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■ 今日は秋晴れだよ短編 9
詩人の罪
切った野菜を鍋に入れ、潰したトマトと一緒に煮詰め、パプリカ、ペッパー、塩で味をつけた上にナイフで切ったバケットを並べて蓋をする。トマトソースがパンに染み込むまでのひととき、私は気まぐれな詩人を捜す。 彼の居場所はいつも不特定だ。屋根裏にいるときもあれば、裏庭で虫を観察しているときもある。シーツにくるまっているときもあれば、近くのカフェでエスプレッソを飲んでいるときもある。 今日はうさぎ小屋の前で小さなアリエルに餌をやっていた。幼い頃、唯一の友達だったアリエルは五年前の寒い冬の日に死んだ。私は三日間彼を抱いて眠り、四日目に森に埋めた。悲しすぎてさよならは言えなかった。彼のように寡黙で、心優しくて、暖かい親友には二度と出会えないだろうと思う。涙を流しながらアリエルの森から戻った私に、門の前で待っていた詩人は言った。 「別れを悲しんではいけない。死は時間ではない。君も決してひとりではない」 その頃だった。 私は自分が詩人を愛していることを自覚した。 彼に告げると彼は何も言わずにそっぽを向いたが、出て行けとは言わなかった。
彼が私の許可もとらずに勝手に市場で買ってきてしまった生まれたてのアリエルは、スミレほどの短い耳をひくひくと動かし、詩人の手からクローバーを貰って食べている。 「食事が冷めますよ」 「見てごらん、彼が咀嚼する数だけ、この世界が薔薇色に染まっていくのがわかるだろう」 私は身を屈め、彼の頬にキスをする。 「あなたがいる世界だからこそ、アリエルは生きるために草を食べるんです」 「理屈だな」つれない言葉を吐く詩人は立ち上がり、私の隣に並ぶ。ようやく彼と同じ目線にまで背は伸びたが、彼と同じものを見ることはまだ叶いそうになかった。 二人で小さなテーブルを挟んで食事をする。 私と一緒に暮らす前、詩人は空想とアルファベットとワインだけを飲んで生活していた。金がないという理由だけではなく、ただ単純に生きるということに対し無関心であるとともに、空腹から生じる自己愛に満ちた個の欲望にさえも嫌気を差しているように見えた。 だが私は、そんな詩人を無理やり椅子に縛り付け、作った料理を食べさせた。 最初は「口に合わない」だの「時間の無駄だ」だの、まるで子供のように駄々を捏ねて私を困らせたが、今では彼好みの味もだいぶ分かるようになり、いくらか彼の舌を懐柔することに成功した。 「――午後は街に出るよ」 珍しく、詩人がそう告げた。彼が行き先を私に教えるなど珍しい。 「どなたかと約束ですか」 「約束ほど無意味で無価値なものはない」 「私もお供しましょうか」 「結構だ」詩人はぴしゃりといい、膝に置いていたふきんで口を拭いた。 「ならば私は、アリエルと散歩にでも行ってきます」 「跳ねるうさぎの後を追ったところで、君のように臍が曲がった男は不思議の国などには辿り付けない。せいぜい現実という扉が明日という怠惰を従えて待ち受けているのが関の山だ」 「ひどいことを」私が笑いながら言うと、詩人は席を立った。 「この世に存在するありとあらゆるものは何かしらの罪を背負って生きている。君は自身の罪状を聞きたくはないかね?」 私はテーブルの上で両指を重ね合わせ、「もちろん」と答えた。 「君の罪は、君の左胸の奥にある。ほらそこだ、青いブローチの下に眠ってる」 詩人はそう言うとブーツの踵をカツンと鳴らし、ドアから出て行ってしまった。私はその後ろ姿を見送り、ため息を吐いた。私の罪、それは詩人への「愛」というわけだ。懺悔など、到底できそうにない。
詩人が街から帰ってきたのは、私がベッドに入ってうとうとしている頃だった。いつものように飲んだくれてきたのかと思いきや、私の部屋の前を行過ぎる靴音は彼らしくもなく物静かだった。 ふと不安になり、私はベッドから降りて寝室のドアを開けた。足を止めた詩人が私を振り返り「起きてたのか」と呟くように言い、そして少し思案に耽った顔をすると、やがて指先をちょいちょいと動かし、私を自分の部屋へと誘った。私は一度部屋に戻りガウンを羽織ると、すぐに詩人の後を追う。彼の部屋はいつも床の木目が見えないほど詩の断片によって埋め尽くされている。私は足許に散らばった紙を拾い上げながら彼のベッドへと腰を下ろした。 詩人は窓際に立ち、まるで異国の神のように漣ほどの表情もその顔に浮かべていなかった。妙な不安が胸をよぎる。私はたまらず口を開いた。 「街で何かありましたか?」 詩人は私を振り返り、「この世界にあるべきものは、あるべきときにあるべき場所へといざなわれるものだ。私も今日、あるべき使命に従いあるべきところへ行ってきた」といつもの陽気さを雲間へ隠し終えたあとの陰気な声で言った。彼のこうした声を聞くのは、三度目のことだった。一度目はアリエルの死を私に伝えたとき、二度目は私の父親が私を捨て家を出て行ったことを知ったとき、そして今夜が三度目だった。嫌な予感は、さらに密度を増していく。 「教えてください。私に関することですか?」 詩人は一度固く口唇を引き結んだあと、目に見えぬ頑丈な錠前を開けるかのごとく、重々しい口調で言った。 「君の父上が死んだ」 私は思わず目を見開いた。「父が……」 「三日前、酒場からの帰り、湖のほとりで足を滑らせて溺れ死んだのだ。今日、街外れの墓地で葬儀があった。私はそれを見届けてきた」 私はベッドから立ち上がり、詩人へと詰め寄った。 「なぜ、今ごろ私にそれを告げるのですか?」 「知りたくはなかったか?」 私は大きく首を振った。「いいえ、私はもっと早く知りたかった。可愛そうな父、哀れな父、どれほど心細かっただろう。私が側にいてあげられたらと思うと胸が痛い。なぜ、私を父のもとへと連れて行ってくれなかったのです」 詩人は闇で縁取られた瞳で私を見つめる。月夜の下ではいつもエメラルドに輝いている彼のそれとは天と地ほどの落差があった。父を亡くした悲しみと同時に、目の前の詩人さえも私の見知らぬ何者かへと擦り返られたのではないかという恐怖が全身を襲う。 何かを取り戻し、何かを拒絶するために、私は搾り出すような声で訴えた。 「私は……父を愛してました」 「お前が口にする愛とやらがそれほどまで愚かであるというのであれば、二度と私の前でその言葉を口にするな」 詩人はそう言うと、甲高い靴音を鳴らし部屋を出て行った。取り残された私は、世界の行進に乗り遅れた浮浪者のように、ただ呆然とその場に立ち尽くした。 せめてもの慰めに父の顔を思い出そうとしたが、なぜか白い靄に覆い尽くされた男がひとり立ち尽くすだけで、懐かしい微笑みひとつ見つけ出すことができなかった。
翌朝、見つけた詩人はアリエルの隣で藁に埋まって眠っていた。 狭いうさぎ小屋で、長身を折るようにして眠る詩人は子供のようであり、昨晩の変貌が夢のようでもあった。 私は小さなアリエルを胸に抱き、詩人の肩をそっと揺さぶった。 「いつまでもこんなところ寝ていては、朝陽に笑われますよ」 詩人は僅かに寝返りをうち、邪険に私の手を振り払った。 「……好きに笑わせておけばいい。詩人など、喜劇の役者よりも滑稽な生き物であるということは万人が知っている」 「ええ、そうですね」 私がそう言うと、詩人が瞑っていた瞳を開いた。まだ昨夜の余韻を残しいくらか薄暗さを湛えてはいたが、深い緑色はいつもの彼の温もりだった。 私は手を差し伸ばし、詩人の頬に触れて言う。 「……愛してます」 「その愚かな口を閉じろと、私は昨夜言ったはずだ」 私は笑い、「そうですね」と答えた。 詩人は身体を起こし、真紅のコートについた藁を手のひらではたき落とした。私は小さなアリエルをそっと小屋の中に戻し、詩人とともに外に出た。 「今朝は赤ピーマンのムースを作ったんです」 「規則正しい朝食が必要なのは修道院の子供らくらいのものだ。今の私に必要なのは、無尽蔵に湧き出る言葉の樽と世の摂理、それに子うさぎの小さな寝息のほかにない」 「あなたも子供に違いない。世話がやける大きな子供です」 私の言葉を無視し、詩人は前方を見据えたままカツカツとブーツの底を鳴らして歩く。私もその隣に並んだ。 「……父は、苦しんだでしょうか」 「苦しんだかもしれないし、苦しまなかったかもしれない。少なくとも私は、苦しんでいればいいと思うがね」 「死ぬとは、どういうことですか」 私の問いかけに、詩人は足を止めた。 「死とは? 死とは時間ではない。記憶の遮断であり、慰めであり、開放であり、自由だ」 「ならば父はこの世を去り、神の御許へいざなわれることができるでしょうか」 「さあ、私にはわからん」 詩人は言い、再び歩き出した。私は立ち止まり、詩人の背中を見つめる。 父への愛、詩人への愛。 どちらも決して届くことはない。届かぬ想いを胸に抱き続けることが愚かというのであれば、私は誰よりも愚かで構わなかった。愛することが私の罪であるというのなら、喜んでその罰を受けよう。 それに比べれば、気付かぬふりをすることなど私には容易かった。 彼の手がアリエルの森にある湖のほとりで神の手に変化したとして、どうして彼を憎むことができようか。
私は前を行く詩人のあとを追った。 私だけが知る彼の罪。 それさえも、今は愛しい。
<了>
2006年09月20日(水)
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