TENSEI塵語

2007年02月28日(水) 風が吹き続ける

1日中強い風が吹いていた。
けれども、寒くてたまらぬほどではなかった。
雲ひとつなく晴れ渡り、午後には空に浮かんだ月がきれいだった。
実に澄み切った、5月か10月の晴れようである。

しかし、最近は、花粉症の話題が多い。
しかも、生徒の間で花粉症について大騒ぎしているのが珍しい。
授業中には教室の大きなゴミ箱を自分の席の隣に置いているやつもいるし、
掃除の時間には、動くのがつらいと訴えている子もいる。
例年よりも早く、例年よりも多く、花粉症でつらいという声を聞く。
澄み切った清々しい空気の中にいるように見えて、
案外その中に大量の魔の粉が飛んでいるのだろうか?
実際私も、夕方4時ごろ少し外に出たら、左目をやられてしまった。
花粉のせいかわからないが、ゴミというほど大きくないものが入ったようだ。
それから1時間ほどあまり気にせず体育館で明日の準備を手伝っていたが、
職員室に戻って机で仕事しようとすると、左目が痛かった。
ま、花粉でなくても、風が大量の埃を運んでいることは確かだろう。


夜、10時過ぎにちょっと横になったら、そのまま眠ってしまい、
目が覚めたのが3時前、、、中途半端な眠りである。

日中の風が寒気を運んできたのか、かなり冷え込んでいるようだ。
高校の卒業式は寒い中で行われるという宿命にあるらしい。。。



2007年02月27日(火) 人権メタボ症候群?

どうもよくわからない。
どの記事を読んでも詳しく書いてない。大体こんな程度だ。

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伊吹文明・文部科学相は25日、長崎県長与町で開かれた
自民党長与支部大会で「教育再生の現状と展望」と題して講演し、
「人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になる」
と発言した。また、
「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。
極めて同質的な国」などとも述べた。

伊吹文科相は、人権を「侵すべからざる大切なもの」としたうえで、
バターに例えて発言。
「権利と自由だけを振り回している社会はいずれだめになる。
 これが今回の教育基本法改正の一番のポイント」と持論を展開した。

「同質的な国」発言の前段では、イラクを例に出し
「宗教的対立が激しいと、同じイスラムの中でも宗派が違うだけで
 あれだけ厳しく対立する」とし、
日本を「宗教的に極めて自由かったつな国民が作っている」と述べた。
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まずわからないのが、「同質的な国」と「人権」云々の関係だ。
これらはどういう流れで結びついていたのであろうか?
報道する人が、問題発言だけを抽出しているだけであろうか?

まず、「同質的」とはどういうことであろうか?
俺はお前らと「同質」じゃねぇぞーー(`ε´)
自分たちが自爆テロの脅威にさらされてないからと悠然としているが、
それは我々の、血を流さないことを願う理性のおかげであって、
彼らに我慢ならんことはいくらでもあるのだ。

「人権」というべきかどうか疑問だが、
権利の上にあぐらをかいてメタボリック症候群になっているのは、
税金も含めた大金を、杜撰に運用し無駄遣いして、
それを無駄遣いと思っていない彼らの方なのでは?
そしてまた、どんな手を使ってでも金持ちになり、地位を得た、
勝ち組を徹底的に賞賛し、
一生懸命働いていたのにリストラされた負け組には「自己責任」、、、
庶民の願いは、一生懸命働いて正しく生きていれば、
死ぬまで生活に困ることはない、というたったそれだけのことなのに、
彼らの競争原理は、勝者の価値にしか目が行っていない。
とにかく、彼らの「自由民主」とは、自分たちに大金を献上してくれる
金持ちの好き勝手にさせて、自分もその恩恵に預かって豪勢な生活をする、
それ以外にないのだから。。。
それが彼らの「権利メタボ症候群」である。

彼らは病的状態にあるから、何の変哲もない人間が権利だの人権だの、
そんなことを訴えるのはちゃんちゃらおかしいのだろう。

・・・きょう書きたかったのはこんな話ではなかった。
教育現場における人権と、教育行政における人権について書きたかったのだ。
もう遅いので、また後日。。。



2007年02月26日(月) 誤算で夜中まで仕事

ここまでのテストの採点を終わらせることができた。
あとは、明日、2年の古典の50人分ほどの答案が入ってくる。
しかし、きょうはとりあえず暇だ、、、というわけで、
まず「4400」の続き1話分を見た。
それから、、、、

ふと、去年の卒業式のBGMのCDはどうしたっけ、、とおもいだした。
探したけれど見つからない。
しょうがないから作り直した。
ついでだから退場の曲も変えてみようと思って、
また何曲も聞き直すはめになって、遅くなってしまった。

まったく何やってんだか、、、係でもないのに。。。



2007年02月25日(日) 日本語の語順 補足

昨夜、一昨日届いた「4400 シーズン2」を見始めた。
きょうも、続きを数話一気に見たかったが、なかなかそうは行かない。
娘の車の初回点検をしないまま2カ月も過ぎてしまったので、
午前中にそれを車屋に持って行き(娘はバイトで朝から出かけてた)、
本屋にも寄り、スーパーで食料品を買い込んで帰った。
最近、平日の食事については、買い物も作るのも娘に任せっきりなので、
買い物もかなり苦手になって、やたらと時間がかかるようになってしまった。
帰宅後は、採点と昼寝である。
夜の10時過ぎまでに、4時間余りは採点できたかな。。。

車屋で点検が終わるのを待つ間も、一昨日から読んでいる
「日本語学のしくみ」(加藤重弘)を読んでいた。
「日本語文法のしくみ」(井上優)もそうだったが、
幅広い用例で、いろいろな学説を紹介しつつ、
慎重な展開をしているので、今の私には実に心地よい語学書である。
知識もだけど、考える材料を次々に与えてくれるのである。
私は正月以来、橋本さんが書いていることに対し、
(それは彼の論に限らず、多くの人に認められた説に対してでもあるが)
こういう場合はどうだ、またこういう場合にもそう言えるのか、みたいな
そんな風に言っちゃって、ホントに真実と言えるの? という問いかけを
しばしばやって来たわけだが、今読んでいる「日本語学のしくみ」の用例は
私がまだ思いもしないような用例を挙げて分析していくのでおもしろい。
きょう読んだところでは、「〜は」と「〜た」の分析がおもしろかった。

店の片隅のテーブルで本を読んでいると、時々中断させられる。
話しかけられたり、新しい客が妙に騒々しかったり。。。
そんなのがきっかけで、パラパラと前のところをめくってみたりする。
一昨日読んだ、最初の方を読み返した。
そういえば、一昨日はこのことについて書こうとしていたことを思い出した。
イル・ディーヴォのライヴの印象で忘れてしまったのだ。

この本の最初は、「日本語は世界的に見て『変わった言語』か?」である。
そりゃあ、文字を見れば、実に特異な言語だと、私はずっと思っている。
その上、つい先日まで、語順も「変わった言語」だと思っていた。
しかし、先日考えを改め始めた。
こっちの方が自然で、SVOの方が作為的でいびつなのではないかと。。。

世界の言語のうち、半数近くはSOV型なのだそうである。
SVO型は3分の1程度なのだそうである。
Vが先に来る言語も1割方あるそうである。
Oが先に来る言語はきわめて少ないそうだ、、、があるらしい。
紹介されてないが、語順など定められない言語もあるのかな?

私が悩んだ点であるが、この人はさらりと書いている。
SVO型では前置詞を使うことが多く、
SOV型では後置詞を使うことが多い、と。。。
英語の形容詞は名詞の前に置かれるのが普通だけれど、広く見れば、
SOV型では名詞の前に形容詞が置かれることが多く、
SVO型では名詞の後に形容詞が置かれる傾向がある。
これはフランス語を勉強し始めた時に驚いたことのひとつだ。
何で形容詞が後に来るの?(常にではないが)という風に。。。
これと関連して、
前置詞言語では「〜の」が後に置かれ、後置詞言語では前に置かれる、
これは当たり前なんだけど、
英文法で言う「関係節」に当たるものが、後置詞言語では前に来る、
つまり、関係詞などいらない連体修飾関係で済んでしまう、、、
この点など、何と合理的ではないか!
もっとも、日本語の古文にも、この英語の関係詞とそっくりな
「同格の『の』」というものがあった。

そうして、さらに考えた。
昔は「え行かず」などと言った。
「え」は助動詞ではないけれど、「can」と同じ位置である。
「何をしようか」と言う時に「何をかせむ」と言った。
「道長はいるか」と言う時に「道長やある」と言った。
これは質問だぞ、ということを示すために、
質問だということを動詞の前に明示したのである。
今から思うと、実にめんどうな手続きをしていたものである。
この構造は、SVO型言語の精神と似ている。
しかし、千年近い変遷の中で、日本語はこういう語法を捨てた。
そして、最後まで聞かないとわからない、聞き手にとって要領の得にくい
言語へと成長し続けているのだ。
しかし、古代の日本語は決してそんな精神ではなかった。
後置詞言語であり、結論先延ばしの宿命を負わされながら、
できるだけ聞き手にも親切な語法を取っていたと言えるのではないか?
しかし、生活形態が複雑になり、人々が忙しくなるにつれ、
「語りやすさ」が優先されるようになるのだ。
それは日本語だけではない。
SVO型だって、語りやすさ、聞きやすさの代償として、
そういう語順が定着してきたに違いないのだ。

まったく違った言語体系でも、意識の基本は大差ないようだ。




2007年02月24日(土) 「子音語幹/母音語幹」をめぐって

研究社が出している「シリーズ・日本語のしくみを考える」(町田健・編)
の「日本語文法のしくみ」(井上優)を一昨日読み終わって、
「日本語学のしくみ」(加藤重弘)を読んでいるところである。

「日本語文法のしくみ」を読んでいた中でもっとも興味深かったのは、
動詞の活用について、「五段活用/一段活用」という種別でなく、
「子音語幹/母音語幹」という種別をする考え方があるということだった。

   読 ま  せる     yom  aseru
   読 み  ます     yom   imasu
   読 む         yom  u
   読 め         yom   e
   読 も  う      yom   ou
             (子音で終わる語幹)

   変 え  させる    kae   saseru
   変 え  ます     kae   masu
   変 える        kae   ru
   変 えろ        kae   ro
   変 え  よう     kae   you

     着  させる     ki   saseru
     着  ます      ki   masu
     着る         ki   ru
     着ろ         ki   ro
     着  よう      ki   you
             (母音で終わる語幹)

なるほど、この「子音語幹/母音語幹」という種別はすっきりしている。
「上一段活用」の「着る」や「見る」などは「語幹なし」ということになる
が、「母音語幹」の方では「ki」という語幹を持つことになる。

この比較を通じていろいろなことを考えてしまう。

「着る」の活用は「き・き・きる・きる・きれ・きろ」なのか?
「変える」の活用は「え・え・える・える・えれ・えろ」なのか?
実は「着」や「変え」に、いろいろな語をつけているだけではないか?
だから、「変える」「変えろ」ではなくて「変え - る」「変え - ろ」
「着る」「着ろ」ではなくて「着 - る」「着 - ろ」ではないのか。。。
つまり、基本形は「変え」「着」で、それに「る」のついたまとまりを
文の中の位置によって、終止形とか連体形とか呼んでいるだけだ。。。

そうなると、「読む」の基本形は、実は「読m」ではないか、、、と。。。

その時私は、実は、現代語について考えていたのではない。
現代語でこれを考えるとややこしくなるような気がしたのだが、
(長年の間に習慣化され、さらに変化してきたものだからだ)
古語を思うと、いろいろ思い当たる節があるのである。

例えば、完了・存続の「り」は、直前に「e」の母音を要求する。
それも、当時の仮名文字の使われ方から、特殊な「e」音だったらしく、
「四段活用の命令形かサ変の未然形」の後に来ると言われている。
だとしたら、「り」は実は「eり」でなければならない。
同様に、受身や自発の意の「る」(今の「れる」)は、
直前に「a」音を要求して、四段活用・ナ変・ラ変の未然形につく。
使役の「す」(今の「せる」)も同様である。
だから、「る」も「す」も、実は「aる」「aす」だったかもしれない。
つまり、「読m - aる」「読m - aす」である。
そして、四段活用系の動詞でない場合には「r-aる」「s-aす」が、、、

と考えるうちに、私の頭は次第に混乱し始めた。
そもそも、二段活用というのは母音語幹か子音語幹か、と考え始めたからだ。
もしそれも子音語幹だとすると、「iらる」「eらる」があったことになる
し、「ず」ひとつとっても「aず」「iず」「eず」の3種があったことになる。
これは却ってややこしいばかりでなく、
どのようにそれを付け分けていたのか、法則性も見えにくくなる。。。
下二段活用には「得」「寝」「経」のようないわゆる「語幹なし」の動詞が
あるから「母音語幹」で考えていいのかな、とも思ったけど、
今のところ私の中では整理しきれない問題のような気がする。

しかし、おもしろいと思ったんだけどなぁ。。。
なぜ「あり」だけが基本形が「あり」となってラ変活用なのか、
実は「あr - eり」の「あれり」を文の最後でよく使っていて、
それの縮まった「あり」が定着して終止形とみなされた、などと
大発見をしたつもりにもなっていた。
(これは以前にも「あれ - り」として考えたことがあったけれど、
 じゃ、うんと昔は「ある」だったのか、と言われたら困ると思っていた)

また、古代日本人は、動詞を活用変化させたのではなく、
動詞も、名詞の後に助詞をつけるのと同じで、
同じ語の下にいろいろな言葉をくっつけただけだ、
ということにもなるかもしれない、という期待もあったのだ。
しかし、そうなると、助動詞や形容詞でも同様のことを考えねばならない。
これはそうとう厄介なことになってしまう。。。

古語には「にあり」が「なり」になり「ずして」が「で」になるとか、
音の変化という点でおもしろい現象が既に多く起こっているし、
「因縁」とか「三位」とか、「n」や「m」の子音がくっついたりする例も
しばしばあったようなので、案外、子音が口元で活躍したかもしれない、
という考えも浮かんでしまったわけだ。
そんなわけで、先日おもしろがってしばし考えていたのだけれど、
早々に頓挫である。

もう少し勉強してから、それでも尚考える価値ありと思えたら
また考えてみることにしよう。


ついでながら、今朝読んでいたところに、「です」「ます」等について
書いてあったので、先日ばらばらに調べたことではあるけれど、
メモし忘れていたので書いておこう。

「です」は「にて候ふ」→「んで候ふ」→「で候ふ」→「です」
「ます」は「参らす」と「申す」の転。
「〜た」は「たり」の転。
「〜う」は「む」の転。
「〜だ」は「にてある」→「である」→「であ」→「ぢゃ」または「だ」


これもまたついでながら、助詞の「へ」はもともとは名詞だったので、
「学校にの道」とは言えないけど「学校への道」とは言える。
そういえば、「方」とか「辺」を「へ」と読む例が多いもんなぁ。。。
名詞も助詞にしてしまうとはねぇ。。。

あー、ちょっとめんどくさくなってきたから、昼寝でもしようっと。


   
   



2007年02月23日(金) IL DIVO ライヴDVDを見た

男どものライヴなんて興味ねぇぞ〜、と思いつつDVDを注文してしまい、
きょう帰ったらそれが届いていたので、ちょっとだけ見てみようと
見始めたら、結局最後までやめられずに見てしまった。

画質もあまりよくないし、音質もよくない。
ミキシングもうまく行ってなくて、歌声のバランスがよくない。
CDは実に完成度高いが、こちらはかなり音楽的に楽しむには劣っている。
名曲「もし僕を愛してくれたなら」など、伴奏に乗ってもいなかったので、
ますます残念だった。
それでも途中でやめられず、最後まで見てしまった。

もちろん、サラちゃんのライヴを何度も繰り返して見たときの、
音楽+容姿の魅力みたいな、容姿にも惹かれたからではない。
また、サラちゃんのライヴのように、バックにダンサーを置いたり、
格別に凝った演出をするわけでもない。

それでもおもしろかった。
もちろん、まず第一にいい曲が次々に聞けるという良さがある。
それは基本だ。曲がつまらなかったら退屈で退屈でしょうがなくなる。
興味深いのは、彼ら4人がどう歌い分けているかということや、
どんな風にそれぞれの個性を発揮しているかということである。
とりわけ、ディヴィッド・ミラーの熱唱はすごい。
「ビリーヴ・イン・ユー」ではセリーヌ・ディオンのパートを
テノールで歌いきってしまった。。。
とにかく、いろいろなところに感心してしまうのだ。

そして、ライヴならではの、観客のさまざまな反応。
1曲ごとに立ち上がって拍手を贈る観客たち。
そう若くもない歌い手たちを、そう年配でもない女性たちが
熱っぽく見つめ、笑顔で手を振り、握手を求め、、、
一方で、騒がないけれど、目に涙をたっぷり溜めて見つめてるおばさんたち。
私が想像していた以上に世界の女性たちを熱狂させていたようだ。。。



2007年02月22日(木) 日本語の語順とSVO

正月以来、橋本さんに刺激を受けながら日本語についてしばしば考え、
本当におもしろい問題がいっぱいあるもんだと今さらながら驚く。
国語を教え始めて25年も過ぎたが、あまり熱心に考えなかった。
ちょっと悔やまれるところだ。
時折、場当たり的に考えなきゃいけないこともあって、
そうした断片的思考の積み重ねがないわけではないけれど、
もっといろいろな問題意識を持ち続けていたら、
もっとおもしろかっただろうに、、、という後悔があるわけだ。

英語やフランス語と比べて、日本語は実に要領の得にくい語順だなぁ、と
つくづく思ったことがあるが、
そのために日本語がどういう性格を帯びるかについて考えたことはあっても、
そもそもなぜそんな語順を取るようになったのかは考えたことがなかった。もちろん、日本語は、助詞や助動詞のつけ方さえ間違わなければ、
(つまり、いわゆる文節単位、あるいは先日私が気に入った
 直接構成素単位さえ、しっかりできていれば)
どんな順序に配列してもそう不都合がないわけだが、
たいていは述語部分が最後に来るという構造について考えてみたわけだ。

その答えは簡単であった、、、用言に終止形があるからである。。。
しかし、「終止形」というのは、使われ続けてきた日本語を後から眺めて
そう名づけたに過ぎない。
考えなければならないのは、実際に話していた人々が
そう語らねばならなかったのはなぜか、ということである。

そこで、活用語がどのように作られているかを調べなきゃいかんかな?
などと思って、いろいろに思いをめぐらせていたのである。

ところが、ふと思ったのである。
「〜が。」「〜に。」「〜を。」、、、等々では「きちんと」終われない。
こういう語は、後に何かを要求している。

太古の人々は最初はそんなことを気にしなかったかもしれない。
これはあくまでも想像であるが、最初は助詞などなかっただろう。
かろうじて単語だけがいくつか作られ始め、(めんどうなので現代語で)
  やま のぼる わたし
  のぼる わたし やま
  やま わたし のぼる
などと適当に並べてとりあえず通じていたのではないかと思う。
ところが、つぎのようなパターンになると困ってしまう。
  あなた ころす かれ
  かれ ころす あなた
  ころす あなた かれ
これではどちらがどちらを殺すのかわからない。
それで、次第に「格」を明確にしつつ言語が発達したのだ。
西欧語は名詞自体を変化させることによって格を表したし、
前置詞を用い、助動詞も動詞の前に置いて表現を豊かにした。
日本語は名詞は変化させず、助詞を後につけることによって格を表し、
動詞・名詞・形容詞の後に助動詞を置いて表現を豊かにした。
これで、
  ころすだろう あなたを かれが
と言いさえすれば誤解なく通じるようになったわけである。

しかし、「〜を」や「〜が」は後に何かを要求する雰囲気があり、
「ころす」や「〜だろう」はもはや何も要求しない雰囲気がある。
これは言語そのものだけでなく、意識の必然と結びついた自然の成り行きだ。
基本的な構造が、
  あなたを かれが ころすだろう
  かれが あなたを ころすだろう
式になるのに、そう時間を要しなかったに違いない。

西欧語も、格変化の厳格だった時代はこういう語順だったそうだし、
日本語と同じく比較的自由に語を並べていたそうだし、
日本語と同じく主語が省略されることもしばしばだったそうだ。
とすれば、不思議なのは日本語の語順でなく、
現代の英語に代表されるSVO式の語順の方なのだ。

英語の語順が今のような形に落ち着いてきた理由は、
格変化が次第に曖昧になり、無きに等しい言語環境になってきたためだろう。
それにしても、なぜSOVではないのか?
  He me loves.
ならまだいいけれど、
  I you love.
みたいになると、耳で聞いている分にはちょっと具合悪い。
人称代名詞にはまだ目的語になる格があってまだいいけれど、
普通名詞や固有名詞にはそういう格がないので、
動詞を挟む形で分離して、分かりやすくしたのだ。

フランス語も基本的にSVOであるが、
目的語が人称代名詞の場合はSOVである。
  Je t'aime. (I love you.)
  Je vous remerci. (Thank you. の丁寧な言い方)
イタリア語でもこういう場合は
  Io ti amo.
とSOVである。
先日まで、英語とフランス語のこの点での違いは、
フランス語の人称代名詞の目的格が、ム、トゥ、ル、ラ、ヌ、ヴ、レと、
1音だけで軽快で、語呂がいいからとだけ考えていた。
しかし、それだけではなく、格が明確になっている限り、
人間の意識はSOVの語順を自然に求めるのではないかということである。
残念ながら、私には西洋語の感覚がよく飲み込めないので、仮説である。
(あ、でも、vous だけは主格・目的格とも同じだなぁ、、、)

それにしても、なぜ日本語が後置詞を用いるようになったのか、
(それと同様に)助動詞をなぜ単語の後に用いるようになったのか、
それこそが最大の謎だ。
そして、名詞や代名詞はそれらと結びつくために活用を要せず、
動詞や形容詞はそれらと結びつくために活用させられた。
単語を変化させるということと無縁な言語でもないだろうに、
名詞を変化させて格を明示するのでなく、助詞をつけてそれを表した。
動詞だと、たった1字の動詞でも、まったく姿を変えてしまっている。
それなのに、名詞を格変化させることは避けて、助詞を用いた。
それはなぜかというのは、どう考えても大いなる謎である。
今、我々の目から日本語を冷静に眺めると、
助詞や助動詞の働きは実に合理的に見えるのだが、
西欧語の前置詞というのも、同じくらい合理的に見える。
それはなぜだろうか?
そのためには「慣れ」の視点から1度出てみなければならない。
実に難しいことだ。






2007年02月21日(水) 暇な1日は雑然と過ぎる

試験問題はもうとっくに印刷してあるし、まだその試験日は来ないので、
試験作りもなく採点もない暇な日のはずなのだが、雑用は多い。
朝から、1時間の試験監督と昼食を挟んで、1時半ごろまで
多読賞などという不本意な表彰用の賞状を作った。
去年作ったから今回はさっさとできてしまう予定だったが、
去年と同じようにパソコン室のプリンターに私のちびバイオをつないでも
まったく反応してくれないので、パソコン室のマシンにファイルを移植して
微妙なレイアウトをまたやり直さなきゃいけなくなって時間がかかった。

超過勤務の振替をもらって早々に帰宅したけれど、
図書館報の写真の選定だの、また、別のページに差し込むデータ作りだの、
市吹の定演プログラムの原稿の整備だの、なかなか余暇とは行かないものだ。
ただ、夕方トイレ掃除しようと思って階下に下りて行ったら、
たまたま子ども(というべき年齢ではないけれど)が使用中だったので
ベッドに横になったら、そのまま1時間半ほど昼寝をしてしまった。

昼食に出て、最近少しずつ読んでいる「日本語文法のしくみ」を読んだ。
研究社が出している「日本語のしくみを考える」シリーズをほとんど買った
ので、これをとにかくひと通り読んでやろうと思っている。

きょう読んでいたのは、動詞の活用に関するところである。
五段活用と一段活用というとらえ方以外に、
子音語幹と母音語幹というとらえ方もあることを知って驚いた。
外国人に教える場合には後者を採用することが多いそうである。
また、文の構造について、さまざまな学説があることにも驚いた。
しかし、先日考えた、日本語の語順についての論は見あたらない。

今夜はその日本語の語順について書こうとしたのだが、
余計なことを書いているうちに遅くなってしまった。
題名も変えて、後日に回そう。



2007年02月20日(火) きょうは4月か5月か

10時ごろまでは微風にも寒さを感じていたが、
11時半ごろ外に出たら、あまりの暖かさに驚いてしまった。
空は雲ひとつないほど晴れ、風もなく、散歩日和というより、
自転車に乗ってあちこち走り回ったら気持ちいいだろうなと思わせる。
休暇をとって帰れないのが返す返すも残念だった。
4月や5月でも、こういうさわやかな冷ややかさを残した暖かい日が
何日も続いたりするものである。
その頃にはかなり薄着になっているのでちょっと肌寒く感じたりするものだ。

昨日は終業時刻にさっさと出て、
図書館に入れている雑誌の入れ替えの調査のため本屋に寄ったのだが、
その途中、車の中でイル・ディーヴォを聞こうと、
今まで入りっ放しだったCDを取り出そうとしたら、
空回りみたいな音がして、何度試みても出てきてくれない。
どうにもしょうがないので、きょうも終業時刻にさっさと出て、
車屋に走って診てもらった。
メーカーに修理に出さないといけないようだ。
こんなことは初めてだ。
車からオーディオを取られるのは淋しいな、と思って困ってたら、
ありがたいことに、代わりのオーディオを取りつけておいてくれた。

車屋を出て、さっそくイル・ディーヴォのCDを入れて聞きながら帰った。
それにしても、衝撃的な1曲目だなぁ、と改めて思った。
これが彼らのファーストアルバムなのだ。
2年余り前のデビュー直後、全英チャートで第1位になったころ、
彼らのCDを手に入れた人々の多くはこの曲から聞き始めたのだ。



2007年02月19日(月) ますます IL DIVO

なぜこれほど惹かれるのだろうか?
今までの男声シンガーに対する聞き方とまったく違っている。
今までも、好んで聞いた男声シンガーは何人かいる。
XJapan、さだまさし、サザン、、、
フランスだとアズナブールとかレオ・フェレとか、、、
ロックだとピンク・フロイド。。。
もちろん、オペラのアリアの男声の物にも涙するものが幾つもある。
去年や一昨年あたりは韓ドラのBGMのヴォーカルも好んで聞いていたし、
単発だったら、今までいくつもあるにはある。
しかし、こんな風にアルバム3枚を取っ替え引っ替え聞かずにいられない
なんて、それほどの聞き方をしたことはあまりない。

とにかく、選曲が、私の好みに8割方しっくり来ているのだ。
私と正反対の性格の人だったら、湿っぽ過ぎるぞと文句言うかもしれない。
しかし、私はかなり感傷的な曲を好む性格なので、
こういう選曲をかなり気のきいた選曲だと感心してしまう。
そういう曲が、彼らの歌だけでなく、伴奏の編曲も実にみごとに演奏される。
この完成度の高さに感心してしまうのだが、これに匹敵するのは、
ピンク・フロイドの「狂気」「アニマルズ」くらいだと思う。

彼らのコンサートDVDまで注文してしまった。
今までの私にはほとんど考えられないことである。
Xjapan のDVDは2〜3枚買ったし、
ピンク・フロイドのDVDも一生懸命探したりした。
しかしそれは、実際どんな風に演奏しているのだろうという興味のためだ。
しかし、今回はそういう興味はそれほどない。
伴奏オーケストラがいて、それをバックに彼らが歌っているだけだ。
彼らの容姿に惹かれているなんてことは、まったくない。

ただ、こういう演奏の並んだライヴの雰囲気に参加したくなったのだ。
今ももちろん聞いているのだが、聞くたびにその良さを確認する。



2007年02月18日(日) きょうは1日練習

きょうは市吹の1日練習で、朝は時計に起こされて出かけ、
(私は、1日目の休日はゆっくり寝られずに急かされるように目が覚め、
 2日目以降にやっとゆっくり眠れるようになるのだが、、、)
来月の定演の会場を借りての1日練習だった。
会場練習というのは、私が客席から聞きながら、
観客の立場で聞いたらどう聞こえるかをあれこれ検討しながら、
バランスや奏法を修正する練習である。
実質的な練習時間は4時間ちょっとなので、十分なことはできないが、
前夜の会場リハの時に、こんなはずではなかったと焦るよりはありがたい。

例年ほど疲れなかったな、と思いつつ帰ってきたのだが、
結局、9時ごろに横になったらそのまま3時間も眠ってしまった。
続けて眠ろうとしたが、どうにも眠れなかった。
明日はいつもより早く出なきゃいけないのに困ったものだ。

寝直しを急がなきゃいけないので、今夜はちょうど1カ月前ということで、
例年のごとく、演奏会の宣伝を貼りつけて済ませておこう。


     第25回定期演奏会のお知らせ

日時  3月18日(日) 午後1時開場 1時半開演
会場  岩倉市体育文化センターホール
入場料 無料
指揮  私

プログラム
【第1部】
1 映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」よりメドレー
2 オリエント急行
3 ミュージカル「ミス・サイゴン」メドレー

【第2部】
1 ディスコ・ヒット・メドレー
   ソウル・トレインのテーマ〜愛がすべて〜ハッスル
2 お砂糖ひとさじで(映画「メリー・ポピンズ」より)
3 アニメ「ゲド戦記」メドレー
4 刑事ドラマメドレー
   太陽に吠えろ〜Gメン'75〜はぐれ刑事純情派〜西部警察Part2
5 ラプソディー・イン・ブルー(ポップスヴァージョン)
おまけ 最近のヒット曲2曲



2007年02月17日(土) 再び IL DIVO

昨夜、3日前から繰り返し聞いている「IL DIVO Ancora」をiTune に
放り込んでそのまま聞いていたら、画面下に出るストアの関連項目に、
イル・ディーヴォのCDが3枚現れた。
そのセカンドアルバムの「アンコーラ」はもちろんのこと、
ファーストアルバムも、最新のサードアルバムも出ていた。
な〜んだ、ここで買えたのかぁ、、、というわけで、
さっそく昨夜ファーストアルバムをダウンロード、
きょうはサードアルバムもダウンロードして聞いている。

すばらしい!!
充実の3枚だ!!

まず第一に選曲がよい。
第二に編曲がすばらしい。
伴奏のオーケストラやギターの演奏にも魅せられる。
そして、何と言っても、声と歌唱が不思議な魅力である。

テノール2人、バリトン1人、ポップス歌手1人という取り合わせに、
実は、実際に聞く前はほとんど期待していなかった。
しかし、その4種類の声が醸し出す雰囲気が何ともいえないのだ。
とりわけポップス歌手の存在が大きい。
情緒的な曲だと、まず彼が雰囲気を作ることが多いようだ。
クラッシック畑のうちのひとりは、ポップスとの中間の雰囲気だし、
クラッシック畑のあと2人は、柔・剛自在の声を聞かせる。
ソロをつないで行く場合もあり、二重唱あり、四重唱あり、、変化があるが
4人がみんな声質が違っているのもおもしろい。
歌唱力を十分評価された4人だから、
静かな部分も情熱的な部分もたいへん聞き応えがある。
だから、アヴェマリアとかマイウェイとか、おまけの聖夜にしても、
もう聞き飽きたぞーー、と思いながらも、ついつい聞き惚れてしまう。

サラちゃんはそういうことをひとりでやっていてすばらしいのだが、
それが4人であっても、だから劣っているというわけではない。
とにかく、この新奇な4人グループによるポップスも、
1曲1曲が実によく練られ、完成度が高いのだ。
いい曲を次々にいい演奏で聴かせてくれる、こんなありがたいことはない。


さーて、、、明日は1日中市吹の演奏会会場での練習だし、
きょうの夜から明日の夕方までは吹奏楽漬け。。。
きょうの午後は、たくさんある変拍子の部分を暗譜したり、
会場で聞いてみて確認する要所要所を前もって検討したりしなきゃならない。
そういう合間合間にはイル・ディーヴォが入り込んでくるだろうから、
この2日間は、まったく音楽漬けの休日になりそうである。



2007年02月16日(金) 不思議な日本語

英語やフランス語の動詞の基本形は現在形だが、
日本語の動詞の基本形は、たいていの場合、現在形でない。
「本を読む」「風呂に入る」は現在のことを言っていない。
それは、「これからする」ことを指しているか、あるいは、
不特定な過去から不特定な未来までの、繰り返し、または、習慣的に
行われる行為を指している。
現在形は「読んでいる」「入っている」である。
「読まない」「入らない」も「読む」「入る」と同じ扱いだろう。
現在形の否定形は「読んでいない」「入っていない」だろう。

・・・あれ? 「読んでいない」が○? 「読んでない」が○?
今ふと気づいてしまったが、このあたり、私の認識はかなりいい加減だ。
いやいや、「読んでいる」の否定形だから「読んでいない」が○だろう。
今では「読んでる」「読んでない」の方がよく使われてしまっているが、
こういうのは「い抜き表現」とでも言うべきか?
「この本読んだ?」という問いに「読まなかった」と答えることは少ない。
たいていは「読んでない」と答えるが、この場合に、「読んでいない」と
「い」をしっかり発音することはないような。。。

「知る」という動詞はそういう使い方とはちょっと違っている。
「これから知る」という時に、「知る」を単独では使わないようだ。
「今からこの本を読む」「今から風呂に入る」とは言うけれど、
「今から株を知る」「ソクラテスについて知る」などとは普通言わない。
「毎晩寝る前に小説を読む」「毎日帰宅後すぐ風呂に入る」と言うけれど、
「毎晩夕食後に株を(または株について)知る」とは言いにくい。
たいてい「知る」を使わずに「勉強する」とか「調べる」とかを使う。
これは「知る」という語が多分に「結果」を含んだ語だからだろうか?

現在形は「知っている」「知ってる」であるが、
現在形の否定形は「知っていない」でなく「知らない」である。
「そんなこと知っちゃいねぇ」という言い方もあるが、
通常は、「知ってる?」に対して「知らない」と答える。
これは不思議である。
しかも、この場合、現時点だけを表現しているのではなくて、
過去の時間的な厚みも伴っている。

もっと不思議なのが「わかる」である。
「わかっている」も「わかって[い]ない」も現在形として使っている。
しかしそれは特殊な場合というか、過去を含んだ表現だ。
もっとも典型的な現在形は「わかった!!」であろう。
見た目は過去形(完了形)だが、意味の上では「今わかっている」である。
「わかった?」「わかった」
「わかる?」「わかる」と、これらはどちらも「今」のことを表す。
そういう意味で、上に挙げたような動詞と使い方が異なっている。
「読んだ?」「読んだ」「入った?」{入った」
「読む?」「読む」「入る?」「入る」はどれも「今」を表さないし、
「知った?」「知った」「知る?」「知る」などという問答は、
おそらく日常会話ではほとんどなされないはずである。

何と精妙な使い分けであろうか。
部品の使い方は同じでも、部品をさまざまに使い分けているわけだ。
こういう使い分けに法則性があるのかどうかは、
もっと多くの動詞の使い方を見て、分類してみなければならない。
しかし、とりあえずこれだけは言えるかもしれない。
助詞や助動詞にかなりの法則性は見られるものの、
それらを画一的に当てはめて言葉を使ってきたのではなく、
動詞の実質的な意味やイメージなども直感しつつ使い分けてきた。。。



2007年02月15日(木) 冬になった

きっとまた寒くなる、と思っていてもいっこうにそんな気配がなく、
例年よりうんと暖かい日が続くばかりで2月も半ばになったので、
このままひたすら春に向かいそうな気がしていた。
朝家を出るときに防風ジャンパーを重ね着して出るのだが、
最近の陽気を思うと今朝は迷って、、、迷ったけれど、
窓の外が何となくどんよりしているので、念のため羽織って出た。
すると、厳寒を出るなり、冷たい空気に襲われ、みぞれが降りしきっていた。

きょうは1日中冷たい雨が降ったりやんだりで、冷たい風が吹いていた。
「冬らしくなったね」と、2月らしくない挨拶を交わした。

毎日ばったばたの忙しさである。
しかし、今夜は虫プロアニメの「どろろ」を見た。
全26話中の最初の4話を見た。
こういう連続TVアニメをセット製品として編集する際に、
オープニングタイトル・エンディングタイトルや予告編など、
適度にカットして、もうちょっと落ち着いた仕様にできないのかと思う。
これは30分番組だったから、20分ちょっとの展開ごとに
予告編・エンディング・次のオープニング、、と煩わしい。
もちろん、パターンが見えてきたら、トラック飛ばしで省略するのだが、
そんなことしなくても、少なくとも連続する話は連続させてほしいものだ。

百鬼丸は、あまりにも悲しい、権力欲の犠牲者だ。
きょうの感想はここまでだ。

「どろろ」の後は、リアルタイムでも毎回楽しみに見ていた
「悟空の大冒険」を見る予定である。



2007年02月14日(水) IL DIVO のCDを聞いた

先日の土曜日に市吹に行く前に夕食のために寄った喫茶店で流れていた歌が
カンツォーネのようでもあり、そのわりにはイタリア語らしくないし、
この情緒は最近の韓国のポップスの雰囲気でもあるけれど、
どう聞いても韓国語よりはラテン系の発音に聞こえるし、、、
とにかくその数曲がメロディーや情緒の点でなかなか気に入ったので、
レジで店員に歌い手を尋ねてみたら、フリオ・イグレシアスだとのこと。。
懐かしい名前だ。
あの、騒がれていた時代にほとんど聞いたことがない。
ちょっと興味が湧いて一昨日ベストアルバムを注文した。

その時、送料無料にするためにつけ足しで選んだのが、
イル・ディーヴォという4人グループの「アンコーラ」というCDである。
その時初めてその存在を知ったのだ。
いくつかのサイトを検索して、かなり絶賛されていることを知った。
しかし、ためらったのは、、、男ばっかなんだだもんなぁ。。。
しかも、クラッシック畑が3人とポップス畑が1人ということらしい。
それでも、いろいろなレビューを読んでいるうちに期待を抱いて、
とにかく1枚聞いてみようかという気になって注文した。

イル・ディーヴォのアルバムは期待を遙かに越えていた。
個々の声が格別魅力的なわけではないが、
そのアンサンブルの妙味というか、何とも言えぬ味わいがある。
選曲も、そのアレンジもすばらしい。

今夜は、フリオ・イグレシアスを聞きながら来週の試験を作り終え、
風呂に入って、「ハケンの品格」を見て、
それからこのイル・ディーヴォのアルバムを2回繰り返して聞いた。
また新しいタイプのいい音楽に出会えた。



2007年02月13日(火) 「だ」「である」「です」の謎

今朝は資源ゴミ出しに走り、いつもより遅い時間に職場に走り、
3時間連続授業をして、昼から吹連の会議で鶴舞に走った。
慌ただしい1日だった。
最近は吹連の理事会に出ても、座ってぼんやりしていられないから尚更だ。

「あれは何だ?」「ウルトラマンだ」の「だ」はもともと何か、
ちょっと疑問に思って広辞苑を見てみたら、
「〜にてある」が「である」となり、「であ」が「だ」になったと言う。
一方では「なり」というのも近年まで使われていて、
(そろばんの練習などで1円なり、2円なり、、、と言っていたし、
 領収書などにも、金1万円也、などと、今でも書いたりする)
この「なり」は「〜にあり」の縮まったもので、
現代の「だ」や「である」と使い方がぴったり一致する。
すでに「にあり」の「なり」が一般的に多用されていたはずなのに、
なぜ、「にてある」の「である」が取って代わったのだろうか?

ちょっと待てよ、、、「だ」は助動詞に分類されていて、
その活用の中に「で」というのがあったような気がする。。。
じっさい広辞苑でそれも調べてみたら、確かに「だ」の連用形にある。
「だ」は「である」なのに、「である」の「で」が「だ」の活用とは、、、
ま、古語の「なり」の活用にも、部品のはずの「に」が入れられているのと
同じことなのかな、、?
「だ」が先なのか「である」が先なのか、些か疑問の残るところだ。

「だ」の丁寧語の「です」の語源となると、ますますわからない。

しかし、以前にもしばしば考えたことがあるのだけれど、
古語と現代語を比較して、その変遷をたどる場合に注意すべきなのは、
現代語の標準は関東の言葉なのに、古語の標準は関西だということだ。
そう簡単にたどれる歴史ではないのだ。
江戸時代以降、その関東に各地から人が集まって、言語を変えたのだ。
鎌倉時代は関東の武士による政治だったことも、大きな要因だろう。

もう疲れて眠いのでこの辺で止めておこう。



2007年02月12日(月) 仕事三昧

めったに夢を見ない(覚えてない?)私が変な夢で早起きした。
小型の飛行機からスカイダイビングさせてもらう夢なのだが、
飛び降りようとしたら、他の飛行機だの何だのたくさん飛んでいて、
何か簡単にぶつかりそうで危ない感じである。
心配になったが、飛行士たち(2人くらい)は大丈夫だと言う。
自分も、心配だけど、何となくわくわくしている。
でも、ふと、パラシュート装備してたかどうか心配になった。
身体のどこを探ってもつけてないような気がする。
このまま飛び降りたらどういうことになるんだろうと頭が混乱した。
パラシュートのことを彼らに尋ねようとしたら、目が覚めた。
目が覚めてから、危うく死んでしまうところだった、、、と思ったのだが、
夢の中で飛び降りても実際はベッドの上にいるんだから何ともない、
と気づくのに何秒かかかってしまった。
それほど、この夢にのめり込んでいたようだ。
まだ6時過ぎだったけれど、目が冴えてしまって起きてしまった。

きょうやった主なことは「たのしい言語学」を読み進めることと、
早々と試験問題作り、それから来週の授業で使うプリント作り。。。
昼ごろ1時間程度昼寝をしたけれど、昼前からずっと仕事していた。
明日は午後から出張だし、今週は会議も多いだろうし、
来週の日曜日は市吹の1日練習だし、その翌月曜日は推薦入試だし。。。
慌ただしい毎日が予想される中で、試験問題が憂鬱の種だったが、
めんどうな部分だけはちゃんと解答までできてしまったから安心である。

やるべき仕事をやっと終えて、昨日の録音を聞きながらこれを書いている。
日が変わってやっとこさリラックスタイムに入れたというわけだ。



2007年02月11日(日) きょうのステージ

以前はステージに上がることに緊張しまくっていた。
今も、自分も楽器を演奏しなきゃならんとなると緊張しまくる。
でも、指揮者としてステージに上がる限りでは、
何年前からか、、、大体10年くらい前からだと思うのだが、
緊張するというよりは、わくわくする気持ちの方が強くなっている。
最近の「のだめカンタービレ」の千秋が本番前に団員によく言っている、
「さあ、楽しい音楽の時間だ」という心境である。

きょうは、市の音楽連盟の「わくわくコンサート」の出番だった。
出演指定時間は15分で、2曲だけである。
メリー・ポピンズのメドレー「お砂糖ひとさじで」と、
「カラオケデュエットメドレー」を選曲した。
「カラオケデュエットメドレー」の内容は、「銀座の恋の物語」
「男と女のラブゲーム」「カナダからの手紙」「ロンリー・チャップリン」
「居酒屋」の5曲である。

こういう歌を、私は普段好んで聞きもしないし歌いもしない。
この5曲のうち、前の3曲は若いころ聞いたことがあるが、
後の2曲はこの編曲譜で初めて知ったくらいである。
演歌や民謡なども、積極的に聞くことはない。
それでも、こういう曲を、吹奏楽で演奏するのは大好きなのである。
不思議なことだが、それがそのまま正直な思いなのだ。

帰りに、きょうの演奏を録音したCDを渡された。
こういう点は改善しなきゃ行けないな、というチェックをしながらも、
演奏を聞くのが楽しくて、5回繰り返して聞いてしまった。
「メリー・ポピンズ」はもともと、もっとも好きな映画のひとつである。
「カラオケデュエットメドレー」を次回やるときには、
是非歌手を用意したいものだと、強く思った。
そうしたら、もっと楽しい出し物になるだろう。
その代わり、後で繰り返し聞きたい気持ちはなくなるだろうけど。。。



2007年02月10日(土) ありがたき本

昨夜から「町田健のたのしい言語学」を読んでいるのだが、
本当に読んでいてたのしい本である。

先日、橋本さんが書いていた「動詞の定義」に、ちょっと疑義を唱えたら、
彼はもう正月以来の質問攻めにめんどくさくなったらしくて(笑)
ついに、わからなきゃこの本を読みたまえ、式に見放されてしまったので
ま、この際、自分の見方も進化させなきゃいかんしなぁ、、というわけで
めんどうながら、ちょっと読んでみることにしたのである。

最近読書がめんどうなのは、蛍光灯の光では字が見にくいからである。
昼間の陽の灯りの中ではそれほど苦にならないのだが、
そんな時間帯にはなかなか本は読めない。
夜、蛍光灯の下で読んでいるとすぐに目が疲れてしまうのだ。
そろそろ眼鏡を作りに行かなきゃなー、、と思うのだが、
半世紀生きてきて一度もお世話になってないところだけに、
病院以上に精神的に遠い場所なので、なかなか行けないのだ。

しかし、昨夜はそれほどぼやけた文字を気にせず読み続けた。
「言語学とは何か」「言語学が扱うもの」「言語学の分野」
「ラングとパロール」「コトバの基本的な性質」
大学時代から雑多なまま頭の中に野放しにしていたいろいろなことが、
読んでいるうちに整理されてきて、非常に楽しかったのである。
そして、書いてあることとは別に、ますます言葉について不思議の感に
打たれたので、昨夜のような感想を書いたりしていたわけだ。

きょう読んだ部分は文の構造に関わるところである。
橋本さんに疑義を唱えたところは、やはりこの本を読んでも不思議である。
なぜこの部分に限ってこんな中途半端なのか、、?
最後まで読まないと、中途半端なのか、何らかの考えによるものか、
はっきりわからないので、とりあえず先を読み続けることにする。

こういう本を読んでいると、いろいろな現象にちゃんと名前がつけられて
いるので、おもしろいし、これから便利になる。
英語のように語順がしっかり決まっているものを「構造依存言語」
日本語のように語順よりも助詞に頼っているものを「形式素依存言語」
ラテン語のような語形変化で文の構造がわかるものを「語形依存言語」
な〜るほどね、名前をつけると便利だ。

・・・うーむ、、、「効率性の原則」についてはもの足りないなぁ。。。
候補がより多いものを先に限定して示す、
だから、名詞が先で助詞が後に付くし、動詞が先で助動詞が後に付くし、
名詞群が先に提示されて動詞群が最後になるような語順になった。。。
日本語の仕組みを考える上でのひとつの可能性だとは思うけれど、
もう少しよく考えてみよう。
「効率性」というのは言語のもっといろいろな現象に関わっている問題では
ないかと思っているから、いろいろと考えてみよう。


きょうは1日のんびり過ごした。
もちろん、土曜日だからこれから市吹の練習である。
明日は、ほんの2曲だけの軽いステージである。
3連休だから、何となく心にゆとりがある。
しかし、実は読書と思考が心にゆとりをもたらしているのかもしれない。



2007年02月09日(金) 言葉の世界は不思議な世界

きょうは2月9日かぁ、、いろんな語呂合わせがあるんだろうな、、、
「福の日」「服の日」「肉の日」、、、とちょっと検索してみたら、
やはりそんな記念日にもなっているようである。

それにしても言葉というのは不思議だ。
「ふくをきなさい」という音声を聞いても、
「福を着なさい」とか「福を来なさい」とか思う人はまずいない。
「にくらしいやつだ」という音声を聞いても、
「肉らしい奴だ」などと思う人もまずいない。
発音もイントネーションも同じなのに誤解されることがないという、
それにも驚きだが、無関係のものが同じ音声の語になったことも不思議だ。

五十音の「わ」には意味がないが、このたった一字が発せられると、
言葉の伝達環境の中では「輪」とか「和」とかの意味を伴う。
また、「わ!!」と言えば驚きの意味を伝えてしまう。
五十音の「ほ」にも意味はないけれど、このたった一字が発せられると
「帆」とか「穂」とか、安堵の思いを表す「ほ。。」の意味が伴う。

音楽でも似たようなことが言える。
単独で鳴らされた「ソ」の音には物理的以外の何の意味もない。
ところが、同時に「ド」の音が鳴るか「ミ」の音が鳴るかで、
途端に意味を帯び、我々に或る感情を語ってくる。
直前直後にどんな音が鳴るかによっても、様々な意味を帯びる。
だから、一音だけでは何の意味も持たない音も、
二音になると何らかの意味を持つが、
その二音も、前後の音の配列によってさまざまな意味に変貌する。

日本語という言語の場合に不思議なのは、たった一音でも状況との協力で、
さまざまな意味を帯び、それがちゃんと他者にも伝わることである。
前後に他の語が並べば、その一音の意味も更に広がる。
先の「ほ」にしても更に「保」「補」「歩」「火」「捕」など、
さまざまな意味を帯びる。

不思議なのは、こういう言葉を使い始めた我々の先祖が、
なぜこういう一音にこういう意味を持たせたかということである。
なぜ「福」と「服」が同音になり「木」と「気」が同音になったのだろう?

「町田健のたのしい言語学」を74ページまで読んだ。



2007年02月08日(木) 久々の雨

きょうは午前中は雲ひとつない快晴だったが、
午後から予報に従うようにどんよりした曇り空になり、
夕方になっても雨の降りそうな気配はなかったが、深夜の今は雨である。
土日は冷え込むそうだが、来週半ばはまた雨、寒さも緩むそうだ。
とても雪が期待できそうな雰囲気ではない。
あのふっくらした美しい雪が見たくて、禁断症状が出ているほどなのだが、
この冬はもう拝めないかもしれない。

暖冬の時は雨が多いらしいのだが、特に西日本は降水量が少ないようだ。
異常なのは暖かいことだけでなく、雨が少ないことも異常と言えるそうだ。


昨夜書いた文章は、きょうかなり書き直した。
どうも押しつけがましいような表現が多くて気になった。
まだ気に入らない。
テーマがよくなかったに違いない。
塵語の中には、思いつきに従って一発で書いて、
後で何度か読み返しても気に入ってる文章がいくつかあるのだけれど、
こういう、テーマをある程度束縛されている状態で、
しかもいつまでには書かなきゃいけないようなのは、苦手だ。


木曜日はやたらと慌ただしいから嫌いだ。



2007年02月07日(水) 読書指導とは?

校誌の元寇を書かなきゃいけないが、なかなか書けなかった。
今夜は何となくこんな文章を書いてしまった。
校誌に掲載する図書主任の文章として相応しいものかどうか疑わしいが、
私はこういう文章しか書けないのである。
これはとりあえず、ばーーっと書いたものである。
今はもう酔いが回って、読み返して整理する気も起こらない。
これを下書きとして、2日ほどで手直しして原稿にしようと思う。



        読書指導とは?
                
 読書は大事だとよく言われるわりには、読書は案外大事にされていないものである。
 読書はあらゆる学習の基本である。そういうことをたいていの人が知っている。読書をあまりしないで成長してきた人でも、そういうことはたぶん認めている。
 その認識が、漢字や語彙、それから文章の流れや組み立て方をたくさん身につけることができる、という程度のものであっても、あらゆる勉強の基本だと言うに値する。それだけでも大きな読書の効用なのだ。
 読書はまた、さまざまな人間と接する機会でもあるし、さまざまな考え方と対話する機会でもある。優れた本ほど、人間を深く描いているから、そういう作品を読めばより人間を理解できる可能性があるし、優れた本ほど長く深い思索の末に書かれているから、より深い思想と対話することにもなる。
 しかし、それは読書だけの良さではない。映画にもそういう面は大いにあるし、テレビのドラマやドキュメンタリー番組などにもそういう点では侮れない優れたものがいくらでもある。そういうものを見る方が、長い時間かけて一冊の本を読むよりも、労少なくして益が多いのかも知れない。
 それでも、読書は古今東西、大切な営みと認められてきたのだ。もちろんそれは、文字や語彙や文章に関する能力を身につけ、理解力や思考力を育てるという良さがあるからだが、それだけではない。先の映像作品を見るのとはまったく次元の異なる、読書ならではの良さがあるのである。
 それは、読書が全面的に能動的な行為だという点である。
 小説よりも漫画はわかりやすい。映画やドラマもわかりやすい。だから若者たちは漫画や映画に流れがちである。わかりやすさという点では、本はもうまったく存在価値を失ってしまう。映画やドラマやドキュメンタリー番組は、こちらが何の努力もせずに、
先へ先へと展開していく。たとえこちらがぼんやりして、見るのも聞くのもやめてしまっても先に進んで行く。我々はそれを理解するために頭を使うけれど、視覚的刺激も次々に与えられながら、導かれるままに後をついて行くだけで済む。漫画も、視覚的イメージに多くを頼りながら、少ない文字を読んで行くだけである。漫画も、何も読まないよりは読んだ方がましである。
 読書というのは、それらとは次元の違う行為である。視覚的な助けはない。文字も、自分が読まなければ入って来ない。自分が先へ先へと読み進めなければ、先に進まない。自ら読み進めつつ、イメージを作り上げたり、文章の流れや意味の流れを自分の中に再構成して行かなければならない。
 読書ならではの効用というのはこういうところにあるのだろうと思う。自ら言葉の情報を得つつ、想像力や構成力を働かせて行くというところである。
 だから、読書はあらゆる学習の基本である。文字や言葉を覚えられ、言葉の自然なつながりを身につけられ、読解力が育てられるだけでなく、能動的に自ら理解する姿勢や、想像力・構成力が養われ、関連づけたりまとめたりする力も育てられる・・・・もっとも、読書をしなければそういう力は絶対に養われないというわけでなく、そういう点での読書の役割は大きいということである。
 読書はすべての学習の基本であるし、それ以上のものである。(それ以上というのは、単に知識や思考のようなものにとどまらず、情操というものも含めて育てる可能性があるからである) もちろん、そういう効用は目に見えにくいし、読書をすればいわゆる成績も上がるというわけではない。教科の学習成果である成績を上げるためには、その教科の勉強をしなければならないことはもちろんである。また、読書をすればするほど、深い思考ができるようになるとか、いい文章が書けるようになるとか、そんな短絡的なものでもない。どんな本を読むか、どんな読み方をするかによっても頭脳の様相は変わるから、いわゆる刺激−反応式の短絡的な見方は禁物である。

 我々国語科の教員は、若いころからしばしばいろいろな愚痴を聞かされてきた。教科書が読めん、文章が読めん、漢字が読めん、言葉を知らん、日本語を話せん、日本語を書けん、・・・・おーい、国語の時間にもっと日本語教えてやってくれー、という愚痴である。もちろん、国語の授業で扱える日本語なんてわずかな部分である。その愚痴は、もっと本を読んでもらわなきゃどうしようもない、という思いの一表現である。
 それにもかかわらず、教育現場では、読書指導を学習活動に組み入れることに消極的である。
 6年前の12月に、「子どもの読書活動の推進に関する法律」が公布・施行された。子どもの読書活動の「環境整備の推進」ということが強く意識された法律である。読書の必要性が国政レベルでも認められることになったわけだ。
 しかし、その法律で定められた具体策は「子ども読書の日」(4月23日)であった。それだけのことなのである。年に1日の読書の日というわけである。以前からあった、文化の日前後2週間の読書週間よりも弱い具体策である。それも、推進する日を定めただけのことであって、教育活動の一環にまで高めるわけではない。
 教育現場の常識では、読書指導とはPRでしかない。この日はできるだけ読書をしましょう、さあ、読書週間だから読書に親しみましょう、こんなおもしろい本があるから読みましょう、若いうちにできるだけたくさん本を読んでおきましょうね・・・・PRをどれだけ熱心にしたかが、どれだけ熱心に読書指導したかの評価になる。
 しかし、運転免許証を持っていない人にいくら車の宣伝をしても無意味なように、また、独り身で恋愛から見放されている男性にハンドバッグの宣伝をしても無意味なように、読書などかけ離れた生活をしている者にいくらPRをしてもほとんど無意味である。
 学習指導が実際に勉強させることであるのと同様、読書指導も実際に読書させるのでなければならない。しかも、年に1度とか、期間限定などではなく、日常的な関心事にすることである。そういう中で数々の「お薦め」が生きるのであって、いくら「読め、読め」と連呼しても、「勉強しろ」がなかなか生徒の心に響かないのと同じく、空しい連呼になってしまう。
 しかし、教育現場では、読書指導を学習活動として具体的に組み入れることに消極的である。それはなぜかと言うと、読書は趣味、という感覚も拭えないからだろう。勉強が趣味という人はごく稀だけれど、読書が趣味という人は案外多いものだ。
 読書は学習の基本だけれど、読書自体は趣味。そういう矛盾しているとも言える感覚に支配されて、いつまでも虚しく混迷と徒労を続けているのが、読書指導の現実なのである。



2007年02月06日(火) 暖かい

立春を迎えてさらに冷え込むのが今までの常識だった。
今年はそういう常識を破っている。
先週も2、3日こんな日が続いたのだが、きのうもきょうも暖かい。
先週末冷え込んだのでそのまま2月いっぱい寒いのかな、と思っていたら
3月下旬から4月上旬並みの暖かさということである。
実際きょうの昼ごろは、風にはひんやりしたものを感じたにせよ、
外に出ると、私のわずか前方にもわっとした空気の塊と感じた。
こんな空気を2月に感じたことは、この半世紀にも殆どないのではないか?

ひと冬の寒さの総体、ひと夏の暑さの総体は、毎年変わらない、と
厳密な実権や研究でなく、感覚的な持論をよく人に語っていた。
この冬を体験してしまっては、その持論も撤回しなくてはならぬ。
とにかくこの冬の陽気は異常だ。
そろそろ桜も咲き始め、そうしたらずっと寒い日が続いて、
桜を2カ月ほども見られるかもしれないなどと冗談を言い合っている。



2007年02月05日(月) 書くことなし

よっぽどつまらない1日だったらしい。
そういえば、何もかもやりかけやりかけで流れて行った。



2007年02月04日(日) 愛知県知事選

きょうは愛知県知事選の投票日である。
私は県外の住人なので、残念ながら投票権はない。
しかし、私も妻も愛知県の職員なので、無関心ではいられない。

愛知県知事選は、もう何期もに渡って、
共産党以外の与野党相乗り推薦の候補者と、
共産党と革新県政の会が推す候補者との、勝負にならない勝負をしてきた。
相撲で言えば、横綱と中学生、野球で言えばプロとリトルリーグが
闘うようなものだが、そんな勝ち目のない闘いでも、
「革新県政の会」は、県民に訴えるために、問題を投げかけるために、
候補者を立てて、主張してきたのだと思う。
しかし、勝負の明らかな選挙が長年続いたので、関心は下がる一方で、
前回の選挙でも投票率40%以下だったはずである。
こんな風にしてしまったのは、旧民社党、現民主党の責任が大きい。

今回は、久々に民主党が独自候補を立てて、、、いや、むしろ、
犬山の石田市長が、その教育政策を県全体にも広げたいと考えたらしく、
知事選に出馬を表明したところへ飛びついたのだろうけれど、
久々に二大政党の対決の様相をとり、白熱するはずだった。
しかし、投票率は辛うじて過半数の52%、、、情けない数字である。
神田氏が当選したといっても、得票数は過半数行っていないから、
実質的には、県民の4分の1からしか直接支持されていないというわけだ。

NHKの出口調査の報告を見て思ったこと。。。

その1。
年代別の投票状況を見ると、
20代から50代までは、石田氏への投票がわずかながら多いか過半数。
しかし、60代は神田氏が過半数となり、
70代以上になると、7割以上が神田氏に投票している。
戦中派の爺婆が投票所に通う限り世の中は変わらないものと見える。
私自身も若いころよく父から、
「自民党に入れておけば間違いはない」と聞かされたものだ。

その2。
無党派層を見ると、石田氏が過半数である。
無党派層がもっと選挙に行けば、過半数で済んでいたとは思われない。
無党派層の多くが、無関心層・無責任層であるのが残念だ。

その3。
神田氏に投票した人の60%以上が「実績」を評価したそうだ。
神田氏自身も、愛知万博の成功・中部国際空港の建設を目玉にして、
愛知県は元気になった、と自らの「実績」を訴えたそうだ。
しかし、こんな「実績」もあるそうだ(橋本BBSから引用)

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愛知県は景気が良い、失業率も低いということですが、
私たちの暮らしの実態はどうでしょうか。

県民の年間所得はこの10年間で平均37万円も減っています。
万博や国際空港、徳山ダムなどの大型公共事業に税金を注ぎ込み、
県民一人当たりの借金はこの10年間で34万円から54万円に拡大しました。

県民へサービスはどうか。
人口一人当たりの民生費は愛知県はなんと全国40位です。
具体的に言うと、

 社会福祉費ーー38位
 老人福祉費ーー37位
 自動福祉費ーー36位
 教育費ーー42位
 衛生費ーー45位
 老人福祉ホームの定員数44位
 高校進学率ーー47位(最下位)

愛知県の財政力は東京都についで全国第二位。
国から援助を受けていない唯一の県ですが、
その財政力は県民の幸せのために使われてはいません。
全国のゼネコンのドル箱になっているだけです。
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彼がどこからこういう資料を得たのかは知らない。
しかし、華やかな王朝文化の陰につらい庶民生活があったように、
華やかな大プロジェクトの陰に悲惨な庶民生活があるのは、
歴史が教える道理である。
神田氏が「愛知は元気になった」と笑顔で訴えているのも、
県全体のさまざまな事象のほんの一部分的な事象でしかない。
教育現場などは、相変わらず悲惨なまま、、、というか、
ますます深刻な問題が増しているばかりである。


私自身はそれほど石田氏に信頼を置いているわけではない。
前任校で、吹奏楽部が犬山市の身障者の会の行事に呼ばれた折りに、
石田氏と言葉を交わしたことが2〜3度ある。
話の上手さに感心したし、そういう行事に挨拶だけで帰るのでなく、
最後までつき合って、子どもたちとも話しているのにも感心した。
彼が行った犬山市の教育行政の噂を聞いても感心した。
そういう評価もできるけれど、全面的に信頼できるかどうかになると、
まだまだ資料が乏しい。
しかし、今回は、石田知事誕生を願っていた。
とにもかくにも、小・中学校の教育条件を改善してほしい、というのが
私の教育政策関係の第一の願いである。
それに、自民党系の知事ほどには、福祉面を無視しないだろうという期待。
神田体制では、何も変わらない。

爺婆たちは、それでいいのだよ、と言って大挙して神田体制を守った。
その責任をどう取ってくれるのだろうか?
社会を、これから過ごす子どもたちや若者のために
長〜〜〜い目で考えるのが我々の義務なのに。。。



2007年02月03日(土) 年内の春

明日から暦の上では春、それを1年の始まりとするなら、
きょうはその大晦日にあたる日である。
ちなみに、きょうは旧暦の1月なのかな? 12月なのかな? と、
ちょっと調べてみたら、まだ旧暦の12月16日だった。
そういえば、きょう市吹に向かう途中、満月が出てるなぁと思ったのだが、
あれはいざよい月だったようだ。
時間はまだ6時前に堂々と姿をみせていたけれど。。。

子どものころは、もちろん節分の意味も知らず、
ただ、豆まきをしなければならない日でしかなかった。
鬼は外福は内と唱えながら、家の中にも外に向けてもはでに豆をまいた。
それは親からの指令であった。
時には兄が鬼の面をつけていきなり現れたりするものだから、
恐ろしさのあまり、升から何度も豆を握って力一杯ぶつけたりした。
いつまでそんなことをやっていたのか、よく覚えていない。
私の母はこういう風習を守ることにわりとこだわる人だったから、
大学で上京するまで、儀礼的にそれにつきあっていたかもしれない。

豆まきが春を迎える行事だと知ったのが高校の時か大学の時か覚えがない。
もっと早かったのかも知れない。
しかし、それは漠然とした、ふーーん、という程度の認識だった。
大晦日と元旦が年に2回あるようなもんだなぁ、、という程度である。
旧暦と新暦のずれについても何となく知っていて、漠然としていた。
要するに、昔の人は2月4日に元旦を迎えたわけね、と漠然と決めていた。

そういうことについて不思議に思ったのが、古今集の一首目の、

  年のうちに春は来にけり ひととせを去年とやいはん今年とやいはん

を読んだとき(その時が最初かどうかもわからない)である。
「年内に春が来ちゃったよ。残りの日々を去年と言おうか今年と言おうか」
よくよく計算してみれば、旧暦の1月1日が毎年2月4日と一致するなんて
あり得ない話で、それから旧暦への関心が深まったわけだ。
不思議に思ったのは、平安王朝人たちにとって、
1月1日が大事だったのか、立春が大事だったのか、ということなのだが、
残念ながら、そういうことをきちんと書いている資料は見あたらなかった。
少なくともこの歌を読む限りでは、
立春が1年の始まりとして大事だったらしいことが推測できる。
また、古今集の部立てを見ても最初は季節だし、
「春立つ日に詠める」という詞書きも多い。
そういえば、芭蕉の句にも、

  春や来し 年や行きけん 小晦日

というのがあった。
まだ、戯れ俳句に興じていた若いころの句らしい。
「春が来たのか、1年がもう過ぎ去ったのか。きょうはまだ29日なのに」
これは、江戸時代の人たちにもこういう戸惑いがあったということなのか、
それとも、先の古今集の歌を踏まえた戯れの句なのだろうか?








2007年02月02日(金) 「4400」一段落

今翌日未明の4時ごろである。
目をさましたのは3時過ぎだった。
よく覚えてないのだが、そういえば9時ごろに横になった記憶がある。
横になって間髪入れず意識を失って熟睡した感じである。
今週は土日の過労を引きずってつらい毎日だった。
この睡眠は十分ではないかもしれないが、昼寝もできるし、
明日もゆっくり眠れるから、そのまま起きることにした。
うっかり宵寝してしまっても、これだけ眠り続けられればありがたい。


昨日「4400」のシーズン1を見終えた。
6エピソードの5回分を、あの土日を除いて1日1回分ずつ見た。
おもしろいのだが、次を見たいという気持ちを抑えることはできるのだ。

4400人を拉致して、何らかの力を与えて現代に返したのは、
宇宙人ではなく未来人たちであった。
破滅寸前の未来人が、破滅の歴史を変えるために、
破滅への歴史が始まったこの現代へ4400を返したのだという。

そんなことが明かされ、謎の妊娠をしていたリリーがついに産気づいて、
病院に向かうところで、シーズン1が終わってしまった。

続きが届くのは20日後だ、、、待ち遠しいことである。
いったいどれだけ、いつまで続くことやら。。。。。



2007年02月01日(木) 「日本語は人間をどう見ているか」

寒い!!! 久々の冷え込みである。
本当に雪が降って、明日の朝はたいへんかもしれない。


さて、昨日の「日本語は人間をどう見ているか」(籾山洋介)だが、
要所要所を読み返しながら、物足りなさをメモしておこう。
この本は、例示部分とまとめの部分がはっきりしているからありがたい。

植物に関する多くの言葉、たとえば、「芽が出る」「花開く」「返り咲き」
「枯れる」「根を下ろす」「蕾のまま」「散る」・・・などなどが、
人間(の営み)について述べるのにも用いられる。
それを、人間の営みのさまざまな面に分類しつつ分析しつつ、
「人間を、植物を通して見る、という見方が日本人の頭の中に存在する」
とまとめている。

鳥に関する言葉についても同様である。
「巣立つ」「金の卵」「羽ばたく」「古巣にかえる」「愛の巣」「鵜呑み」
「鷲づかみ」「籠の鳥」「鳥肌が立つ」・・・などなど。
これのまとめも、
「人間を、鳥を通して見る、という見方が日本人の頭の中に存在する」
ということになる。

天気に関する言葉、、、「お天気屋」「気が晴れる」「顔が曇る」
「晴れやかな顔つき」「低気圧」なども同様である。

ところが、そういうところから、
「人間を、自然を通して見る」という結論には行くわけではない。
なぜなら、次に挙げられる事例は「機械」だからだ。
しかし、ここに挙げられた例はそれほどしっくりするものはない。
「機械」とか「ロボット」とか挙げられても、おもしろみはない。
「肩の故障」「足の故障」のように「怪我」を「故障」と言ったり、
「あいつ壊れちゃったぞ」みたいなのは、先の、植物や鳥の場合の例と
肩を並べる用例だとは思うけれど。。。

このあたりから、この人の「○○を通して見る」は、
いったい何のために唱えているのだろうと、疑問を抱き始めた。

最後は「想像上の存在」である。
「神さま」「女神」「仏」「悪魔」「鬼」「怪物」「幽霊」「化ける」。。
そして、これもまた「想像上の存在を通して見る」見方、、、である。

本論はここまでなのだが、「さらなる考察」として、他の生き物、天体、
地形、季節、、に関する言葉も挙げて、考察の範囲を広げている。

私が途中からがっかりしてしまったのは、
これは要するに単なる比喩表現集ではなかろうか、ということだ。
ああ、そうそう、こんな表現もあったなぁ、と読んでる分には楽しいが、
そこに深い意味を求めようとすると、かなりがっかりしてしまうのだ。

人間以外のものを通して人間を表現しようとするのが、
日本語に独自のものなのか、外国語にはほとんど見あたらないのか、
どうもそのあたりも定かでないし、
日本語は格別にそういう表現が豊かなのだとすれば、それは、
ズバリと言うことをできるだけ避けようとする言語習慣のためであろう。
言語構造からして、ズバリと言うことを免れやすい仕組みになっている、
実に根の深い日本語圏の精神構造によるものなのだ。
さらに言えば、そういう性癖の副作用として、
余情やイメージを大切にする傾向もある。
(和歌や俳句の修辞もそうだし、「雪国」の冒頭文が名文なのもそうだ。
 きっちり語ることは日本語の美学ではないが、
 しかし、そんな中で、的確な表現を求めるのである)
比喩的表現を好む一表現として「○○を通して人間を見る」と言っても
いいだろうが、それは、あくまでもひとつの表現方法に過ぎない。
どう表現したところで、それは、言語とイメージの問題に返ることになる。


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