心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月30日(土) また一つ年を取る

毎年6月の終わりになると、年を一つ取ることになっています。
小学校の頃、誕生日の絵日記にこたつが描いてあったことがあります。梅雨の夜は意外と肌寒く、それは冬の寒さとは違うものの、暑さに慣れた肌が暖房を欲しがるのは、現在でも変わりません。

28才の時に自殺未遂をして初めて精神科のご厄介になりました。翌年初めての精神病院への入院を経験します。31才でアルコール依存症の診断を受け、半年後に初めてAAのミーティングに出席しました。その1年後、32才の時にやっと酒が止まりました。

当時、AAグループを始めた頃の悩みの一つは、自分が若造(わかぞう)であることでした。若いということは、説得力がないということです。いや、僕が説得力がないのは若さ以外の問題だったのでしょうが、当時は自分の若さに責任をなすりつけるしかできなかったのです。
AA以外のところでも、若造と思われることは自分のコンプレックスの一つであり、左手の薬指に結婚指輪をしていたのも、妻への愛情ゆえではなく、俺は結婚している一人前だよと誇示するのが目的でした。中身に自信がなく、外面にこだわっていたわけです。

AAの会場にやってくる人も、病院メッセージの会場の患者さんも、年上のおじさんたちが圧倒的に多く、僕は若造のメッセージが届かないと嘆いてばかりいました。そんな時に、経験の長いメンバーが

「心配しなくても、ひいらぎが10年のソーバーを重ねる頃には、おじさんたちにもメッセージが伝わるようになるよ」

という言葉をかけてくれました。

考えてみれば、あれから10年以上確実に経っているわけですが、自分が説得力を身につけたかどうかは分かりません。ともかく、もう薬指に指輪はしていません。説得力があろうがなかろうが、自分の実力以上は発揮できないし、メッセージを受け取るも受け取らないも「相手の問題」と開き直って続けています。
それは、10年分の若さが失われたかわりに、10年分のふてぶてしさが身に付けただけかも知れません。まだまだ僕はひよっこで、成果ばかりを求めてしまいます。


2007年06月29日(金) 自分的解釈

AAのプログラム(12ステップ)のなかには、自分一人でできるものと、相手がいないとできないものがあります。もちろん、どのステップもスポンサーと一緒にやった方が良いという話はとりあえずおいておきましょう。

一人でできるもの:ステップ1・4・8。
相手が要るもの:ステップ2・3・5・6・7・9・10・11・12。

無力を認めるステップ1、過去および現在の自分の状態を表にするステップ4、埋め合わせの予定を立てるステップ8。これは自分が主体的に行うステップです。

ステップ5では、どうしても人間の相手に話すことが求められます。ステップ9も、傷つけた人に償いをするわけですから人間相手の話です。ステップ12は「霊的な目覚めを伝える」相手が必要です。

他のステップに求められている「相手」は、人間ではないですね。自分より強い力、自分で理解できる神ってやつです。
ステップ2で「信じる」ためには、信じる相手が必要です。いつまでも二本足(つまり人間)を神様代わりに信じていてはいけないと言われます。その二本足には自分も含まれています。信じたからには、ステップ3で「指図どおりにやってみる」わけですが、指図を受ける相手が要ります。

ステップ5では、4で作った表を人間の相手に話すわけですが、その他に神に対しても認めなさいと言って。ですから、ここに来るまでには「自分の信じられる神様」を用意しておかないと、ここからの道のりが厳しくなります。
ステップ6・7は、「性格上の欠点を神に取り除いてもらう」となっていますから、自分のダメな点を直してくれる存在が要ります。AAスポンサーに言われるままにステップ4・5は済ませたけれど、その先の6・7に進めないでいる人は、二本足の神様を信じたままなんでしょう。ステップ4・5が、ずーっとやってこなかった掃除をまとめてやった大掃除だとすれば、ステップ10は日頃の掃除と年末の大掃除でしょうか。5で必要だった人間の相手と神様がここでも必要です。ステップ11では「導きを求める」わけですが、もちろん導いてくれる相手が必要です。

こんなふうに、AAの回復のプログラムをやっていくには、どうしても相手として神さまが要るようにできていると考えています。

熱心に宗教に取り組んでいるAAメンバーもいますが、その宗教の神様(あるいは仏様)が自分の酒を止めてくれるとは信じていなかったりして、それじゃあAAにも宗教にも熱心だとて、ステップ2ができているとは言えないんじゃないかと思ったりします。

まあ、あくまでひいらぎ的なステップの解釈ということで。


2007年06月28日(木) ゲーム中毒

僕が大学生の頃は、ゲームアーケード(ゲームセンター)は24時間営業という店も珍しくありませんでした。風俗営業法の改正で、深夜12時以降の営業が禁止され、都条例などで午後6時以降は小中学生の入店が禁止され・・とだんだん厳しくなってゆきました。ただ、その意図するところはゲーム中毒の予防ではなく、子供が夜どおし遊んじゃうような風俗びん乱の防止でした。

当時は初代ファミコンが流行りだした時期でしたし、パソコンのゲームも表現力が上がってきた頃で、ゲームにはまり出す人間も珍しくありませんでした。今日みたいな暑いある日、学生会館で「今週は暑い日ばかりだったね」という会話を交わしていたら、後輩が「え?そうだったんですか?」と真顔で聞いてきました。

僕は当時はまったく料理をしませんでしたし、洗濯も入浴も銭湯に行く必要がありましたから、何にはまりこんでいても外出しない生活を一週間も続けることはできませんでした。ところが彼の場合、風呂付きのアパートに洗濯機と冷蔵庫という恵まれた環境に加え、自分で料理する「まめ」さがあったために、一週間外に出ずにゲームにどっぷりはまりこむことが可能になり、おまけに部屋は冷暖房完備なので、外が暑いか寒いかも気にならなかったという事情です。

おたくというのは、自分がどんなに並はずれてバカで極端に走るかを自慢する部分があるので、当時はそんな話も「良くある話」と気にとめませんでした。そのうち僕もアルコールにどっぷりはまりこんでしまい、何週間も(時には何ヶ月も)風呂に行かない生活をすることになります。もっとも、アル中の場合には定期的に酒を調達する必要があるので、外出しないってわけにもいきません。

昨今、ネット依存症あるいは、コンピューター依存症などという言葉ができていますが、もっとも中毒性を感じさせるのはオンラインゲームです。
ゲームの仮想世界の中の登場人物が、コンピューターの繰る幻影などではなく、意志を持った別のプレイヤーであるとき、しかもそれが退屈な現実ではなく剣と魔法、あるいは宇宙船を得物に戦う世界であるとき。化粧や服では大して変化のない自分の外見を、自由に美しくも醜くもできるとき、リアル世界での経歴や境遇や性別や経済状態から離れて、なりたい自分を演じられるとき・・・人はこちら側に帰ってくるのが本当に嫌になるようです。

人と協力したり敵対したり、友達になったり裏切ったり、愛し合ったり別れたり、そんなことは現実世界でやればいいことだと思うのですが。

アメリカ精神医学会の精神疾患分類(DSM)にネット中毒(あるいはゲーム中毒)を追加しようとする動きがあるようです。
DSMではいろいろな「依存症」が別々のところに分類されています。アルコールや薬物は「薬物依存(Substance Dependence)」という大分類。食べる関係は摂食障害(Eating Disorders)という大分類です。
その他の依存症は「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」という大分類に入れられています。この中にある項目を挙げてみると、間欠性爆発性障害(いわゆる暴力癖)、窃盗癖、放火癖、病的賭博、抜毛癖、特定不能とあります。おそらく買い物依存は特定不能に分類されてきたのでしょう。ゲーム中毒はここに新たな項目として加えることになりそうです。
わざわざそれを新しい項目にする意図は、診断基準をはっきりさせて病名として確立することで、医療保険の支払いが確実に行われるようにしたいという願いであるようです。

ちなみにDSMには、hoism(中毒)とか addiction という言葉は出てきません。


2007年06月27日(水) 予備の原稿

むかーし、アルコール中毒の治療に「嫌酒療法」というのがあったそうです。
患者に抗酒剤を飲んでもらい、医師看護婦立ち会いのもとで、酒を少量飲んでもらいます。当然心臓ばくばく、顔は真っ赤っか、気分はゲロゲロとなります。これを一度だけでなく、入院中に定期的に繰り返しやると、酒を見ただけで気分が悪くなるようになる、まるでパブロフの犬です。
これで酒が嫌いになってくれると期待されたんですが、退院後半年か1年で飲んでしまうケースが大半だったそうです。条件反射が消えちゃうのでしょうか。まあ人間には知能もありますからね。それでも半年か1年は効果があったとも言えます。

いま嫌酒療法をやる病院はないでしょうが、繰り返しでなく一度だけ同じことをやる病院は結構あるようです。「飲酒テスト」などと呼ばれています。抗酒剤を飲みながら酒を飲むとどうなるか、退院前に体験してもらうことで、無用な再飲酒や救急車騒ぎを防げると期待があるようです。
実際、抗酒剤というのは救急の現場では大変評判の悪い薬で、同じ患者が何度も同じ騒ぎを起こすものだから、精神病院側に処方しないように申し入れがあったりするそうです。

抗酒剤服用なんてお構いなしに酒を飲んでしまう末期的患者には、精神病院としても「危なくて抗酒剤は処方できない」わけで、「俺は抗酒剤は出してもらっていない」と威張る人にはため息をつくしかありません。

「飲酒テスト」には実はもう一つ「裏の期待」があるとされています。嫌酒療法と同じで、酒を嫌いになってもらう期待がこもっているというのです。繰り返しやっても半年の効果しかない療法をなぜ(一回だけ)するのか? それには病院の都合もあって、2ヶ月も3ヶ月も入院した患者が、退院後すぐに飲んでしまうと、精神病院への入院を決断し、経済的負担もしている家族の方が「入院なんて意味なくね」とげんなりしてしまいます。たとえ数ヶ月であっても飲まない期間があった方が、その後の治療につながるんだそうです。たった一回の飲酒テストでも、退院時には「懲りた」と言っている人が多いことからも、それはうかがえます。

僕ですか? ええ、自主的に1回やりました。外泊の時の電車の中で。


2007年06月26日(火) 家族の否認

携帯電話にリマインダーのメールが入ったのが午後7時25分でした。
どうやら1時間前に設定してあるはずのリマインダーが、間違って5分前の設定になっていたようです。こんな時間に仲間のバースディ・ミーティングを思い出しても、もう遅いです。もう女神湖を過ぎて峠にさしかかっていましたから、それから引き返しても高速のインターまで45分。たぶん、会場に着く頃には終わっているでしょう。
素直に諦めて、当初の目的地であるミーティング会場へ向かうことにしました。

そこへ向かうときには、どうしても途中で何台かの車を追い越すはめになります。そうでなければ、荷物満載でノロノロ走るトラックの背後にずっとくっついて行くしかありません。もし同乗者がいれば、振り回されてゲロゲロに酔うでしょう。

いつ行っても2〜3人でやっている会場ですが、今夜は年配の男性が奥様と連れだって来られてました。20年の仲間のバースディに行けなかったのは残念ですが、初めてAAに来た人と話をすることの方が、今夜の僕に求められていたことだったのでしょう。20年の人に21年の日がやってくる可能性と、今夜の人に1年が来る確率には違いがあるのですから、きっと仲間も許してくれることでしょう。

僕は十数年前、アルコール依存症の専門病院を探して自ら入院し、そこで依存症という診断をもらいました。それまでは「あくまでうつ病の人が一時的に過度の飲酒をしただけ」ってことでしたから、ずいぶんな違いです。
そのとき母は、「お前はうち(の家系)からアル中を出すつもりか!」と言って僕を責めました。ただでさえ近所に困り者の息子として知られているのに、この上さらに恥ずかしい病名まで付けようとするのかと。
それまで母は、台無しになった僕の人生をマトモに修正しようと、様々な努力を行い、そしてその努力がすべて無に帰して来たわけです。その徒労感、絶望、憤懣を「依存症などという病名」によって免罪にしたくはない、という気持ちもあったでしょう。

僕本人もいずれは正常に飲めるようになって、酒のことで小言を言われなくなる予定でいましたし、病気だとか断酒という話は断固拒否でした。アルコール依存症は否認の病気と言うように、僕本人の否認がまず頑固にありました。
その上でさらに、母の「この人はたまたまお酒を飲み過ぎているだけで、気持ちを入れ替えれば真人間に戻るはず」という強固な家族の否認がありました。
この二つの否認が絡み合って、病気の治療という解決を遅らせていたのは確かです。

僕の母が演じたような役回りは、同じく母や父、あるいは妻、夫、時には息子や娘が演じることになります。最初に否認が解けるのが家族以外の関係者、次が家族、最後が本人と言われていました。最近もこれが当てはまるのかは知りません。
逆に回復は、本人・家族・その他の順番だと言われおり、本人が結構お気楽になった後でも、家族が憤懣の感情を解くにはまだ時間がかかるのが普通のようです。これは今でも変わらないようです。


2007年06月25日(月) ナルトレキソン

3年ほど前でしたか、アメリカでナルトレキソン(Naltrexone)というアルコール依存症の治療薬が、FDAの承認を得たというニュースがありました。商品名Trexan。地検前の実験では効果的という結果が出ていたので、ついに飲む依存症治療薬の登場かと(一部で)騒がれたのですが、人間に対する治験の結果は芳しくなかったようです。

アルコール依存症者を二群に分け、片方にはナルトレキソンを、もう一方には偽薬を投与してみたところ、結果に差はなかったと報じられていました。ちなみに、両群ともAAに通うという条件であります。

もとは薬物依存の治療薬のようで、オピオイド拮抗薬です。素人ながら解説すると、脳の中のアヘン受容体にアヘンより先にくっついてしまうので、後からアヘンが入ってきても受容体にくっつかないので「気持ちよくならない」という仕組みです。気持ちよくならないので麻薬を使う気が失せるわけで、酔いたい願望が消える薬というのは誤解でしょう。アルコール依存に対する作用は解明されていませんが、基本は「酒を飲んでも気持ちよくならない」ということにつきるようです。

あなたは酔わない酒が好きでしょうか?
酔えなくても酒が飲めるなら満足するというのなら、ノン・アルコール(低アルコール)のビールを飲んで満足できるはずです。でも、あんなもので満足できるはずもなく、かえってアルコール入りのビールが飲みたくなって、再飲酒の引き金になったという話しか聞きません(僕も経験あります)。
国破れてサンガリアあたりから、子供向けの清酒っぽいジュースとか、ワインぽいジュースとか出てますから、試してみればいいでしょう。スリップしても知りませんけど。

もう一つは、人間の場合は動物実験と違って知能が働くため、「この薬を飲んでるから酔えないんだ」と知っていれば、ナルトレキソンを飲まずに酔っぱらうほうを選ぶのは簡単だからです。これは、シアナミドやジスルフィラム(商品名はシアナマイド、ノックビン)という抗酒剤の服用と同じことが起きるでしょう。。

とは言え、「気持ちよくならない」という効果は他の依存症でも効果は発揮して、性依存症に使うと性衝動が抑えられたり、ニコチン依存に使うと禁煙後の肥満が予防できたり、はたまたネット依存症に効果があったとか・・・。
アルコールでも、前向きに断酒しようとする人であれば、初期のスリップがひどくならないという効果ぐらいはありそうな予感はします。

自主的に飲んでくれない重篤な依存症患者には、ナルトレキソンを体内に12週間分インプラントする治療法もできたみたいです。


2007年06月24日(日) カリウム

飲んでいるアルコホーリクは、カロリーの1/3をアルコールから得ていると言います。アルコールにはたんぱく質や、ミネラルや、ビタミンは含まれていないので、恒常的な栄養失調の状態になっています。

(飲んでいたころを回顧したアルコホーリクが言うように)アルコホーリクは「アルコールという燃料を燃やして動く内燃機関みたいなもの」なので、酒さえ飲んでいれば、たとえ少々栄養失調だろうが、なんとか暮らしていってしまうものです。

ところが断酒をして酒という燃料が切れてしまうと、飲んでいるころはさして気にならなかった体の不調が表に出てきます。そこで「酒をやめるとかえって体調が悪くなる」と言い訳をしてまた飲み始める人も多いのでしょう。長年の栄養不足で痛めつけてきた体は、断酒しただけで調子がよくなるはずもなく、栄養と休息で時間をかけて治していくしかありません。

酒を飲み続けているうちに、胃腸の内部がびらんしてものが食べられなくなり、それでも飲み続けると胃が酒を受け付けなくなり、さらに水さえも吐いてしまうようになります。そういう状態でも、入院せずに自宅で酒を切らなければならない事情を抱えた人もいます。

基本はスポーツドリンクで水分を摂取。ヨーグルトやバナナなら食べられることもあります。この三つに共通していることは、カリウム補給になるということです。

酒ばっかり飲んでいた結果、血液中のカリウム濃度が減ってしまい、低カリウム血症で心肺機能が異常が起こして突然死なんてこともあります。脳を含めた人間の神経系統は、カリウムとナトリウムを神経細胞に出し入れしながら動いています。心臓が丈夫かどうかは関係ありません。酒を切っていく過程で死んでしまっては元も子もないので、事情がどうこう言わずに入院するのが最善ですし、どうしても自宅でドライアウトするなら、吐いてもいいので飲んだり食べたりしてください。

食べ吐きをしている摂食障害の人の電解質バランスも偏っていることが多いのだとか。そんなに体に異常のない摂食障害の人が突然死する理由はここらへんにあると言う人もいます。

生の食材はナトリウムよりカリウムが多いのに、加熱調理をするとナトリウムが多くなってしまいます。生の食材を食べて進化してきた人間は、低カリウムの状態には耐えられないのかもしれません。

たまにはわかめサラダでも食べましょう。


2007年06月23日(土) 承認を求める癖

自分を直接見るよりも、他者の瞳に映った自分を見る癖があります。修辞が過ぎますか。自分で自分のことを良いとか悪いとか判断するよりも、人にどう思われているかのほうがずっと気になります。

人にどう思われているか、全然気にならない人はいないでしょう。例えば、上司や人事部にどう評価されるかで、将来の給料、ひいては経済生活が変わってきますから、気にしないではいられません。その他いろいろです。

でも、人にどう思われても、自分は自分であって周囲の評価によって、自分の価値が上がったり下がったりするわけじゃありません。「そう言われても、やっぱり人の評価が気になる」のは、奥深いところで自分が無価値だと感じる癖がついているんでしょう。だから、人から高評価を得ることで、あーやっぱり自分は価値ある人間だったと一時の安心を求めてしまいます。あるいは酒でその虚無を埋めるとか。

こういう(僕みたいな)人は、一緒にいる人の感情に支配されがちです。この人がこんなに不機嫌なのは、さっきの僕の行動がいけなかった、いや昨日したことがいけなかったのか、いやもうすっかり僕のことが嫌いになって手遅れなのか、とか。僕のやったことで、こんなに喜んでくれるなんて、この人本当にいい人だな、よしもっとやってあげよう、とか。

こういう(僕みたいな)人を支配するのはかんたんです。「俺の機嫌がこんなに悪いのはお前のせいだ」というオーラを発散していれば、そんなの関係ないじゃんと理屈では分かっていても、落ち着いていられません。「俺の目にはお前はこう写っているんだ」という像を無視できません。

だからこそ、他者の瞳に映った自分ではなく、自分で自分を直接見て評価する習慣をつける必要があるんでしょう(ステップ10)。

また子供には「お前が良いことをしようとも、悪いことをしようとも、世間様になんて言われようとも、お前はお前で良いんだよ。だってお前は私の子供なんだから」と示してあげたいものです。


2007年06月22日(金) 依存症の大統領夫人

そのニュースを見たのは、僕がリサイクルショップで扇風機を漁っていたときでした。商品の中古テレビが夕方のニュース番組を映していて、殿下の入院を報じていました。立ち止まって最後まで見てしまいました。
でもこれは今日の雑記のネタにはならないと判断しました。僕は殿下のことは何も知らないからです。帰って調べて今上天皇の従兄弟にあたることを知ったぐらいですから、書くことがありません。

ただ、帰ってパソコンに触ってみたら「心の家路」のアクセスカウンターが600を超えていたので驚いてしまいました。最近掲示板への広告書き込みが執拗になってきているので、その余波を食らったかと思ったのですが、調べてみるとほとんどが「アルコール依存症」で検索して、このサイトへたどり着く人々のようでした。

Perlスクリプトを使って「アルコール依存症」でニュースを自動検索し、このページ(パソコン用)の下に表示するようになったのはだいぶ前です。導入前には予想していなかったことの一つが、有名人の名前がずいぶんひっかかることです。まあ、依存症という病魔は、その人が有名か無名かは選びませんからね。

アメリカの現大統領は自ら依存症であることを明らかにしていますし、その前の大統領も実父が依存症です。(確証はないものの)ロシアの前の大統領が依存症という話もありました。イギリスの政党党首にもいましたっけ。

でも、最も人々の間で語り継がれる「依存症の著名人」と言えば ベティ・フォード でしょう。僕は勘違いしていたのですが、彼女が依存症になったのは、夫が大統領になる前ではなく、なった後なんですね。まもっとも、いつ依存症になったか、なんてのは境界線の引きにくい問題です。
AAのミーティングに通い出した頃に、「酒の飲み方がひどくなったのはここ1〜2年のこと」なんて言っている人も、1年後には「10年前からひどい飲み方をしていた」と告白できるようになったりします(僕のことね)。

アメリカ社会でアルコール・薬物依存症の治療が進歩した背景には、もちろん当時の依存症問題の深刻さがあったわけですが、ベティ・フォードの存在や、ヒューズ法の成立なども大きなトピックとしてあげられます。ベティ・フォードやヒューズ議員がAAメンバーであったかどうかは、言わずもがなですが、彼らの社会に対する貢献はあくまで社会活動家としてのものであって、AAメンバーとしてのものでないことは強調しておく必要があります。
AAメンバーは名前を名乗らないから、依存症についての社会貢献ができないという主張もありますが、もちろんそれは誤解です。

宮様の病気によって、日本の社会の依存症に対する味方が変わるかどうか・・占い師じゃないんで未来は分かりません。


2007年06月21日(木) ユニーク

あなたはユニークな人です。間違いありません。

いや別に、あなたが変わった人(変人)だと言いたいのではありません。ユニークというのは「唯一無二」という意味です。あなたはあなたであって、あなた以外の人が代わりを務めることはできません。だからといって、他の人より重要だというわけじゃありませんけど、ともかく唯一なんです。

僕もユニークな存在です。

その上で「アル中というものは誰も似たか寄ったか」と言いたいわけです。同じアル中といっても、抱えている事情は人様々だから、そういう決めつけは良くないと感じるかも知れません。でも「似たか寄ったか」であります。

酒を飲んで周囲を困らせることが共通なばかりでなく、酒をやめた後の思考パターン、行動パターンまで似ています。まったく同じではないにせよ、ある状況が与えられたときに、ありがちな数パターンのどれかにはまります。

最近の車は、オートマチック・トランスミッションばかりですが、人間がギヤを選択するマニュアル・トランスミッションの車を思い浮かべてください。アル中の人のパターンをギヤ選択にたとえると、ニュートラル・ポジションにいることが無くて、すぐにどれか特定のギアに入りがちです。
バランスの取れた人間ならば、基本はニュートラルで、状況に応じてどのギアにでも入れるのでスムーズに進んでいけるものを、特定のギアに偏るようでは運転は楽ではありません。

自分が分類されることを好まない人もいます。自分がユニークであることに自信が持てていないと、分類されることは恐怖です。個性が否定されるようにしか感じられませんから。自分が唯一無二の存在であることに確信があれば、他者が自分をどう分類しようと(例えば負け犬だと言われようとも)、それほど気にならないはずなんですが・・・。

「アル中は誰も似たか寄ったか」というのは理屈で学んだものじゃなく、観察によって得られた経験則です。

依存症という病気であることも、アル中的思考に偏りがちなことも、僕という人間をユニークに仕立てている大切な属性の一つですから、それを否定しようとは思いません。


2007年06月20日(水) イニシエーションに非ず

人類学で、「社会集団に入るための儀式」をイニシエーションと呼びます。
主に未開の文化圏で、大人という社会集団に入るための儀式、つまり成人式みたいなものです。例えばバンジー・ジャンプは、南太平洋の島々の成人の儀式で、大人の男だと認めてもらうために青年たちに課された試練が元になっています。通過儀礼。

AAという集団に入るためには、なんの儀式も要求されません。自分はアルコホーリクで、AAのメンバーになったと言えば、誰もそれを否定できません。唯一要求されることは「酒をやめたいという願い」を持つことです。

「AAは酒をやめたいだけで<仲間>だと言うけれど、私としてはステップをやっていない人は仲間とは呼びたくない」と明言する人もいます。僕も個人的には同じ考えなのですが、そういった個人の考えはとりあえず脇に置かなければなりません。

さて12個あるステップのうち、最初の山場はステップ4と5です。
今まで生きてきた人生を一年ずつ振り返るにせよ、現在の自分の状態に集中するにせよ、その過程で自分の心の奥深いところまで光を当てることになります。その作業が楽であるはずもなく、多くのAAメンバーはその手前で足踏みをすることになります。でも効果はあります。

ステップ4・5を済ませていることが「一人前のAAメンバー」の条件だと考える人たちがいます。僕もその考えは的はずれではないと思っています。
ただ、ステップ4・5が強調されるあまり、それがイニシエーションだと勘違いされてしまっては困ると思います。ステップが6〜12と続いているにもかかわらず、4・5を済ませたことで一段落してしまい、前へ進めなくなりはしないでしょうか。かくいう僕もその一人でした。

AAのミーティングに出席したら、重苦しい気持ちが楽になったという経験を持つ人は多いと思います。そういう経験を重ねて「ミーティングには効果がある」と認めるようになるのでしょう。ミーティングの効果を信じるのが先で、ミーティングに通うのが後、という順番にはなりません。通う→効果を信じるという順番です。しんどいから通わないと言う人に、ミーティングの効果は及びません。

最初は効果に納得していなくても、ともかく始めないと効果が出ません。信じていなくても、ダマされたと思って、拒絶せずにやってみることです。ステップ4・5も同じです。

とりあえず信じてみる(ステップ2)と、信じたからにはやる決意をする(ステップ3)ができてないと、4・5には進めません。AAに通っていても、なかなかステップ4・5ができない人は、怠惰とか優柔不断ではなく、「AAに対する信頼」と「やる気」が足りないだけの話です。AAを信じてるとか、AAのおかげとか、口でどんなに立派なことを言っても、(他のことと同じく)行動がそう思っていないことを証明していまいます。

耳の痛い話かも知れませんけど。耳の痛い話をされなくなったらおしまいですからね。4・5ができれば一人前ではなく、一人前なら4・5はできてるはず、ってことです。


2007年06月19日(火) たまには時事問題

年金氏名 自動読み仮名ソフト導入 入力ミス誘発、システム欠陥
バイト経験者、年金入力ミス認める 「自分のせいでは」
「マイクロフィルム化」年金記録 判読困難データも

年金問い合わせのフリーダイヤルなんかを設けたところで、そもそもデータベース上にまともなデータがなければ、検索すらできないはずです。手書きの台帳をデータ化する時点で、ずいぶんいい加減なことが行われてきたのでしょう。

それは確かに大変な作業かも知れませんが、以前は台帳で管理されていた戸籍謄本や住民票も、いまではほぼすべて電算化されています。間違いを見つけて個別に訂正してもらったという話はきいても、戸籍や住民票が行方不明になった話は聞いたことがありません。

銀行も預金を通帳で管理していたものを、電算化してきたわけですが、その過程で預金が消えたという話も聞きません。

年金保養施設に無駄な金はたくさん使っても、電算化やシステム開発にかける金はなかっのでしょう。

これからどうするかと言っても、間違っているデータをコンピューター上でいじくり回してみたところで解決には結びつきません。膨大な手間がかかっても全データを人手でつきあわせるしかないでしょう。それ以外の解決策は「目くらましのための小手先テクニック」にすぎません。

年金問題:「社会保障番号」導入 安倍首相の意欲の裏は…

どさくさに紛れて背番号制を導入しようという話が出ていますが、人が「どんな病気にかかって、どこの病院で治療を受けたか、全記録が政府によって一元管理される」ってのは、アル中にとっては落ち着かない話です。

ましてやそれを、年金記録を扱ったようないい加減な連中が扱うのだとすると、ろくでもないことがいっぱい起きそうな予感です。


2007年06月18日(月) 単なる善意では不十分

つくづく善意だけではどうにもならないと思います。
多少なりとも依存症という病気のことが分かった人は、酒を飲まないほうが良いと思うだろうし、自分の人生を悪くしようと思ってはいないと思います。基本的に善意なんでしょう。
でも、飲んでしまう。
善意から出発したのに、最後は酒です。
植木等は「わかっちゃいるけどやめられない」と歌いましたが、酒をやめるべきだと分かっている(善意)のに、やめられない(病気)わけです。周囲はやめられないのはわかっていないのが理由だろうと思うのかも知れません。でも、良くなろうという気持ちはあるんですよ。

僕だって、人生を良くしようと思っていたわけです。なのに最後は精神病院です。
自分自身に対しても、他者に対しても、善意だけではどうにもならない、ということが分かっていませんでした。善意であれば十分だと思っていた、とも言えます。善意以上の何かが必要だとは、というか善悪を超えた何かが必要だとは、思っても見なかったわけです。

やめようと思うのにやめられないと悩んだり、また飲むんじゃないかと不安になる人は、自分の善性だけでは十分でないことに気がつき始めてるんじゃないかと思います。


2007年06月17日(日) 依存症という病気のせいで離婚を経験し、子供と会...

依存症という病気のせいで離婚を経験し、子供と会えなくなってしまった話はいくつか聞いたことがあります。そのままずっと一生会えずに終わるってこともあるのかもしれません。

しかし、AAメンバーの語った経験によれば「AAでソブラエティを続けていれば、いつかは神様が会わせてくれる」ということのようです。

もっとも、その「いつか」ってのは3年や5年じゃまだダメで、目安とするなら10年でしょうか。小学生だった子供が青春まっただ中に突入している頃であったり、思春期の子供が結婚する頃だったり、まさに様々であります。

ある高齢のメンバーが「明日、三十何歳の息子と、二十何年ぶりかで会うんだ」と話してくれた時には、こちらにまで期待と恐れがじわーんと伝わってきて、何をしゃべっていいのか分かりませんでした。

僕のスポンサーも子供に会えない人でしたが、どうやら「その時期」が来たようです(詳しくは知りません)。

僕は最近テレビドラマをほとんど見なくなってしまいました。生の人間が繰り広げるドラマの方に接していると、どこかの人間がシナリオを書いて時間通りに終わるストーリイが虚しく感じられるときがあります。筋書きのない(あるいは神さまが筋を書いている)人生劇場は、おもしろいとか興味深いという次元を超えて、僕を惹きつけるところがあります。

まあ最近は「子供に面会する権利」なども言われるようになり、ソーバー若くして子供と定期的に会っている人も増えましたが、子供に会える喜びよりも、子供がどう反応するかに気を取られ過ぎているように見受けられ、はたして回復のためにプラスになっているか疑問に感じることもあります。

子供のためにではなく、自分のために酒をやめていただきたいものです。

もっとも「自分のために」ができない病気であったりするんですが、それはまた別の話で。


2007年06月16日(土) キップル

DSM-IVの強迫性パーソナリティ障害の診断基準の中に、
「感傷的な意味のない物の場合でも、使い古した、または価値のない物を捨てることができない」
という項目があります。診断基準は8項目の内4つなので、この「捨てることができない」に当てはまったからと言って、すなわちパーソナリティ障害ということにはなりませんので念のため。

今年の「単純に愚直にやる」という自己テーマの中には、要らないものを捨てる、要らないものは買ってこないってのがあります。これは精神的なもの、心の中のものでについてもそうですが、物質的なものにも当てはめています。

部屋が散らかってしまう要因は、やっぱり要らない物がゴロゴロしているのが問題なんでしょう。本棚が溢れているので整理することを考えても、例えば勉強しようと思って買った電気回路の本ですが、ここ何年も開くことがなかったのに、いつか使うかも知れないと捨てられないでいます。勉強がしたいという願いは「感傷的な意味」なのかもしれませんが、別に将来勉強が出来る余裕が出来たときに、改めて本を買ったってかまわないのに、今手元にある物にこだわってしまうのです。

CDの空きケース、腐ってきたハンドクリーム、使わなくなったAirH"端末、B5版の裏紙、10年前の領収書の束、何年も袖を通していない服・・・。
映画の中の高倉健なら、絶対こういう物にまとわりつかれずに生きているような気がします。いや高倉健の映画はあまり見たことがないで想像ですが。まあともかく、僕はそういう物に囲まれながら、部屋が狭いと文句を言いながら生きています。

要らない物をそぎ落す作業を続けていったら、最後何にも残らなかったらヤダなとは思いますが。

いろいろ返事の書いていないメールとか、手の着いていない作業もありますが、とりあえず今夜は寝ます。


2007年06月14日(木) 確かな何か

『信じるようになった』という本をときどき読みます。ちょっとずつですけど。
AAメンバーがそれぞれの Higher Power を信じるに至った経験が分かち合われている本です。最初はこれを読んだときには、結構ムカムカしたものです。当時僕は、「自分のハイヤー・パワーを探したい」と言っていたにも関わらず、やっぱり感じたのは反発でした。

AAが始まって2〜3年後に書かれた『アルコホーリクス・アノニマス』という本があって、その名前(AA)がこの共同体の名前になったわけです。アノニマスというのは「名も無い」つまり有名でない、アルコホーリクスは以前の言葉では「アルコール中毒者」という意味です。

この本はAAメンバーが100人を超えた頃に、その100人の経験を集めて書かれたものとされています。そしてその本の中にはひんぱんに「神」という言葉が出てきます。英語では God です(先頭大文字ね)。Lord というキリスト教で言うところの「我が主」という言葉は一度も出てきません。そのかわり Creator 「創造主」という言葉もずいぶん出てきます。

この本がAAの基本テキストなんですが、これを読んでいると「最初の100人というのは、ずいぶんと宗教的な人たちだったんだろうな」という感じがします。

しかし当時のことを書いた文章によれば、その100人は大部分が「無神論者」、つまり神様なんかいるわけがないという信念を持った人たちでした。宗教なんかくそ食らえという人たちでした。ですが、その人たちも、また『信じるようになった』に文章を書いた人たちも、また現在のAAの人たちも、決して「宗教的に改心させられた」わけではありません。

自分が好きなものを選び取って信じるようになった、というか、もともと持っていたのに捨て去ってしまったものを、再び手にしたという感じなのかもしれません。子供の頃を思い出してみれば、大人の思惑なんかに左右されない、確かな何かがあって欲しいと感じていたのではないでしょうか。


2007年06月12日(火) ちかれたびー

妻が風邪を引くといつも長引きます。
最近作ったもの。ナスの肉炒め、キャベツの味噌炒め、鮭の切り身焼き、炒飯2回。深夜に料理しておいておいて、朝晩それで食事にしてもらってます。子供は給食もありますから。なんとなく中華ものが多いのは、最近中華鍋を買ったからです。みーんな「○○の素」みたいなのを使って料理ですけどね。
みそ汁の具は、ナス、オクラ、エリンギなど。具を切って鍋に入れておくと、朝起きた長女が味噌とダシを入れてみそ汁に仕立ててくれます。ときどき寝坊したらしく、晩までそのままだったりしましたけど。
ご飯は炊飯器が炊いてくれます。最近の炊飯器はきっともっとおいしく炊けるのでしょうが、古いくせになかなか壊れてくれません。

10時過ぎに帰ってきて風呂に入り、残り湯で洗濯をして、その間に一日干しておいた洗濯物を取り込んでアイロンがけ。お風呂の掃除。

ようやく今夜オムレツの作り置きをしたのを最後に、バトンを返せそうです。
はっきり言って疲れが溜まってます。ワーキングマザーの人はさぞかし大変でしょう。

その間も、仕事でトラブルは起きるし、酒を飲み出すヤツはいるし、めがねは壊れるし。本当にツキがないときは、トラブルがダマになって襲ってきます。

AAの仲間がよく言っているのですが、こういう時に恨みがましい気持ちでいると、まるで磁石が砂鉄を引きつけるように、さらなる不幸が次々と吸い寄せられてくるんだそうです。だから悪い時期もやがて過ぎ去ると信じて、淡々とやるしかないんだそうです。

さすがに今夜は体力も頭の方も限界付近で、AAミーティングが終わった後に、駐車場から車を出したら、横断歩道を渡っている仲間をひきそうになってしまいました。ごめんなさい、言い訳ですね。
帰ったら妻が子供を風呂に入れていたので、心底ほっとしましたよ。

次女が洗い物をしてくれたりして、悪いことばかりじゃなかったです。
まあ、僕自身はいつもどおり外食ばっかりの生活だったんですけど。


2007年06月11日(月) 住所印

生まれて初めてかかった精神科医は東京のビルの中でした。紹介状を書いてもらって田舎の精神病院にかかりました。

そこの院長先生は「私に任せておけば大丈夫」と言ってくれたので、母は大変感激したのですが、その後2年間僕の方はちっともよくなりませんでした。
じゃ、その先生がヤブかというとそうでもないらしく、定年後我が家のちょっと近くで開業した先生のクリニックは、そこそこ流行っていると聞きます。

いままで都合5人の精神科医に診てもらいましたが、僕を良い方向に導いたのは「私にはキミの病気は治せない」と言ってくれた先生(たち)でした。

いまだに通っているクリニックの先生は「私に出来ることは、話を聞くことと、処方箋や診断書を書くことぐらい」と言います。

たまに医療関係者に言われることですが、病気から良くなった人は、医療の場には顔を出さない。病気がぶり返した人だけが戻ってくる。うまくいかなかった例ばかり見せられていると、徒労感で一杯になることがあるんだそうです。
だから、最近は医者の世話になっていない人も、たまには昔世話になった病院に葉書の一枚ぐらい書いて「飲まずに元気にやっている」と一言知らせるのも、立派な埋め合わせになるんじゃないか、なんて話をAAメンバーとしたことがありました。

話変わって、ずっと昔からあこがれていた「住所印」てのを作りました。
住所印を作るには、まず住所が定まっていないとならず、電話番号とかも変えない予定でなければなりません。その条件が整ったとしても、うかつにはんこ屋に入ると、高額な住所印を売りつけられるという先取りの不安がありました。たとえ「幸運を呼ぶ」印鑑だったとしても、住所印にはそんなに出せません。

先日ネットで住所印1280円というのを見かけました。明瞭会計であります。住所などを知らせ、書体を指定すると、無料でサンプル印字を作ってくれたので、あとは銀行に振り込みをしたら、翌日には定形外で届きました。ペタペタとついて遊んでいたところです。

最後に世話になった病院の先生は、すでに院長に昇進され、昨年AAのイベントでお目にかかったときには、僕の顔も名前も忘れていらっしゃいました。でも、病棟のスタッフやケースワーカー室の中には、僕を覚えていてくれる人もいるでしょうから、たまには葉書の一枚ぐらい書いて、ぺたりと住所印を押してみようかと思います。


2007年06月10日(日) なぜミーティングに行くのか

やっぱり高速バスは特急電車より疲れます。
ひろひろに疲れて帰ってくると、メンバーの家族から電話。さらに家では、妻の風邪が三日目でも快方に向かわず、明日の朝食まで準備する羽目に。

さて、何のためにAAミーティングに通い続けるのか。
人それぞれでしょうね。
寂しいからっていう理由もありでしょう。「お前はただ寂しいから来ているんだから、帰れ」とか「お前は恋愛相手を探しに来ているだけだから、帰れ」とか言われない仕組みになっていますから。

酒を飲み過ぎている時を振り返って、あの時自分は正気でなかったと考えることは出来ます。まあ、僕は最初に連続飲酒を体験したときは、なんかすごいことをやってのけたような気がして、「俺、こんなに酒飲んじゃったよ」と知り合いに自慢して回りましたけど。そういう馬鹿な話はともかく。

でも、酒を止めて飲んでいない今の自分は正気だと思っちゃいますね。しらふでも狂っているという話になるとムキになる人もいるので、とりあえずシラフ=正気ってことにしときましょう。
じゃあ、その正気の人間が、なんでまた酒を飲み始めるんでしょうか。酒が好きだからとか、勧められて断れなくてとか、いろいろ言い訳が出てくるでしょうが、飲んだあげくに起きた結果からすると、その言い訳は虚しいですね。

なんか心の空白が訪れるんです。これぐらい飲んだって大丈夫だろうとか、これだけ長く止めたんだから正常な飲み方が出来るとか、そういう考えに支配されて、前回の飲酒で痛い目にあった記憶が押しのけられちゃうんでしょう。
それは狂気と呼ぶしかありません。
しかし、人は(そう僕も)ここでまたもや言い訳をします。あの時は魔が差したとか、酒の怖さが身に染みていなかったとかぶつぶつ言って、意志を強く持ったり、道徳心を高めたりしなくちゃならん・・・と自分に言い聞かせながら、いずれまた飲みます。

意志の力や、良い道徳心で回復できるんだったら、僕もあなたとっくの昔に回復してませんか? 人並みの意志力や、道徳心はあるでしょう。

僕も同じなんです。ほっとけば狂気に支配されて「魔が差して」しまうんです。AAミーティングに通ってるのは、その狂気を遠ざけておくためです。少なくとも僕はそういう理由です。
健康な心にしてもらうためです。


2007年06月08日(金) スポンサーシップ

一見さんお断りという店が本当にあるのかどうか知りません。京都あたりにはあるんでしょうか。
もしそんな店があれば、最初は誰かに連れて行ってもらわなければ、店に入れないわけです。この時、連れて行ってくれる人を sponser と言います。ロータリークラブの会員になるには、会員の推薦をもらわないといけないのに似てます。しかし、AAのスポンサーは、そういう結社的な仕組みとは違います。

AAが始まったばかりの頃のアメリカでは、精神病院の入院には必ず保証人が必要でした。なので、AAメンバーは新しく来た人が入院するために、その保証人(sponser)となりました。スポンサーは病院に見舞いに行き、退院したらミーティングに連れて行き、他のメンバーに紹介したり、助言したりしました。入院費を立て替えたりしたこともあったのでしょう。

時代が下るとAAスポンサーは「霊的なプログラムの助言者」という役割に純化されてきました。スポンサーシップを受ける側の人を、スポンシーと言います。

ある人が「AAには〜ねばならない〜は無いが、スポンサーの言うことは絶対だ」と言っていました。絶対なんて言う言葉を簡単に使って良いかどうかは知りませんが、まあスポンサーの言うことは絶対ですね。スポンシーというのは「やれと言ったことはやらないが、やるなと言ったことは必ずやる」ものなので、絶対と言うぐらいでちょうど良いと思います。

じゃあ、スポンサーが間違った助言や提案をしたらどうするの? という疑問を持たれるかも知れません。間違ったらしょうがないですね。確かに、スポンサーの言うことは正しいに越したことはありません。が、「正しいに越したことはない」というレベルです。だからその疑問の真意は、正しいかも分からない、そんな不確かな言葉に従うことに、いったい何の意味があるのかということですね。

今まで自分の考えで生きてきて、あげく精神病院に入って(入らなくても)AAにやってきてしまったわけです。今後も同じ方針で、つまり自分の考えで生きていけば、同じ結果が待っているだけです。だから、Higher Powerとか神さまとかに考えてもらって、それに従って生きて行きなさいよ、ということであります。

ところが、神さまは望んだ答えはくれないものです。というか、神さまが狂ったアル中の望む答えをくれるようなら、かえって怖いです。アル中さんは常に自分の考えがお気に入りで、やがて酒に戻っていきます。

一生懸命「自分の理解した神」に従おうとしている人でさえ、神の意志を知ることは容易ではありません。反抗的なアル中さんであればなおのことです。反抗して飲んで死ぬのも本人の勝手かもしれませんが、それでは周りが困ります。
AAスポンサーってのは神さまほど上等じゃないかも知れませんが、ともかくその考えに従うのです。助言が気に入ろうが気に入るまいが、意味が分かろうが分かるまいが、そんなことは二の次、三の次で、ともかく「自分の考えよりも、もっと正気な考えがある」という真実が身に染みるまでは、理不尽だろうが仕方ないことです。自力じゃなかなかステップ2・3と進めないのです。

とは言うものの、スポンシーは反抗的で言うこと聞かないもので、それがまた昔の自分を(=今の自分を)映す鏡になるので、ついついイジメたくなっちゃう時もあるでしょうね。かといって人の良いスポンサーが優秀とは限りません。

どうしても気に入らなければ別のスポンサーに変えればいいだけの話ですが、探すのは「まともな人」ではなくて「自分の理解した神」であることを忘れないでください。


2007年06月07日(木) 月島さんの投稿で思いついて

世の中には3種類の人間がいると思います。
A)「○○がしたくて、実際してる人」
B)「○○がしたいのだが、我慢している・我慢させられている人」
C)「○○はしたくないので、してない人」

○○には例えば「旅行」を入れてみましょう。
誰かが行った旅行の土産話を聞かされたとしても、旅行が好きでない人は「旅を楽しんでこれて良かったね」という感想を持つぐらいでしょう。
旅行がしたいのに事情があって我慢している人は、もしその人が正直なら「うらやましい」と言えるでしょう。しかし、正直でない人は「そんなところへ行ってもくだらない」とこき下ろして、相手の経験の価値を認めません。もし、面と向かってこき下ろすことが出来なければ、どこかで陰口を言ったりします。でも、このタイプも実はまだ正直なほうでしょう。

一番やっかいなのは、自分の心で感じている嫉妬を押し殺してしまうタイプです。こういう人は話が終わって別れた後で、どっぷり疲れている自分を発見したりします。なんとなく相手が気に入らなくなって、会うだけでムカムカしたりします。相手が悪いんじゃなくて、自己欺瞞がいけないんです。

次は○○に、ちょっと不道徳な何かを入れてください。ギャンブルとか、不倫とか。

不倫をしたくないと思っている人は、不倫してる人の行為に、冷ややかな軽蔑を送る程度のものでしょうが、「不倫なんかする奴は人間のクズだ」と言っている人は、したいけど我慢している(させられてる)人なわけです。
PTAなどで、有害図書の駆除活動とか一生懸命でやってる人も、きっと若い頃に抑圧した性衝動とかあったんでしょう。

今度は、○○に「経済的成功」だとか「名声」なんてものを入れてみましょうか。

豊かになりたくない人はいないでしょうが、所詮金持ちにはなれない現実を受け入れている人は、金持ちに「お金があってうらやましい」とは思っても、我が身の貧しさをミジメだと感じたりはしないでしょう。
ところが金がないことを恨みがましく思っている人には、金持ちは気に入らない存在です。この人にとっては、金持ちの欠点は「金を持っていること」なんですが、それを認めてしまえば嫉妬を認めることになるので、一生懸命ほかの欠点を探してこき下ろします。
名声や権力に嫉妬する人は、一生懸命政治家の人格をこき下ろしてみたりします。本当は自分に権力がないのが気に入らないのに。

堀江だとか村上という人の転落を見ていると、抑圧された嫉妬心を持っている人に、こき下ろすネタを与えることが、どんなに罪深いことかと思います。彼らが犯した経済犯罪より重いと思いますね。

自分の中の欲望や嫉妬心を認めることも「自分に正直になる能力」でしょう。その能力を獲得したら、次は気がついた欲望に従って行動し、金持ちになって見るも良し、なれなくて「うらやましい」とわめいてみるのも良いことでしょう。気取ってちゃいけません。馬鹿になれないとダメです。品行方正になれるのは、正直になった後で、逆の順番じゃないです。

ちなみに、アル中さんにとってのアルコールは、3つのどれにも当てはまりません。4つめのタイプです。

D)「○○はしたくないのに、させられている人」

もう飲みたくないのに、病気に飲まされている人のいかに多いことか。


2007年06月06日(水) スイッチ

定時退社日だというのに、ぐずぐずしていて、やっかいな電話につかまると困るので、6時になるとすぐに会社を飛び出しました。

水曜日のAAミーティングは、いつも5〜6人でやっているですが、今日はその倍くらいでした。僕らのグループは、水曜日はビッグ・ブック、土曜日は12&12を輪読します。僕はテキストを読むときは、なるべく下ではなく前を向き、はっきりした声を出すよう心がけています。心がけているだけで、口の中でもごもご言う癖は直っていないのでしょうが、まあ心意気だけでも。
あるAAメンバーと初めてミーティングを一緒したとき、(その人はまだまだ僕の倍以上のソーバーを持ってるんですが)、その人のテキストを読む姿勢に感銘を受けました。一事が万事、そういうことなのかもしれないと思ったのです。

さて帰り道。高速のインターを降り、また光ファイバー工事をしている国道を避け、ラブホテルの前から裏道へ抜けながら、僕は悩みを抱えていました。

夕食はラーメン屋で食べることにしたのですが、その理由は「あっさり系のラーメンなら食べられそうだ」と思ったからです。どうも食欲がありません。いつもだったら、10時間も食べていなければ、ずいぶん空腹感を感じるはずです。食欲が落ちた原因として考えられるのは、過労です。だったら、なおのこと食べなければいけませんが、今一歩その気になれないわけです。

特に気に病むこともないので、精神的な食欲不振ではなさそうです。とは言うものの、ひょっとすると気がついていないだけで、自分は今とっても調子が悪いんじゃないだろうか・・・。そんなことを考えているうちに、ラーメン屋に着きました。昨夜は満車でしたが、今夜は無事車を駐められ、席について390円のラーメンをオーダーすることができました。
携帯電話でネットサーフィンをしているうちに、ラーメンが出され・・・。

右手で割り箸をパチンと割った瞬間に、頭の方もパチンと思い出しました。

「そういや、ミーティングが始まる前にすき家で牛丼食べたんだっけ」

そりゃ食欲がないわけです。でも、僕の脳は、もっと食べなくちゃとささやいていたのです。

どうも、あれ でスイッチが入ってしまったようです。たまには目一杯食べても良いだろうと思ったんですが、やっぱ食べ過ぎるとスイッチが入ります。


2007年06月05日(火) ふるい

多くのAAグループでは、ソブラエティ(飲まないで生きる日々)が始まった日に、24時間と書かれた緑色のメダルをプレゼントしていると思います。その後1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、9ヶ月と続き、1年からは1年おきです。
6ヶ月まではプラスチックのトークンですが、9ヶ月からはブロンズのメダルになります。実は24時間でも、1ヶ月でも、ちゃんとブロンズのメダルがあるのですが、なにぶん6ヶ月までは消費量も多いわけで、プラスチックとブロンズのコスト差も馬鹿にならないのであります。

メダルの時期(つまり節目の時期)は、苦しい時期だと言われています。試練にさらされることの多い時期なのでしょうか。僕のスポンサーは「節目の時期は、神さまがソブラエティを試しに来るんだよ」と言っていました。

たぶん神さまは、とっても目の粗い「ふるい」でアル中を助けてくれるんだと思います。最初のうちは、幸運にもその粗い目に引っかかったアル中さんが、結構たくさん飲まない生活を続けているんですが、ときどき神さまが「ふるい」をガサゴソ揺するもんだから、目の合間からアル中さんがバラバラと下へ落ちていってしまう・・・。そんなイメージを僕は持っています。

ふるい落とされたくなかったら、その「ふるい」の目に、一生懸命しがみついていることが必要なんでしょう。その目が、たまたま僕にはAAであり、AAのプログラムであったというわけです。

あなたが掴まっているものがAAであっても、そうでなくても、ともかく「次の何かを掴むまでは、いま掴んでいるものから手を離すな」という格言(マーフィーの法則)に従うのが賢明だと思います。

面白そうなものが漂っていても、自分を支えているものを忘れて興味の対象を追いかければ、とたんに下に落ちてしまうように、できているんだと思います。


2007年06月04日(月) 時計回り

時計回りとは右回りのことです。
時々、どっちが右回りで、どっちが左回りか分からなくなりますが、中心を右に見て回るのが右回りです。道路の右カーブ、左カーブと同じです。

時計はなぜ右回りなのか。
それは日時計が北半球で発明された(あるいは北半球の文明が残った)からです。地面に棒を立てた日時計の場合、中心からのびた影は、朝は西、昼は北、夕は東と、上空から見ると右回りに回ります。これから、機械仕掛けの時計を作る時も、同じように針が右回りになるようにしたのだそうです。
もし、文明が南半球を中心に発展していたら、アナログ時計は左回りだったのでしょう。

ちなみに、壁に垂直に、南へ水平に棒をのばした日時計もあり、遠くから眺めるために使われますが、この場合は投影される影は壁の上を左回りに移動します。

一日24時間の地球の回転は大変正確です。だから本来日時計も正確なもののはずです。でも、地球の地軸が公転面から23.5度傾いていたり、地球が楕円軌道を動いていたりするせいで、太陽が真南に来る間隔は、長くなったり短くなったりします。日時計が年中同じ目盛りを使っていると、最大±15分ぐらいのずれは起こります。
もっとも、日時計しかなかった時代の人が、そんなことを気にしていたかどうかは知りません。分単位で計れる時計を持っている人は、日時計を見ないだろうし。

僕は仕事の都合上、ディジタル式の腕時計をしています。同業者に鼻で笑われるのを防ぐためです。ストップウォッチ忘れたんで貸してくださいと言うのは恥ずかしいですから。腰にいつもストップウォッチをぶらさげていればアナログ式でもいいのかも知れません。

最近はディジタル式のかっこいい腕時計は少なくなりました。以前はナイキのランニングウォッチを使っていたのですが、自分で電池交換をしていたら3回目に失敗して破壊してしまいました。パソコンを使うときには、腕時計の存在はうっとおしいので外しています。するとすぐに忘れてくるわけで、高いものはなかなか買えません。
今は、忘れてもさほど痛くない4,500円の電波時計を使っています。ところが安いとなかなか亡くさないんですね。

Nike Triax Speed などを見ると、思わず物欲が沸々とわきますが、今のところ折り合いがついています。あれは、初対面の人に、走るのが趣味なんですかと聞かれるのが欠点ですね。


2007年06月03日(日) 予備の原稿

「回復したAAメンバーってのは俗っぽい人たちだね」と、ある医療関係者が言っていました。

12のステップなんていう、神だとか祈りだとか黙想とか自己点検とか、そういうことを何年もやっている人たちって、たぶんすごい品行方正な人たちで、悩みもなくて、浮世離れしていて、僕なんかにはちょっとうち解けづらい人たちだろうと思っていました。だったら、ステップを使った回復なんて、あんまり魅力を感じないな、と思っていました。

ところが、目の前にいるAAメンバーは、世間を生きているただの人たちでした。たばこも吸うし、麻雀もする。話すことと言えば、人間関係の悩み、身体の痛み、金の無さぐらいのもの。そうじゃなければ自慢話。これじゃ会社の喫煙室の話題と変わりがありません。でも、そう言う人たちもステップをやっているらしい。
だったら、ステップなんてやったって、あんまり変わんねーんじゃねーの? とも思っていました。今の自分と同じじゃないかと。苦労してミーティングに通って、ステップなんぞやる意味がどこにあるのか、ちっともわかりませんでした。

回復すれば、すごくエネルギッシュになったり、動揺しなくなったりするんだと思ってました。

その品行方正でもない、欲にまみれて悩みまくりの要するに「俗っぽい人たち」の中に、「生きていくのはしんどいけれど、人生なんてこんなもんだし、こんな人生でも結構捨てたもんじゃないんだよね、えへへ」と言う人たちがいて、つまるところ「生きてて良かったー」というメッセージを送ってくる人がいるんです。
それがステップの回復なのかなと思いました。

僕は清く・正しく・美しくは生きられませんし、それを回復の目標には設定できないですが、「人様から見たらバカらしい人生でも、自分にとっちゃいい人生そのもの」というのを目指していきたいですね。

先ゆく仲間が怒っちゃったりして、人間味溢れるところを見せているのを、ついつい「回復してねーなー」なんて勝手に評価してたりしたんですが、そういうところで判断するのとは違うんだって、まそんな話です。

飽きっぽくって不平の多い、俗っぽい回復者ってのになろうぜ。


2007年06月02日(土) Keep It Simple Stupid

AAのバースディが来るたびに、その後一年間の自分のスローガンを考えて決めています。昨年5月に決めたのは「今日一日の感謝」でした。これは六十何歳かのAAメンバーの自己テーマ「今日一日の謙虚」のパクリです。

今日一日酒を飲まなかったことに感謝できないアル中には、どんな素晴らしいことが起きたって、本当の感謝なんかできっこない。

というスピーチに感銘を受けたのも影響しています。
今日一日酒を飲まなかったことを、寝る前に感謝するという習慣が、僕の精神状態(たとえばうつとか)を良い方に導いてきたのは、間違いありません。感謝とうつの間にどんな因果関係があるのか、それは僕には分かりませんが、誰かが言っていたように「自分に身に起こった奇跡は否定しようがない」わけです。

新しいスローガンは、AAのものをそのまま使って、Keep It Simple Stupid (KISS) にしました。何事にも愚直かつ単純に取り組んでいく。複雑にしすぎない。うがちすぎを避ける。

目の前にある一日を、そのまま受け取って過ごしていきたいものです。


2007年06月01日(金) 無力

いきなり明日葬式になって、ホームグループのミーティングに行けません。あいや、葬式はいつもいきなりか。だから今日のうちにスポンシーを誘ってミーティングに行ってきました。
年配の男性(おじさん・おじいさん)ばかりの会場で、ビッグ・ブックの第二章を輪読しました。日頃は据わりが悪いと感じているBBの文章も、年配の男性が大きな声で読むと、すごく馴染んでいることを発見しました。なるほどそういうことか、これを訳した人(の世代)にとっては、自然な言葉遣いだったのかと得心しました。
ひとつ前の訳はP神父の手によるものですが、神父と同じように戦前の教育を受けた人が「我々の世代にとっては、あれが親しみやすいんだ」と言っていたのを思い出します。
日本語は変わり続けていくし、BBは実用書であって文学作品ではないということを、あらためて思いました。

さて、

相手の望むことをしてあげるのが、相手のためにならないことがあります。
相手のために良かれと思ってすることも、実は相手のためになっていないこともしばしばあります。「良かれ」はしょせん自分の価値判断にすぎません。

世の中には、善意を動機として行動し、ダメな結果を出してしまう人で溢れています。自分にとって、相手にとって、何がよいことで、何が悪いことなのか、判断には必ず間違いが紛れ込みますから、それは仕方ないことです。

であるのに「自分のことはすべて自分で決める権利がある」という考えに固執する人がいます。僕もその傾向おおありです。人が荒野に一人で生きているなら、それも真理かも知れません。でも、人間関係のあるところでは単に迷惑な人になるだけです。

自分に関してさえ、何が良くて、何が悪いのか、知ることが出来ないこと。たとえ前進する力を持っていたとしても、また良くなりたいと善意があったとしても、どちらに進んでいいのか分からなければ、前進力を自分に役立てることが出来ません。

僕はアルコール依存症から良くなりたいと思っていましたが、どうやれば良くなって飲まないでいられて、どうやれば悪くなって飲んでしまうのか、「自分で判断して自分で決めればよい」と思っていたうちは、しらふで生きることができませんでした。
自分の判断を信用している限り、僕はアルコールに対して「無力」でした。

自分の判断を信用している限り、僕はアルコール以外のいろんなことにも「無力」であり続けます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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