TENSEI塵語

2007年03月31日(土) 「美しい日本」の意味

きょうも午前中出勤して図書館で仕事をした。
出てきていたのは7、8人といったところだったが、
普段は土曜日に見ることはめったにない人も3、4人来ていたらしいのが、
年度始めらしい珍しい光景といったところか。。。
正午には帰る予定だったが、なかなか終わらず、
30分以上過ぎても終わらないので、中断して帰った。
合間に、市吹で遊べそうな楽譜を部室で探して、ついでに持ち帰った。

食欲があまりないので、途中で食べに入ることも買って帰ることもせず、
帰宅してからあり合わせのカップそばを食べ、その時にやっと新聞を見た。

朝刊の1面トップは「高校教科書 集団自決「軍強制」を修正」である。
沖縄戦での集団自決について、「日本軍に強いられた」という趣旨のものを
「集団自決に追い込まれた」という風に書き換えさせて合格にしたそうだ。
「強制」の「証拠」が確かでないから、という点では、
晋ちゃんの「慰安婦」に関する発言と同じ流れにあるようだ。
悪行には関与していない正義の軍隊像に仕立て上げたいばかりなのか。。。

集団自決に追い込んだのが、味方の日本軍なのか敵の米軍なのか曖昧な
こういう叙述に書き直させたにしても、軍の命令によって
「捕虜になる恐れがあったら自決しろ」と手投げ弾を配らせられた人がいる
という事実はそのまま書いてもいいだろう。
明記すべきことはたくさんある。
日本が行った戦争は、国土を攻撃されてやむなく防衛した戦争ではなく、
他国に入り込み、他国を占領したり脅かしたりする戦争であった。
虐殺や略奪を行い、他国の領土に君臨することが、
勝っている間は英雄的行為として、多くの国民からも賞揚された。
そのしっぺ返しに、空襲や原爆の洗礼を受けて敗戦し、日本は反省した。
特攻という自爆攻撃や、集団自決も、悲劇として認識されるようになった。

戦争についての記述は、戦争という国家的行為が、
いかに反道徳的で、異常で、愚かな行為であるかを伝えることだ。
罪もない人々を殺戮して、なぜそれが正義となるのか?
そんなことは絶対にありえないことを伝えることだ。
未来ある有能な若者を次々に死に赴かせて、お国のための正義とする、
そんなことが正しい国家のあり方であるはずがないことを伝えることだ。
我々が歴史教育に期待するのは、戦争の異常さをしっかりと教え、
どうしたら世界から戦争がなくすことができるかを、
いかにして世界の歴史から学ばせるか、ということだ。

昨日の朝刊の1面トップは、教育再生会議の「道徳 教科に格上げ案」。
肝腎なことはぜんぜん話題にしないで、相変わらず机上の空論である。
しかも、その趣旨は
「我が国が培ってきた倫理観や規範意識を子どもたちが確実に身につける」
というところにあるようだ。
・・んで、それはなあに? と彼らに問いたくなってしまう。
彼らの道徳といえば、金、金、金。。。
名誉、名誉、名誉、、つまり、いわゆる、勝ち組。。。
名誉と金のためには規範も何もないんじゃないの? と言いたくなる。

道徳の根幹は、平和、愛、思いやり、命、自由、自律、相互理解。。。
社会や集団での規律というのもそこから自然と導かれるものだ。
そして、それはおそらく、普遍的な価値であるように思う。
平和や自由や思いやりといったことを本当の意味で極めてこそ、
美しい国、美しい社会が形成されると思うのだが、
どうも晋ちゃんを始めとする指導者層の考えることは違うようだ。

「我が国が培ってきた倫理観」っていったい何なんだろう?
どうして「規範意識」なんてものが真っ先に出てくるのだろう?
それを成績評価するって?
何でもはいはいと従順な子は5。
何でも自分の考えで疑問を呈したり異議を唱える子は2。
何に対しても無反応な子は1となるわけね?
戦時中とどれだけ違うの???



2007年03月30日(金) 「今朝の三枚おろし」

きょうは休暇出勤した。
1日休暇をとっておいて、好きな時間に出勤して好きな時間に帰る。
妻が3、4日前にやり始めた方法で、目から鱗の名案である。
こんなことになぜ気づかなかったのか不思議である。
年度末なのに、休暇が何日も余ってしまっている。
仕事は毎日何らかしなきゃいけないのだが、もう年度の最後なんだから
そうやって使い果たせばいいのだ。
来年はしっかりそれを心掛けよう。

久々にゆっくり出勤したら、車のラジオで、
めったに聞けない武田鉄也の「今朝の三枚おろし」が聞けた。
何らかのテーマをまな板にのせて、おろして行くトーク番組である。
今朝は、内・・何とかという著者の本を引用しながら、
堀江社長を賞讃した風潮について、さんざん批判していた。

それから仕事を3つほど片づけて帰宅し、
夕方から学年の飲み会に出かけて、飲み過ぎよりは食い過ぎて帰ったので
もうその話はかなりおぼろげなものになってしまったが、メモしておこう。

金さえあれば手に入らぬものはないと、○○を欲しがり、、、(忘れた)
TV局を欲しがり、野球チームを欲しがり、宇宙旅行を欲しがり、
こういう欲望はよくよく見れば、小学生が夢見る欲望と同じだ、、、
それでいて、彼は結局、どれも手に入れられなかった。
若者の中には彼を崇拝するものが続出し、
閣僚にさえ彼を賞讃し息子とまで呼んで持ち上げた者までいて、
あたかも時代の寵児のようなもてはやされぶりだったけれど、
そこにあるのは「無時間性」への憧れのようなものだ。
昔もてはやされたような、時間をかけて地道に1代かけて成功するような
苦労話ではなく、そう苦労しなくても手練手管であっというまに億万長者
という、時間を要しない勝ち組、が魅力だったのだ。

武田鉄也の話は、さらに教育について進んでいく。

すぐに効果が現れる、ということを中心に教育論議が進められている。
しかし、教育というものは、本当はそういうものではない。
(長い間に知らず知らずのうちに、その効果が熟成していくものだ
 というようなことを言ったような気がする)
小学校1年生の子どもを前に、この子が6年生になった時、、、なんて
見方ができるのは、現場で直に子どもに接している先生たちだけだ。
そういう人たちを抜きにして、教育論議がどんどん進められている。。。

さすが、だてに長年金八先生を演じてきたわけではないようだ。
教育再生会議など、名称だけはすごく立派だけど、
傍観者の思いつき意見を練っているだけである。
そうだ、、、鉄矢はこうも言っていた。

教育論なんてのは誰にでもできる。
その辺のおばさんが、もっと伸び伸び育てたい、と言ったとしたら、
それはそれで、ひとつの教育論になる。。。

ここからはまた私の持論だが、個々の生徒を見ると、同じではないのだ。
伸び伸びさせたい子もいれば、しつけなければならない子もいるのである。
伸び伸びさせた方がよい集団もあれば、
伸び伸びさせたら収拾がつかなくて学習不能な集団もある。
教育論はさまざまで、どれも一理あるけれど、現場もまたさまざまなのだ。
集団としてよかれと思ってしたことが、個人にとって害の場合もある。
そういう英外的なケアにあくせくしなければならないこともある。



2007年03月29日(木) 1日会議

一昨日は校務委員会のみで朝9時から夕方4時まで会議だったが、
きょうは、職員会議、分掌会議、学年会、職員室座席移動、教科会で
朝8時半から夕方4時までの会議(と作業)の日となった。
きょうだけの人はそうでもないけれど、一昨日の会議もあり、
連日デスクワークで出勤していた身には、くたくたである。
今夜も夕食後、耐えて市吹の練習曲の選曲のための鑑賞ををしていたが、
10時ごろちょっと横になったら瞬時に沈没して、3時間熟睡した。

しかし、こうして年度始めの会議をしていても、今年は気楽である。
授業は2年生だけで他学年に行かなくてもいいし、副担任すらないし。。。
古典は去年1年やったし、現代文の教材は3年前作ってあるし。。。
3年前2年生の担任をやった時は、4〜5月は忙しかったものの、
その後は、担任としての雑務に追われ、教材作りに追われながらも、
教員になって以来、時間的にも精神的にも最もゆとりある1年を過ごした。
校務主任という役さえなければ、2年前よりもうんと楽な環境である。
何かまた新しい試みが授業でできるかもしれない。



2007年03月28日(水) 教員2人分の非常勤講師時間

昨日もきょうも呑気に休暇を取っている教員が多い中で、
なぜか我々は朝から夕方まで仕事三昧である。
私の場合は明日の図書部会の準備、
そのために2人の学年主任とひとりの国語科教員と読書について話したり。。
去年の修学旅行関係のファイルのチェックと、予定表作り。
それから、明日の教科会のために、授業分担の原案作り。。。

教科主任ではないが、きょう出てきている国語科は3人だけで、
前の国語科主任も、これからの国語科主任も出てきていない。
私は、なぜこんなに呑気でいられるのかなー、、、と不思議でならない。
新年度は、国語科に新任が入る。
新任が入ると、新任の持ち時間が少ないだけでなく、
新任の指導教員に指名された教員の持ち時間も減る。
そうかといって、ケチケチ財政は教員数を増やすことはしない。
非常勤教師を増やすだけである。
しかも、学校長のわがままで、7限授業の日が増えて、
国語科の授業が増えてしまったので、ますます非常勤の時間が増えた。
そんなわけで、授業の配分がかなり難しくなるはずだ。

教科会でお互いに顔色伺いながら行きあたりばったりに決めていたら、
誰かが実に中途半端な授業をいくつも引き受けて苦労せざるを得なくなる。
若いころ、これをさんざん味わわされたので、
前任校のある時期から、率先して原案を作ることにした。
できるだけ合理的で、それぞれの負担が少ないように、2〜4の案を作り、
その中で、みんなに納得してもらえた案で割り振るという方法である。
今の学校に赴任してみたら、やはりそういうことはやってなかった。
多くの教科がこの原案方式をとっているのに、
国語科の教員気質というのは、あまり合理性や能率を重んじないようだ。

今回は絶対にやっておくべきだと思ったので、
新旧の国語科主任が出校してなかったけれど、原案作りをした。
それで、非常勤講師時間を教務主任に確かめたら、合計36時間だという。
正教員2人雇っても足りないほどの時間数である。
めちゃめちゃである。
教頭があちこち電話して依頼した講師は3人で、その持ち時間は、
8時間、12時間、16時間という割り当てらしい。
それを聞いた瞬間、また目眩が、、、何という教頭の不見識だろう。
教育課程表を見れば、こんな依頼をするはずがない。
ほとんどが3単位の授業で、2単位の授業はわずかしかない。
9時間、12時間、15時間という割り当てで依頼してもらわないと困る。

教頭の不見識のせいでかなり苦労したが、何とかひとつ案ができた。
16時間の非常勤講師が3教材になってしまうが、他は1〜2教材に収まる。
2〜3種類作る予定だったが、これ以上は、もう大差がない。
この基本パターン以外はほとんど不可能に近い。
非常勤講師の要望次第で、セットの1部を入れ替えるしかない。
それができるパターンもわずかしかない。

それにしても、ケチケチ教育財政にはあきれたものだ。
この36時間の2人、いや1人でも常勤講師にしてもらえれば、
時間割変更も融通が利くだろうし、校務の多忙もどこかで軽減される。
1教科で36時間も非常勤なんて、異常としか言いようがない。
それとともに、昨日もきょうも呑気に休暇を取ることのできた
新旧の国語科主任にもまったくあきれたものだ。



2007年03月27日(火) 1日会議

午前中で終わると思っていた会議が、何と夕方4時に終わった。
疲れた〜。。。

午前中は、新年度の校内人事の会議である。
教頭がかなり考えた末の原案を出すので、最終的にわずかな修正しかないが
その結論に至るまでには、さまざまな意見や修正の試みが為される。
配属する学年、分掌と、担任か副担任かと、教科の関係を
本人の希望も見ながらすべて考慮するので、
こちらを立てればあちらが立たない、ということが多いのだ。

午前中だけで、もう頭がぼ〜〜ぅっとしてしまったが、
昼食をはさんで、午後から新年最初に各分掌から出す文書の検討。
分掌会議で検討されないまま出てくるので、これもやたらと時間がかかる。
これがまた、休憩なしの3時間である。

去年はどうだったか読み返してみたら、昼の1時に終わっている。
きょうは午後から新年度のための仕事をしようと思っていたのだが、
まったくの誤算で、ほとんど仕事できないまま帰ってきた。
ああいう人員配置しかできなかったことに、一抹の不安を覚えつつ。。。



2007年03月26日(月) つまらん1日

合格者登校日で絶対出校すべき日だったが、
ただただ落ち着かない、とりとめのない、はっきりしない1日だった。
夜もとりとめなく市吹用の曲探しをした。
とにかく、何ができたというわけでもない、はっきりしない1日だった。
こういう1日の終わりは気分が悪い。

そういえば、昨日は昼寝をし過ぎたせいか、
夜も、酒を飲んでも夜中になるにつれて目が冴えるばかりで、
2時ごろむりやり寝てもなかなか眠れず(いつもはだいたいころっと眠る)、
1時間ほどは眠れずにいて、眠っても長々ととりとめのない夢を見て、
すっきり目が覚めたのが5時半だった。
それからまた寝直して、目覚ましが鳴るまでうとうとした。
こんなことはめったにないことだ。

未明の睡眠時からきょう1日の運命が定められていたと見える。。。
ま、こんな日もあるさ。



2007年03月25日(日) 白鵬 2度目の優勝

昨日、白鵬優勝について書く予定だったが、延期させられてしまった。
市吹に行く途中、車のラジオで聞いていたら、朝青龍戦に負けてしまい、
13勝2敗で並んでしまったからだ。
しかし、きょうは白鵬優勝について書ける、と信じてはいた。

千秋楽は4時半ごろからのんびり見るつもりでいたが、
うっかり昼寝したら、起きたのが6時。。。
ヤフーの大相撲のサイトで勝敗表を見たら、どちらも13勝のまま
優勝決定戦で白鵬が勝って優勝を決めた、とある。
昨日予想していた(というより願っていた)筋書きのとおりである。
しかし、その決まり手の「はたき込み」というのが気になった。
できればやってほしくない手である。
当たり合って接戦の中での技ならいいけれど。。。

夜のNHKのスポーツニュースを見た。
白鵬vs琴欧州戦は、まわし取りを警戒し合った押しや突きの攻防の末、
白鵬のすくい投げで決まった。これはよし。
続く、朝青龍vs千代大海戦は、何と何と、実に意外な、
朝青龍が立ち会いに変化して、はたき込み。。。
誰もがこれには驚いたことだろう。
朝青龍は、何があってもこれだけはしないと思っていた。
しかも、相手は千代大海である、たいてい勝てるのだ。
絶対に優勝決定戦に持ち込みたい一心か、いや、それだけでなく、
決定戦のために体力を温存しておきたい作戦ではないかと思う。

そして、決定戦もあっさり済んでしまった。
白鵬が立ち会いで変化、はたいた。
朝青龍はさすがにばったりとは倒れなかったが、片手をついてしまった。
朝青龍としては、千代大海戦のバチがあたった感じだ。

朝青龍に対して立ち会いの変化はかなり危険である。
それが通用するような動きの鈍い横綱ではないのだ。
他の力士が試みたのをいくつか見たことがあるが、失敗している。
白鵬が駆け出しだったころ、朝青龍は先輩でもあり師でもあったようだが、
そのころの一戦で、白鵬の変化とはたき込みが通用せず、
すぐに体勢を整えた朝青龍が白鵬を負かしたことがある。
その時、朝青龍はその場に立ったまま、ちゃんと当たって来いよ、と
白鵬を叱り飛ばしていた。
それ以来、白鵬がこういうはたき込みをするのを見たことがない。

白鵬にとっても、これで決まるとは思ってなくて、
体勢を崩させて攻め込む予定だったのだろうと思うが、決まってしまった。
それで、見る者にとっては、拍子抜けの一戦になってしまった。
私も、待望の白鵬の優勝の喜びが半減してしまった。
しかし、当人たちにとっては優勝するとしないとでは雲泥の差があるので、
とにかく今回はもっとも優勝に近い、危険な賭けに出たのだろう。

しかし、こうして、優勝争いのプレッシャーに慣れてもらうのもよい。
白鵬に今一番必要なのは、場慣れ、という要素である。
このところ、すっと、場所の初戦を落としている。
それからちゃんと白星をしっかり並べていくのか実力あるところだが、
優勝のかかる一番になると、また緊張から固くなってしまう。
実力やセンスはあるのだから、あとは精神面であろう。
横綱になるのは、そこを鍛えてからでよい。
実力のせいで、十分に土俵慣れしないうちに大関に昇進してしまったのだ。



2007年03月24日(土) 「憲法9条 伝える旅」

夕刊にこんな記事が出ていた。
昨年4月から1年がかりで日本列島を1万キロ以上も走り回り、
ハトの折り紙「きゅうちゃん」を配りながら、
憲法9条のすばらしさを訴えてきた27歳のヨーロッパ人の話。
イギリスとスペインで育ったそうだが、本人は地球人で十分と思っている。
そうだよ、みんな、○○国人とか○○民族だなんて言わないで、
みんな「地球人」と思えばいいんだよ。
愛国心などよりも、「愛世界心」「愛地球心」が大事なんだよ・

この地球人の青年は、もっと日本を知るために自転車の旅に出、
その中でこう気づいたと言う。
「高校時代に(自分がイギリスで)憧れた憲法9条を
 変えようとする動きがあること、
 そして、それに対して日本の人々があまり発言してないことを知った」
それで、北海道〜沖縄も含めた、日本一周の行脚が始まったそうだ。

この若者コメントを読んで本当に恥ずかしい思いをした。
日本の指導的立場にある人々が、この普遍的価値のある条文を
変えようとしている、、、それだけでも十分すぎるほどの恥だ。
しかし、「それに対して日本の人々があまり発言してない」はさらなる恥だ。



2007年03月23日(金) 選曲に忙しい

学校も着々と新年度の準備が始まっているが、
市吹も明日から新年度の活動が始まる。
私もそのために火曜日から毎晩吹奏楽曲を聞きまくりである。

昨今の楽譜出版業界は我々に対してたいへん意地悪で、レンタル譜が多い。
貸すだけで、2万とか3万とか、5万とか6万とか支払わせる。
販売譜の方が安いくらいである。
レンタルのくせに高い、しかも、厄介だ。
借りたら、1年以内にやってしまって、返却しなければいけない。
販売譜だったら、試しにやってみて、延期することもできる。
レンタル譜は、何があってもやる、と決心しなければ借りられない。

来年の定演のメインの曲として、今のところ、
プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」を第1候補にしている。
10年以上も前から、いつやろう、いつやろうと考えていた曲だ。
その中の1曲「モンタギュー家とキャピュレット家」が、
最近CMでも使われ、「のだめ」でも使われていたので、
今がちょっとしたチャンスかな? と、第1候補として団員に発表したら
拍手喝采をもらってしまったので、もう後に引けなくなってしまったのだ。

その楽譜の購入に6万円近くかかってしまう。
その他の楽譜代はできるだけ切り詰めなければならない。
そういうことも考えて選曲をしなければならないのだ。
いい曲は何でもできる、というわけではない、
それも、団費の安い市民バンドのつらいところだ。

とりあえず、明日の新年度最初の練習は、初見大会その1として、
・R.W.スミス作曲「伝説のアイルランド」
・福島弘和作曲「北からの風よ」
と、オーソドックスなスーザのマーチを1曲選んだ。
とりあえず明日は、これでみんなに楽しんでもらえるだろう。

これからしばらくは、市吹の練習の準備もたいへんである。



2007年03月22日(木) 図書主任の課題(2)

週2回の7限授業や、帰りのショートタイムでの小テストなどで
日程がたて込んでいる現状では、朝の読書はとても提案できない。

たとえば、現代文の授業の最初に10〜15分の読書タイムを設ける。
古典の時間を使ってもかまわない。
しかし、4〜5月や9〜10月は行事との関係で授業も慌ただしいから、
1・2学期の後半と3学期に限ることにする。
その時期を「本を常に1冊持とう」の時期にする。
本を持たせても、持つだけで終わってしまっては意味がないから、
まず、国語の授業では率先して読書タイムを設けるわけである。
総合学習の時間の、クラス単位の時間の最初にも読書タイムを設ける。
どの教科でも、中途半端に時間が余りそうな時には、読書タイムにする。


夏休みの課題から、読書感想文という作文をなくすことに対する抵抗も
少なからずあるようだ。

しかし私は、以前から、これは生活作文にした方がよいと考えている。
この課題はどこから出すのか、なかなかの難問だったのだが、
やはり、学年会の課題として出すべきだろう。
とにかく、夏休み中の特に感銘深いことについて書かせる。
学習面や部活に関することでもいいし、旅行・物見遊山のことでもいいし、
映画やドラマに関することでも、音楽でも絵画でも、読書でもいい。
担任にとっては、2学期の、個々の生徒との対話の貴重な資料になるだろう。
少なくとも、これだったら全員に提出させるのはそれほど困難ではない。

これは、私が前任校でしばしば、9月の最初の授業で書かせたものだ。
ひと通り読んでから、担任に渡したこともある。
いらない、と言った担任もいたから、人の考え方はさまざまである。
しかし、その中のいいものを、学年通信や学級通信で紹介していく、
こういうメリットもあるのだ。

図書館からの提案として大切なことは、
その中で、読んだ本の感想を書いているものは図書館に回してもらうことだ。
その中から、上位の読書感想文コンクールに出すべきものがあれば、
指導してよりよい感想文を完成させる。

ま、年度始めの提案としてはこんなところかな?
あまりにも広く深く配慮された案なので、感動してもらえる気がする(笑)



2007年03月21日(水) 「レイトン教授と不思議な町」

久々の休日は、書き遅れていた塵語と練習日誌を書くことと昼寝とで、
あっさりと過ぎてしまった。
部屋の掃除やトイレ掃除をしたかったのだが、
腰が痛いとそういう動きのある仕事は億劫になるものだ。

夕方、注文したDSソフトが届いた。
スーファミ時代に熱心にやっていた「ヨッシーアイランド」を買ったのだが
妻用のピクロスを一緒に買っても、送料無料の金額に達しないので、
とあるメルマガの主がハマっているとかいう「レイトン教授」を加えた。
今夜は、レイトン教授を先にやってみた。
腰が痛いと、忙しないアクション系ゲームも何となく億劫になるものだ。

「レイトン教授」は謎解きゲームである。
多湖輝の「頭の体操」のような問題を解きながら物語を進めるゲームである。
1問1問解きながらページをめくるだけでなく、物語が展開するわけだ。
きょうの7問ほどの問題の中では

  「03:33」のような、デジタル表示をする時計で、
  同じ数字が連続で3つ以上並ぶのは、1日で何分間か?
   (「00:  」は「12:  」とする)

というのがもっともおもしろかった。


指揮者の大野和士が、TVのトーク番組に出ていた。
指揮とは「ボディから発散する〈気〉を伝えること」
おー、、いい表現じゃないか。
詩的な表現の苦手な私は、もう30年ほども、
「音楽のイメージを身体で伝える」
「音楽の流れを伝え、自分の音楽的イメージに近づくよう
 楽員に表現させること」などと、いろんな言い方をしてきたのだが。。。
またある時は、指揮とはステップのない踊りだとも。。。



2007年03月20日(火) 図書主任の課題

定演も終わり、終業式もきょう終わったから、これで束の間の解放である。
担任じゃない代わりに、1年通じてさまざまな雑務に追われていたが、
担任じゃないおかげで、指導要録を書かなくてもいいのは実にありがたい。
入試関係の会議や合格者登校日や転入考査など、いくつか仕事はあるが、
数日間はわりとゆとりある時間が過ごせそうだ。

夕方、校長に呼ばれて、図書主任続投を言い渡された。
実は校長室へ呼ばれたときに、学年主任をやれを言われるのではないかと
そんな懸念もあってやや緊張していたのだが、ほっとした。
もしそうだったら、しばしゴタゴタと争わなければならなくなる。
しかし、今の校長は私の気質や得意分野をよく知っているので、
あの10年ほど前の校長・教頭のような無茶なことは言わなかった。
まぁ、図書主任続投は当然だろう。

なぜなら、年度末の反省で、
夏休みの課題としての読書感想文の廃止、多読賞の廃止、という、
長年続けられてきた図書館業務の廃止を2つも掲げたからである。
普通は、他から廃止しろと言われても、図書館の側が既得権として守ろうと
するもので、自ら廃止しようとするのは案外勇気がいるものだ。

多読賞なるものも、何年か前の図書主任が職員会議等でお願いを重ねて、
苦労して得た読書奨励策のひとつなのだろうけれど、
貸出冊数が多いというだけで「多読」として表彰するのはやはり変だ、と、
2年がかりで結論して廃止案を出した。
これは、あること自体がおかしいから、なくして当然である。

それに対して、読書感想文の方は、なかなか微妙な問題である。
私自身は、読んだ本について書く、というのは大事なことだと思っているし
読解力を高めるには最高の勉強法だと思っているが、
全員に課する課題としては廃止すると宣言したのである。
また、私自身は、中一の時に、
「クラッシック音楽を3曲以上聞いて、それぞれの感想を書け」という
音楽の夏休み課題をきっかけに、音楽きちがいになって今に至っている。
だから、「感想文を書くため」に読書したり音楽をきいたりするという
いびつな手段も、大切なきっかけになり得るということを体験している。
(しかし、あのころ、1学年15クラス、約600人いたはずだが、
 あの課題で音楽きちがいになったのは、たぶん私ひとりくらいだろう)
また、前任校でようやく「朝の読書」を本格的に始めたとき、
その理念に反するからと、読書感想文の課題を廃止しようとしたら、
思わぬ激しい抵抗にあって、廃止できなかったという経験もある。
教員の中には、読書感想文の課題に対してある種の信仰を抱いている人も
少なからずいるようなのだ。

しかし、読書感想文の課題は、さまざまな問題を抱えるようになってきて
いるし、回収しクラス選考する担任の負担もかなり重い。
それを敢えて続行する割に、大した読書指導になってないのが現状だ。

この2カ月ほど、この問題に取り組み始めてから、
朝の読書は7減授業や小テスト偏重主義のためにできないながらも、
それに代わる新しい方法が、だんだんと見え始めてはいる。
ただ、それを具体化するためには、いろいろな方面に相談が必要だ。



2007年03月19日(月) 侍BRASS

なかなかつらい1日だった。
昨日、かなり足腰に負担をかけた(しかも打ち上げは座敷だった)ので、
全体として、腰痛が悪化した感じである。
いろいろ仕事があって、きょう中に終わるかと危ぶんでいたけれど、
とりあえず順調に余裕で片づいた。

帰ってから昨日の定演の録音を聴いた。
演奏中にアンサンブルを乱した犯人探しを楽しみに。。。
わりとそつなくこなしているのは「パイレーツ・オブ・カリビアン」と
「お砂糖ひと匙で」と「ラプソディー・イン・ブルー」くらいで、
あとは、望んでいた演奏とは違う部分を抱えている。


それから、昨日届いた「侍ブラス」の「葉隠」のCDを聴いた。
これもまた、先回のイル・ディーヴォと同じく、
スゴイそうな噂に乗せられて試しに買ってみたのである。
また、これもまた、すでにオーケストラやソロ活動で活動している金管奏者
を集めて、特別に結成した金管アンサンブルグループのようだ。

今まで聞いた金管アンサンブルのCDは大半おもしろくなかった。
バロック系の曲はまあまあ聞けるけど、現代の作曲家のものはほとんど×。
鑑賞用でなく、演奏のための参考音源程度の価値しか見出せなかった。

しかし、この「葉隠」はなかなかおもしろくて、2回繰り返して聞いた。
曲名を見ると「武士道」「葉隠」「孤高之虎」「御伽草子」「飛天」「侍」
、、、と和風の題名が多いが、曲調はそれほど和風な感じではない。
ジャズ風の曲もあり、いかにも吹奏楽オリジナル曲という風な曲もある。
「五拍子の踊り」「文明開化の鐘」という曲が特におもしろくて、
さらに2、3度繰り返し聞いた。
金管アンサンブルを楽しんで聞いたなんて、おそらく初めてのことだ。



2007年03月18日(日) 定演終了

演奏会が終わって、そのまま着替えもせず、上着を羽織っただけで
煙草を喫いに外に出ると、会館から帰ろうとする見知らぬ人から
「ありがとうございました」と声をかけられる。
定演でも市民音楽祭のような行事でもしばしばあることなのだが、
何回こういう場面を経験しても、なかなか慣れない。
もちろん、私はその人が今まで客席で聞いていた人ということを知らない、
だから、「ありがとう」の言葉が何についてのものなのか、
即座に演奏会のお礼とは判断し難いこともあるのだが、それ以上に、
そういう言葉をかけてもらえることにひたすら恐縮してしまうのだ。

我々の活動は、基本的には自己満足である。
自己満足に陥らないよう努力はするが、基本的には自己満足である。
毎週集まって合奏を楽しむのが基本である。
漫然とやっていても張り合いがないから、聞いてもらえる機会を求める。
依頼や参加の呼びかけに応じて演奏に出かけることもあるし、
自分たちで企画して2時間の演奏会を開くのが定演である。
定演を開くのは、あくまでも自分たちのためである。
だから、わざわざ聞きに来てくれた人にお礼を言うのは我々の方である。
満席の客席を見渡すだけでも、本当にありがたいことだと思う。
それが、最後まで聞いてもらえて、大きな拍手を贈ってもらえて、
揚げ句に、「ありがとうございました」では、恐縮するしかない。

もちろん、定演の曲目を決めるにあたっては、
観客として聞いた場合におもしろいかどうかをかなり吟味する。
すべての人に気に入られる曲などはない。
「かなりの人」に、1回聞いただけでも耳に入りやすい曲を選ぶ。
聞きに来た人が、せめて2、3曲でも、よかったなと思ってもらわないと、
わざわざ来てくれた人に失礼である。
それで、練習の際にも、客席での聞こえ方に配慮はする。
しかし、それはあくまでも私の想定であって、
実際に演奏会を聞きに来る観客がどう思うかはまったく予想できない。
しかも素人集団の、練習不足つきだから、様々な失敗や誤算もある。
演奏後の我々の心には、満足感と後悔が交錯している。
「あ〜あ、、」と思っているときに、「ありがとう」である。
アンケートを読んでも、「ありがとう」がいくつも書いてある。
何というありがたい言葉だろうか。。。

ちなみに、きょうのプログラム後のおまけには、「三日月」という曲と
スマップの「ありがとう」を演奏した。
毎年思う、上記のような思いの反映である。



2007年03月17日(土) 定演前日

午前中、楽譜のまだ覚えきっていないところをチェック。
だいたいは覚えているのだが、明日の昼までにまだ数回チェックする
必要があるだろう。

ウィスキーが昨夜で切れたので、昼に買い物に出た。
ブランデー・ワインなどの在庫はあるけれど、本番の前夜に、
普段とは違うものを飲むのはできるだけやめておいた方がいいだろう。
きょうもマックを買って帰って、ビールを飲みながら昼食にした。

オリエント急行が発車する際の、シュッシュッシュという音に使う
サンドペーパーブロックがやっとできた。
以前、ステンレスの箱にサンドペーパーを貼りつけてこすってみたのだが、
金属のぶつかる音が入るのでまずいと思い、ボツにした。
先日、ホームセンターで、取っ手のついた研磨器を見つけた。
両端にサンドペーパーを挟むだけで、手軽に装着できるし、
ステンレスの板に薄いクッションが貼ってあるので衝突音がない。
問題は、もう一方の、こするための道具で、
これは棒状のものにしようと思ったが、なかなか手ごろなものがない。
きょう、スーパーの中を歩いていたら、靴洗い用のたわしが目に入った。
たわしでこすってもそんなに大きな音にはならないだろうけど、
このたわしの部分にサンドペーパーを巻いて固定したら、、、、、
昼食後試してみたら、たいへん使い勝手の良い「楽器」ができあがった。
もちろん、きょうステージで試して、それから採用かどうかを決める。

さあ、そろそろ出かけねば。。。
団員たちは2時ごろから準備を始めている。
私はこれから出て、3時半にはホールに入る予定である。



2007年03月16日(金) もうひとつの世論調査

きょうは入試の面接試験だが、ここ10年くらいの間に、
しばしばご指名に預かっているのが、面接官A、つまり、
受験生たちに質問する役である。
私は、この時間帯のすべての役を2度以上経験しているが、
この主の面接官がもっともたいへんである。
警備係というのがもっとも気楽だったが、これは、
生徒指導部で年がら年中たいへんな思いをしている束の間の代償だった。
毎年控室係に指名される人たちは幸福である。
私は若いころ2度ほどしか経験していないが、あれは楽である。
面接室に入らねばならぬか入らなくてもよいかでは雲泥の差がある。
さらに、主の面接官か、副面接官かも、それ以上の雲泥の差がある。
主の面接官には、時給2000円支給されても足りないくらいだ。
最近はもう慣れてきたけれど、慣れないころは1組ごとにどっと疲れた。
さらに、午後は、会議攻めである。
この会議に出なきゃならない教員には時給1000円は支払うべきだ。
昨日の学力試験の監督や採点には、平等な配慮がされていたけれど、
2日間全体を見れば、ぜんぜん平等ではない。
以前は入試の日は、入試のことだけに専念できていたのだけれど、
近年は、その前後の日程もぎゅうぎゅう詰めになってきていて、
きょうでも、その他の仕事にあたふたしなければならない状況である。
私の場合、明日明後日は定演に専念しなければならないから、
昨日きょうの多忙は内心たいへん迷惑である。
教員が職業なので、職場ではそんなことに文句を言ったりしないけれど、
職場を離れると、やれやれ、、、とため息をつきたくなるのである・


橋本さんが独り言BBSにこんなメルマガの記事を載せていた。
「JCJふらっしゅ」というメルマガだそうである。
私がふと思いついて、先日この塵語に書いたようなことを、真剣に調査し、
活動している人たちがいることに驚き、しかも、スカッとした。
今国会に提出される法案の内容まで知ることができるなら、
それを支持する人はわずかしかいないのだ。
また、これを読むだけでも、改憲派が目論んでいる法案は、
改憲しやすくするためのルール作りでしかないようだ。

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朝日新聞は13日、国民投票法案に関する世論調査結果を発表しました。
http://www.asahi.com/politics/update/0313/001.html

 結果は、国民投票法案は

       必要と思う   68%、
       必要でない   19%

 だったそうです。
 一方私たちが2月24日〜3月10日にわたって全国36箇所で行った街頭シール投票では、国民投票法案に

       賛成     反対   わからない
      758    3977   997  投票総数5732
      (13%) (69%) (17%)

でした。

 賛否が完全に逆転しています。なぜこんな差がでたのか。それは質問の仕方の違いのためです。朝日は電話で「国民投票の手続きを作ることは必要だと思いますか」と聞いています。一方、私たちは、いま国会に出されている手続き法案の内容を示して、その賛否を問いました。それだけでこれだけの違いが出るのです。

 朝日のような調査結果をいまこのような形で発表することは、以下の意味できわめて犯罪的です。ぜひ、抗議のFAXを送ってください。いまさらそんなことを言っても…と変に悟りを開くことは、報道機関にますますやりたい放題にやらせることにつながります。ぜひよろしくお願いします。

  FAX抗議先  03−5540−7618(広報部)

 ポイントは以下の3つです。
1) いま報道機関が真っ先になすべきことは、国会に提出されている国民投票法案の内容、つまり必要最低投票率が決められていない上、実質上、有効投票の過半数で決められるのでごくわずか(国民の2割程度)の賛成で改憲される可能性があること、また、資金の豊富な改憲派がテレビや新聞に大量に改憲コマーシャルを流せることができるなど、その問題点を国民に知らせることであるにもかかわらず、朝日新聞はそのような努力をほとんどしていない。

2) いま殆どの国民は国民投票法案の内容を知らないなかで、報道機関が世論調査をするのであれば、抽象的に国民投票法案が必要かどうかを問うのではなく、現実に国会に出されている法案の要点を示し、そのうえで賛否を問うべきである。そうすれば今回の朝日のような結果は絶対に出てこない。

3) 今回の朝日の発表は、結果的にいまの政府案を、その内容を国民が知らないうちに、成立させることに手を貸すものであることは誰の目にも明らかであるにもかかわらず、朝日が敢えて行ったことは、為政者より国民の側に立つべき報道機関の使命から著しく逸脱するものである。

憲法改正手続き法案 賛成?反対?全国投票
http://kaikent.exblog.jp/

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2007年03月15日(木) 国民投票法案の問題点

きょう明日は高校入試である。
入試業務はたいへん煩わしい(選抜委員などになっていると一層)のだが、
今年度の授業は終わってしまったので、その分は気が楽である。
授業の準備に頭を悩ませなくてもよくなったから。。。

憲法改正国民投票法案の問題点」という講演記録を見つけたので読んだ。
先日見つけたのだが、長そうなので読むのを先延ばししておいたのだ。
一昨年書かれたものらしく、ちょっと資料としては古いのかもしれないが、
さらに考えを広げる上では、いろいろと参考になった。

1 近代憲法は硬性憲法である。
  基本的人権・国民主権・権力分立・平和主義等を基本原則とし、
  それらが不可分のものとされているので、それらを守るために
  改正には重い要件がつけられている。

2 憲法の憲法改正条項は、立法権・議会よりも上位に位置づけられている。

3 憲法学説では、基本原理は改正できないというのが多数である。
  平和主義はこの基本原理の中に認められるのか?

4 内閣が改憲を提案できるのか。

5 決議の際の定数の問題。国会においてもそうだが、
  国民投票において、「有効投票」の過半数というのはまずいだろう。

6 改正点が複数の場合、各項目ごとに賛否を問うか、一括して問うか。
  アメリカの州法では、条文ごとに賛否を問うものが多いそうだ。

7 国民投票で賛成多数となった場合の公布手続きの問題。
  選挙の過程における訴訟問題が起こった場合にはどうするか?

8 選挙公示後の、宣伝活動に関する問題点。
  公示から投票まで2〜3カ月の猶予がある。
  国民の運動を規制するとともに、報道機関を規制する恐れあり。。。


こうして、専門家の意見も読んでみると、首相の立場で
改憲に躍起になっているのはどうだかなー、という思いがますます強くなる。
そして、そんな人物に首相という地位を任せなきゃいけなくなる
日本の政治社会構造はいったい何なのだろうと、ますます深い疑問に襲われるのだ。




2007年03月14日(水) 「ハケンの品格」が終わった

連ドラは、唯一、水曜10時からの「ハケンの品格」だけ見ていた。
初回と先々週と、途中のある1回の前半は見そびれたが、何とか見続けた。

主人公の大前春子は、仕事から情を徹底的に排除する。
勤務時間に厳格で、社員たちと余計な交流をせず、
3カ月の契約期間は決して更新しない。
その代わり、身につけたさまざまな能力や免許を生かして、
勤務時間中はバリバリ仕事をこなし、会社のピンチを救う。
ゴルゴ13的ビジネスウーマンである。

彼女をそうさせたのは、(ドラマで紹介された限りでは)2度の、
不当解雇だった。
社員として懸命に働いていても、解雇されたらそれで終わり。
ここでもっと働きたいと願っても、どうしようもない。
だから彼女は「品格」を高く保つ「ハケン」に徹するようになった。
表面上は冷徹であっても、実は情が深い。
その二面性が交錯する姿を、我々視聴者は楽しんで見ていたわけだ。

ドラマでは、所詮あいつはハケンだし我々は社員だと威張る社員、
また、社員という地位に安住している社員と
能力を認められなければ使ってもらえないハケンの対比が描かれた。
ある回の「働かない正社員がいるからお時給がいただける」という言葉は
痛烈だった。

きょうの最終回では、小泉クンの息子が演じている「主任」が名言を吐いた。
派遣社員の2人の力で成功した企画のおかげで社長賞を受賞した主任が、
受賞挨拶で、本来は自分がもらうべき章ではないと断言する。
そして、ロビーで話しかけられた会長に、
「人として接しなければいい仕事はできないんじゃないでしょうか」と言う。

リストラを奨励し、更にはイラクでボランティア支援をしていた人たちを
批判した小泉クンの、その息子が、役柄とはいえ、こういうセリフを、
親父とは対照的は実に好感の持てる表情で言ったのは、皮肉な話だ。

また、そういう物語の合間にも、正社員とハケンとの、
身分・立場上の葛藤というか、差別というか、そういう様子が描かれる。
企業ではそれほど、社員と派遣・パート・バイト(区別がよくわからんが)
との対立や葛藤が激しいのだろうか??



2007年03月13日(火) 新聞報道の恐ろしさ

朝刊の一面を見たら、中ほどあたりながらこんな見出しが。。。

「国民投票法『必要』68%」

世論調査の結果らしい。
今まで何も考えてなかった人は、これを見たら、
ああ、多くの国民が必要だと思ってるんだな、と思うようになる構図である。

しかし、質問項目を見ると、これだけについて問うたものではないし、
「今国会で提出される国民投票法案の内容を知っているか」という問はない。
調査をやってもらうなら、今回の法案はこういう内容で、
これにはこうい問題点も指摘されているけれど、
この法案は必要か、今国会で決着をつけるべきか、と調査してほしいものだ。

私自身も国民投票法は必要だと思う。
だから、私のところに世論調査が来たら、68%に加担することになる。
日本国憲法には
「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、
 国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。  
 この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票に
 おいて、その過半数の賛成を必要とする」
この曖昧な部分をしっかり規定するような法は必要だ。
自民党が目論んでいるような「改憲しやすくするためのルール」に
されないように、きっちり定めておく必要があると思う。
国民投票での「過半数」は「有権者数の過半数」でなければならないし、
投票は、項目別でなければならない。
また、国会においても、単独採決だの強行採決は禁止してもらわねば。。。
他の法案とは根本的に違うのだ。

しかし、世論調査の質問項目や回答選択肢にそんなものはない。
」必要か?」に対し、「賛成」「反対」しかないようだ。
賛成と答える人にもいろいろな考えがあるはずだが、
いろいろな考えは消えて「賛成」の一語にまとめられてしまう。
次いで、「今の国会で成立させることに賛成か」という質問があるが、
「今の国会で成立させようとしている法案を知っているか」という項目は
ないし、それについて賛成かという聞き方をするわけでもない。
非常に曖昧で大ざっぱな調査なのである。

それなのに、あの見出しは、
「今の国会に提出されている国民投票法案に賛成している人は68%」
という印象を与えてしまう。
それじゃ、その法案はどんな内容かを読もうと思っても書いてない。
そうして、「賛成」という語が一人歩きして、
ひとつの風潮を作っていくという構図になる恐れがあるわけだ。



2007年03月12日(月) 国民投票法案 素朴な疑問

憲法改、、悪(としか言いようがない)のための国民投票法案を、
今月中の採決は諦めたとか、今国会では成立させるとか、
最近の新聞記事に書かれているのだが、その法案、
いったいどこを見たら内容がわかるんじゃぁ〜〜??(`ε´)
検索したら、論評はいくつか見つかったが、
法案そのものの裸の姿にはなかなかお目にかかれない。
新聞に全文が掲載されたことがあるのかもしれないが、
毎日隅々まで読めるような時間は許されていないので、見落としたかも。。

考えてみれば、国会ではいくつもの法案が次々に可決されているようだが、
国民が前もってそれらすべてを知ることができるシステムができているのか、
どちらかというと、知るのがたいへん難しいのが実態ではないかと思う。
こういう情報伝達の便利な時代なんだから、
「国民投票法案」と入力して検索したら、
真っ先にその法案の全文がヒットするようにしてほしいものだ。
原文なしで論評だけ読むことほど難しく危なっかしいことはないのだ。

それにしても、晋ちゃんの憲法改悪にかける意欲はすごい。
天下り斡旋規制は譲歩しても、憲法改悪は譲歩しないほどの意欲だ。
あたかも、それさえ成し得れば英雄的首相として名を残せるというような。

晋ちゃんに限らず、ずっと以前からこんな論議があるたびに
違和感を感じないではいられなかったのだが、
このごろ、その違和感の原因がわかってきた。
この憲法は、国民の権利を守るために、
政治家や公務員に対する義務を説いている。
第99条には、
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
 この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記されている。
そういう憲法の下で首相となり国会議員となった人々が、
この憲法はいかん、と言って躍起になって変えようとしているのが、
漠然とした違和感になっていたのだ。

私は十数年前、学級定員減というたったそれだけの陳情のために、
一生懸命署名を集め、中央への陳情交渉にも積極的に参加した。
2〜3000万という署名活動が何年かに渡って提出されたが、
ほとんど無視された。
あの当時より若干学級定員が減っているのは単なる自然の成り行きであって
政府が署名や陳情を聞いて努力してくれたわけではない。

憲法改正というのも、本来はこうした国民の発案によるものではないか。
政府主導で憲法改めなんて、本筋から外れているのではないだろうか?

私が「国民投票法案」の原文を読みたいと思うのは、その中に、
最低有効投票率なるものが明記されているのかどうか知りたいからだ。
様々な団体のいわゆる「総会」なるものでも、
過半数か3分の2以上の出席を求め、委任状の提出を要求する。
改憲にあたっては、国家の最高法規を決める問題だから、
それ以上の厳しさを要求しなければならない。
投票の過半数なんて甘い考えて改憲されるべきではないだろう。
最低限、有権者の過半数でなければならない。

まだまだ書きたいことはあるが、今夜はもう時間切れである。




2007年03月11日(日) マック・バーガー

午前と午後に昼寝した。
時々目が覚めるのだが、いつまででも眠れそうなほど睡眠を欲していた。
どちらも起きるのがつらかった。

昼に起きて、夕飯の材料を買いに出かけ、ついでに昼食用のマック。
2週間前の日曜日と同じことをしている。
10組ほど並んでいたが、並んで買った。
マックは、ますます人気、って感じである。

飽きられるどころか、ますます繁盛している。
確かに新商品も出ているから、単純に飽きられないよう工夫はしている。
お子さま用セットのおまけのおもちゃもかなり好評なようだ。
しかし、それだけだはない。
要するに、マックに限らず、バーガーファンの世代は拡大する一方なのだ。
私は30年以上ファンである。
マックの製品はすべて好きである。
とりわけ、ポテトが最高である。
妻も、フィレオ系とポテトのファンである。
若いころマックのファンになったら、年配の域に入ってもファンである。
そこに、子どもたちもどんどんファンになっていくのだ。

きょうは私は、てりたまとチーズバーガーとポテトである。
2週間前は、チキンフィレオとチーズバーガーとポテトだった。
ビールを飲みながらマックで昼食、、、ささやかな幸福の時間である。
先週の市吹の1日練習の昼休みの、ビールとカツカレーもご機嫌だったが。


夜、雪が降った。
それほど寒いとも思われないのに、バーーッと降りしきって、
道路にもうっすらと積もったようだ。
明日の朝までは残らないだろうと思うが、
土壇場になって再び雪の降る光景を見ることができてうれしかった。








2007年03月10日(土) 「4400」シーズン2

そうそう、一昨日「4400」を見終わったのだった。

シーズン2は13話である。
最後の2話は、4400の人々が次々に病気になり、能力を失う。
プロマイシン抑制剤の副作用だということがわかるが、
実はそれは政府側の陰謀だった。
4400の人々には(未来人によって)プロマイシンが投与されており、
それが脳の特殊領域を活性化させて、特殊能力をもつのだという。
それに気づいた政府は、密かに抑制剤を開発させ、
4400のそれぞれの定期検診ごとに密かに投与させた。
特殊能力の発揮を抑えるためだが、その副作用で生命も脅かされたのだ。

リリーの娘のイザベルだけは検診を受けていないので、
それをもとに血清が作られ、大半は救われた。
それとともに、今後は、プロマイシンは抑制されることなく、
4400それぞれの特殊能力を発揮させることになるのだろう。

・・ということは、つまり、これまでの4400は序の口だということだ。
今までは抑制剤によって多くの能力が抑えられていたのだから。。。
現に、エピローグでは、リリーの夫となったリチャードにも、
特殊能力の兆候が現れている。
予知能力の少女マイアは、これから「戦争」が始まると予言する。。。
さらにもっと不思議なことがある。
赤ん坊のイザベルがベビーベッドから姿を消し、
素っ裸の大人の女の姿でショーンの前に現れた。。。
最後に髪伸び放題で彷徨っていたのは、暗殺されたコリアーではないか。。

今後の展開がますます楽しみで、待ち遠しい。
シーズン3が出るまでに、もう1度今までのところを見ることになるだろう。

それにしても、このドラマはどれだけ続くのだろう?
やろうと思えば、4000話以上のドラマにもなり得る。
また、これが本当に地球の破滅の歴史を変えようとする未来人のしわざだと
したら、その未来まで、今の4400の子孫の物語まで描けるわけだ。
いろいろな意味で、興味の尽きない展開だ。





2007年03月09日(金) IL DIVO の魅力を分析

3日前の「なぜなんだろう?」の続きである。

1 いいメロディーの曲を集めている

   こういうポップス系のアルバム(吹奏楽の曲集もだが)を買っても、
   1枚のCDをまんべんなく聞けるということはあまりない。
   たいていはつまらない曲も混じっている、、、いやそれどころか、
   半分以上はつまらない曲であることが多い。
   サラちゃんのアルバムを聞き始めたとき驚いたのは、
   全部のトラックが聞くに値することだったが、今回もそうである。
   しかし、これは、曲自体がいいというだけではないようだ。

2 音色(声色)の変化

   たとえば、ファーストアルバムの「ネッラ・ファンタジア」や
   セカンドアルバムの「アヴェ・マリア」「アランフェス」などは、
   もうとうに聞き飽きた、今さら何で? と言いたくなる選曲だ。
   しかし、聞き始めたら聞いてしまう。

   本格的テノール歌手、本格的バリトン歌手、独学のポップス歌手、
   もとハードロッカーで、声楽の勉強もした歌手の組み合わせである。
   その4人が、ソロで歌い継いだり、ある時は二重唱、三重唱、
   そして全員の四重唱と、さまざまな編成で1曲を歌い上げている。
   これが、何とも言えぬ情緒や高揚感をもたらしている。
   特に二重唱の美しいことと言ったら。。。

3 表現力

   サラちゃんの「ラ・ルーナ」に「スカボロー・フェア」が入ってた。
   中・高生時代好きだった、とっくに聞き飽きた歌なのに、
   聞き始めてしまうと、つい引き込まれて飛ばせなくなってしまう。
   メロディーは聞き飽きているはずだが、その情緒は独特なものだ。
   それと同じ良さを、イル・ディーヴォも持っている。

4 しっかり盛り上げる

   イル・ディーヴォのレパートリーのほとんどは、
   しっとりと、あるいは、しみじみと歌い始める曲である。
   しかし、そのままの情緒で終始することはほとんどない。
   先も書いたように、歌い継いだり、声を重ねたりしながら、
   最後はたいてい全員の熱唱に入る。
   時には、本格テノール歌手のディビッドがオブリガードをつける。
   こういう高揚感も、すばらしい要素のひとつだ。
   たまに、わりと平凡で平板な曲が選曲されていても、
   常にクライマックスへの期待を抱かせてくれる。

5 伴奏の美しさ

   伴奏オーケストラの弦のメロディーがいつも美しく鳴っている。
   また、よく使われるギターのメロディーも実に魅力がある。
   歌なしで聞いても十分楽しめそうなほどすばらしい伴奏陣で、
   しかも歌も、上に書いたとおりすばらしいものだ。


実に贅沢な感じの音楽CDなのである。
結局のところ、サラちゃんについて感心した点と同じになってしまった。
サラちゃんは、音色(声色)の変化や表現力や高揚感を、
たったひとりでやっているところが偉いが、
イル・ディーヴォは4人がかりなだけに、もっとダイナミックである。
だから私の中で、サラちゃんの魅力に彼らがやっとこさ追いついているのだ。



2007年03月08日(木) 畑違いで世界一のコーチ

シンクロナイズド・スイミングを見るたびに、
ロシアの演技の良さは圧倒的だと感じないではいられないのだが、
今夜、そのロシアチームの訓練の取材をTVで見た。

コーチは、今はでっぷりと太った、逞しく怖い感じのおばさんであるが、
若いころは新体操の代表選手で、その前はバレエをやっていたそうだ。
今でもバレエを見るのが1番の楽しみだそうだ。

そうやって培われたセンスで、ああいう振り付けが生まれるのだろう。
また、新体操の訓練を取り入れた床の上での訓練がかなり厳しいようだし、
バレエのような表現力を徹底的に求めているようだ。

ロシアの演技は、力強くダイナミックでありながら、しなやかでもある点で
他の国の演技とどう比較しても圧倒的である。
細かいルールや規定は知らないけれども、見た感じが率直にそうなのだ。
コーチの経歴や理念を聞いて、なーるほど、、と思った。
コーチの将来の夢は、シンクロとバレエを融合することだそうだ。



2007年03月07日(水) 「仰げば尊し」??

高校の卒業式は1週間前に終わってしまったが、
朝のラジオで鈴木杏樹が今週は「卒業式の歌」をテーマに話しているので、
毎年思っていることを書いておこう。

去年の校務委員会で、卒業式の段取りの議題が出たときに、
本当に「仰げば尊し」を生徒に歌わせなきゃいけないのか、と、
問題提起したのだが、結局、歌わせないのは寂しい、というだけの理由で
多数派に押し切られてしまった。
私は「意見」を述べたのだが、「雰囲気」に負けてしまった感じだ。
学校の会議なんて、その程度のつまらない議論で進んで行くものだ。

私が今勤めている高校周辺の地域の小・中学校では、
まだ「蛍の光」や「仰げば尊し」を歌っているところがわりと残っているが
もっと広く見れば、もうそんな歌は捨てて
別の合唱曲を歌っているところの方が多数派であろう。
この保守的な地域でさえ、歌ったことがないまま高校に入っている生徒が
いるくらいである。

冒頭の詞の意味はわかりにくい。
「仰げば尊し 我が師の恩」これを私は口語訳することができない。
「仰げば」というのが、どういうことなのか、引っかかってしまうのだ。
「我が師と仰ぐと、先生たちの慈しみは尊いぞ」という意味だろうか?
それを「歌え!歌え!しっかり歌え」とは何と恩着せがましいことだろう。
恥ずかしくてやってられないじゃないか。

2番も生徒に歌わせている。。。
「互いに睦みし 日ごろの恩 別るる後にも やよ忘るな
 身を立て 名を挙げ やよ励めよ、、、」
これって、誰のセリフ? 先生の方からの言葉なんじゃないの?
それとも、生徒同士がお互いに鼓舞激励しあっていると解釈すべきだろうか?
・・・それにしても、「身を立て名を挙げ」なんて、
現代にふさわしい道徳じゃない。
立身出世主義なんて、明治から戦前までの古い観念じゃないか。

教師の集まりが、なぜこの歌を大事そうに守っているのか、不可解だ。

中学の卒業式で、私は「仰げば尊し」を一生懸命歌った。
歌詞の内容なんてまったく考えていなかったせいでもあるだろう。
しかし、それだけでなく、ひとつには、
3年間を通じて、みんなが仲間だし、協力して事を成す、という教育が
徹底していたし、私自身がそういう中でのリーダー的存在の
ひとりでもあったからだ。
私自身も一生懸命歌ったし、ほとんどの生徒が一生懸命歌った。
練習も、音楽の時間、全体練習の時間と、かなり費やされた。
もうひとつの理由もすごく大きい理由なのだが、
三部合唱だったか四部合唱だったか忘れたけれど、
低音パートを歌えばよく、音域的に歌いやすかったからである。
主旋律どおりに歌わされたら、「この年月」とか「別れめ」のところなど
ぜんぜん声が出なくなってしまうから、イヤになってしまう。

高校の卒業式ではどうだったのか、まったく記憶がない。
2月1日から学校を休んで、次に登校したのが卒業式当日だった。

高校の卒業式なんて、証書授与だけで終わっていいぞ、と私は思っている。
「歌いたい」「この歌を歌って卒業したい」という要望が
生徒たちから出たときは、望む歌を歌わせてあげればいいだろう。
感謝の言葉を言いたい生徒がいれば、言わせてあげればいい。
祝辞を言いたい教員や保護者がいれば、言わせてあげればいい。
そういうのがないなら、証書を手渡して、はい、おめでとう、おしまい!
お定まりの式次第などに従う必要はない。
卒業証書授与式なのに、授与の後の苦痛の時間が長すぎる。

既成観念からいったん離れて眺めてしまうと、
どうだかなーー、、、と思うことばかりである。
とりわけ、おかしな歌をむりやり歌わせることにはどうだかなーである。
しかし、ほとんどの教員にとって、
国歌斉唱→授与→校長式辞→来賓祝辞→送辞→答辞→送別の歌→校歌
という流れは、不可欠で自然な流れにしか感じられないようだ。
もちろん、そういう世界で仕事している私は、
そのように予定された行事が滞りなく行われるように、
自分の考えは捨てて全面協力するしかなくなるわけであるが、
毎年毎年、冷めた思いで卒業式の成り行きを見守るはめになる。
幸い、生徒たちもそう文句を言うこともなく、
たとえ歌わなかったにせよ、晴れ晴れとした表情で去って行ってくれるから
とりあえずはそれが救いになっている。



2007年03月06日(火) IL DIVO!

再びイル・ディーヴォのライブDVDを見た。
1回目より感動してしまった。

サラちゃんの時は、何ヶ月も続けてCDを聞き続け、
4枚のライブDVDを何度も繰り返し見た。
それは当然のことだ、奇跡の歌声の上に容姿端麗。。。
サラちゃんは奇跡の人だ、いろいろな要素をひとりで兼ね備えている。

しかし彼等は、男集団でありながら、サラちゃんを本格的に聞き始めた、
あの頃とそっくりな感じに私を惹きつける。
なぜなんだろう、、??



2007年03月05日(月) モホス文明

穏やかに暖かかった昨日とは対照的に、きょうは雨が降り強い風が吹いた。
特に午後は外で異様な風の音が何度も鳴っているのが聞こえたが、
会議のために校長室にずっと缶詰になっていて、実際はよくわからない。
夜のニュースによれば、風速30キロ以上を記録したところもあり、
各地でさまざまな被害が出たようだ。
今夜はまだ寒いと言うほど冷え込んでいないけれど、
明日から寒くなるのは間違いないようだ。。。

9時からTVでやっていたらしい「アマゾンの古代文明」の番組を、
10時ごろから後半の半分くらいを見た。
アマゾン流域のモホス平原は、雨季と乾季を繰り返し、
雨季には平原が冠水する土地である。

上空から俯瞰すると、平原に広大な地上絵と思われるものが見える。
しかし、平原に降り立ってみると、そんな絵のようなものは見あたらない。
空から見えていた地上絵は、地上に降りると消えてしまうのだ。
しかし、ある学者たちが、その謎を解いた。
幅も高低も何メートル単位で作られた畝がいくつもあるのだ。
畝の上は冠水しない高さになっているのだろう。
この地方には、水を浄化し、自らは茎に養分を貯える水草が生育している。
その水草を畝の間の水で育てては、それを畝の上に播いて肥料としながら
ここで農作をやっていたのだろうと、学者たちは推測している。

大体そんな内容のところから見始めた。

今回クローズアップされていたのは、発掘された人骨である。
「高貴な人」らしい人のDNA鑑定は、かなりの課題を与えているらしいが
その傍らから発掘された「番人」らしき人物の鑑定は驚くべきデータらしい。
頭蓋骨の分析は、日本の東北部の弥生人の頭骨にもっとも近く、
DNA鑑定による塩基の配列は、中国東北部の民族のものにもっとも近い。
つまり、南米で生活していた人々の中に、
この東アジアをルーツとする人がいたらしいという発見である。

私は、大和民族というのは決して島国の単一民族ではなくて、
前史の起源としては、シベリア・朝鮮方面や、中国・モンゴル方面や、
東南アジア方面から、何らかの方法で渡ってきた多様な民族の、
そう単純には割り切れない混血雑種の民族だと思っているが、
世間ではそれをもっと広く、オセアニアや南米までもひっくるめた、
広大な円環の中でとらえる見方もあるようだ。
私は今まで、そうまで広い範囲でとらえていいものかどうか疑問だったが、
そういう意味ではたいへん興味深い番組であった。

興味が湧いたのでこんなサイトも読んでみた。



2007年03月04日(日) きょうも1日練習

2週間前の日曜に続き、きょうも市吹の1日練習。
定演は2週間後だから、ほぼ仕上げなければならない大事な練習日だ。
たいていのことはやったけど、何分にも、週に1回ばかりの練習にも
半分かそれ以下しか出て来られない団員が相当数いるのが現状だし、
団員それぞれの技量はまちまちだから、そういう練習不足は否定できない。
しかし、いろいろと課題は残しながらも、
年に1回の演奏会はたいへん楽しいものである。
何が起こるかわからない、というのも実に楽しいものである、、というか、
そういう何が起こるかわからない、という危険性といつも隣り合わせに、
緊張した時間を過ごすからこそ、ステージは楽しいのだ。
そして、その2時間の、生まれては消えていくはかない時間のために、
さまざまな工夫や努力を惜しまない、こういう練習の時間も楽しいものだ。

気楽な時間がもっと欲しいと常に願いながらも、
苦労の多いステージ活動を捨てることはなかなかできない。
ま、麻薬的効果をもったものなのだろう。


朝出かけるころは、ちょっとひんやりしていたのだけれど、
午前中の練習を終えて昼食に出たら、あまりの暖かさにびっくりした。
もわっとするような空気に包まれたのだ。
連れ立って歩いていた何人かのひとりが、20°くらいになると言ってた、
と言ったが、この暖かさは、桜の咲いた4月に何日か続くことがあって、
あっという間に桜を満開にしてさっさと散らせてしまう暖かさに似ているし
あるいは、緑が眩しい初夏が訪れる前の、4月の終わりごろに
しばしば出会った暖かさにも似ている。
こんな、まだ枯木が散見するような景色には似つかわしくない暖かさだ。

週間予報によれば、明日は雨なのだけれど、その雨のせいか、
明後日からはまた冷えて、水曜日は最低気温がマイナス2°だそうだ。
そんなことがあり得るものかどうか、、、寒過ぎるのは歓迎しないけれど、
あり得るものかと思うと、ちょっと楽しみでもある。



2007年03月03日(土) 雛人形

雛人形というのは、もともとは平安貴族の娘たちのリカちゃん人形みたいな
ものだと、長い間思い込んでいたのだが、
(しかも、これはいい喩えだと思い込んでいたのだ)
先日朝のラジオの鈴木杏樹の話をきっかけに調べ直してみたら、
今のような豪華な雛人形の形ができたのは江戸末期から明治にかけてらしい。

原型は「形代(かたしろ)」で、紙でもなく、草木で作った人型だった。
それを撫でることによって身の不浄を託し、川に流した。

それから、「天児(あまがつ)」「這子(ほうこ)」といった簡素な人形が
作られるようになり、枕元に置いて子どもの無事な成長を願うようになった。
それが男女一対の立ち雛へと変わって行った。
この過程で、平安時代の「ひひな遊び」があるようだが、
この、上巳の祓用の人形とは別に、遊び用の人形があったらしい。
それがどの程度のものだったのか、今のところはちょっと調べかねている。

とある雛人形屋のサイトで、江戸時代の人形の変遷を見ることができる。
しかし、これは最上段の一対の内裏雛の変遷だけである。
他のサイトによれば、嫁入り道具の調度などもごてごてセットにした、
今の段飾りの形に発展したのは、江戸時代末から明治にかけてだという。

王朝貴族の娘たちもリカちゃん人形で遊んでいた、という想像が崩れて、
非常に残念だが、間違った思い込みを信じているわけにもいかない。



2007年03月02日(金) 子どものころ

橋本さんのきょうの日記は「子どもに還るたのしみ」である。
あと数年で停年を迎え退職したら、「子どもの時間」を取り戻せる、
それが楽しみだ、というもので、共感しながら読んだ。

彼は、子どもの頃に抱いた夢として、小学生のころは雲に乗りたいと思い、
中学生のころは月面に立ちたい、と願ったことを書いている。
これに刺激されて、自分の夢を思い出してみたら、
これよりうんと小さいものだった。
しかし、小さいけれど、いろいろな意味で大それた夢であった。

小学生の頃(4・5年生の頃かな?)私がかなり長い間夢みていたのは、
怪獣の着ぐるみの中に入る俳優である。
あの、街やビルのセットを踏みつぶし破壊しながら暴れ回るのに憧れた。
あれを着たまま、時には水に入り、時には宙づりになるのにも憧れた。
しばしば、眠っているときの夢にも見た。

中1のとき、それまでGSに夢中だったのに、いきなりオーケストラの音楽
を熱心に聞くようになり、部活もバスケットから器楽合奏部にかわり、
コントラバスを練習し始め、前部長から指揮法の手ほどきを受け、
それからしばらくは、オーケストラの指揮者になるのが夢になった。
これはもう、かなり病的なほどの夢であった。
毎晩のように夢で見て、汗びっしょりになって起きる時期もあった。
オーケストラスコアを手に入れては、繰り返し聞き、時には指揮棒を振り、
それ自体が新たな発見に満ちた至上の楽しみで、研究しまくった。
このころは、音大には行けないことと、指揮者になる夢は、
私の頭の中ではまったく関係づけられてなかったので実に気楽な夢だった。

ついでに子どもの頃を振り返ってみると、さまざまな映像の断片が浮かぶ。
ほとんどが外であり、固定されないさまざまな遊び友だちである。
とにかく大らかな時代でもあったし、大らかな土地柄でもあったので、
今のように子どもがひとりで歩いていると危ないなんて雰囲気はなかったし
裁判所の中庭やお寺の境内で、子どもたちが野球をしてようが、
缶蹴りして騒いでいようが、虫取りをしてようが、お咎めなしだった。
寺の廊下に上がり込んでめんこをしていても、誰も咎めなかった。
冬には、崖の中腹のちょっとしたスペースや、城に登る車道を
勝手に自分たちのスキー場のようにして、滑って遊んでいた。。。
もちろん、同級生の友だちと約束をして家を訪ねることもあったわけだが、
向かいの家の年下と遊ぶこともあり、町内の雑多な年齢の集団の時もあり、
小学校の校庭に行けば、いろいろなことをやっているので、
適当にその中のひとつに加わったり、妹を連れて遊びに出ることもあれば、
兄とキャッチポールやバドミントンをしていることもあった。
どういう経緯や計画で、毎日の過ごし方が決まっていたのか思い出せないが
実に伸び伸びした気ままな毎日であった。

私の場合、その気ままな精神は高3まで続いてしまった。
学校の勉強などそっちのけで、音楽を聞き、楽譜を読み、楽譜を書き、
ギターやリコーダーを鳴らして遊んでいたし、
本を読みまくって、また文章を書きまくっていた。
さすがにそのころはもう、あまり外で遊ぶことはしなくなったけれど。。。

今の私は、といえば、「〆切」のない生活、明日が気がかりでない生活に
ひたすら憧れている。
とりあえずの予定では、あと9年はお預けであるが。。。
酒・煙草・夜更かしなど、身体のために良からぬことばかりやっているから
いつまで生きられるかわからぬというに。。。



2007年03月01日(木) 相変わらず IL DIVO

きょうは卒業式だった。
書類上はたいへん暇なはずだったが、実際はそうでもない。
開式前は駐車場係、式中は放送室に入って多少緊張を強いられる機器操作、
式後は30分ほど盗難防止のための校舎の見回り、
それから体育館で床に敷いていたシート巻き作業。。。
駐車場係以外は、書類に記されてないボランティアの仕事である。

午後から暇だから帰ろうと思えば帰れると思っていたけれど、
図書館関係の仕事を思い出したし、成績処理の準備などもしているうちに、
結局定刻になってしまった。
ここまでやっておけば、明日・明後日はちっとは暇かもしれないけど。。。

帰り道はイル・ディーヴォだし、帰ってからもイル・ディーヴォである。
かつてサラちゃんをしつこく聞いていたように聞いている。
ただ、サラちゃんの場合は、そう心惹かれなかった曲でも、
歌声に惹かれて聞いているうちに曲まで好きになるケースが多かったのに、
今回はまず選曲に心惹かれる。
それを、実にみごとな編曲と、歌声の変化で聞かせてくれるので、
こちらも容易には離れられないわけだ。
とにかく、美しいメロディーと情緒に満ちている。
1日の疲れを忘れさせてくれる。

普通はこういうヴォーカルのアルバムを聞いても、
聞く価値があると思われるのは2〜3曲である。
半分くらいは聞く価値があると思われればかなり儲けものである。
どの曲も聞く価値がある、というほどに思わせてくれたのは、
サラちゃんとイル・ディーヴォくらいである。
あとは、久石譲の「Melody Blvd.」くらいかな?
ピンク・フロイドの「狂気」と「アニマルズ」もそうだったけれど、
この2枚は組曲のような仕様だから、また別問題である。


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