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天竜



 



俺は旅館を出て、歩いて海へと向かった。
耳障りなほど響く波の音が疎ましかった。民家の錆付いた柵の近くに、黒と白の斑点模様の猫が寝そべり、長い尾で地面を撫で付けている。
砂浜に降りるための細い階段を抜けると同時に、海からの冷たい突風が着ているコートの裾を勢いよく翻した。耳が千切れそうなほど痛い。革靴の中の足指も痺れ始めている。
夕刻に向かう空は八割方が暗闇に支配され、東側にほんの少しだけ赤茶けた雲が残っている程度だった。旅館の窓から見た場所に見当をつけ、砂浜を歩き始める。感は鈍っていなかった。数十メートル進んだところで、ボードが波を打つかすかな音が聞こえてきた。
俺は立ち止まり、波間に男の姿を探す。
風に煽られた波が高いウォールを作り出している。浅い砂浜でスープが何度も弾ける。そのたびに水が水を飲み込んでいくザザンザザンという地響きのような低音が薄闇を押し遣るように辺りに鳴り響き渡る。
その時、巨大な魚が白い腹を翻してジャンプするかのように、海面にサーフボードが踊り出た。フルスーツを着込んでいるだろう上部の人影は波色と同化し、輪郭を捉えきれない。目を凝らす。男はブレイクする波をうまく掴み、抑え込んだうねりの反乱を深く折った両膝ですべていなし、牙を抜いたライオンを相手にするかのごとく容易く大波を飼いならしている。やはり、尋常なテクニックではない。そもそもこんな荒れた冬の海に入っていこうと思うこと自体、並の人間ではないことがわかるのだが……。

しばらくその場で待つと、手懐けた波からプルアウトし、浅瀬でボードを降りてこちらに歩いてくる男の顔をようやく判別することができた。
「寺田か、久しぶりだな」先に声を発したのは、透の方だった。白い歯が零れる。僅かに鼻と耳が赤い程度で、特に寒さを感じている素振りはない。俺は逆に、風を避けるためにコートの襟元を立てた。
「お前、いつ戻ってきたんだ?」
「さっき着いたばかりだ」
「そうか、知らなかった」透は言って、濡れた顔を片手で拭った。八年前の父親の葬式の際、透とは数十年ぶりに顔を合わせたのだが、挨拶程度で話らしい話はしなかった。若い頃から透の相貌はあまり変わっていない。幼い頃についた優等生のイメージは、いつまでたっても払拭されないようだ。
「宿は福八か? それなら着替えてから顔を出すよ。一緒に酒でも飲もう」
「相変わらずやってるんだな」
俺が彼の脇に立つボードに視線をやると、透は少し気恥ずかしそうに笑う。
「これしか能がないんだ、俺は」
透の表情に、人生の敗北者が見せる昏さがちらりと覗いた。その陰気さが、俺の腹底を僅かに疼かせた。

バイト先のラブホテルの一室に忍び込み、興味本位のままそうした行為に走ったきっかけはもう思い出せない。暇つぶしであり、若さゆえの混沌とした欲望を吐き出しただけであり、一線を犯すという甘美さに酔っていただけなのかもしれない。
青臭い思い出だ。
塀の中で若い男を抱いたこともあったがそれは女の代用でしかなく、当時の透をそうした意味合いでだけで組み伏したのかといえば、また少し違っているようにも思えた。
あいつの身体に染み込んだ潮の匂いはいつまでも消えることがなく、この町と同じように、変わることを拒んでいる様な気がした。一年後、都会へ出ることを決意した理由に、そのことに対する苛立ちが含まれていたのかどうか、記憶は定かではない。

旅館に透が顔を出したのは、九時を回った頃だった。
差し入れだと、雑魚やスルメを山ほど持ってきた。明るい電気の下で見る透は確かに年齢を重ねた分だけ刻まれた皺は深くなっていたが、妙な屈託のなさと、彼を取巻く清廉とした空気はあの頃のままだった。
ロビーにある自販機で缶ビールを数本買い、旅館のおかみに頼んで用意してもらった日本酒を畳に並べる。透は日本酒を手酌でコップに注ぎ、俺は缶ビールに手を伸ばした。二人とも無言で一口酒を呷った。
「しかし、突然の帰郷だな。どうしたんだ?」
いつでも、会話を始めるのは透の方からだった。
「弁護士に呼び出されたんだ。親父名義の土地が残っていたらしくてな」
勝手に処分してくれと電話口で言った俺に、父親の同級生だというその弁護士は「切り売りする前に、一度足を赴いて見なさった方がいい。売却の話はそれからいたしましょう」と、渋る俺をこの土地へと呼び戻した。明日、形だけの確認をし、すべての手続きをする予定だ。
「そうか、じゃあ東京にとんぼ返りだな」透は言い、日本酒のコップを傾けた。
ウェットスーツを脱いだ透はTシャツと洗いざらしたジーンズといういでたちで、よく鍛えられているのだろう、ガキの頃とは比べ物にならないほど、上半身には水に入る人間独特のしなやかそうな筋肉がついている。
「寺田は向こうに家族はいるのか?」
俺が首を振ると、「まだあっちの方が落ち着かんか」と透は笑った。俺はその顔を眺めながら、ふと昔を思い出していた。透はよく笑う男だった。海に入るときも、海から戻るときも、歩いているときも、去っていくときも、ベッドの上でも、いつも笑顔だった気がする。嫌いではなかった。懐かしいと、素直に感じている自分に少し驚いた。
「俺は、駄目だったよ。女房と子供はオーストラリアにいるんだ」あまり口を割らない俺の代わりに、透が自らのことを話し始める。「息子は今年で十歳になるんだが、もう三年も顔を見ていない。父親ってこともそのうち忘れられちまうかもしれないな」
結局、海を渡りプロとして活動できたのは七年ほどで、大会の賞金やモデル代で稼いだ資金を元手にゴールドコーストにサーフショップを開いたらしい。当時、オーストラリアに語学留学をしていた女性と出会い結婚、翌年に一児をもうけたが夫婦生活はその後破綻。子供の親権は母親に譲り、ショップの経営も思わしくなくなかった透はオーストラリアに見切りをつけて帰国した。それが九年前だという。現在は父親の事務所で仕事を手伝いながら、時間を見つけては海に入っているらしい。
「将来は政治家の先生にでもなるつもりか?」俺が言うと、透は「まさか」とおかしそうに笑った。「俺はサーフィンができればそれでいい。今のままで充分さ」
ふと、脳裏に蘇る記憶があった。
俺は町を出ると決めた時、確か一度だけ透を誘ったのではなかったか。
「一緒にくるか」そう問い掛けた俺に、透は笑顔のまま首を振った。
「都会には海がないから。俺には、サーフィンしかないんだ」
彼の頑なさを、当時は羨ましいとも思ったし、疎ましいとも思った。しかし、齢を重ねた今となってはそう信じ込むことが人生の救いであるとともに、現実からの逃避に繋がっているのだろうと、何となく想像ができた。
「それよりお前こそ、いっそのこと親父さんが残した土地に戻ろうという気はないのか」
透が言う。俺は結露に濡れる窓を少し開け、煙草を咥えた。隙間風は冷たく、現実という重い壁を思い返させる。
「無理だな」
「なぜ」
説明する価値もない。そう伝えるには、透の瞳はあまりに真っ直ぐ過ぎた。俺は仕方なく、シャツの襟元を少しだけ肌蹴た。グラスを持ち上げようとしていた透の手が止まる。
「俺には、昔も今もこれしかない」
「……知らなかった」
「知っても何の得にもならんさ」俺は咥えたままだった煙草にライターの火を吸い点ける。身体に墨を入れたのは、極道という看板を掲げるためでも、自分に酔いしれるためでもなかった。刑務所で同部屋になった彫り師に「いいか寺田、ここを出たらお前にいいだけ金を貸してやる。だからそのカタとしてわしに背中を彫らせろ」と詰め寄られたのだ。その男に金を貸して欲しいと頼んだ覚えなどなかったが、七十を越えた白髪男が必死で口説いてくる様がおかしく、出所後、俺はその男に一千万を借金し、背中を預け好きにさせた。男が半年かけて彫ったのはありがちな不動明王だったが、それは文句のつけようがないほど見事な出来栄えだった。刺青が完成してから一ヶ月も経たないうちに、その彫り師は肺がんで死んだ。最初から、男は自分が長くないことを知っていたのだろう。借りた一千万より重いものを、俺はその日から背負わされた気がした。
透はコップの底に残った酒を眺めながら、「なんだか、お前がひどく遠いところに行っちまった気がするな」と呟くように言った。「俺は少しも変われない。今も、昔も」
変わることを拒むこの町で、変われないと嘆く男。実際は透自身が変化を畏れているのかもしれないし、海という不変の存在が変化を妨げているのかもしれない。忘れていた潮の匂いが、なぜか今になって強く匂った。
「なあ、寺田」透が顔を上げる。「俺は、本当は――」


親父がこの町に残していた土地は、海が見渡せる小高い場所だった。周囲には何もなく、なぜこんな金にもならない土地を親父が手に入れ、挙句に死ぬまで放置していたのか俺にはまったくわからなかった。
売却しても、端金にしかならない。しかし、この町に自分が生きていた証を残しておくことはできないと強く思う。そんな俺の想いを嘲笑っているかのように、海からの強い潮風が足許を吹き抜けていった。
「やはり、売られますか」
老弁護士の元橋は丸っこい眼鏡の小さな目を瞬かせて言った。
「墓でも作ればよかったか?」俺が言うと、元橋はおかしそうに肩を揺らした。「いやいや、そんなことをしたら、お父さんがあの世で臍を曲げるでしょう」
「親父とは旧いみたいだな」
「洟垂れ小僧の頃からですよ。あなたに良く似てる。頑固で、寡黙で、いい男だった」
「女房に逃げられる男がか?」俺が言うと、元橋は綺麗に禿げ上がった頭をぽんと叩いた。
「忘れとった。甲斐性のなさも人一倍だった」
俺は思わず吹き出した。「ひどいもんだ」

元橋の事務所に寄って必要な書類にサインしたあと、俺は旅館に戻り荷物をまとめると、そのまま駅へと向かった。昨日来たときは耳障りだった波の音が、今はもう意識しなければ聞こえない。慣れとは恐ろしいものだ。
改札を抜け、ホームに備え付けてある錆びたベンチに腰を下ろす。煙草を取り出しライターを擦ったが、海風が強くて火はすぐに消えてしまう。俺は煙草をあきらめ、民家の屋根の隙間から覗く、時化て灰褐色に染まった海を眺めた。

(――寺田、俺は本当は、海が憎いのかもしれん)

昨夜、透はそう口にした。
何故とは、訊き返せなかった。
その答えを知っていることに、俺自身が気付いたからだ。それはこの土地に未練を残したくないと願う俺と、同じ理由に違いない。
二十数年前、俺はこの土地で初めて大切だと感じたものを奪うことができなかった。
海という絶対的な存在に太刀打ちできず、自らの無力さを痛感した。青臭い記憶だと笑えないからこそ、俺はこの町の不変に怯え、そして憎んでいるのかもしれない。
足掻くにはもう、時間が経ち過ぎている。

電車が近づいてくるのが見えた。
親父が買った土地からも、この路線が見渡せた。まだ俺が物心つく前、一時間に一本だけ通るこの電車を眺めるために、父親によく肩車をせがんだものだといつか母から聞いたことがある。
今になって、さっきまで解けなかった謎の答えが悲しいくらい安易に導き出された。苦笑が洩れる。親父があの土地を手に入れ、最期の最期まで手放さなかったその理由を、息子である俺だからこそ「馬鹿だ」と笑うことができた。
親父は、夢を見ていたのだ。あまりにも無謀で、あまりにも虚しい夢。一度崩壊した家族はもう二度と元に戻ることはない。しかし親父にとっては、そんな叶わぬ夢を見ることにこそ、意味があったのかもしれない。
電車がホームに滑り込んだ。
俺はベンチから立ち上がり、一度鈍色の空を仰ぎ見た。



海はいつでも不変の姿を晒し、うつろう人間の姿を笑う。
鴎が上空で、踊るように旋回している。
俺が歩み寄ると、海から上がった男は驚いた様子も見せずに、あの頃と変わらない笑顔を俺に向けて言った。

「――おかえり、寺田」

俺も親父のように、愚かになれるだろうか。


<了>

2006年08月31日(木)



 残暑見舞い短編 4

ロージー MONYさんへ

これは何の匂いだったろう。
私は目を閉じ、鼻腔を疼かせる甘い香りを記憶の中枢から呼び出そうとした。確かに嗅いだことのある匂いだった。花の香りであることは間違いないのだけれど、その花の種類が思い出せない。典江がもし傍らにいたとすれば、すぐに教えてくれただろう。何科の種類の何という花で、育て方や原産地まで、もしかしたら答えてくれるかもしれない。典江は花が好きだった。だから、私は彼女との記念日にはいつも花を贈った。しかし花に疎い私のことだ。花屋に行き、その場にあった花の中から彼女が好みそうなものを適当に選び花束にしてもらう程度で、一度たりとも、彼女に贈る花の名前を覚えようとか、調べようとか、そんなことを考えたことはなかった。その結果、私はこうして、もどかしく悩む羽目になる。この匂い、何の花だったろう。とてもやわらかく、甘く、優しい匂いだ……。

「――眠ったの、おっさん?」
私の思考をさえぎる無粋な声。私は仕方なく花の図鑑を閉じ、代わりに目を開いた。
「起きてるさ。ちょっと考え事をしてた」
「ひどいな。人が一生懸命がんばってるってのにさ」
私は苦笑する。私に典江の記憶を思い出させた香りを放つ張本人が、しかめ面をして私を見下ろす。まだ若い。何歳だろう。訊くのが怖い年齢であることは間違いない。私の腰に跨り、若々しく張りのある内腿を晒している。まだ青く未熟といってもいい性器は、勃起してなお、雄の荒々しさを見せることがない。稚魚が卵から孵化する、その程度の膨らみだった。
私は手を伸ばし、その小魚を捕まえる。逃げるように頭を引っ込めたそれを追いかけて指を絡ませると、観念したのか、彼は敢えて腰を突き出し、無防備さを装った。
「甘い匂いがする」私が指先でその形や弾力を確かめながらそう言うと、「チョコなんて食べてない」と素っ頓狂なことを言って、彼はなぜか不満そうな顔をする。
私は身体を起こした。バランスを崩した彼の背中を支え、ラブホテルの安いベッドの上へと押し倒す。
長男は、来年大学を卒業する。息子よりも若い青年、いや少年といってもいい年齢の子供をこうして組み伏し、身体をつなげ、せつな的な快楽と恒久的な嫌悪に苛まれ、私はいったい何をしているのか。
典江が子宮ガンでこの世を去って、もうすぐ一年が経つ。
三年に渡る闘病生活、私は彼女の看護のために二十年勤めていた会社を辞めた。貯金は息子の進学と入院代であっという間になくなった。親戚に頭を下げて借りた金も底をつきかけたとき、典江は何かを悟ったかのように静かに息を引き取った。
悲しかった。後を追いたいと思うほど絶望した。しかし同時に、私はほっとしていた。これ以上借金が増えないこと、彼女の苦しむ姿を見ないで済むこと、精神的に開放されること、すべてに安堵を覚えていた。最悪の夫だと言い切ってしまえば楽だったのかもしれない。私は、そう感じた自分をも許してしまった。同時に、何かが壊れた。典江が大事にしていた青磁の花瓶も、今はもうない。

「二万円」
言われて、私は財布から金を出す。結局、花の名前は思い出せなかった。さっきまで抱いていた少年の名前は最初から知らない。
「まいどあり」私から紙幣を受け取った彼は嬉しそうにそう言い、シャワーも浴びずに床に散らかっていた服を着た。いつ呼び出しても、彼の服装は同じだった。膝に大きく穴の開いたジーンズ、だらしなく垂れたベルト、ぶかぶかの白いパーカー。
学校へは行っていないのだろうか。親はどうしているのだろうか。手に入れた金は何に使うのだろうか。
「来週、また同じ時間あけとくけどどうする?」
「そうだな……」私は部屋にある小さな窓から外を眺めた。湿った暗い空間とは正反対の、青空と白い雲が見えた。胸の奥がざわついた。典江は一年前のこの時間、病室の窓から同じ青空を、どんな気持ちで見つめていただろう。
私は「いや、またこっちから連絡する」といい、ベッドから立ち上がった。彼は「あ、そ」と軽く言い、二つ折りにした万札をジーンズのポケットに押し込むと、そのまま部屋を出て行った。後ろ姿を見送ることなく私はバスルームに入って、シャワーを浴びた。甘い匂いがまだ、全身に染み付いているようだった。それがやけに、不快だった。

妻の四十九日を終え、息子から就職先が決まったという連絡を受けた頃、私は彼に出会った。失業中だったためハローワークへ通い、慣れないパソコン画面に四苦八苦しているところ、声を掛けられた。
「おじさん、今、暇?」
職安に暇つぶしに来る人間はあまりいないだろう。そう言うと彼は、「そりゃそうだ」とおどけて笑った。おかしな子だと、印象に残った。
それからハローワークへ行くたびに、彼の姿を見かけた。五日目、彼に誘われ一緒に近くの喫茶店に行った。
「二万円でいいよ」彼は言った。最初は何のことか分からなかった。「ウリやってるそこらの女子高生より、絶対いいと思うから」
私がそれほど欲求不満に見えたのだろうか。彼の言うことの意味を理解した私は、「男を抱く趣味はない」と断り、「妻を裏切るつもりもない」と白々しいことを口にした。
「バカだね、あんた」
彼はそう言って笑った。何が可笑しかったのか、私にはまったく解らなかった。ただ、彼がそう言うのであれば、私は自分が馬鹿なのだろうと思った。
駅前のラブホテルで二万円を払った。
彼の身体から、甘い匂いがした。
彼の中は、冷たく濡れていた。

私は、妻を亡くした。若い男を抱く言いわけとしては、ありきたりであり、見当違いであり、ふしだらであっただろう。
若さ。私は、ただそれを憎んでいただけなのかもしれない。
妻が病に倒れてから三年、そういった行為からは遠ざかっていたし、望むこともなかった。ベッドに横たわり、衰弱していく彼女の身体が醜かったことは一度もない。逆に神聖さを増していたように思う。人は神によって生を受け、神によって死を齎される。生まれたばかりの赤子と、死に行く寸前の人間は、どちらも同じように神に近い存在なのだ。
私は畏れていたのだろうか。
妻を、妻と言う存在を、彼女が愛した世界を、花を。

次に彼に会ったのは、一ヵ月後だった。
金の工面の問題もあった。もう、会うべきではないとも思った。息子が東京から一週間だけ帰郷していたこともあった。息子の正也は、私が警備員のアルバイトをしていると聞くと「無理するな親父」と言って笑った。母親によく似ている息子の笑みは、私を責めているようでもあり、哀れんでいるようでもあった。
「息子も二十歳を超えたら、どこか他人になる」
私が呟くと、彼はパーカーを脱ぎながら「俺は生まれたときから他人だったよ」と洒落たことを言った。私はベッドに片肘をつき、上半身だけ裸になった彼を見上げる。
「君は詩人だな」
「馬鹿言うなよ、おっさん」ベルトを外し、ジーンズと下着を一緒に下ろした彼は笑いながらそう言うと、シーツをめくり上げ、私の隣へと滑り込んできた。ふわりと、いつもの花が匂う。彼がこの香りで誘おうとしているのは、いったい誰だろう。少なくとも、私のように自戒を生きがいとする人間の抜け殻ではないはずだ。
若い肢体の上に、身体を重ねる。
口唇を合わせる。舌を吸いあう。歯をぶつけ、喉の奥を探り、甘ったるい唾をオイルに舌先を絡ませる。
初めて典江を抱いたのは、新婚旅行で行った熱海の民宿だった。
彼女は初めてだった。少しだけ出血した。白いシーツに滲んだその赤い色を、今でもまだ鮮明に覚えている。探し出した中心にある小さな爪を舐めると、彼女は感じていた。私はどこか不思議な気持ちで妻になった典江を見つめた。愛しているの意味を、小僧だった私はまだ知らなかったのだ。

「名前を知りたい」
「ノブユキ」
「どんな字だ?」
「信じる幸せで、信幸」

信幸の若い性器を嗅ぐ。花の名前は、やはり思い出せない。望まれているのか、拒まれているのか、何度抱いても判らない不可解な場所を自身の肉で蓋をすると、腰が漣のように震え、思わず声が洩れた。
「おっさん、もっと奥まで入れてよ。もっと奥、わかる? 潰れるくらい、押し込んで」

どんなときも幸せを信じるようにと、信幸の親は彼にその名を授けたに違いない。
彼は、幸せなのだろうか。自由なのだろうか。

私はこれまでにないほど激しく腰を打ち据えた。
信幸の背中が若竹のように撓って鳴る。初めて抱いたときの典江の肌を思い出そうとしたが、もう時間の流砂に埋もれ、記憶の断片ひとつ引きずり出すことができない。不甲斐ない夫だと、私は私を嘲笑った。
信幸は、女のようにすすり泣いていた。
気が付けば、シーツに濁った染みができていた。ひどく擦りすぎて、傷ついたのかもしれない。私はその染みをしばらく眺めたあと、ふたたび信幸を抱いた。

私は、いつだって無知なのだ。
妻の愛した花の種類も、信幸から香る花の匂いもわからない。

終わったあと、信幸はもう今までのように「次は?」とは訊かなかった。私もたずねることはしなかった。代わりに、彼へ払う二万円の間に、私は自分の家の鍵を差し込んで一緒に渡した。信幸は気付いたようだったが、いつものようにジーンズのポケットに紙幣をねじ込んで、そのことには触れなかった。

ラブホテルからの帰り、私は本屋へ寄った。
花の図鑑は三千六百円して、手持ちでは少し足りなかった。

<了>

2006年08月29日(火)



 頑張れエヌテーテー急いでエヌテーテー

エヌテーテーコンサルタント会社のうっかりお姉さんのせいでなかなか自宅にネットが繋がりません。気長に待ちます。メールをくださっている方、本当にありがとうございます。お返事どうかもうしばらく待ってやってくださいね。

さて、即席書いて出し短連編を三つほどアップしましたが、このくらいの短さだったらいくらでも書けちゃうもんねと思った矢先にネタ不足。
「真実〜」が更新できるようになるまで短編はちょこちょこ書いていきたいなと思っているので、もし人物やシチュエーション等で「こんなの読みたいわ」というリクエストがあれば、メールや掲示板で気軽に声掛けてやってくださいね〜。ぜひ参考にさせていただきます。

2006年08月25日(金)



 残暑見舞い短編 3

「泣くなミッチー」


「私、森野のこと好きみたいなんだけど」
一世一代の告白ってわけじゃないけれど、心臓が目の前のエビマヨの皿に飛び出しそうなくらいバクバクしてるわけで。
森野は驚いたように何度か瞬きした後、「え? あ、そうなんだ」と言って、ちょうど割り箸でつまんでいたダシ巻き卵を口の中へと放り込んだ。どうやら私の告白は、居酒屋のダシ巻き卵より魅力がないらしい。
「ちょっと、本気なんだけど」
少し口調を強めた。今日のために先週末には美容室に行った、新しい口紅も買ったし無駄毛だってちゃんと剃ってきたんだからもっと真剣に聞きなさいよ。もちろん口には出さず、心の中でそう念じる。
森野はマイペースにもぐもぐとダシ巻きを食べ終え、ビールを一口飲んで、煙草を口に咥え、火を点けて一服してから、「本気なの?」と小首を傾げた。
この男、いつか絶対必殺ラリアートでKOさせてやると心に誓った。
「森野、彼女いないって言ってたよね」私が言うと、森野は短い髪をがりがりと掻いて、「うーん、まあね、彼女はいないけどさぁ」と妙にうさんくさい返事をする。こういうときの男は、彼女はいないけどエッチする女友達はいるとか、彼女はいないけどお前に興味はないとか、彼女はいないけど好きな人はいるとか、そういう意味合いが含まれているものだ。
やっぱりね。
分かっちゃいたのよ。
最初からダメもとだったから、そんなに立ち直れないほどひどく落ち込んだりはしないけどさ。やっぱりショックはショック。
決定的な言葉が森野の口から出てきそうで、私は思わず目をそらした。水滴に濡れた割箸袋がふにゃふにゃになっていて、まるで私の心のようだと思った。

森野は会社の同期で、同じ部署に配属された。
最初はどこか取っ付き難い印象で、どちらかといえば苦手なタイプだったけれど、実際話してみれば気さくないい奴だった。あまり男とか女とか意識せず、仕事の話も恋愛の話も、愚痴ものろけも下ネタも、何だって気軽に話すことができた。私は大学時代から付き合っていた男がいたし、森野は森野で結構いろいろな子とうまいことやっている様子だった。
いい同僚であり、いい友人だったのだ。
私が彼氏と別れたときも、一緒に朝まで飲んで延々と泣き言を聞いてくれたのも森野で、「ミッチーにはもっといい男が現れる。俺が保証する」なんて、失恋した女に言うべき常套句を飽きもせずに何度も繰り返してくれた。
男女の間に友情は存在しないなんていう人間がいたら顔面にかかと落としを喰らわしてやるって思っていたし、その考えが揺らぐことなど絶対にないと思っていた。
しかしその固い意志に反し、生ものである感情はいつからかあらぬ方向へと流れて出していった。きっかけは、一年くらい前からだったと思う。何がとはっきり断言できるようなものはないのだけれど、森野の雰囲気が少しずつ変わってきたのだ。男も二十代半ばを過ぎれば学生のような軽さはなくなるものだし変わって当然なのだが、森野の変化はそれだけではないような気がした。
直感だった。
女ができたのだと思った。今までのような軽い感じではなく、本当に将来を語り合うようなタイプの恋人を森野は見つけたのだと私は勝手に確信した。
だから、事あるごとに森野に探りを入れてみたりもしたのだが、森野は一貫して「彼女はいない」と私にも、周囲にも言う。
もしかしてその相手が公言できない人妻だったりするんじゃないの、なんて冗談めかして訊いてみると、おでこに空手チョップを食らわされた。「ミッチー、お前はドラマの見すぎ」そう言ってげらげら笑う森野から、確かにそんな後ろ暗い雰囲気は微塵も感じられないのだから、私の考えすぎに違いないと思うほかなかった。
特定の彼女はいない。それなのに徐々に変化していく森野。研ぎ澄まされていくようでもあり、やわらかくなっていくようでもあり、男として強くなっていくようであり、逆に脆くなっているようでもあり、それを人間の深みというのであれば、森野は人間として着実に成長していっているのだろう。どこか置いてけぼりを食らったかのような淋しい気持ちになった。それが、森野という男への執着の始まりだったと思う。
気になり始めたら、あとは止まらなかった。
もっと、森野の中身を知りたいと思った。
変化の理由を問い詰めたかった。
まいった、好きになっちゃったと自覚するまでに、時間はあまり掛からなかった。

森野は朝より少し伸びた顎の無精ひげを指で触りながら、「どうしようかなぁ……」と呟いた。一応それなりに悩んでくれているのだろうかと、ちょっとだけぬか喜び。案の定、森野は私を真っ直ぐに見つめると「まあ、ミッチーには白状しとくか」と勝手に何らかの結論を出し、前置きもなく「俺さ、いるんだ。付き合ってるやつ」と言ってのけたのだ。
私は、多分百人いれば百人が見て分かるほどたっぷりがっくり肩を落とした。分かっちゃいたが、想像するのと本人の口から聞かされるのとでは受けるダメージが違うのだ。
私は目の前の梅酒ロックをぐびぐびと呷った。
プハッてまるでどこかのおやじみたいにグラスを空にしたあと、少し可笑しそうな顔で私を眺めていた森野に文句を言ってやった。
「じゃあなんで今まで黙ってたの。私のこと信用してなかったわけ?」
「してるよ、してる。だけど、ちょっと言えない事情っつうか、なんつうか、あったりするんだよ」森野は歯切れ悪く言って、ネクタイを少し緩めた。居酒屋の個室の脇には、背広が丸めて置いてある。これをハンガーに掛けたり、クリーニングに出したりするだろう見知らぬ森野の恋人に私は勝手に嫉妬した。
「事情ねえ。それって訊いてもいいの? あ、お姉さん、梅酒ロックもう一杯お願い」
通りかかった店員にお代わりを頼む。自棄酒、自棄酒。
森野は新しい煙草を咥えてライターの火を吸い点けた。
「彼女って、私の知ってる人?」私が訊くと、森野は小さく肩を竦めた。
「知らない人。っていうか、彼女じゃないんだって」
「なに今更ごまかそうとしてんのよ。彼女いるって言ったのはそっちだよ」
私の言葉に、森野は少しだけうんざりした顔をした。正直、カチンときた。私はがらにもなく緊張して、精一杯の勇気を出して告白をしたのだ。それなのに、こんなふうにのらりくらりとはぐらかされるなんて冗談じゃない。大人げないと分かっていても、自然ときつくなる口調を抑えることができなかった。
「あ、そう、もういいよ。話したくないなら話さなくていい。私の告白を断る言い訳のつもりならそれでもいいし、もうどうだっていい。迷惑かけて悪かったわね。私、帰るわ。じゃ」
脇に置いてあったバッグを手繰り寄せ、私は座敷から立ち上がった。お気に入りのスカートがしわくちゃになっていた。何だか泣きたくなった。いいよ、どうせ家に帰ったらひとり淋しく泣くに決まってるんだからもう少しの辛抱だよって、私は自分に言い聞かせる。
「ちょっと待てって」私が個室を出て行こうとするのを見て、ようやく森野が少し慌てた素振りを見せた。「そうじゃないんだって。聞けよミッチー」
私が振り返ると、森野が立ち上がって私の腕を掴む。大きな手だ。男の手は、いつだって女を引き止める何かを持っている。それが、何だかひどく悔しい。
「言う、言うよ」森野は私の目を真っ直ぐに見つめて言った。「だからさ、彼女がいないって意味、俺が付き合ってるやつは男なんだよ。男」
私は一瞬、日本語が通じないパプアニューギニア人にでもなった気分だった。開いた口がふさがらない状態の私を見て、森野が気まずそうに頭を掻く。「……だから言いたくなかたんだって」
凍りついた脳みそが少しずつ回転し始めるのを待って、私は恐る恐る訊いてみた。
「恋人が、オカマちゃんってこと?」
その問いに、森野ははっきりと首を振る。「違う。正真正銘の男だ。髭もはえるし、脛毛もある。他にもいろいろ普通にある」
私は「……へえ」としか答えられなかった。森野は嘆息し、再び座布団の上にあぐらをかいて座ると、手酌でビールをグラスに注ぎ、ぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。さっきまでの自分の姿をリプレイしているようだった。
私もおずおずと元の席に座る。なぜか正座になった。森野は座高が割増した私を見て、「他に質問は?」と言った。
「ええ……っと、ハイ、先生」
「道橋くん」
「はい、あの、つまりそれは、森野先生はそっち側の方だったということでしょうか」
森野は心底嫌そうな顔をすると、「そっち側もこっち側もあるか」とぶつくさ言った。
「男は啓太が最初で最後だ。それだけは間違いない」
どうやら、お相手は「啓太」という名前らしい。私は自分が森野を好きだったこと、告白したこと、ふられたことをどこかに置き忘れてしまったようで、興味の矛先が完全にずれ始めていた。
「見たい。どんな子?」
「ヤダよ。普通のやつだよ。どこにでもいる普通の男」
「写真ないの? 写メくらい撮ってるでしょ」
「あっても見せんわ」つれない森野。私は失恋した女の武器を使った。
「私、森野にふられたんだよ。ハートはボロボロ。家に帰って泣き咽ぶんだから、その原因になる人の顔くらい見せてくれたっていいじゃない。それでなきゃ全部嘘だって思うし」
「お前、根性悪いな」
「今更」
森野は心底あきれた顔をした。「早く、早く」とせかす私を一度睨み付けると、しぶしぶと言った様子でテーブルに置いてあった携帯電話を手に取った。
彼が見せてくれた写真には、両手でピースサインを作って笑う男の子が映っていた。フラッシュの加減なのかもしれないが色が白く、顔はまあまあ可愛いといった感じで、どちらかといえばおばさんなんかに人気がありそうな好青年タイプだった。
「うーん、ふつう」私が言うと、森野は「だからさっきからそう言ってんだろ」と拗ねた。
「でもその写真だけじゃ本当に付き合ってるのかどうか分からない。一緒に写ってるのはないの?」
「ない」森野は断言した。これは本当のようだ。
「じゃあ、電話して電話。声が聞きたい」
「はあ? お前、いい加減にしろよ」森野は怒った。怒ったけれど、どこか抜けたような雰囲気がある。多分、気が抜けているのだろう。私にバラしちゃったから。恋愛相手が同性だった場合、それを公言することがどれだけ難しくて大変なことなのかくらい能天気な私にだってある程度想像はつく。それを白状してしまった森野はだから、パンパンに張り詰めていたはずの気力がしぼんでしまったのだろう。そうだ、そういうことにしておこう。
「ここまで白状したんだからもういいじゃないの。楽になりなさい森野」
「お前は刑事か」
「兄ちゃん、カツ丼食うかい?」
くだらねぇと言って、森野が苦笑する。私も笑った。それから森野は仕方ねえなぁと呟いて、自分のケータイを私の方へと滑らせた。
「『白石啓太』」
「シライシ、ケイタ」私は鸚鵡返しにその名前を発音しながら、森野のケータイメモリを弄り、言われた名前を見つけ出す。
「本当にかけていいの?」
「勝手にしろ。寝てるかもしんないけど」
「私が電話したら浮気してるって思われない?」
「思うかもな」
投げ遣りな態度で森野が言う。そっちがそんな態度なら、こっちだって開き直ってやる。私は通話ボタンを押し、ケータイを耳に押し当てた。ピアスがカチンと小さな音を立てる。繰り返されたコールは五回目を待たずに途切れた。
「――もしもし」
出た。私は「おお」と心の中で小さく慄いた。低くもなく高くもないその声は続けて、私の目の前で不機嫌そうに煙草を咥える男の名前を呼んだ。
「周ちゃん、なに? 今どこにいんの?」
森野周一、だから周ちゃん。顔に似合わず可愛い呼び方をされているらしい。森野の冷たい視線を掻い潜り、私は勇気を出して口を開いた。
「もしもし、白石啓太さんですか? 私、道橋京子って言います」
「へ……?」電話の向こうで白石啓太が驚いているのが分かった。構わず私は続けた。「今、森野から携帯電話を借りて電話してます。実は今日、私、彼に告白したんです。付き合って欲しいって。そしたらダメだって言われました。付き合ってる人がいるから無理だって。おまけに相手は男の人だって聞いてびっくりしました。もしかして私の告白を断るための口実なんじゃないかって疑って、あきらめるにせよそれがちゃんと本当だってことを証明してもらわなくちゃ話にならんわと思って、こうして電話させてもらっています」
一度そこで区切ると、白石啓太が「あ、あの」と割り込んだ。「周ちゃ……じゃなくて、周一は、そこにいるんですか?」
「うん。私の目の前で超ふてくされた顔して煙草吸ってます。で、一応聞かせてもらえますか? 森野と付き合ってるっていうのは本当ですか?」
私はいたいけな青年につめよる意地悪ババアかと自分にむなしいツッコミを入れてみたが、ここまできたら後には引けない。写メに写っていた白石啓太の顔を思い浮かべながら返事を待つ。
「おい、もういいだろ」そう言ったのは森野。私は口パクでダメと言う。
それが聞こえたのかどうか、しばらく沈黙を続けていた白石啓太が「道橋さん」と私の名前を呼んだ。
「道橋さん、ごめんなさい。周一は僕のです。彼に変わってもらえますか?」
なんだこの殺し文句は。
私は一瞬気が遠くなりそうになった。気を失う前に携帯電話を持ち主に投げ渡すと、森野は器用にキャッチし、そのままケータイへと齧り付く。仕方ないだろとか、悪かったとか、ごめんとか、すぐ帰るとか、怒るなよとか、ハイハイ勝手にすればいいんじゃないのと濡れ布巾を放り投げたくなるような会話を交わした森野は、五分ほどしてようやく電話を切ると「――これで啓太と別れたらお前のせいだからな」とうんざりした顔で言う。
「啓太君、なんだって?」
「一生帰ってくるなって」
「大変。おかんむりだ」
「誰のせいだよ、誰の」ぶつぶつ言いながら森野はビールのグラスを持ち上げる。私は腕を伸ばし、彼の手からそれを奪い取った。
「大切なハニーに捨てられないように早く帰った方がいいんじゃないの?」
私がニヤニヤすると、森野は頬杖をつき、心底不服そうな顔をする。
「お前さ、俺に失恋したんだろ。だったらもう少し悲しそうな顔しろよな。そうすりゃ一晩くらい慰めてやるのに」
その言葉に一瞬ぐらっときた。だが踏ん張った。私はそれほど節操のない女じゃない。
「君が白石啓太に捨てられたら、考えてやってもいいけどね」
森野は不満そうに右眉を持ち上げた。別れねぇよと、その表情が物語っていた。思う。すごく思う。森野は白石啓太のことがたまらなく好きなんだろうなと。どちらかといえば入社当時、女から女へ浮き草のようにふわふわ漂っていた森野が、いつの間にかきちんと腰を据え、男として、いや人間として徐々に深みを増していったのには、きっとこの白石啓太という恋人の存在が大きく影響していたに違いない。完敗だ。仕方ない。ここはひとつ潔く白旗を揚げようじゃないか。
「幸せにしてやんなよ」私が言うと、森野は「うるせえよバカ」と照れくさそうに言った。
ごちそうさま。
なんだかお腹もいっぱいだし、胸もいっぱいだ。それに、失恋した相手の幸せをちゃんと願えているなんて、自分がなんだかとても誇らしかった。
私だって森野に負けないくらい、女として、人として、まだまだ成長していくんだから。
 
森野が少し困ったような顔をして、ポケットからハンカチを取り出すと、それを私へと投げつけて言った。

「泣くなよ、ミッチー」


<了>

2006年08月24日(木)



 若キャプテン

さて、今夜はリバプールのCL予備戦2ndレグです。これに勝たなければチャンピオンズリーグ本戦には進めないという大事な大事な一戦です。
えーっと、どなたかこの写真を焼きまわしてシャビのロッカーにこっそり入れてやってくれませんかね。
間違いなく(人知れず)ハッスルするに決まってるんだから。

2006年08月22日(火)



 残暑見舞い短編 2

「彼と彼の夏の側」

ガキの頃から夏が大嫌いだった。
理由? 理由は何だったろう。小学生にあがった途端、無理やり通わされた学習塾の夏期講習、クーラーで冷え切った部屋の中でほとんど一日中机にしがみ付いていた時間、シャーペンが紙と机を引っかく音と、講師のやたらノリのいい喋り方や叱咤や誉め言葉、こめかみが痛くなるそんな感覚。それが――何年経っても消えない不快感として夏という季節にこびりついているのだろう。
勉強が嫌いだったわけではない。教育熱心な母親がうざかったわけでもない。少なくともそのおかげで名の通った大学にも進学できたし、希望していた企業にも就職することができた。同僚はいい奴ばかりだし、仕事も面白い。残業続きで肉体的にも精神的にもへとへとになるときもあるが、それに見合った給料も支払われる。文句はない。
隣で眠る恋人を起こさないように狭いベッドを抜け出し、俺は煙草を持って裸足のままバルコニーに出た。時刻は午前四時、まだ夜の帳は上がっていない。しかしこのガラクタのような街が溜め込んだ熱気はこんな時間でも膨張を続け、頬に当たる風はねっとりと湿気ていた。
煙草を咥え、火を点ける。吸い込んだ紫煙は、外気と同じくらい生ぬるかった。
夜気に背中を預けて部屋の中に目を向けると、暑さのせいか、寝苦しそうに寝返りをうつ啓太の姿が見えた。パンツ一枚、それさえも辛うじて腰に引っ掛かっている程度。恋人のその間抜けた格好に思わず口許が緩む。
付き合い始めて三年が経つ。よくもまあそんなに長続きしたものだと、我ながら感心することがある。それは俺の努力ではなく、間違いなく啓太の辛抱と我慢の結果であり、愛想をつかされないことが奇跡に近いのだと充分に自覚している。
「掴み所がない」「裏表がありそう」「怖い。冷たそう」他人から見た俺の第一印象は、だいたいがそんな感じだ。細くてきつい目つきのせいもあるが、それ以上に乏しい表情がそういったイメージを周囲に植え付けているのだと思う。
中学、高校と一流大学に入ることだけを目標に、今思えばバカじゃないかと思うほどに勉強した俺が初めて恋愛らしい恋愛をしたのは、無事希望した大学に入って受験地獄から脱出した後だった。相手はサークルのコンパで知り合った子で、一年間付き合った。キスからセックスまで一通りして、女の子という存在の中身を知って、肌に触れる心地よさや一緒にいる安心感も覚え、それなりに充実した時間を過ごしたと思う。
別れた原因は、今でもよく解らない。彼女が俺という男に飽きたのかもしれないし、俺が彼女との関係に怠惰を覚えたのかもしれない。気が付けば一週間会わないことが普通になり、二週間電話しないことが普通になり、やがて一ヶ月音沙汰がなくなり、別れたのだと納得した。淋しいとか、悲しいとか、そういった感情は驚くほどなかった。
それから何人かの子と付き合ったが、せいぜい三ヶ月、持って半年という周期で女の子との関係は大学在学中続いていった。どの子ともそれなりにうまくやれていたが、気が付くと連絡を怠って相手を怒らせ、そして別れるというパターンが多かった。別れる際、やはり未練を残すような相手はいなかった。そんな四年間を過ごし終わり、俺は自分に何かが欠けているんだということに薄々気付くようなった。

短くなった煙草をバルコニーのコンクリートでもみ消し、俺は部屋に戻った。
電気料が掛かるからクーラーは絶対に入れないと意地を張る啓太の額にじっとりと汗が滲んでいるのを見て、俺は停止していた扇風機のタイマーをもう一度セットしなおした。ゆっくりと回転を始めた羽に煽られ、啓太の前髪がふわふわと揺れる。そんな啓太を跨いで、俺はベッドの空いていたスペースに寝転んだ。目の前にある啓太の肩甲骨が、トリケラトプスの骨格を思い出させた。起こさない程度に軽く齧ると、汗の味がした。俺が啓太に出会うまで知らなかった、夏の匂いだった。

社会人になって二年目の頃、大学時代の友人からバーベキューに誘われた。かなりの大人数だと聞いて、たまには仕事のことを忘れ、学生気分に戻って羽目を外すのも悪くないと参加したそこで、俺は初めて啓太と出会った。彼は彼の友人の誘いで半ば強引に連れてこられたらしく、最初はどこか居心地の悪そうな顔をしていた。
しかし、いざバーベキューが始まると、野菜の切り方から肉の焼き方、カレーの作り方や食器の並べ方まで仲間に指示しながら忙しなく動き回り、その都度、周囲のやつらとふざけ合ったり笑い転げたりしながら楽しそうに過ごしているのがひどく印象に残った。
俺から声を掛けたのは、そろそろお開きになるという時間帯だった。
「この後、なんか予定ある?」
まるで女の子をデートに誘うような言い種になり、後々啓太にからかわれたりしたのだが、その時は他にいい文句が見つからなかったのだから仕方ない。
「え、別にないけど……」
啓太は突然初対面の男に声を掛けられ面食らった顔をしていたが、俺の名前を訊いたあと、「周一は家どこ?」と気さくな態度で接してくれた。
結局、その後は二人で居酒屋に寄って朝方近くまで飲んだ。気が合った。久しぶりによく笑った気がした。
「周一は笑うとイメージ違うねぇ」そう言って笑う啓太もすでに出来上がっていて、昼間のバーベキューの日焼けプラス、お酒のせいで頬も耳も首筋も指先までもが真っ赤だった。
「ほら、人はギャップに弱いって言うじゃない。僕が女の子だったら、間違いなくお持ち帰りされちゃうもんね」
「して欲しいのか?」
「してくれんの?」
けらけら笑う啓太を眺めながら、俺は同じ男でも啓太くらい色白なら抱けるかもしれないとぼんやりと思った。それを口にすると、啓太の表情があからさまに強張った。互いの顔を無言で見つめ合った数秒。その瞬間、俺達は何かを得、何かをごまかした。子供でもなく、大人にもなりきっていない俺達には、多分、それだけで充分だったのだ。

「――周ちゃん、暑くて眠れんの?」
いつの間にか目を覚ましていた啓太が肩越しにこっちを振り返っていた。俺は「いや」と言って首を振る。啓太は何か言いたげな表情を浮かべたが、結局無言のまま再び枕の顔を埋めた。すぐに寝息が聞こえ始める。
俺はきっと、言葉が少ないのだと思う。伝えたいことが伝えられないのはまだいい。俺の場合はきっと、伝えなければならないことさえ伝えられていないのだ。
過保護な母親の監視が行き届かない啓太のアパートはひどく居心地がいい。それ以上に、啓太が側にいるということになぜかとても安心する。わざわざ口にすることはないから、啓太はきっとただ部屋でごろごろしている俺に不満が鬱積しているだろうし、呆れてもいるだろう。
あの夏。ただ机に向かって数式を解き続けていた時間に俺が失ってしまったものが何なのか、俺はこの三年間で嫌というほど思い知った。
愛想を尽かされるも時間の問題だ。それも、充分に分かっている。

窓の外を見ると、少しずつ夜空の根元が白んできた。
首を振る扇風機が、街が目覚めるにはまだ早いと小さく口笛を吹く。
俺は夏の匂いがする啓太の隣で、嫌悪を飼いならしながら眠りについた。



身体を揺さぶられて目を覚ました。
「周ちゃん、もうお昼」不機嫌そうな声が頭上から聞こえる。「せっかくの休みなのにさぁ、半日潰れちゃったじゃん」
俺はあくびをかみ殺しながらベッドから起き上がり、そのまま便所に行き、洗面所で顔を洗い、無精ひげの伸び具合を確認し、部屋へと戻った。盆休みも今日で終わりだ。
「腹減った。何か食うもんある?」
「それしか言うことないわけ」ぶつくさ文句を言いながら、それでも啓太は冷蔵庫を漁り始める。野菜が少ないなぁとか、シーチキンがカピカピしちゃってるとか、チャーハンでいいかなぁとか、寝起きの俺がいつも以上にしゃべらない分、啓太はせっせと冷蔵庫と会話する。
ふと、寝る前に心臓の周囲を駆け巡っていた自己嫌悪が自己主張を始めたため、俺は重い腰を上げ、しゃがみ込んでいた啓太の襟首を掴んで冷蔵庫から引き離した。
「しゃぁない、今日は俺が作ってやる、昼飯」
「どうしたの周ちゃん、暑さで脳みそ溶けた?」
この連休中に何十回と言い合った冗談を口にした啓太は、それでもちょっと嬉しそうに頬を持ち上げる。俺は腰を折り、笑みの形で止まっていた啓太の唇に軽く口付けた。
「ヒゲ、剃んなよ」啓太が笑う。もし今、啓太に別れ話を持ち出されたら俺は、またあの頃の俺に戻ってしまうだろうと思う。夏が嫌いでどうしようもなかったあの頃に。
もう一度、今度は時間をかけてキスをした。
啓太の額に、汗が滲んでいた。
舐めると、夏の味がした。
彼が側にいる夏だけは、俺にとって失ったものを取り戻せる時間になる。

「――セックスしてからにしよっか、昼飯」啓太が言う。
俺が笑うと、啓太も少し照れくさそうに笑った。
もう少しだけと、俺は思う。
もう少しだけ、彼と夏の側にいさせて欲しいと。
秋までには、どうしようもなく好きだと伝えられるように努力して変わるから。
きっと――きっと、多分。

<了>

2006年08月21日(月)



 残暑見舞い短編

「夏少年」

捕まえたカブトムシを入れた虫かごの匂い、頭上から一斉に降り注ぐ蝉の声、田んぼの畦道を流れる水路にゴム草履のまま入るときの冷たさと、足首を痒くする泥や尖った草葉、ばあちゃんが縁側でゆっくりと扇ぐうちわの風、日陰と日向の境目、入道雲の形――。
二十年前の僕の夏は、『少年時代』なんていう映画の風景をそのまま具現化したかのような田舎の典型的な夏だった。

二十年後の僕の夏――。
いい加減、新鮮味も好奇心も、さらには愛情さえも薄れてきているのではないかと疑いたくなる時がある、付き合って三年目の恋人がズボンに手を突っ込み、ぼりぼりとケツを掻きながらくだらないバラエティ番組を観てゲラゲラ笑っている姿を横目に、僕は生温いビールを飲む。
週末はお盆だ。愛媛の実家にはもう、丸々二年帰省していない。社会人になったから忙しいとか、家に帰っても兄貴の子供がうるさいだけだとか、帰省ラッシュでもみくちゃにされるよりも自宅でゆっくりしていた方がよっぽどいいとか、適当な言い訳を言ってみたり、自分に言い聞かせて見たりして、なんとなくごまかしてきた。
僕が普通と違うってことは、家族の暗黙の了解であり、口にするのはタブーであり、できることならば避けて通りたい話題のひとつなのだ。
どんな都会にだって、どんな田舎にだって、神さまは分け隔てなくそうした人種を作る。あっけらかんと生きるか、うじうじして生きるか、それはその人次第だ。だいたいの奴はきっと、その両方でうまくバランスを取りながら世間と折り合いを付けて生きていく。
あっけらかんと男とセックスしながら、うじうじ実家に帰ることを躊躇う僕も、その代表選手の一人だ。

「――啓太ぁ、腹減った。なんか食うもんある?」
さっきまでテレビに食いついて大爆笑していた男が、こっちを振り返って別の食い物を要求する。
「まだ買出し行ってないからカップ麺しかない。周ちゃん、たまにはさぁ、自分の食べるもんくらい自分で持ってきなよ。食いもん代だって馬鹿になんないんだよね」
「どうした、機嫌悪いじゃん」
視線だけはちゃっかりテレビに戻して周一が訊く。こんなときは僕が何言ったって右耳から左耳、聞く気なんてこれっぽちも持っていない。だから僕は、いつものように無言。
せっかくのお盆休みだっていうのに、僕と周一の休みが三日も重なっているっていうのに、旅行や遊びの計画なんて何ひとつ立てていない。結局、僕のアパートで終日ごろごろして終わりなのだ。周一は実家で、僕の安アパートを自分の別宅と勘違いしているらしい。腹が立つが、そういう状況を作り出したのは、僕の責任でもあるわけで。一緒にいるだけで楽しかった時期なんて、ジェットコースターより早く一回りして終わってしまった。
相手が異性ならちょっとくらいマンネリが訪れたって、恋人でいられる期間は途中段階だと割り切ることができる。その先には結婚があり、家庭生活があり、新たな家族を作り、子供達の成長を見守りながら夫婦二人で幸せな老後を迎え、最期は一緒にあの世に逝きましょうね、なんてそんな先の先の先まで夢を持つことができる。
それなのに僕達ときたら、今のこのだらだらした関係が最終段階なのだ。夢も希望もない。楽しくないわけじゃないし、周一が嫌いなわけでもない。もっと努力と工夫次第では、刺激のある関係を維持できるのかもしれないとも思う。けれど、当たり前に訪れる毎日の生活の中で、どこかの洒落たドラマのように惚れたはれたなどと繰り返すような日常は大抵が不可能というものだ。
最近、別れようかと考えることが多くなった。具体的にどうのこうのというのではなく、こんなとき周一がいなければ、恋人がいなければどうするだろうと、薄ぼんやりと時々思うことが増えたという程度だ。
「じゃあさぁ、たまには何かうまいもんでも食いに行くか?」
テレビに没頭していると思っていた周一が僕を振り返る。短い髪は根元からあちこち寝癖がつき、無精ひげがまばらに伸びてもみ上げと繋がっている。周一は毛深い体質なので一日髭を剃らずに放っておくと、いっきに風来坊のような面立ちになってしまう。きつそうに見える細くて小さな眼、対照的にごつい鼻、薄っぺらい唇、見慣れた造形だが、考えていたことが考えていたことだけに、僕は返事もせずにぼんやりと周一に顔を眺めてしまった。不審に思ったのか、周一が訝しげに右眉だけを動かしてみせる。
「おい、聞いてっか? 暑過ぎて脳みそまで溶けちまったのか?」
「周ちゃんの驕りなら行く」僕はそう答えた。僕みたいな三流大学出のサラリーマンはどんなに残業を頑張ってもせいぜい月給二十五万、税金やら社会保険やらなんやらかんやら引かれると手取りは二十万ちょっと。買いたいものは「次のボーナス、次のボーナス」と暗示ように呟き続ける日々。一ヶ月のやりくりも決して楽じゃない。それに比べ、一流大学を出て親の脛にむしゃぶりついている周一は、趣味のバイクも買って、友達に誘われればどこかのお嬢様との合コンにも行って、洋服も小物も気に入ったブランドで揃え、生活すべてに余裕がある。
同じ男として、正直悔しい。劣等感なんだって、そんなものは百も承知。友達の友達の、また友達が知り合いなんて蜘蛛の糸のような偶然がなければ、僕達が仲良くなったり、付き合ったり、抱き合ったりすることもなかっただろうなと思う。
「やっぱり面倒くせえなぁ、今から出かけるの」
ほら、やっぱりそういうこと。次に周一の口から出てくる言葉は決まってる。「コンビニで弁当買ってきて。俺、ハヤシライス。あとガリガリ君」
予想通りの言葉が出てきたのが、それから十分後。僕は渋い顔をする周一の財布から千円を抜き出し、自分の財布に突っ込んでアパートの部屋を出た。

「……別れよっかな」
階段を下りながら、独り言のように呟いてみた。
日陰から日向に出ると、強烈な日差しとアスファルトからの照り返しで全身の毛穴という毛穴からいっきに汗が噴き出した。くらくらする。車が吐き出す排気ガスが鼻腔を引っ掻き回し、前を歩く女子高生の馬鹿笑いが神経を逆撫でした。
夏が好きだった。
二十年前、僕は確かに夏が好きだった。どれだけ暑くても、汗をかいても、走り回っても、少しも疲れなかった。父親は仕事人間で、朝から晩まで家にいない。母親は家計を支えるために自宅で内職をしていたし、初めての子供である兄貴と、初めての女の子だった妹への関心は、僕のそれとはどこか少し違っていて、当時淋しいと思うことはなかったが、暇さえあれば家を飛び出し一人きりで外を駆け回っていた幼い僕の心に、そういった孤独があったのかもしれないと、大人になった今になって思うことはある。
そんな僕にとって、夏は最高の季節だった。
たくさんの昆虫が遊び相手だったし、陽が長い分、いつまでだって好きなことに没頭できた。今ではカナブン一匹でさえ触れないというのに……。
僕は東京の狭い夏空を見上げた。
なんだかむしょうに田舎が恋しくなった。周一と別れて、来週はひとりで実家に帰って、兄貴の子供と一緒に蝉でも捕りに行こうか。
――なんて、いつも考えるだけだ。
結局、去年と変わらない夏がきっとあっという間に過ぎていくだけだろう。
変わらない日常、変えられない日常、取り戻せない日常、行き詰まった僕、いつだって、逃げ出せない僕。

ハヤシライスがなかったので普通のカレーライスと、僕のオムライスと、それにガリガリ君二本を買ってコンビニを出た。もう考えることも怠惰になって、どうでも良くなった。恋人がぐうたらでも、田舎に帰らなくても、給料が安くても、ホモでも弱虫でもなんでもいい。
重い足取りを、嫌いになりつつある夏のせいにして歩く。歩く、歩く。汗がこめかみを伝うのが分かった。それさえも、どうでもよかった。拭うのも億劫だ。
アパートに着いて駐輪場を回って階段に向かうと、一段目に周一がしゃがんでいた。
「何してんの?」思わず声が出た。「暑いのに」
「そりゃぁ、夏だから暑いに決まってる」周一はそう言って、にかっと笑った。僕が歩み寄ると、立ち上がる。周一の首筋から、汗の匂いがした。
「……ハヤシライス、売り切れてたよ」
「なぁ啓太、来週海でも行こうか」
唐突に周一が言う。
「なに急に」
「別に、なんとなく。どうせ暇じゃん」
僕は少し躊躇したが、言ってみた。「僕、実家に帰るかも」
「なんで?」
「なんでって、実家だからに決まってるじゃん」僕はそう言って、周一の脇をすり抜けて階段を上る。周一は三段ほど遅れて付いてくる。
無言で階段を上った。周一も無言だった。やっぱり気まぐれだったのだ。海なんて、きっと周一なら会社の同僚とか、大学時代の友達とか、もっと明るくてきらきらした仲間と行くはずだ。僕と行ったって面白くもなんともないだろう。遠くで蝉の声がする。僕はそっちに耳を傾けた。
部屋に戻り、ガリガリ君を冷凍庫に放り込んだ。カレーライスとオムライスをテーブルの上に置き、ジーンズのポケットから財布を取り出すと、周一に返すおつりを計算する。周一はまた定位置に戻り、あぐらをかいて座った。
「おつり」と言って、僕は小銭を手渡そうとするが、周一はそれを無視して僕の手首をぎゅっと掴んだ。驚いて周一の顔を見ると、周一は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「なに?」動揺が少し声に出た。
「なんか変だろお前」
図星。だけど知らんぷり。「別に変じゃないよ。ただ暑くてちょっとイライラしてた」
「ふーん」その場しのぎ、取って付けたような言い訳に納得したのかしないのか、微妙な相槌をうって周一が僕の手を離す。握られていた手首に周一の指の跡がついていた。思っていたより強く握られていたようだ。
僕は冷蔵庫から烏龍茶を取り出し、コップ二つに注ぐ。周一はいただきますも言わずに、カレーライスを食べ始める。僕も黙ってオムライスを食べた。自分で作った方が何倍も美味しい。ただ、面倒くさい。
二人ともあっという間に食べ終わって、周一は再び寝転がってテレビを観る。僕はゴミを片付け、空いたコップをシンクに置き、冷凍庫からガリガリ君を取り出し、ひとつを周一に投げ渡した。
寝ながらうまくキャッチした周一は、自分で「ナイス」と言って笑う。――あ、キスしたい、と思わせる僕の好きな周一の笑い方だ。この顔に、僕は落とされたといってもいい。一見冷たそうに見える周一だが、表情を崩すと途端に人懐こい雰囲気が生まれる。
「周ちゃん」名前を呼ぶと、周一は笑顔のまま僕を見つめた。「周ちゃんが海連れてってくれるなら実家に帰るのやめる」
「どうした急に」
「別に。ただなんとなく」
さっき、階段で交わした会話がさかさまになって戻ってきた。
周一は少し考え込むような顔をしたあと、寝癖のついた頭をがりがり掻いた。
「お前、やっぱり今日なんか変だな」言いながら立ち上がった周一は、冷蔵庫に凭れ掛かっていた僕のところまで歩み寄ると、僕の顔を両手でむんずと挟み込んだ。
「こら啓太、お前浮気でもしてんのか」
「してるわけないじゃんバッカじゃないの」
見当違いもいいところ。時々ある、天然バカ周一。
「当たり前だ。したら殺す」
ポンっと投げ出される周一のそういう言葉が、僕から別れたいの意志を削っていく。手持ち無沙汰だった腕を周一の背中に回すと、思っていたよりも強く抱きしめられた。

何も考えず、何も迷わず、夏を思う存分楽しめた二十年前にはもう戻れない。
蝉の声も、太陽の日差しも、ひまわりの高さも、カキ氷の冷たさも、ひとりでいた時間の長さも、もう昔のように感じることはない。
大人になったって、大好きだった夏が嫌いになったって、故郷から遠ざかったって、正しくないことを正しいと思わなくちゃならないときがあったって、僕は生きていかなくちゃならない。
少し、泣きそうになった。
それを恋人とのキスでごまかす手段だって、今の僕は知っている。

「……実家なんて帰るなよ」
周一が耳元で囁いた。
うんと頷いた僕はやっぱり、あの頃の夏少年には戻れない。


<了>

2006年08月18日(金)



 萌えメーター崩壊カポー

アホのように溜まっていた仕事をブルドーザーのようにガバガバ引っ繰り返して掘り繰り返して適当に始末してどうにか一息。
夏休みなんてあっつう間ですね。今、まだスカパッパの無料視聴期間中なので、ボケーっとテレビばっかり観てました。超激烈テレビッ子です。

そうそう、休みの間に黒川博行さんの「暗礁」も読みました。読書記録がすっかりご無沙汰で、読み終わった本も未読の本もあっちゃこっちゃに転がってるわけですが、いや〜、久々にこれは萌え尽きた。あれですあれです、「厄病神」「国境」に続く、二宮・桑原バカッポーの第三弾。前回よりも前々回よりも密着っぷりがエスカレートして大変です。「ひょっとして俺のこと嫌いなんか」と、根拠のない自信を持って何度も二宮に詰め寄る桑原も相変わらずだし、そんな二宮が殴られればもれなく加害者を半殺しにする桑原も相変わらずだし、そんな喧嘩の国の王子様に辟易しつつも、周囲から「桑原とは手を切れ」と再三忠告されてもなんだーかんだー言いながら引っ付いて離れない二宮の板についた子分、いや裏方、いやいや、奥方っぷりも相変わらずだし、二宮の一生独身宣言を桑原がしちゃう辺りもいい感じだし、ああもう勝手にいちゃこらしてればいいんじゃねと、途中で本を投げ出したくなるくらいのバカップルぶりでした。ああ〜すんごい幸せ。
皆さんもお暇があればぜひ読んでみてください。

2006年08月16日(水)



 テラッテラ夏女

私は明日から15日まで夏休みなので完璧なネット遮断状態になります。淋しい、淋しすぎるぜ…。うっかりキャンペーン内容に惹かれて光に加入しちゃったのがまずかったのかなあ〜。

さて、皆さんは夏休みどこかへ行かれますか? どうなんだろ、今年のカレンダーだと大きな会社はドドーンと九日くらい休めるのかなあ〜。いいな〜。何はともあれ、皆さんも事故やら事件だけには充分注意して、キラッキラサマーガールに変身してください。んでもって、おいしいネタが転がっていれば、家で暇だ暇だとゴロゴロしている私のためにぜひ手土産に持って帰ってきてくだされ。楽しみに待っとります!

2006年08月09日(水)



 これなんて題名のBL?

家に帰っても嫁が冷たいと愚痴をこぼす主任に対し、「じゃあいいじゃん、俺のところ来ちゃいなよー」と言いよる後輩。
「お前、テーブルの下で手ェ握んな!」と主任にいくら怒られても懲りずに終始抱きついたり、お腹の肉を掴んだり、ベタベタする後輩。
「ああ、この二人事務所でもいつもこんなんですよ」とゲラゲラ笑いながら教えてくれる彼らの同僚。
そして、それを肴にうまい酒を飲む私。

えらい豪華な引越し祝いをもらった気分です。

ついでに。
人は多分こういうのを

どさくさに紛れてイチャイチャしてます!

って言うんですよきっと。

2006年08月02日(水)
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