える魂を救済することはできませんでした。

ともかく、酔っぱらいに布教するのは無駄だと言うことです。


2007年07月30日(月) 道徳的になる前に

AAの十二のステップには、自分の過ち、性格上の欠点、短所という言葉が出てきますし、埋め合わせ(謝罪、賠償)という言葉も出てきます。

だから、ステップを見た人たちの中には、AAは道徳的なプログラムで、品行方正になるのが目的だと思う人がいます。そのことを大いに励みにする人もいれば、それを嫌う人もいます。

でも、ちゃんとしたAAスポンサーならば、スポンシーが「ともあれ道徳的に」生きようとしたら、まずそれを止めるでしょう。

僕らの多くは、アルコールが生活に及ぼす害が大きくなってきたときに、もっと道徳的に生きようとしたはずです。中には、酒のことをとやかく言われたくなかったからこそ、トラブルが起きないようにとりわけ気を使ってきた人もいるでしょう。
でも、どうであれ道徳的に生きることはできなかったからこそ、AAにたどり着いてしまったのです。これは認めざるを得ないでしょう。
「自分を道徳的に律する力がある」という幻想はまず捨てないといけません。

道徳的である前に、まず自分自身であらねばなりません。自分は本来こういう人間だというイメージに沿って生きることです。

しかし、ここで気をつけなければならないのは、「自分は本来こういう人間だ」というイメージは、実は他者から「あなたはこういう人間であることを目指しなさい」と押しつけられたイメージである可能性です。
たいていは、子供の頃に親に押しつけられたものがあります。
僕も、僕の親は普通の愛情ある親だったという自己欺瞞が長くありました。その押しつけられたイメージどおりに生きられていたら苦しまなかったのでしょうが、能力が足りなかったか、はなから絶対無理な目標を背負わされたか、その通りには生きられなかったのです。

だから、それも取り除いて、自分自身であろうと努めます。誰かを満足させるためではなく、本当に自分のしたいことに時間を使うよう努めます。

ところが、そうやっていろいろ取り除いていくと、本当に自分のしたいことが見つからず、自分自身が空っぽであったりします。そんなときには、「自分探し」で時間を費やしたりせず、とりあえず目の前にあることをこなしていけば良いと思います。それが僕の場合、仕事だったり、家事手伝いだったり、AAの共同体だったり、そのほかあまり道徳的でないいろいろだったりします。

とりあえず足下に転がっているガイダンスに従って行けば、そのうち道徳的に生きられるんじゃねーかな、という感じです。

AAは清く正しく美しく生きるためのプログラムだ! なーんて言葉を聞くと、登山初心者がヒマラヤに登ろうとするのに似た危うさを感じます。


2007年07月29日(日) 日曜

長野のAAには日曜集会というのがあります。第五日曜日がある時には、その日に地区委員会と、合同ミーティングをやります。日ごろ地区委員会には無縁な人たちにも、オブザーバーとして委員会に参加してもらい、委員会の様子を知ってもらうのもひとつの目的です。
それから、都道府県を面積の広い順番で並べると、北海道、岩手県、福島県、長野県となります。長野県も結構広く、県内でAAが地理的に広がって行くにつれて、同じ地区のメンバーなのに滅多に会わず、一緒にミーティングをしたこともないという人が増えてきたので、交流のための合同ミーティングをしています。
これがあるおかげで、かろうじて顔と名前を覚えている相手もいますから、僕は大変助かっています。

今日は久しぶりに人数の多い日曜集会でした。少々疲れて帰宅すると、妻と子供も市民プールに行ってお疲れでして、夕食を作る責任を押しつけ合ったりすると、さらに疲れが増しそうだったので、回転寿司に行くことにしました。
早々に風呂を済ませて出かけると、児童センターの前で交通整理をしています。そういえば今日は投票日だと気が付きました。いつもは投票の整理券の葉書が届くと冷蔵庫に貼り付けておくのですが、今回は家族の誰も葉書を受け取った覚えがありません。きっと誰かが我が家の郵便受けから葉書を抜き取って、かわりに投票してくれたに違いない、という結論に達して、そのまま寿司へ向かいました。

行儀良くしたくないのに、行儀良くさせられている子供は、行儀良くしない別の子供が気に入らなくて仕方ないのだ、と心理学の先生の本に書いてありました。子供時代に十分に好きなことをして遊んだ子供は、大人になって労働がそんなに苦痛だとは思わないわけです。
子供時代から「何かをさせられている」と感じている子供は、大人になっても働いたり家事をする事が辛くてたまりません。そういう人は、仕事をさぼったり、家事をさぼったりしている人間を容赦なく責め立てます。世の中の人間は、皆が辛い労働に耐えているのだと思っているのですから無理もありません。
働くことに喜びがある、というのは建前であると信じてるのでしょう。

AAの中には生活保護で暮らしている人たちもいますが、そういう立場の人に対して必要以上に辛く当たる人ってのは、自分が働くのも生きていくのも辛くて仕方ない人たちなのでしょう。

AAミーティングも行きたくないのに、いろんなしがらみで行かざるを得なくなっている人も、ミーティングをさぼる人間を責め出すと容赦がないです。

ミーティングに行って仲間やハイヤー・パワーと交われば、生きることが楽になるのに、サボってわざわざ辛い人生を選ばなくてもいいのにね・・・てのが、回復した感じ方なのではないかな、と思ったり。


2007年07月27日(金) 集合知

集合知という考え方があります。

たとえばメーリングリストでは、同じことに興味がある人たちが、様々な話題をメールで交換します。時には意見が対立して、激しい口調の文章が頻繁に投稿されるフレーム(議論の炎上)という現象が起こります。フレームでは、たいてい議論は平行線のままで結論に収束しないまま終わるものです。
フレームに発展しなくても、話し合いは平行線のままってことは、よくあります。メーリングリストに100人が参加していれば、そういう話が100人に毎回送られるわけです。

決着が付かなければ意味がないと思っている人は、平行線の話し合いに意味を見いだしません。とりわけ、何もかもコントロールしたがるアル中さんは、相手が自分の意見に従ってくれないことに、大きな不満を持ちます。意味がない無駄なことだと考えがちです。

話題にならなければ、個人の知(知恵とか知識)でしかなかったものが、話の交換が皆に届くことで、その集団の知に変わっていきます。これが集合知という考え方です。集団の知というものは、一様ではないもので、なかに様々な意見の相違を含んでいます。一様であればよいわけでもありません。

集団にはメンバーの入れ替わりがあり、個人もなかなか進歩しないものですから、たとえばフレームであれば、似たようなフレームが繰り返し起こります。だからくだらないと言う人もいますが、このプロセスそのものが集合知の有り様だと思います。

ネットの掲示板でも、あるいは自助グループでも、同じトラブルが繰り返し繰り返し起こります。AAのビジネスミーティングや委員会で何を決めても、2〜3年もすればすべて忘れ去られ、また同じことを話し合っているのが通例です。

それを進歩がない無駄な行為だと考えがちです。でも繰り返しに意味があるんだと思います。個人のステップでも、同じことに繰り返し気づきます。気づいて自分を変えても、いつの間にか元に戻っているということです。それでも、気づきと変化には意味があります。グループにとっての伝統も同じでしょう。
どれだけ進歩したかという量ではなく、どちらへ向かっているかという方向性が大切です。

回復のためのミーティングでは、議論を避け「言いっぱなしの聞きっぱなし」にするというのも、集合知を作るための知恵でありましょう。

議論に決着が付かない、白でも黒でもない、あいまいなまだら模様の状態を受容していきましょう。


2007年07月26日(木) 分からないことの良さ

AAというのは「なんだかよく分からないところ」であります。
その、分からなさが良い点なのでしょう。

分からないままでも参加していれば、だんだんおぼろげに分かってくるものでしょう。最初は難しいことは要求されません。簡単な提案がされるだけです。例えば、休まずにミーティングに通うことなどです。
ある程度分かったようなつもりになってくると、必ず次の課題が見つかってきます。そうやってゆっくりと進んでいきます。

依存症からの回復はゆっくりとしか進まず、時にはぶり返しも伴うものですから、ゆっくり進めるのは良いことだと思います。

「分からないからいいんだ。分かったら飲んじゃう」

というのがスポンサーのスポンサーから伝わってきた言葉です。

AAの中で人より秀でる必要はありません。なにも世の中全般の競争原理を、ここまで持ち込んで生きなくても良いのです。でも優等生タイプにはそのことが分からないようです。彼らは、他のメンバーに追いつき、追い越すことを自分に課しています。

いろいろなことが分からないでいるうちは、一見謙虚に人の言葉に耳を傾けていますが、やがて2〜3年もすると「もうAAに学ぶべきものは何もない」とでも言いたげに来なくなってしまいます。彼らは「分かってしまった」のです。

しかし、彼らがその後また飲んでしまうことをみると、どうやら彼らも実は何も分かっていなかった、というのが真実でしょう。

ゆっくりと、分からないままに進んでいけば良いのだと思います。


2007年07月25日(水) 約束

AAにつながりたての頃、スポンサーから言われたことのひとつに

「できない約束はするな」

というのがありました。
例によって、なぜなのか、という理由は添えられていませんでした。理由なんてものは、あとになれば分かるものだから説明するまでもない、というスポンサーシップでしたから。説明してもらって、納得できないからやらない、というのなら理由なんて聞くだけ無駄です。

いま考えると、

・無理な約束で苦労して、あげくに相手を恨むようなことはするな。
・できないことはできない、自分の能力の限界を知れ。
・相手の役に立たないからと言って、人に愛されないわけではない。
・相手の病気を手助けするようなことはするな。

などなど、いろんな意味があったように思います。

それまで、AAの各種イベントに誘われて「行きます」と言っては行かずじまいだった僕ですが、スポンサーからの提案に従って、その後の参加はすべてキッパリお断りしていました。長野県のAAのオープンスピーカーズも、そのころは毎年田植えと重なっていて行けませんでした。AA優先にしたかったのはやまやまでしたが、父が亡くなり農作業の手順が分からないままに、母・兄・僕の3人でぎゃあぎゃあ騒ぎながら、なんとか米を作り続けていた頃です。

ある年の田植えの日の午後に体が空いたので、地区のイベントの会場に行ったら「夏に安曇野でイベントをやろうぜ」という話になって、そのまま実行委員会に参加して、それが僕のAA初イベントでした。

県内のイベントですら、そんな低頻度の参加でしたから、県外のAAイベントに参加するのは、もっとずーっと後になってからです。

いやいや、記憶が間違っています。群馬のラウンドアップへの参加は1年目でした。それにイベントではないですが、岐阜高山の日曜の普通のミーティングに行ったこともありました。でも、そういうのは誘われて約束があって、というわけじゃなく、自分で決めていましたね。

スポンサーは晴れがましいAAイベントが嫌いでしたし、その点は僕も同じで、立派な垂れ幕が下がっているのよりは、手書きとかのが良いし、さらにそれも省略して、ただ壇上でスピーカーが話をしているだけなんていう質実剛健なイベントが、一番好きであります。


2007年07月24日(火) まだ表紙がモノクロだった頃のBOX-916(AAの機関誌...

まだ表紙がモノクロだった頃のBOX-916(AAの機関誌)に、「いくらハイヤー・パワーだなんだと言ってみても、最初の一杯に手を付けないのは、意志の力ではないのか」という投稿が載ったことがあります。

BOX-916がAAの月刊誌ではあっても、AAの統一見解が載っているわけではなく、ひとつのトピックに対して様々な意見が載るのが通例です。その時は、「やっぱり目の前の一杯を我慢するのは意志の力だよ」という意見が多かったような気がします。

いま僕の職場の機材用テーブルの上には、缶ビールが10本ぐらい載っています。お中元で届いたものを、職場メンバー全員に配ることになったのですが、僕のように家族を含めて誰も酒を飲まない人もいれば、外では飲んでも家では飲まない人も多く、大部分がそのまま放置されています。
職場では冷房嫌いな人も多く、この暑さでも一日エアコンを入れずに終わることもしょっちゅうです。ネクタイや作業着の着用が義務づけられている職場ではないので、涼しい格好で乗り切っています。きっとサングラスにアロハに短パンにビーチサンダルで出社しても、誰もなにも言わないでしょう。
いくら涼しい格好をしても、暑いものは暑いままです。
そしてふとテーブルに目をやると、そこにはスーパードライの缶の銀色の輝きが・・・。発泡酒や最近の新しいビールは味を想像しようとしてもできませんが、スーパードライにはさんざんお世話になりました。飲みたくなって当然であります。

それを飲まないのは意志の力だと思います。でも、意志の力が働くのは(酒に関しては)正気だからです。
ところが、一般人に紛れて暮らしていると、いつか「どうせ余っているビールなんだから、僕がもらって帰って飲もう」とか、「あのビールには手を出せなかったから、かわりに自動販売機で冷えたヤツを買って飲もう」とか思ってしまう可能性が大です。つまり狂気に支配されてしまうわけです。狂気に支配されているときには、意志の力は働きません。

目の前の一杯を飲まないのは意志の力かもしれません。でも、意志の力がきちんと働く状態を保つには、AAプログラムが必要です。


2007年07月22日(日) へろへろ

なんだかんだで忙しい週末でした。
オールスターゲームは二試合とも見られませんでした。9回を9人の投手で豪華リレー、中日をクビになり楽天に拾われた38才山崎のホームラン、打ち込まれてもストレートを投げ込み続ける18才田中まーくん。テレビで良いから見たかった。

さて。

以前ある教会の部屋をAAミーティング会場としてお借りしていた頃、そこの牧師さんや、信者さんたちと話をする機会がありました。僕はキリスト教徒ではないので、それまで牧師という職業の人が、どんな暮らしをしているのか、全く知りませんでした。

いろいろ話を聞かせてもらった中で、今でも印象に残っているのが、牧師さんは日曜日にする説教のために、週日に勉強をするという話です。それまで僕は、聖職者は聖書の内容をすべてそらんじていて、神学校を出たあとは勉強なんてしないのだと思っていました。正直にそう話すと、「言葉によって人を救うのだから、言葉の力を磨くのは当然である」と教えられました。

AAのスピーカーズ形式のオープンミーティングは、壇上から聴衆に語りかける形式になります。その時のスピーカー(話し手)の話の巧拙は、問題とはされません。AAのミーティングは、スピーチコンテストではないのですから。説教とも違いますけどね。

僕は「こちらを向いて」つまり聴衆の方を向いて話した経験はあまりありません。地区のオープンスピーカーズで1回。山梨と新潟で各1回。ビッグブック関係の集まりの壇上に2回。選挙でのいわゆる演説が1回。あるグループのスピーカーズで1回。話すのは下手な方ですから、回数も多くありません。

メンバーの中には、あちこちで頻繁にスピーカーして経験を積み、聴衆に耳を傾けさせる話をする人もいます。そういう人の能力は素晴らしいと思います。けれど自分もそうなりたいとは思いません。努力すればなれるかもしれませんが、それは得意な人に任せておけばよいことで、自分には他の責任が割り当てられていると思っています。なにせ僕の時間は有限です。100人の前で素晴らしい話ができる能力と、初めてAAに来た人の緊張をほぐす雑談ができる人と、どちらが優れているというものでもないでしょう。

でも、例の牧師の話もあり、なにも努力しないのを「ありのまま」と言っているわけにもいきません。自分にスピーカーの順番が回ってきたときには、事前に原稿を用意したり、前の晩に練習したりしています。それには、自分を良く見せようという気持ちも入り込んじゃっているとは思いますが、概ねはコミュニケーションの障害を取り除く努力を怠ってはいけない、という信条によるものです。

とは言え「あの時は原稿読んだんだよね」と言われると、ちょっとハズい。


2007年07月20日(金) アル中は意志が弱いのか

意志が弱くて酒がやめられない、という話は良く聞きます。
アルコール依存症の人は、本当に意志が弱いのでしょうか。

マット・スカダーの一節にこんな文章があります(記憶に頼っているので、文章は正確ではないです)。

「もし、(体調不良の)原因が酒だと分かっていなかったら、私は間違いなく救急車を呼んだだろう」

依存症という病気がひどくなれば、まさに救急車を呼びたくなるような具合の悪さが、毎朝襲ってきます。それでも、布団から身体を引っぺがして仕事に行きます。もし仕事に行けないとなると、その原因は酒であり、酒をやめるか控えるかしなさいと周囲から言われる羽目になるからです。なんとか酒を飲める生活を続けたいという願望が、重病人(?)を日々の活動に向かわせます。なんという意志力の強さでしょう。飲んでいた頃のあの能力を、いま発揮できたなら、きっとインフルエンザの高熱でも普段と同じ生活ができるでしょう。

かように依存症者の意志の力は強いものです。逆に言えば、それだけ意志の力が強い人たちでも、意志の力ではやめ続けられなかったということです。

意志が弱くて酒がやめられないという発言は、実は酒をやめたくない気持ちを、意志の弱さという言い訳でごまかしている場合が多いものです。周囲から「意志が弱い」と言われたりするので、よけいにその口実が使いやすくなります。

あんなに苦しくても頑張って酒を飲み続けてきた、病気の影響とか、単なる意固地と言ってしまえばそれだけなんですけど、意志の強さもあるでしょう。意志の弱い人間なら、依存症になる前に苦しさに負けて酒をやめてしまいますよ。きっと、たぶん。


2007年07月19日(木) 今昔

この雑記を書き始めてから、あとひと月で6年になります。
ネットで日記を書くのも初めてではなかったし、ホームページも「心の家路」以前にいくつか作ってはつぶしていました。「これもいつまで続くやら」と思いながら始めたものです。

当時と今を比べると、ネットワークを取り巻く環境は大きく変わりました。
今ではブロードバンドの24時間常時接続が当たり前になっていますが、当時はまだ電話回線にアナログモデムをつないでダイアルアップ接続するのが普通でした。回線の太さも、現在の100分の1から、1000分の1ぐらいで、ホームページに画像がたくさん貼り付けてあると、表示し終わるまでに何分もかかったりしました。
「心の家路」が極力画像を少なくして、テキスト中心にまとめてあるのは、イライラせずに読んでもらうためにはシンプルにする必要があったからです。

先日埼玉へ出かけたときには、年に何回かしか使わないPHSカードを持って行きました。パソコン用モバイル通信では、まだまだPHSに頼らねばならない場面がたくさんあります。公衆無線LANは使える場所を探すのが面倒です。都内へ行けばイー・モバイルだとかライブドアとか、選択肢もたくさんあるのでしょうが、16号の外側に出てしまうと寂しい限りです。

国立女性教育会館の宿泊棟は、市街地からかなり離れているので、PHSも何度もダイアルし直してやっとリンクが確立するぐらいの弱い電波しか届いていません。64Kbpsで接続したと表示されていましたが、実際の転送速度はアナログモデム並みまで落ちていました。それであちこちのサイトを見に行ったのですが、多くのサイトがブロードバンド接続で見ることを前提にしているのでしょう、PHSでは重くて重くて。ブログも画像部品を多用してデザインしてありますし、新聞社のサイトでも100個近い画像があったりします。でも携帯電話専用にデザインされたページは軽くできています。

パソコンでネットにつなぐ人よりも、携帯電話でネットを覗く人の方が多くなったという調査がありました。パソコンと携帯と両方持っている人でも、携帯電話でネットを見ている時間の方が長くなったという調査もありました。

「パソコンはブロードバンド接続でリッチなページ、携帯はパケット数節約のためにシンプルなページ」という流れがあって、PHSとノートパソコンなんていう組み合わせは、時代に取り残されつつある印象です。でもWiMAXより、次世代PHSに期待します。


2007年07月18日(水) 安易な癒しを求めない(甘えるための尊敬)

人生辛い修行が必須だとは思わないのですが、安易な癒しばかり求めてはいけないと思います。ヒーリング音楽のCDとか、読むだけで感動する本とか、「自宅でお手軽に」という癒しは、たいてい商業主義の匂いがぷんぷんするものです。
エステサロンに何十万円も払って、ダイエットエステのコースを頼む人がいます。そこへ通って横になっているだけで美容と癒しと痩身ができるんだったら楽でしょうが、本当にそれで(それだけで)痩せた人がいるんでしょうか。
部屋が散らかって汚れているのは気分が良くないものです。自分で掃除・片づけをしようが、誰か他の人にやってもらおうが、片づいた後のすがすがしさは変わりません。このすがすがしさも癒しですね。でも、誰かに片づけてもらうのが癖になって、後にその人がいなくなってしまい、自分が掃除片づけをやらなくちゃならなくなった時、その「義務」を苦痛に感じたりしないでしょうか。

自助グループは癒しの場ではないと言います。少なくとも「安易な癒し」の場ではないでしょう。

癒しばっかり求める人は、人間関係の問題を抱えます。常に自分の部屋を片づけてくれる人を探しているようなものですから。自分にキツイことを言う人は悪い人で、自分に優しい思いやりのある言葉をかけてくれる人は善人・人格者・尊敬できる人という分別をします。
ところが、そうした善人も、いつもいつも優しくして甘やかすわけにはいきませんし、他のことが忙しくて甘えん坊の相手をしていられないことだってあります。そうすると、癒しばかり求める甘えん坊は、「あの人は変わってしまった」とか「尊敬していたのに裏切られた」とか言いだし、あげくには「やっぱり人間なんて信じられない」とスネてみたりします。こういう人は、自助グループでも、病院でも、夫婦でも、はたまたインターネットの掲示板でも、同じことを繰り返します。
安易な癒しを与えてくれる存在として、相手を利用していた自分に気がつかないのでしょう。人間不信や対人恐怖も、結局は自分の中の問題なんでしょう。本質的な癒しのためには、セルフ・エスティームの回復が欠かせませんが、それにはインスタントな方法などなくて、こつこつ地道にやるしかないと思います。

逆の立場から見れば、「尊敬します」と言っていた人に、いきなり「裏切られた、こんな人だとは思わなかった」と言われるわけですが、それは相手の問題ですからほっとくしかありません。悪人と言われる覚悟がないのなら、特に異性には優しい言葉はかけない方がいいですよ。性的な関係もないのに、あとでドロドロの人間関係になったりしますからね。まあ身から出た錆。巻き込まれるのは回復が足りないから。


2007年07月17日(火) 渇酒症

渇酒症という言葉があります。
僕が入院を繰り返している頃には、「自分は渇酒症だ」と言っているアル中患者さんがある程度いたような気がします。

渇酒症もアルコール依存症の仲間なんでしょうが、酒をなかなかやめられない普通(?)のタイプの依存症者とはずいぶん違った症状だと聞きます。
彼らはふだんはまったく酒を飲みません。ところが例えば年に1回とか2回とか、あるいは数年に1回、バケツの底が抜けたかのように飲み出すことがあり、そうなると数日から数週間、社会生活を放り出して連続飲酒にふけります。ところが、ここから先が違うのです。渇酒症の人は、あるときぴたりと酒をやめ、その後酒を遠ざけるのに何の苦労もありません。しかしいずれ連続飲酒の時期がやってきます。こうして間欠的に大量飲酒を繰り返すのが特徴です。
普段は酒をやめるのに苦労をしないことから、普通のタイプのアル中さんと共感を得るのは難しいようです。

ところで普通のタイプのアル中さんも、症状が進んでいくと山形飲酒サイクルというものが出現する場合があります。これも、大量に飲酒する時期があり、あまり酒を飲まない時期があり、再び大量飲酒の時期がやってくる、というサイクルを繰り返します。
なぜこうなるのかと言いますと、病気の進行の結果です。アルコール依存症は飲酒のコントロールを失う病気、ブレーキの壊れたダンプカーに例えられますが、そのブレーキの壊れ具合がだんだん進行していきます。最初のうちは連続飲酒に突入する(つまりダンプが暴走する)までには、再飲酒からだいぶ間がある(それだけコントロールが効く)のですが、重症になるとコントロールがほとんど失われてしまい、ちょっと酒を飲み過ぎただけですぐに大量飲酒・連続飲酒に結びついてしまうため、ダンプカーもおいそれとは走らせられなくなります。
意志の力による断酒期間・節酒期間と、あっという間に落ち込む連続飲酒期間が繰り返されてるところは、外から見れば渇酒症に似ています。

僕が入院していた頃に渇酒症を主張していた人たちは、やっぱり普通のタイプのアル中さんたちで、自分の山形飲酒サイクルを渇酒症だと思いこむことで、自分は普段酒をやめるのに何の苦労もない、と自分に言い聞かせようとしていただけなのではないか。そんなことを思います。

最近では渇酒症を主張する人には、滅多にお会いしません。


2007年07月16日(月) 笑うしかない

「人生は近くから見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot)

とはチャップリンの言葉だそうです。

「そんな時代もあったねと、いつか笑って話せるわ」と歌ったのは中島みゆき。

恥ずかしい過去が、恥ずかしいままでいるのは、自分がそれを笑えていないからでしょうか。

「あまり自分のことで深刻になりすぎるな。笑えるようになれ」

という文章もAAの本のどこかにありましたな。

過去の話を笑ってしているのは、そういうわけです。人をほめ、自分を笑うには練習がいるんだそうです。


2007年07月15日(日) 経済的自立とは(その2)

例えば「誰かからAAミーティング場を紹介してくれとオフィスに電話が来ても、うちのグループは紹介しないでくれ」とか、ミーティング一覧表にも載せないでかまわない、イベントの問い合わせ先にならなくてもかまわない、ラウンドアップその他のAAの催し物も行かないから受付代行も要らない、ミーティングのお休みの案内も『かわらばん』に載せなくて結構・・・というのなら、オフィスも不要かも知れません。

でも、オフィスのサービスは要らないから、うちのグループは献金を届けない・・と言っても、おそらく彼らは献金のあるグループもないグループも、分け隔てなく扱うでしょう。

そういうサービスをしてくれと頼んだ覚えはなくても、知らないことに頼んだことになっているし、現にそのサービスを享受しているわけです。ちょうど、不動産屋に連絡するだけで水道や電気が開通したように。でも、公共サービスと違うのは、お金を払わなくても、AAのオフィスのサービスは止められないということです。

AAオフィスのサービスの中には、なるほど間接的で見えにくいものもあるでしょう。だから、その恩恵を感じにくいのかも知れません。しかしながら真の原因は、水や電気が供給されることが当然に感じられて、止まったときに思わず怒りが出るように、オフィスのサービスも「あって当たり前」に感じていることにあるでしょう。

自分がリクエストしたサービスの経費を支払う、それも誰かの財布を当てにせず、自分の財布から出す。オフィスに献金を送ることによって、オフィスとグループが「霊的につながるのだ」そうです。そのつながりがAAの一体性を維持するひとつの手段なのでしょう。

AAの費用は義務的に集めるわけではないので、僕らが「あって当たり前」のものの意味に気づき、自分の責任を感じられるようになるまで、待っていてはもらえます。確かにオフィスの存在は僕らには大きな経済的負担ですし、「献金を送ってくれ」という声は耳にうるさいものです。でもそれも、僕らの回復を手助けしてくれる存在なのです。

自由に使える金が欲しいからと、焦って仕事に就いたところで、最低限の「経済的自立」という回復がなければ、間違った金の使い方しかできません。結果として、金を稼いでいても、いつも経済的不安にさらされることになるでしょう。
「霊的な回復の前に、経済的な回復はやって来ない」と言いますからね。「経済的不安もなくなる」ってのは、不安を感じないほどたくさん稼げるようになると言ってるわけじゃないですよ。

(とりあえずこの項おしまい)


2007年07月14日(土) AOSMこぼれ話

AOSMの話をはさみます。
AOSMの場合、会議で何を決議しても、それを実行するサービス機関がありませんから、議決は「勧告決議 advisory action」ではなく、recommendation と呼ばれます。

さて最終日の午後の後半は、次回の内容などを決めるビジネスミーティングが行われました。僕が覗いたときには、次回のテーマ(トピック)を決めているところでした。みんな内心暖めてきたアイデアがあったのかどうか知りませんが、テーマ案は10個提出されました。それぞれ提出者の意見を聞いた後で、投票に移りました。

最初の投票では1番〜8番の案は得票が0〜2票で、9番と10番が多くの表を分け合っていました。再度投票が行われましたが、票はあまり動きません。
議長が「第三レガシー手続きで」と表明して、この時点で1/5の得票がなかった1〜8番の候補は全部除外となりました。3回目の投票は9番と10番のみで行われましたが票が割れ、どちらも2/3は獲得できませんでした。4回目の投票でもそれは変わりません。
帽子(hat)という言葉が発せられ、実際用意できたのはcapでしたけど、その中に9と10と書いた紙が入れられ、中立者として日本の理事会議長がそのくじを引きました。彼のNine(9)という言葉は、拍手で迎えられました。

AAの大切な議決は過半数では不十分で、2/3は必要だとされます。実際投票をやってみると分かりますが、意見が分かれているときには、なかなか2/3を取ることができません。投票を繰り返しても2/3に達しないときには、最後は帽子を使ったくじ引きになります。大事なプロセスだと言われていますが、現実に目にする機会はあまりありません。

次は次回の議長の選出で、これも帽子になりそうだと噂されてたんですが、僕は帰る時間になったので、実際どうなったのかは知りません。

AAの議決では2/3という数字を大切にし、それに達しないのならくじ引きの結果の方が良いという民主主義です。

今夜は地区委員会にオブザーバー参加していたのですが、一回目の投票で最大得票のに決めてしまったのは、ちょっとつまらなかった感じです。まあ、決めていたのが地図の紙の色でしたからねぇ、どれでも良いって言えばそうなんですけど。


2007年07月13日(金) 経済的自立とは(その1)

AAで言う経済的自立とは、自分で使うお金を自分で稼ぐと言うことではないと思います。あなたの財布にお金を入れる人が誰であるか、つまりあなたの稼ぎだろうが、配偶者の稼ぎだろうが、親や兄弟の援助だろうが、あるいは失業保険・傷病手当・生活保護・障害年金などの公的扶助だろうが、貯金を食いつぶしているだけだろうが、それはこの際問題ではないということです。
問題なのは、あなたが自分にかかる経費を、自分の財布から出しているかどうかです。出所がどこであれ、いったんあなたの財布に入ったからには、あなたのお金です。それをどう使うかは、純粋にあなたの問題です。伝統7が問うているのは、誰が財布に金を入れるかではありません。自分の経費を誰の財布から払うかです。

一人暮らしで酒を飲んでいた頃、水道と電話は良く止まりました。金を払わないからです。幸い電気が止まった経験はありませんし、ガスは契約してなかったのでメーターが取り外されていました。

水道が良く止まったのは、不払いの常習犯になると銀行引き落としにできず、窓口納付になるからです。そもそも払うのが面倒なヤツに、市役所まで来て払えと言うのは無茶な話です。最初は半年ためないと泊まらなかった水道が、そのうち払わないとすぐに止まるようになりました。止水栓が締めてあるだけだったのが、勝手に開けて使っちゃうので鍵が二重三重と増えていったりして・・。
水道が使えないと、トイレが流せないとか、流しに吐いたゲロが始末できないとか、ただでさえ劣悪なアル中の一人暮らし環境が、さらに最悪なものになります。

恨みましたね。何で俺が、こんな目に遭わなきゃなんねーのか。我意でよけいな手間をかけさせてるだけなんですけどね。誰か自分のかわりに水道代を払ってきてくれないかな、とか考えたりしました。面倒なことは全部誰かに任せて、僕は酒を飲んで安楽に暮らしたかったのです。

水道も電気も契約をした覚えはありません。不動産屋に何日に入居と伝えておくと、その日には水も電気も使えるようになっている。それを不思議に思いませんでした。でも、公共サービスは利用者が経費を負担することで成り立っています。

僕は、水道の蛇口をひねることで、また何かのスイッチを入れることで、水や電気という公共サービスをリクエストしていると考えたことはありませんでした。基本料金+使った分というルールは理解していても、金を「取られている」という意識でした。自分が要求しているという意識がないので、誰かがかわりに払ってくれていたらいいのに、と思ってしまったのです。

「自分が要求したサービスの経費を払うのは当然のこと。誰かに払ってもらうのではなく、自分が払う」 伝統7が言っていることは、常識的にすぎません。要求していることすら意識していないこともあるけれど、負担があるのは当たり前です。

AAのオフィスからはいつも、「お金がないんだよー」「献金が足りないんだよー」という声が聞こえてきます。いつも金の話ばっかりという気もして、言う方も言われる方もうんざりって感じもあります。でも、AAのオフィスって「サービスをするためのオフィス」なんです。しかも、「僕ら」がリクエストしたサービスをする機関です。

(たぶん続きます)


2007年07月12日(木) スポンサーのおもいで

人の話をするのもどうかと思いますが、まあスポンサーの話ですからね・・・。

僕のスポンサーは(最初の頃は)見た目が怖かったし、学もあんまりなさそうだったし、話し出すと長かったし、いろいろコンプレックスも感じさせたし、世間的な基準で魅力に溢れる人かどうかは、ちょっと疑問が残る人でした。
でも、人間的な魅力、あるいは愛情といいましょうか、AA的な言葉で言えば「引きつける魅力」に溢れた人でした。何でも自分でどんどんやってしまう割に、「この人ひとりじゃやってけないな、俺たちが付いてなくちゃ」と思わせるところもありましたね。イマドキの言葉で言えば、とっても「濃い」AAメンバーだったわけです。

だから、そのグループが彼を中心とした結束していたのも、当然といえましょう。彼がどんなに「謙虚にしていよう」「口を慎んでいよう」としても、周りの人間がそうはさせませんでした。彼の小さな一言が、グループメンバーの意見を大きく左右してしまいました。そのグループが、AAの魅力よりは、彼個人の魅力によって集まった人たちでできていたのですから、それ以外のありようが無かったのです。
そして、その輪の中にいる僕らも、それがそんなに大きな問題だとは思ってもいませんでした。

スポンサーにもスポンサーがいて、たびたびそのことを指摘されて悩んではいたようですが、事態はあまり変わりませんでした。ある時、事態を大きく動かす一言がグランドスポンサーから発せられました。

「お前のグループはAA○○グループじゃなくて、AA□□グループだな」
 (○○はグループの正式な名前、そして□□はスポンサーのニックネームです)。

その言葉で彼は、ここにいる限り、自分がどう望んでも「元老」にはなれず「死にかけの執事」にしかなれないことを知ったのです。それは僕らが「元老」になることを許さなかったということです。そして彼は「後は任せたよ」とだけ言ってグループを出て、別の町でAAミーティングを始めました。
そのころすでに別の場所に移っていた僕には、一見不可解としか思えない彼の行動の理屈がよく分かりました。

ただの普通のAAメンバーであるにも関わらず、グループの創始者は暗黙の権威を帯びてしまうことが往々にしてあります。ある時、他県のメンバーと「グループ創始者がとどまり続けたために成長の限界に達しているグループは多い。出て行くことでしか謙虚を実践できないこともある。それは個人の回復が足りないからで、認めるのは嫌なことだが、現実を見つめなくてはならない」という分かち合いをしました。自分がいなくなっても大丈夫にするのが、最大の貢献という考えです。

僕は「ひいらぎ一派」とかスポンサーピラミッドのようなものを形作らないように、考えて気を配ってきたつもりではいます。それは僕も、権勢欲が強いタイプであり、仲間を支配することに心の痛みを感じないタイプの人間だからです。ちょっと淋しい気もしますが、それはそれで仕方ないことだと思っています。a rolling stone gathers no moss というやつですか。おかげで得られないものもあるということです。

誰かが出て行った後のグループは、ちょっとドタバタするものですが、何年か後になってみればそれが成長の契機だったということになると思います。もちろん、別のやり方もあると思いますし、それが悪いというつもりもありません。僕は単にスポンサーから受け継いだ考え方、やり方を守っているに過ぎないのであり、おそらくそれが僕にとって最善だというだけにすぎません。

そろそろ次の動きがあるのか、まあ未来のことは神様にしか分かりません。


2007年07月11日(水) AOSMみやげ話 4

月・火・水と予定が入っていて早く帰宅できなかったのですが、それも今日でおしまい。明日は早く帰れそうです。体も心もかなり疲れている感じがします。

ソブラエティ1年目に群馬で開かれたラウンドアップに行ったことを思い出します。sその時は2泊3日を終えて帰ってきた午後から、夜まで寝て、翌日月曜日も休んで一日ぐーぐー寝ていました。今は当時より体力が付きましたが、年齢による衰えってものもありますから、疲れは数日引きずってしまいます。

今回わざわざ2泊3日で出かけていったのは、自分の能力を見極めるという目的がありました。AAはミーティングに参加する以外にも、さまざまな活動があって、例えば刑務所を定期的に訪問して話をしている人もいれば、集まってソフトボールやバーベキューをする人もあり、オフィスの運営委員をする人もいます。看護学校や高校で広報活動をする人、12ステップコールの電話を受けている人、定期刊行物の編集やホームページの更新をする人。などなど。もちろん、それに参加するもしないも自由です。
スーパーマンでもなければ、AAの全部の領域に関わることなんてできやしません。だからこそ、自分に何ができて、何ができないか。他の人の方がうまくできるんじゃないか。あるいは、やる人がいないから苦手でもやるしかないか。そういうことを見極めていくことは大切だと思っています。
会場には能力が高い人はたくさんいました。しかし、WSM評議員になるには、能力の他にも、さまざまな「望ましい」をクリアする必要があるので、人材豊富とは言い難いわけですが、みんな回復と成長の途中ですから、先のことを心配することもないでしょう。

AA program is NOT the program for the people who need it, but for the people who want it.

(冠詞の使い方間違ってる?)AAプログラムはそれを必要とする人のためにあるのではない。それを求める人のためにあるのだ。

AAプログラムがあれば、アルコール依存症から回復して酒を飲まない人生を送れる人がたくさんいます。そういう人たちは「AAを必要としている」と言ってもいいでしょう。でもAAは「AAを求める」人のために存在しているのだ、という意見でした。徒労に終わるメッセージ活動に関してのトピックの中の言葉です。AAプログラムを12ステップと読み替えてもよさそうな感じです。

とりあえずAOSMみやげ話は、ここでいったんお終いにします。2泊3日のあいだ、一度も外出せずに自ら缶詰になっていました。それだけ熱中していたわけです。

「こういう場所に来ると、他にも行きたくなりますね」という話をしていた人が今した。それは外国という意味かもしれませんし、他のAAイベントなのかもしれません。あまり行く気はなかったのに、できれば9月に同じ場所で開かれるサービスフォーラムにも来たいと思っている自分を見つけました。

家では妻が「自分ばっかり2泊も遊んできて、おみやげすら買ってこない」とご立腹でありました。やれやれ、これじゃ9月も簡単じゃないぞ。


2007年07月10日(火) AOSMみやげ話 3

場所:
埼玉嵐山の国立女性教育会館(ヌエック)が使われました。オブザーバー費用は2泊6食ぶんで1万2千数百円でした(かな)。会場費用などはゼネラルサービスの会計から出ているので、参加費は取られませんでした。

今回はロシアからの参加がありました。ロシアのウラル山脈から東側はアジアになるので、ロシアAAはAOSMに人を送ることに決めたようです。実際やってきたのは、サハリンのAAグループから英語が少しできる若い人で、結構コミュニケーションにも苦労していましたが、みんな彼を歓迎していました。
モンゴルは今でこそ親日的な国で、AAでもモンゴルと日本はかなり深い関係にあります。しかししばらく前まではソ連の影響下にあり、ロシア語で教育が行われていた国です。もともとモンゴル語には表記文字が無く、キリル文字を使ったりしていて、文化的にはロシアの影響が色濃く残ります。日本の大相撲で、モンゴルやグルジアやバルト諸国出身の力士たちが、ロシア語で会話を交わしている、なんて話もありました。シベリアのAAメンバーは、モンゴルAAのコンベンジョンに訪れていたりするそうで、日本人と違って言葉の壁がないだけに、モンゴルとシベリアのAAの結びつきは、今の日本との関係以上に深まっていくのではないかと思った次第です。

さて、今回のAOSMでは、日本の評議員の発案で、各国の評議員メンバーと日本のAAメンバーとの直接交流の時間が取られました。これはすばらしいアイデアだったと思います。

あるAAメンバーは、「私はスポンサーに従って最初にステップ4の棚卸し表を書いたときに、生まれたときから今までの人生を1年づつたどるライフストーリーを書いたのですが、これはビッグ・ブックに書かれているのとはずいぶん違うやり方です。でも当時はみんなそのやり方をしていたのです。はたしてそれは正しいやり方だったのでしょうか」という質問をしていました。

それに対する香港のAAメンバーの答えは、「あなたのスポンサーは、あなたにはそのやり方が一番良いと思ってそのやり方を勧めたのでしょう。だから、あなたがスポンサーを選んだときに、あなたはステップ4のやり方も自分で選んだのです。それが、あなたのハイヤー・パワーでしょう」というもので、隣にいたオーストラリアのAAメンバーもそれに賛成でした。

「でも当時は、ほんとうにそれしか方法が伝えられていなくて、みんなそうしていたのです」という質問には、「あなたはたった一つしかないやり方を選んだ。それがハイヤー・パワーです」。

またステップ5を書いた後に、棚卸し表を燃やした話も出まして、「それじゃあその表を使ってステップ8の表が書けないじゃないか」という質問に対しては、「古い人生が終わって、新しい人生が始まるんだから燃やしてもかまわないじゃないか」、表はまた書けばいい。しかしあなたのスポンサーが燃やさないように提案したなら、燃やさないのが最善。

ともかくまずスポンサーを選ぶ、そしてスポンサーが最善と思って提案してくれたやり方に従っていく、それがAAプログラムであって、やり方を良い・悪いと比べてみるのは意味がないということであります。

スポンサーとして提案する立場としても、他のやり方の方が良いんじゃないかという不安は常につきまとうもので、「あいつにステップ4を書かせるなんてまだ早いよ」なんて言われると、とたんに自分の提案に自信がなくなったりします。しかし、その時自分が最善と思って提案したのなら、そこにハイヤー・パワーが宿ると信じるしかありません。

少人数のグループに分かれすぎ、通訳の人手が足りなくなったので「ひいらぎさん通訳してよ」なんて言われてしどろもどろでやっていました。別のグループでは下ネタの分かち合いが行われていたそうです。そっちも楽しそうです。


2007年07月09日(月) AOSMみやげ話 2

本社の偉いさんの送別会。会社を大きくするために頑張ってきた人たちが、最後の数年ぐらいは好きにやりたいと退社するのが続いています。それは、前の会社時代から世話になった人たちが会社を去っていくことを意味するので、寂しい気持ちもあります。
週末の疲れも残るだろうからと有給休暇を入れていたのですが、送別会の日取りが他に取れないというので、有休をキャンセルし、送別会の参加者を長野に集めるために行われた会議に出てました。眠い眠い。夕方からの中華料理はおいしかったのですが、会費五千円は痛い、痛すぎるぞ。

さて、AOSM。

参加人数:
議決権を持った参加者が20人ぐらい+通訳の人ふたり。各国の評議員の中には奥さんと来ている人がいて、ひょっとしたら日本のアラノンとコンタクトを取ったかも知れません。host committee(実行委員会)のスタッフが十数人。それから僕らのようなオブザーバーが一番多いときで30人ほど。土曜の夜の集合写真には60人前後が写っています。

さて、AAのプログラムには神とか祈りが出てきます。ただAAは宗教ではないので、こういった要素を spirituality(霊性)と呼んでいます。この霊性に対しては、AAがアメリカで誕生したものだから、キリスト教文化そのものなのではないか、という誤解があり、拒否反応の原因になっています。自分が納得できる神なら、どれでも好きなものを選べばいいということは無視されがちです。

アジアの国々の多くは、(日本のように)現地人だけでAAが維持されるところまで行っておらず、英語を話す国々からやってきた人たちが主になって、自分たちのコミュニティを作り、そこに現地の言葉を話す人を巻き込んでいこうとしている段階です。
そこで「アジアの文化の中でAAを伝えていくのに、このAAの霊性が障害になっていませんか。そうした文化的な壁があるなら、それをどうやって乗り越えていますか」という質問をぶつけてみました。

ニュージーランドは白人と英語の国ですが、人口の十数%はマオリという原住民で、彼らは文化と言葉の壁を越えてAAのメッセージを運ぶことに成功しています。事実、ニュージーランドから二人来ていた評議員の一人はマオリの女性でした。また、オセアニアの島々にメッセージを運ぶ作業も続けています。これはNZ評議員の言葉。

「スピリチュアルなものに対する障壁は、なにもアジア人だけに限ったものでなく、(世界の)すべてのAAニューカマーが体験するものです。成功するAAグループというものは、ハイヤー・パワーについて真正面から取り組んでいるグループです」

AAの神というものはアジア人には似合わないとか、だからそれは脇に置いた方がよいと考えるのではなく、愚直にプログラム通りにやった方が良いってことでしょうか。

しかしタイの評議員は、ビッグ・ブックを翻訳するのにGodという言葉は使えず、supreme(超越者)と訳したものの、その概念はタイの人々が受けてきた教育とは相反するアイデアでなかなか理解されない、と報告していました(それは隣国カンボジアの話か?)。これは暗黙にではありますが、神とかハイヤー・パワーというものを取り除くか薄めたらどうか、という主張を含んでいるように思います。

NYGSO所長のコメントは、アメリカの中でも自分たちのためにビッグブックを変えようという意見もあるが、現在のところビル・Wの文章は変えないことが議決されている。もしビッグブックを変えて欲しいと思うのなら、その国のAAの正式な議決としてニューヨークに送って欲しい。というものでした。

やはりハイヤー・パワーについて、自分のグループや、自分のスポンサーシップの中で真正面から取り組んでいくことが、(少なくとも自分にとっては)ベストであろうと思ったのです。


2007年07月08日(日) AOSMみやげ話 1

時系列に沿って書こうとか、基本的な説明から始めようとすると、筆が進まないので、思いつくままに書いてみようと思います。

英語について:
AAの国際公用語は英語とスペイン語ですが、アジア・オセアニア地域帯ではスペイン語が公用語になっている国は(たぶん)ないので、会議は英語ということになります。

ちなみに僕の英語は、最近ニュースにもなった駅前留学のスクールに1年間通っただけです。職業訓練給付金制度ってのがありまして、その指定のコースに8割以上の出席率で通うと、授業料の8割を補助してくれるという仕組みです。例の報道の後、あそこは給付金制度の指定も取り消されたと聞きますが、受講途中だった人のお金の扱いがどうなるのかはニュースでは伝えていませんでした。

僕の英語はスキルは「ギリギリ最低限の日常生活がこなせるかもしれない」程度です。なので会議や会話の内容は半分ぐらい・・・いや1/3ぐらいしか聞き取れません。もっとも僕は正式な参加者でもなければ、ホスト委員会メンバーでもありません。ただのオブザーバーですから、後ろの席に黙って座っていればいいだけなので、聞き取れないのは個人的問題に過ぎません。分かんなければ分かる人に聞けばいいだけのことです。

現実の世界で話されている英語は、ニュースのアナウンサーや英語の教材のような耳慣れた(?)ものばかりではないという、当たり前の事実を痛感させられました。国によってあまりにも発音が違うのです(英語が母国語の国でさえ)。それは教材だって満足に聞き取れない人間にとっては、あまりにも高いハードルでした。「慣れるしかないよ」と言われたのですが、慣れるチャンスがない生活しかしてませんから。

発言権がないとは言え、休憩時間や食事中、あるいは交流会では別の国の評議員と直接話すチャンスはいくらでもありました。たとえこちらの言葉がたどしくても、そこは忍耐と寛容の精神で接していただいて、こちらとしては相手の回復に甘えるしかありません。ともかく最も高いハードルは、誰かをつかまえて会話を始める自分の勇気の不足なんですが、それは日本人相手の時でも同じことですね。

おかげさまで日頃抱えていた疑問のいくつかには答えやヒントが得られました。サービス会議だからオフトピックもサービス活動関連ばかりってわけでもなく、こちらが尋ねさえすれば、ステップやメッセージ活動やリハビリ施設の話も熱っぽく語ってもらえました。例えばステップ4の棚卸し表の書き方とか、スポンサーシップについてとか、「霊的」ってアジア圏のAAには障害にならないかとか・・・。

もちろん日本人同士でもたくさん話をしたのですが、その中でもある人の言葉がとても印象に残りました。もちろん、正確な言葉ではないですが、

「幅広いバリエーションがあるAAのやり方の中で、ある一部分のやり方だけが日本に伝えられて日本のAAになった。そのやり方が間違っているわけではないが、やはり偏っていることは間違いがない。どれが間違っている・正しいという議論は無用で、やはり様々な方法を持ってくることが日本のAAに必要だと思う」

その言葉を聞いて、僕は自分が漠然と感じていたものが明確な思考になった気がします。僕もそう思うようになった材料や、あまり関係のないことも含めて、思い出せる限りでAOSMの様子をぽつぽつ書いていきたいと思います。

AAの原理はAAの本が伝えてくれる。その原理は時代や国を超えて共通であり、変わることがない。変えようのない本質がそこにある。その一方で、そこに書かれた内容をどう解釈しようが各自の自由であり、メンバー一人ひとりの個人的体験や、スポンサー(や先ゆく仲間)から受け継いだ考え方・やり方も、それぞれ等しく分かち合う価値がある。繰り返し強調されながら、なかなか理解されていないことだと思います。

一つの原理を中心として、メンバーの数だけバリエーションがある。その広がりをそのまま受け入れるのが吉であって、どこかにこだわりを持てば失うものが大きい・・・ということでしょうか。

まあ、具体的な話はおいおい。


2007年07月05日(木) 予備の原稿

最新DATAで見るエンジニアのキャリア事情
http://jibun.atmarkit.co.jp/lcareer01/rensai/career46/data46.html

記事の内容は残業代についてなんですが、目がいくのがこのグラフです。ITエンジニア500人に「平均的な退社時間」を聞いてグラフ化したもの。なかなか7時前、8時前には帰れないのは他社も同様のようです。おまけにプロジェクトが「死の行進」化すると何日も家に帰れなくなったりするし・・。6時前に帰ると、体の具合が悪いのかと心配されたりして。

でもAAミーティングに行く時間が来たら退社します。それは当然です。

別に痛い視線が突き刺さる緊迫した状態でなくても、みんながまだ働いている場所から出てくるのは、気が引けるものです。でも行かなければなりません。

仕事なんかよりAAに行くほうがよっぽど大事だもんね、と自分に言い聞かせることが大切です。AAの時間が迫ってるのになかなか帰れないって状況にハマらないためには、そうなる前に仕事が片づくように気合いを入れて頑張らねばならない時もあります。それでも終わらなくて誰かに仕事を人に押しつけて帰るためには、ミーティングに行かない日にどれだけ周りの人の手助けをして(恩を売って)おくかも大切です。
いざとなったらミーティングが終わった後、また職場に戻って働くという手もあります。

それでも泣く泣く諦めねばならない時も、あるにはあります。

自分が職場のキーパースンになって給料をたくさんもらおうとすれば、どうにも仕事から抜けられなくなる場合が増えるでしょう。それが責任というものです。そしてAAミーティングに行く回数が減り、行けるときでも今日は疲れたから帰って寝ようが重なるようになって、やがて自滅ってことになりかねません。
自分が精神病だってことは忘れてかまわないことなのかも知れません。でもハンディキャップを背負っていることを忘れると痛い目を見ます。人並み以下しか働けないと自分を卑下する必要はありませんが、人並み以上に働いてやろうと我欲を出すと足下をすくわれる病気です。なまじ一度挫折しているだけに、挽回してやろうとか、頭角を現したいとか、そういう欲求に弱いですからね。おまけに断れない人が多いから、人から請われるままに責任を引き受けたりして。

平凡が一番であるとスポンサーは言っていました。玉石混淆。自分が玉だという思い上がりがあるなら、なおさら石の中にいろということか。

2泊3日で出かけてきます。らんざんをあらしやまと読んで恥をかきましたよ。ノートパソコンも持って行きますが、準備が間に合わなければ、日曜日まで更新が止まるかも知れません。いってきまーす。


2007年07月03日(火) メダル

AAのミーティングに初めて行ったときに、黄色いメダルをもらいました。表には「AA」、裏には漢字で「今日一日」の文字がありました。その後1ヶ月と3ヶ月のメダルはもらったのですが、6ヶ月に到達する前にはミーティングに通う頻度ががっくりと下がって再飲酒してしまったため、6ヶ月メダルはもらえませんでした。

ふたたびAAに戻ってきたときには、ワンデイのメダルは緑色の英語のもの変わっていて、表には「Keep Coming Back」(ここへ戻って来続けよう)という文字があり、裏には細かな字で英文の平安の祈りが刻まれていました。その後、赤、紫、金色と順にもらい、9ヶ月からはプラスチック・トークンではなく、ブロンズのメダルになりました。

「なぜワンデイのメダルが、日本語の黄色いものから、英語の緑色に変わったのか」、そういうことを調べていた時期もありました。黄色いメダルは、日本のJSOが頒布していたものでした。メダルの存在はAAメンバーからとても愛されていたものでしたが、メダルという物質的なものは霊的なAAプログラムとは相容れないという意見も根強くありました。WSMでの議論を経て、ニューヨークのGSOから「少なくとも各国のゼネラル・サービスが、メダル(やAAのロゴ入りグッズなど)を販売するのは好ましくない」という強い提案が発せられました。

そこで日本のJSOもメダルの取り扱いはやめたわけですが、メンバーのメダルに対する愛着は捨てがたいほど強く、その要望をかなえるために、当時設立されたばかりの関東のセントラルオフィスがアメリカから輸入したメダルの頒布を始めました。

(登録商標の問題をクリアしていれば)もとよりAAメンバー個人や、外部の団体がメダルを作って売ることには、何も問題はありません。セントラルオフィスで扱っているのは、アメリカのヘイゼルデンのものですが、これがそもそもヘイゼルデンが作っているものなのか、それとも仕入れて販売しているだけなのかは知りません。オフィスが輸入するにも苦労があるようで、個人のクレジットカードで多額の代理購入をしたり、船便で届く前に手元在庫が尽きてしまったり、commercial sample あるいは book として非課税だったのが量が多いので関税が加算されたりとか・・。

ヘイゼルデン以外にもいろんな種類のメダルが使われています。ハンドメイドの$39なんてのもあれば、プレスで作った安いのもあります。安いのもいいんですが、加工の精度が「うーん・・・」ていう感じです。ヘイゼルデンのは金型の精度が高く、一生の記念品にふさわしいと思います。まあ、そんなこと気にしないって人は気にしないでください。

ヘイゼルデンに片面がまっさらなメダルがあります。封筒がついてくるので、メダルを入れ、記念日の年・月・日各2桁を書いた紙を同封して郵便局からエアメールで送ると、10日ほどで日付が刻まれたメダルが返送されてきます。ソーバーの記念日を入れてプレゼントするのに適していると思いますが、相手を選ばないと無駄にされますね。

確かにメダルは物質的なものにすぎませんが、人の手から人の手へ渡されるという「コミュニケーション」を経ることで霊的な価値を帯びると思っています。


2007年07月02日(月) 再飲酒の準備作業

光市の母子殺人事件の差し戻し審。「復活の儀式」うんぬんは他に任せるとして、弁護団の人数の多さです。従来、殺したのが一人なら無期懲役どまり、三人殺せばほぼ死刑、二人の場合は事情による、というのが量刑相場でした。しかし、二審の無期懲役を量刑不当として上告したのが検察側で、最高裁もそれを門前払いせずに差し戻しました。二人でも死刑へと相場を動かそうとするプレーヤーと、ともかくそれを防ぐのが大前提で事実審の中身なんて二の次のプレーヤー(弁護団)。ゲームの傍観者たらざるを得ない遺族が裁判の被害者という感じがしました。

さて、いったん酒を止めたアルコール依存症者が、もう一度酒を飲むためには「準備作業」が欠かせません。その準備の内容とは。

まず、AAメンバーならミーティング(断酒会なら例会)に行かなくなります。毎日あるいは週何回でも自分のペースで出席を続けていれば、そうそう酒を飲むことはできません。中には毎日出ていても飲んでしまう人もいますが、そういうひとは「まだ酒が止まっていなかった」という別カテゴリに入れることにしましょう。

通わなくなると、やがて頭が狂気に支配され、「一杯だけなら飲んでも大丈夫だろう」とか「今度こそ失敗しない」とか「もうどうだっていい、考えるのが面倒くさくなった」などと言い訳をしながら飲み出してしまいます。その瞬間に「ちょっと待て、正気に戻れ」とブレーキをかけてくれる存在からは、自分から遠ざかっているわけです。ミーティングに通い続けていては酒を飲めないから、酒を飲むためにミーティングから遠ざかるのです。これが「再飲酒の準備作業」です。

アルコール依存症は「ブレーキの壊れたダンプカーが坂の上に駐めてある」と形容されます。坂道を下りだしてしまったら、もうなにか(トラブル)にぶつかるまで飲酒は止まりません。断酒会とかAAという自助グループは、このダンプカーに輪留めをしてくれます。つまり正気を保ってくれるわけです。だから、飲むためにまずこの輪留めをはずす作業からとりかかります。

再飲酒から生還した人が、AAに戻って「スリップ(再飲酒)していたので、ミーティングに来れませんでした」と言うことがあります。もちろんこれは因果関係が逆で、ミーティングに来ないのが原因で、スリップが結果です。仕事だとか何とか、いろいろ理由をつけてミーティングの頻度が減ってきたら、この人はそろそろ飲みたくなってきたんだなぁ、と周囲は思うわけです。

通いながらも飲んでしまうのは、まだ酒が止まっていなかっただけなので「再」飲酒(スリップ)と呼ぶのは適切ではないと思います。


2007年07月01日(日) 週末の過ごし方

地元の美術展に応募した母から無料券をもらったので、市の美術館に行ってきました。
父が死んでから、絵手紙や墨絵を趣味としていた母ですが、ここ数年は油絵を描いています。最初の頃は、キャンバス全面に絵の具が載っていれば完成という程度だったので、高校の美術部でちょっと油絵を描いていた僕も偉そうなアドバイスをしていたりしました。しかし先生に付いて描いているだけあって次第に上達し、今年はついに80号の大作であります。ステーションワゴンの荷室に載せるのに苦労しました。
応募しても落選すれば、搬入日の夕方には持って帰らなければなりませんが、先生が加筆してあるだけあって、いままで落ちたのは一度だけです。搬入から展示会死までは一週間。

素人の作品ばかりであっても、静かな美術館で絵を見ていると、心が落ち着いてきます。入賞する作品には、やはり他と違う輝きのようなものを感じます。CR兄貴やたま姉のように美術館にでかける「ずく」は僕にはありませんが、絵は好きです。とくに油絵は。あいにくパソコン用のメガネをかけたまま外出してしまったので、離れて絵を見ることができず「妙に近いところから絵を見ている人」になってしまいました。
最初は感動していた子供たちも、絵の多さに飽きてしまったようで、おばあちゃんの絵を見つけるとほっとしていました。

常設展示の草間彌生も見てきました。この人は精神を病んで子供の頃から幻覚を見ていたそうです。無限の模様の繰り返しは、ひょっとしたら見えていた幻覚をそのまま二次元に描き写したものなのかも知れない、などと考えました。

週末にVisioで図を描いていたのですが、いきなりWindowsがハングして再起動したら、三晩かけて描いたファイルがエラーで開けなくなってしまいました。あまりに頭に来たので、脈絡はないのですが、電器店にビデオカードとキーボードを買いに行ってしまいました。買い物によるストレス発散ですね。

自宅のパソコンのキーボードは2〜3年が寿命です。一方会社のパソコンのキーボードが壊れたことはありません。・・・会社であんまり仕事してないんじゃないか・・てことはなくて、コンピューター・プログラムを書く作業は実はそれほど打鍵数は多くないため、キーボードの寿命が長くなります。自宅ではプログラムを書かずに文章ばかり書いているので、どうしても打鍵数が多くなります。高いキーボードを買っても寿命が短いと切ないですから、PFUでも東プレでもなく、ダイヤテックの8千円ほどのヤツにしました。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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