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俺は旅館を出て、歩いて海へと向かった。 耳障りなほど響く波の音が疎ましかった。民家の錆付いた柵の近くに、黒と白の斑点模様の猫が寝そべり、長い尾で地面を撫で付けている。 砂浜に降りるための細い階段を抜けると同時に、海からの冷たい突風が着ているコートの裾を勢いよく翻した。耳が千切れそうなほど痛い。革靴の中の足指も痺れ始めている。 夕刻に向かう空は八割方が暗闇に支配され、東側にほんの少しだけ赤茶けた雲が残っている程度だった。旅館の窓から見た場所に見当をつけ、砂浜を歩き始める。感は鈍っていなかった。数十メートル進んだところで、ボードが波を打つかすかな音が聞こえてきた。 俺は立ち止まり、波間に男の姿を探す。 風に煽られた波が高いウォールを作り出している。浅い砂浜でスープが何度も弾ける。そのたびに水が水を飲み込んでいくザザンザザンという地響きのような低音が薄闇を押し遣るように辺りに鳴り響き渡る。 その時、巨大な魚が白い腹を翻してジャンプするかのように、海面にサーフボードが踊り出た。フルスーツを着込んでいるだろう上部の人影は波色と同化し、輪郭を捉えきれない。目を凝らす。男はブレイクする波をうまく掴み、抑え込んだうねりの反乱を深く折った両膝ですべていなし、牙を抜いたライオンを相手にするかのごとく容易く大波を飼いならしている。やはり、尋常なテクニックではない。そもそもこんな荒れた冬の海に入っていこうと思うこと自体、並の人間ではないことがわかるのだが……。
しばらくその場で待つと、手懐けた波からプルアウトし、浅瀬でボードを降りてこちらに歩いてくる男の顔をようやく判別することができた。 「寺田か、久しぶりだな」先に声を発したのは、透の方だった。白い歯が零れる。僅かに鼻と耳が赤い程度で、特に寒さを感じている素振りはない。俺は逆に、風を避けるためにコートの襟元を立てた。 「お前、いつ戻ってきたんだ?」 「さっき着いたばかりだ」 「そうか、知らなかった」透は言って、濡れた顔を片手で拭った。八年前の父親の葬式の際、透とは数十年ぶりに顔を合わせたのだが、挨拶程度で話らしい話はしなかった。若い頃から透の相貌はあまり変わっていない。幼い頃についた優等生のイメージは、いつまでたっても払拭されないようだ。 「宿は福八か? それなら着替えてから顔を出すよ。一緒に酒でも飲もう」 「相変わらずやってるんだな」 俺が彼の脇に立つボードに視線をやると、透は少し気恥ずかしそうに笑う。 「これしか能がないんだ、俺は」 透の表情に、人生の敗北者が見せる昏さがちらりと覗いた。その陰気さが、俺の腹底を僅かに疼かせた。
バイト先のラブホテルの一室に忍び込み、興味本位のままそうした行為に走ったきっかけはもう思い出せない。暇つぶしであり、若さゆえの混沌とした欲望を吐き出しただけであり、一線を犯すという甘美さに酔っていただけなのかもしれない。 青臭い思い出だ。 塀の中で若い男を抱いたこともあったがそれは女の代用でしかなく、当時の透をそうした意味合いでだけで組み伏したのかといえば、また少し違っているようにも思えた。 あいつの身体に染み込んだ潮の匂いはいつまでも消えることがなく、この町と同じように、変わることを拒んでいる様な気がした。一年後、都会へ出ることを決意した理由に、そのことに対する苛立ちが含まれていたのかどうか、記憶は定かではない。
旅館に透が顔を出したのは、九時を回った頃だった。 差し入れだと、雑魚やスルメを山ほど持ってきた。明るい電気の下で見る透は確かに年齢を重ねた分だけ刻まれた皺は深くなっていたが、妙な屈託のなさと、彼を取巻く清廉とした空気はあの頃のままだった。 ロビーにある自販機で缶ビールを数本買い、旅館のおかみに頼んで用意してもらった日本酒を畳に並べる。透は日本酒を手酌でコップに注ぎ、俺は缶ビールに手を伸ばした。二人とも無言で一口酒を呷った。 「しかし、突然の帰郷だな。どうしたんだ?」 いつでも、会話を始めるのは透の方からだった。 「弁護士に呼び出されたんだ。親父名義の土地が残っていたらしくてな」 勝手に処分してくれと電話口で言った俺に、父親の同級生だというその弁護士は「切り売りする前に、一度足を赴いて見なさった方がいい。売却の話はそれからいたしましょう」と、渋る俺をこの土地へと呼び戻した。明日、形だけの確認をし、すべての手続きをする予定だ。 「そうか、じゃあ東京にとんぼ返りだな」透は言い、日本酒のコップを傾けた。 ウェットスーツを脱いだ透はTシャツと洗いざらしたジーンズといういでたちで、よく鍛えられているのだろう、ガキの頃とは比べ物にならないほど、上半身には水に入る人間独特のしなやかそうな筋肉がついている。 「寺田は向こうに家族はいるのか?」 俺が首を振ると、「まだあっちの方が落ち着かんか」と透は笑った。俺はその顔を眺めながら、ふと昔を思い出していた。透はよく笑う男だった。海に入るときも、海から戻るときも、歩いているときも、去っていくときも、ベッドの上でも、いつも笑顔だった気がする。嫌いではなかった。懐かしいと、素直に感じている自分に少し驚いた。 「俺は、駄目だったよ。女房と子供はオーストラリアにいるんだ」あまり口を割らない俺の代わりに、透が自らのことを話し始める。「息子は今年で十歳になるんだが、もう三年も顔を見ていない。父親ってこともそのうち忘れられちまうかもしれないな」 結局、海を渡りプロとして活動できたのは七年ほどで、大会の賞金やモデル代で稼いだ資金を元手にゴールドコーストにサーフショップを開いたらしい。当時、オーストラリアに語学留学をしていた女性と出会い結婚、翌年に一児をもうけたが夫婦生活はその後破綻。子供の親権は母親に譲り、ショップの経営も思わしくなくなかった透はオーストラリアに見切りをつけて帰国した。それが九年前だという。現在は父親の事務所で仕事を手伝いながら、時間を見つけては海に入っているらしい。 「将来は政治家の先生にでもなるつもりか?」俺が言うと、透は「まさか」とおかしそうに笑った。「俺はサーフィンができればそれでいい。今のままで充分さ」 ふと、脳裏に蘇る記憶があった。 俺は町を出ると決めた時、確か一度だけ透を誘ったのではなかったか。 「一緒にくるか」そう問い掛けた俺に、透は笑顔のまま首を振った。 「都会には海がないから。俺には、サーフィンしかないんだ」 彼の頑なさを、当時は羨ましいとも思ったし、疎ましいとも思った。しかし、齢を重ねた今となってはそう信じ込むことが人生の救いであるとともに、現実からの逃避に繋がっているのだろうと、何となく想像ができた。 「それよりお前こそ、いっそのこと親父さんが残した土地に戻ろうという気はないのか」 透が言う。俺は結露に濡れる窓を少し開け、煙草を咥えた。隙間風は冷たく、現実という重い壁を思い返させる。 「無理だな」 「なぜ」 説明する価値もない。そう伝えるには、透の瞳はあまりに真っ直ぐ過ぎた。俺は仕方なく、シャツの襟元を少しだけ肌蹴た。グラスを持ち上げようとしていた透の手が止まる。 「俺には、昔も今もこれしかない」 「……知らなかった」 「知っても何の得にもならんさ」俺は咥えたままだった煙草にライターの火を吸い点ける。身体に墨を入れたのは、極道という看板を掲げるためでも、自分に酔いしれるためでもなかった。刑務所で同部屋になった彫り師に「いいか寺田、ここを出たらお前にいいだけ金を貸してやる。だからそのカタとしてわしに背中を彫らせろ」と詰め寄られたのだ。その男に金を貸して欲しいと頼んだ覚えなどなかったが、七十を越えた白髪男が必死で口説いてくる様がおかしく、出所後、俺はその男に一千万を借金し、背中を預け好きにさせた。男が半年かけて彫ったのはありがちな不動明王だったが、それは文句のつけようがないほど見事な出来栄えだった。刺青が完成してから一ヶ月も経たないうちに、その彫り師は肺がんで死んだ。最初から、男は自分が長くないことを知っていたのだろう。借りた一千万より重いものを、俺はその日から背負わされた気がした。 透はコップの底に残った酒を眺めながら、「なんだか、お前がひどく遠いところに行っちまった気がするな」と呟くように言った。「俺は少しも変われない。今も、昔も」 変わることを拒むこの町で、変われないと嘆く男。実際は透自身が変化を畏れているのかもしれないし、海という不変の存在が変化を妨げているのかもしれない。忘れていた潮の匂いが、なぜか今になって強く匂った。 「なあ、寺田」透が顔を上げる。「俺は、本当は――」
親父がこの町に残していた土地は、海が見渡せる小高い場所だった。周囲には何もなく、なぜこんな金にもならない土地を親父が手に入れ、挙句に死ぬまで放置していたのか俺にはまったくわからなかった。 売却しても、端金にしかならない。しかし、この町に自分が生きていた証を残しておくことはできないと強く思う。そんな俺の想いを嘲笑っているかのように、海からの強い潮風が足許を吹き抜けていった。 「やはり、売られますか」 老弁護士の元橋は丸っこい眼鏡の小さな目を瞬かせて言った。 「墓でも作ればよかったか?」俺が言うと、元橋はおかしそうに肩を揺らした。「いやいや、そんなことをしたら、お父さんがあの世で臍を曲げるでしょう」 「親父とは旧いみたいだな」 「洟垂れ小僧の頃からですよ。あなたに良く似てる。頑固で、寡黙で、いい男だった」 「女房に逃げられる男がか?」俺が言うと、元橋は綺麗に禿げ上がった頭をぽんと叩いた。 「忘れとった。甲斐性のなさも人一倍だった」 俺は思わず吹き出した。「ひどいもんだ」
元橋の事務所に寄って必要な書類にサインしたあと、俺は旅館に戻り荷物をまとめると、そのまま駅へと向かった。昨日来たときは耳障りだった波の音が、今はもう意識しなければ聞こえない。慣れとは恐ろしいものだ。 改札を抜け、ホームに備え付けてある錆びたベンチに腰を下ろす。煙草を取り出しライターを擦ったが、海風が強くて火はすぐに消えてしまう。俺は煙草をあきらめ、民家の屋根の隙間から覗く、時化て灰褐色に染まった海を眺めた。
(――寺田、俺は本当は、海が憎いのかもしれん)
昨夜、透はそう口にした。 何故とは、訊き返せなかった。 その答えを知っていることに、俺自身が気付いたからだ。それはこの土地に未練を残したくないと願う俺と、同じ理由に違いない。 二十数年前、俺はこの土地で初めて大切だと感じたものを奪うことができなかった。 海という絶対的な存在に太刀打ちできず、自らの無力さを痛感した。青臭い記憶だと笑えないからこそ、俺はこの町の不変に怯え、そして憎んでいるのかもしれない。 足掻くにはもう、時間が経ち過ぎている。
電車が近づいてくるのが見えた。 親父が買った土地からも、この路線が見渡せた。まだ俺が物心つく前、一時間に一本だけ通るこの電車を眺めるために、父親によく肩車をせがんだものだといつか母から聞いたことがある。 今になって、さっきまで解けなかった謎の答えが悲しいくらい安易に導き出された。苦笑が洩れる。親父があの土地を手に入れ、最期の最期まで手放さなかったその理由を、息子である俺だからこそ「馬鹿だ」と笑うことができた。 親父は、夢を見ていたのだ。あまりにも無謀で、あまりにも虚しい夢。一度崩壊した家族はもう二度と元に戻ることはない。しかし親父にとっては、そんな叶わぬ夢を見ることにこそ、意味があったのかもしれない。 電車がホームに滑り込んだ。 俺はベンチから立ち上がり、一度鈍色の空を仰ぎ見た。
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海はいつでも不変の姿を晒し、うつろう人間の姿を笑う。 鴎が上空で、踊るように旋回している。 俺が歩み寄ると、海から上がった男は驚いた様子も見せずに、あの頃と変わらない笑顔を俺に向けて言った。
「――おかえり、寺田」
俺も親父のように、愚かになれるだろうか。
<了>
2006年08月31日(木)
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