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天竜



 どうか

先日、私が好きなサッカー選手のひとりが母国で交通事故を起こし、潰れた右足を切断し、サッカー人生に終止符を打ちました。怪我は足だけではなく、頭蓋骨も数箇所を骨折。しばらく昏睡状態だったのですが、今は意識を取り戻し、医者とも話せるようになったみたいです。でもまだ彼は自分の右足が切断されたことを知りません。
33歳、まだ現役のストライカーだったのに辛すぎますよね。上っ面の言葉になりそうで怖いのですが、どうかこの困難を乗り切って欲しいと、心からそう思いました。

2006年09月28日(木)



 まんぷく太郎です

昨日の試合でシャビは、センタハーフ手前の自陣、50m以上ある距離からとんでもないゴールを決めたわけですが、

「僕はキャプテンにパスを出すつもりだったんだ。それなのに気の利かない空気読めないレフェリーが僕とキャプテンの間に入って愛のパスコースを邪魔するもんだから、ゴールを狙うしかなかったってわけ」

だってさ。ハイハイ、ごちそうさまでした。

2006年09月22日(金)



 ご褒美

しゃーない!今日はどんなニヤケ顔も許したる!

たまにはガッツリ、

ハグってもらえ! くそ〜幸せそうだな〜

2006年09月21日(木)



 今日は秋晴れだよ短編 9

詩人の罪


切った野菜を鍋に入れ、潰したトマトと一緒に煮詰め、パプリカ、ペッパー、塩で味をつけた上にナイフで切ったバケットを並べて蓋をする。トマトソースがパンに染み込むまでのひととき、私は気まぐれな詩人を捜す。
彼の居場所はいつも不特定だ。屋根裏にいるときもあれば、裏庭で虫を観察しているときもある。シーツにくるまっているときもあれば、近くのカフェでエスプレッソを飲んでいるときもある。
今日はうさぎ小屋の前で小さなアリエルに餌をやっていた。幼い頃、唯一の友達だったアリエルは五年前の寒い冬の日に死んだ。私は三日間彼を抱いて眠り、四日目に森に埋めた。悲しすぎてさよならは言えなかった。彼のように寡黙で、心優しくて、暖かい親友には二度と出会えないだろうと思う。涙を流しながらアリエルの森から戻った私に、門の前で待っていた詩人は言った。
「別れを悲しんではいけない。死は時間ではない。君も決してひとりではない」
その頃だった。
私は自分が詩人を愛していることを自覚した。
彼に告げると彼は何も言わずにそっぽを向いたが、出て行けとは言わなかった。

彼が私の許可もとらずに勝手に市場で買ってきてしまった生まれたてのアリエルは、スミレほどの短い耳をひくひくと動かし、詩人の手からクローバーを貰って食べている。
「食事が冷めますよ」
「見てごらん、彼が咀嚼する数だけ、この世界が薔薇色に染まっていくのがわかるだろう」
私は身を屈め、彼の頬にキスをする。
「あなたがいる世界だからこそ、アリエルは生きるために草を食べるんです」
「理屈だな」つれない言葉を吐く詩人は立ち上がり、私の隣に並ぶ。ようやく彼と同じ目線にまで背は伸びたが、彼と同じものを見ることはまだ叶いそうになかった。
二人で小さなテーブルを挟んで食事をする。
私と一緒に暮らす前、詩人は空想とアルファベットとワインだけを飲んで生活していた。金がないという理由だけではなく、ただ単純に生きるということに対し無関心であるとともに、空腹から生じる自己愛に満ちた個の欲望にさえも嫌気を差しているように見えた。
だが私は、そんな詩人を無理やり椅子に縛り付け、作った料理を食べさせた。
最初は「口に合わない」だの「時間の無駄だ」だの、まるで子供のように駄々を捏ねて私を困らせたが、今では彼好みの味もだいぶ分かるようになり、いくらか彼の舌を懐柔することに成功した。
「――午後は街に出るよ」
珍しく、詩人がそう告げた。彼が行き先を私に教えるなど珍しい。
「どなたかと約束ですか」
「約束ほど無意味で無価値なものはない」
「私もお供しましょうか」
「結構だ」詩人はぴしゃりといい、膝に置いていたふきんで口を拭いた。
「ならば私は、アリエルと散歩にでも行ってきます」
「跳ねるうさぎの後を追ったところで、君のように臍が曲がった男は不思議の国などには辿り付けない。せいぜい現実という扉が明日という怠惰を従えて待ち受けているのが関の山だ」
「ひどいことを」私が笑いながら言うと、詩人は席を立った。
「この世に存在するありとあらゆるものは何かしらの罪を背負って生きている。君は自身の罪状を聞きたくはないかね?」
私はテーブルの上で両指を重ね合わせ、「もちろん」と答えた。
「君の罪は、君の左胸の奥にある。ほらそこだ、青いブローチの下に眠ってる」
詩人はそう言うとブーツの踵をカツンと鳴らし、ドアから出て行ってしまった。私はその後ろ姿を見送り、ため息を吐いた。私の罪、それは詩人への「愛」というわけだ。懺悔など、到底できそうにない。

詩人が街から帰ってきたのは、私がベッドに入ってうとうとしている頃だった。いつものように飲んだくれてきたのかと思いきや、私の部屋の前を行過ぎる靴音は彼らしくもなく物静かだった。
ふと不安になり、私はベッドから降りて寝室のドアを開けた。足を止めた詩人が私を振り返り「起きてたのか」と呟くように言い、そして少し思案に耽った顔をすると、やがて指先をちょいちょいと動かし、私を自分の部屋へと誘った。私は一度部屋に戻りガウンを羽織ると、すぐに詩人の後を追う。彼の部屋はいつも床の木目が見えないほど詩の断片によって埋め尽くされている。私は足許に散らばった紙を拾い上げながら彼のベッドへと腰を下ろした。
詩人は窓際に立ち、まるで異国の神のように漣ほどの表情もその顔に浮かべていなかった。妙な不安が胸をよぎる。私はたまらず口を開いた。
「街で何かありましたか?」
詩人は私を振り返り、「この世界にあるべきものは、あるべきときにあるべき場所へといざなわれるものだ。私も今日、あるべき使命に従いあるべきところへ行ってきた」といつもの陽気さを雲間へ隠し終えたあとの陰気な声で言った。彼のこうした声を聞くのは、三度目のことだった。一度目はアリエルの死を私に伝えたとき、二度目は私の父親が私を捨て家を出て行ったことを知ったとき、そして今夜が三度目だった。嫌な予感は、さらに密度を増していく。
「教えてください。私に関することですか?」
詩人は一度固く口唇を引き結んだあと、目に見えぬ頑丈な錠前を開けるかのごとく、重々しい口調で言った。
「君の父上が死んだ」
私は思わず目を見開いた。「父が……」
「三日前、酒場からの帰り、湖のほとりで足を滑らせて溺れ死んだのだ。今日、街外れの墓地で葬儀があった。私はそれを見届けてきた」
私はベッドから立ち上がり、詩人へと詰め寄った。
「なぜ、今ごろ私にそれを告げるのですか?」
「知りたくはなかったか?」
私は大きく首を振った。「いいえ、私はもっと早く知りたかった。可愛そうな父、哀れな父、どれほど心細かっただろう。私が側にいてあげられたらと思うと胸が痛い。なぜ、私を父のもとへと連れて行ってくれなかったのです」
詩人は闇で縁取られた瞳で私を見つめる。月夜の下ではいつもエメラルドに輝いている彼のそれとは天と地ほどの落差があった。父を亡くした悲しみと同時に、目の前の詩人さえも私の見知らぬ何者かへと擦り返られたのではないかという恐怖が全身を襲う。
何かを取り戻し、何かを拒絶するために、私は搾り出すような声で訴えた。
「私は……父を愛してました」
「お前が口にする愛とやらがそれほどまで愚かであるというのであれば、二度と私の前でその言葉を口にするな」
詩人はそう言うと、甲高い靴音を鳴らし部屋を出て行った。取り残された私は、世界の行進に乗り遅れた浮浪者のように、ただ呆然とその場に立ち尽くした。
せめてもの慰めに父の顔を思い出そうとしたが、なぜか白い靄に覆い尽くされた男がひとり立ち尽くすだけで、懐かしい微笑みひとつ見つけ出すことができなかった。

翌朝、見つけた詩人はアリエルの隣で藁に埋まって眠っていた。
狭いうさぎ小屋で、長身を折るようにして眠る詩人は子供のようであり、昨晩の変貌が夢のようでもあった。
私は小さなアリエルを胸に抱き、詩人の肩をそっと揺さぶった。
「いつまでもこんなところ寝ていては、朝陽に笑われますよ」
詩人は僅かに寝返りをうち、邪険に私の手を振り払った。
「……好きに笑わせておけばいい。詩人など、喜劇の役者よりも滑稽な生き物であるということは万人が知っている」
「ええ、そうですね」
私がそう言うと、詩人が瞑っていた瞳を開いた。まだ昨夜の余韻を残しいくらか薄暗さを湛えてはいたが、深い緑色はいつもの彼の温もりだった。
私は手を差し伸ばし、詩人の頬に触れて言う。
「……愛してます」
「その愚かな口を閉じろと、私は昨夜言ったはずだ」
私は笑い、「そうですね」と答えた。
詩人は身体を起こし、真紅のコートについた藁を手のひらではたき落とした。私は小さなアリエルをそっと小屋の中に戻し、詩人とともに外に出た。
「今朝は赤ピーマンのムースを作ったんです」
「規則正しい朝食が必要なのは修道院の子供らくらいのものだ。今の私に必要なのは、無尽蔵に湧き出る言葉の樽と世の摂理、それに子うさぎの小さな寝息のほかにない」
「あなたも子供に違いない。世話がやける大きな子供です」
私の言葉を無視し、詩人は前方を見据えたままカツカツとブーツの底を鳴らして歩く。私もその隣に並んだ。
「……父は、苦しんだでしょうか」
「苦しんだかもしれないし、苦しまなかったかもしれない。少なくとも私は、苦しんでいればいいと思うがね」
「死ぬとは、どういうことですか」
私の問いかけに、詩人は足を止めた。
「死とは? 死とは時間ではない。記憶の遮断であり、慰めであり、開放であり、自由だ」
「ならば父はこの世を去り、神の御許へいざなわれることができるでしょうか」
「さあ、私にはわからん」
詩人は言い、再び歩き出した。私は立ち止まり、詩人の背中を見つめる。
父への愛、詩人への愛。
どちらも決して届くことはない。届かぬ想いを胸に抱き続けることが愚かというのであれば、私は誰よりも愚かで構わなかった。愛することが私の罪であるというのなら、喜んでその罰を受けよう。
それに比べれば、気付かぬふりをすることなど私には容易かった。
彼の手がアリエルの森にある湖のほとりで神の手に変化したとして、どうして彼を憎むことができようか。

私は前を行く詩人のあとを追った。
私だけが知る彼の罪。
それさえも、今は愛しい。


<了>

2006年09月20日(水)



 10月頭にようやくネットが繋がるよ短編 8

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ぼくの家の隣に、詩人が引っ越してきた。
彼はいつもぼさぼさの髪をしているのだけれど、襟の高いブラウスの上に真紅のコートを羽織り、足許は脛まである黒いブーツを履いていた。石畳の上を歩くたびに、そのブーツの踵がカツンカツンと高い音を立てる。
彼が靴音高らかに出掛けるのは、決まって夜。コートの両ポケットに原稿用紙を詰め込んで、街灯の明かりを目指す羽虫のように、決まって酒場のドアを叩く。
なぜそんなことを子供のぼくが知っているのかといえば、パパがお酒を買って来いとぼくにお使いを頼むからだ。だから、その詩人がバーの片隅でワインボトルを抱えるようにして飲んでいる姿を何度も目にしている。
一度だけ、挨拶したことがある。
「はじめまして、あなたの隣に住んでる者です」
詩人は訝しげに眉根を寄せ、それからぼくにこんなことを言った。
「生きるな。生きている人間などいない。すべては生かされている。君も、私もね」
ぼくには彼の言うことの意味がさっぱり理解できなかったが、それが詩というもなのだろうと思った。彼の身体からは強い酒の匂いと、インク独特のツンとした匂いがした。ぼくが今までに出会った大人とは違う。なぜかそんな気がした。

その日ぼくは、庭にあるうさぎ小屋にもぐりこみ、アリエルと一緒に金網の小さなダイヤモンドの隙間から見えるたくさんの星を眺めていた。アリエルはぼくの大切な親友で、うさぎなのに産まれたときから耳が聞こえなかった。パパは殺してしまえと言ったけれど、仲間の輪から離れ小屋の隅でうずくまっているアリエルを、ぼくは見殺しにすることなどできなかった。餌代を稼ぐことを条件に、パパはアリエルを側に置くことを許してくれた。週三回の靴磨きくらい、親友のためなら少しも苦ではない。
アリエルの隣で片目をつむりシリウスまでの距離を計っていると、隣の家の扉がバタンと勢いよく開いた。詩人のお出ましだ。いつものようにボサボサの髪、襟の高いブラウス、真紅のコート、編上げの黒いブーツ、ポッケには原稿用紙と詩人の言葉が詰まり、ツンと高く聳える鼻先が彼のプライドの高さを物語っている。
いつもならば、彼が高らかに鳴らす踵の音が遠ざかっていくのを黙って見送るだけなのだけれど、今夜に限って妙にその背中を追いたい気分にかられた。なぜだろう。
アリエルがぼくのお腹の上で鼻先をクフクフと動かした。「挨拶してきなよ。今日は月も綺麗だろう?」友人はそう言っていた。ぼくは頷き、アリエルの言葉に従ってうさぎ小屋を出ると、闇に紛れていく詩人のあとを追った。
「こんばんは」
追いついたところで、後ろから声を掛けた。詩人は驚いた顔をして振り返り、ぼくの顔を見下ろすと「おお、少年じゃないか」と大げさに両手を広げて言った。「どうしたんだい、こんな夜中に」
まさかそんな常識的な言葉を掛けられると思っていなかったぼくは焦り、用意していた返事をすべて地面にばら撒いてしまった。
無言のぼくをどう勘違いしたのか、詩人はにこにこと微笑んだ。
「夜の子供は夜を切り取って余った黒い紙切れから作られるものだから、愚かな私は決して拒むことはできない。さあ、一緒に散歩でもしようじゃないか」
詩人の詩人らしき言葉に、ようやくぼくは我に返った。
「今夜もお酒を飲むんでしょう」
「いいや、やめておこう。ワインは太陽の嫉妬の涙でできた飲み物だから、今夜のように美しい月が出ている晩に飲むにはあまりに切な過ぎる」
詩人はぼくの肩に腕を回し、誘うように歩き始める。
彼の身体から、今日はインクの匂いだけがする。きっと青いインクだと、ぼくは思った。
詩人は、ぼくにたくさんの言葉を話して聞かせた。分かるものもあれば、ちんぷんかんぷんなものもあった。それでも、彼の言葉を聞いているだけで、ぼくは少しだけ大人になったような気分になった。
「トンビは自分がトンビだということを知らない。ロバだって、タヌキだって、それこそアフリカゾウだって、彼らは自分がそういう存在であることを知らないんだ。彼らの瞳に写る世界はとてもシンプルで完璧なのだ。そして崇高なのだよ少年。私達人間は、言葉を覚えてしまった。言葉は世界を壊していく。私が、君が、発音するその「e」が、世界を漆黒の煙幕で覆っていくわけだ。さあ、声を出してごらん。大地を、空を、海をも破壊する言葉だ」
ぼくが「e」と発音すると、詩人はコートの上から自らの心臓をかき抱いた。
「私は願っているのだ。一刻も早く、この世界が壊れゆくことを。トンビがトンビだと己を自覚してしまう前に、なにもかもが無くなってしまえばいいと願っている。人間が生みだす「e」が、いつかこの命をも奪い去るだろう」
言葉を否定する詩人の言葉を、ぼくはただ静かに聞いた。
人は彼を、「狂った詩人」だと言って指をさす。狂っているのが彼なのか、それとも彼以外の人達なのか、ぼくには分からない。
いつの間にか、詩人が歩みを止めていた。ぼくも続いて足を止める。
「少年」詩人の呼びかけに、ぼくは「はい」と答える。
「君の父親もいつか、自らの言葉で滅んでいくだろう。恐れてはいけない、傷ついてはいけない。彼が放つ言葉が、暴力が、どれほど君の心を、肉体を切り刻もうと、君は自らを自らの力で守っていかなければならない。いつかこの世界が崩壊を迎えるその瞬間まで、君は己が何者であるかを、決して知ってはならないのだ」
力説する詩人を見上げ、ぼくは強く首を振った。
「あなたは勘違いしているね。ぼくはパパを愛しているし、パパもぼくを愛してる。傷つけられたことなど一度もないよ」
詩人は何も言わず微笑を浮かべると、軽く腰を屈め、ぼくの額に口唇を押し当てた。
「さあ、君はそろそろ帰る時間だ。大切な君の友達が首を長くして待っている」
「ええ」
ぼくは頷きながら、彼が触れた額の熱さに戸惑っていた。
「少年」もう一度、詩人がぼくを呼んだ。「君の名を教えてくれないか」
ぼくは自分の名前を告げた。
「いい名だ」と詩人は言い、「e」がないからなと愉快そうに笑った。


<了>

2006年09月14日(木)



 もう残暑じゃないし短編 7

誤算

最近、とみにアルコールとニコチンの摂取量が増えた。
肝臓も肺も悲鳴を上げている。しかし、だからなんだという気分だった。この三週間が過ぎれば、またもとの生活に戻れるはずだ。何かが変わるわけじゃない。変わらないと思ったからこそ、僕はすべてを許したのだ。
負け惜しみか? 自分を嘲笑う。それでもいいと、もうひとりの自分が苦笑する。
初めて会った時から決まっていたことだし、分かっていたことだ。あいつは誰にも言わない。親にも、友人にも、同僚にも、妻になる人にも、真実を打ち明けない。
ゲイであると。それが世の悪であると、彼は思っているのかもしれない。そして、悪を孕んだ自らを嫌悪しているのかもしれない。
それならば、と僕はいつも思う。深夜三時、こうして酒と煙草で淋しさを紛らわしている孤独な同性愛者は彼にとっては諸悪の権化であり、触れざるべき最も顕著な存在だろう。なのになぜ、あの夜、彼は僕を誘ったのだろうか。あの出会いさえなければ、僕はこうしてむやみに肺を汚す必要もなかった。今ごろ南イタリアの太陽の下にいるであろう彼は、妻になった女性と家族や友人への土産品でも選んでいるに違いない。彼の中に良心の呵責があるか? 答えはNOだ。逆に、そういう生き方を選び、うまくこなしていることに満足しているのだろうと思う。器用なのだ。自らの感情も欲望もコントロールできる。見ていろ、一年後には夫からパパに変身しているに違いない。
対して、僕ときたら――。
あいつはよく口にする。「その頑固な性格を直さないと、待ってるのは孤独死だけだぞ。もっと融通を利かせろ、柔軟に考えろ。俺みたいにとは言わないが、肩肘ばかり張っていないでもう少し楽に生きてみろ」
じゃあ、教えてくれないか。
一般人に紛れて、好きでもない女性と結婚して子供を作って、家族に囲まれて生涯を全うすることに、一体どれだけの意味があるのかを。
愛を信じているわけじゃない。
愛に似たようものが、人生を薔薇色に染めるだなんて子供みたいな夢を描いているわけでもない。
僕はただ、知りたいのだ。
そうしてまで生きる理由を。生きなくてはならない理由を。

時計が四時を目指して半分ほど進んだ頃、携帯電話が鳴った。
放っておいた。
イタリアの天気など、聞きたくもない。
東京は明日も雨だ。それが分かっていれば、もう充分なのだ。


結婚に伴うひと通りの儀式を終えて戻ってきた彼は、僕に土産を手渡すより早急にセックスをせがんだ。久しぶりの人肌は悔しいほどに馴染んで、僕を後悔させる。
「訊かないのか?」逃げられないように僕を射抜いたあと、彼が言う。
最初から、訊くことも、訊きたいことも、訊いて得をすることも、何ひとつない。それでも、僕は訊いてしまう。最も低俗でくだらないことを、彼に訊くのだ。
「奥さんと僕と、どっちがいい?」
欲しかったお菓子を貰った子供のように、彼は嬉しそうに笑う。体温を共有させる下半身は、もうどちらのものか分からない。
結局、彼は答えなかった。
僕も答えを望んでいたわけではない。
僕が欲しい回答はひとつだけ、この行為が生みだす錯覚をごまかすための手段さえ教えてくれたら、もう他には何もいらない。僕には最初から、偽るための矜持も、外聞も、何も持っていないのだということを、早く教えてやらなければと最近思う。彼の笑う顔が眼に浮かぶ。ただそれだけのことだ。


母親を泣かせたのは、いったいいつのことだったろう。
あの時から、僕はある種の覚悟のようなものを持った。ひとりで生きていくと言い切るには、まだ僕は若すぎる。しかし、そのために捨てなくてはならないもがあるということ、守らなくてはならないものがあるということ、その両者に対する決断はできるだけ早い方がいいのだということを、知るには悪くないタイミングだった。
僕は彼のように全てを得ようなどと考えたことはない。
得られるとも思っていない。
 
圧迫と重圧が同時に去り、僕は自由になった。
このままバルコニーから飛び立てるほどに、身体が軽く感じられる。しかし実際は、使用済みのコンドームと丸められたティッシュを片手に、欲望の生々しさだけが残るベッドに横たわるぶざまな雄でしかない。
結局、何も変わらない。
彼の左手の薬指に指輪が嵌っていようがいまいが、妻がいようがいまいが、新婚旅行でイタリア土産を選ぼうがどうしようが、僕には関係のないことだ。

「そういえばお前、電話に出なかったな。俺がいない間にいい男でも見つけたか?」
YESと答えても、NOと答えても、彼の微笑と僕の失意は深まるばかりだ。
「無口だな」
喋らない僕に、いつもより饒舌な彼は言う。「妬いてるのか?」
さすがの僕も、笑ってしまう。ご都合主義もここまでくると見事なものだ。そう口に出すと、彼は予想どおり、絵に描いたような微笑を濃くした。言い返しはしなかった。彼も無口を気取りたいのかもしれない。

僕がシャワーを浴びて戻ると、裸のまま窓際で煙草を吹かしていた彼がこちらを振り返って言う。「もうすぐ夜明けだ」
横目で時計を観ると、まだ日付さえ変わっていなかった。
「時差ボケ? それとも新婚ボケかな」
「土産、まだ渡してなかったな」僕の戯言を無視して話題を逸らす遣り口は、いつものことだ。
「いらない」僕は即座に言った。そう言われるのを待っていたように、彼は「高かったんだぞ」と言って笑う。余計にいらないと僕が言うと、相変わらず意固地だと言ってさらに笑う。
解っていない。
失って痛みを得るものは、最初から手に入れない方がいい。
だから僕は、何もいらない。いつか思い出になるような物など、ひとつも欲しくない。
「そろそろ帰るよ」
短くなっていく煙草が、どうやら砂時計の役割を果たしていたようだった。
彼は服を着、あっさりとアパートから出て行った。
帰りを待っている人がいる。それがどんな気分なのか、僕には分からない。

僕はベッドに腰を下ろす。
窓の外は星ひとつ出ていない。それもそうだ。一週間続いた雨は、明日をも続く。
テーブルの上に置いてあった携帯電話がメール受信を伝えるために小さく震えた。
腕を伸ばすのも億劫だった。
僕はそのまま倒れこむようにして、朝まで眠った。


忘れていた昨夜のメールを開いたのは、会社の昼休みだった。

『土産の温泉饅頭、賞味期限が切れる前に取りに来い』

イタリアにも温泉饅頭があるのかどうか一時間悩んだあと、僕は会社を早退した。


<了>


2006年09月13日(水)



 三度目の正直

もうね、付き合いも三年目になると髪形まで似ちゃうんですってさ〜。

さて、今夜はチャンピオンズリーグの第一戦目、スペインの誰かさんは代表戦でオウンゴールとかオウンゴールとかオウンゴールとかして皆をズッコケさせてしまいましたが、二度あることは三度あるというスペイン語と日本語は封印しておきますので、精一杯キャプテンの右足となって頑張ってきてください。

2006年09月12日(火)



 残暑見舞い短編 6

短編ネタまだまだまだまだ募集中。


アイランド

「――もし無人島にひとつだけ何かを持っていけるとしたら、お前は何持ってく?」
僕が訊ねると、達巳は「無人島?」と鸚鵡返しに言ったあと、難問を解く数学者のような難しい顔をして黙り込んでしまった。
僕は昨夜、同じ質問を裕香にされた。僕も達巳と同じようにしばらく考え込んだが、挙句、こう答えた。「マッチかな」
裕香は「君は現実主義者だねえ」と笑い、「私は携帯電話かな」と同じく現実的なことを言った。その後、電波が届かなければ単なるプラスチックゴミじゃんとか、マッチだって湿気ちゃったら何の役にも立たないしとか、じゃあライターにするとか、じゃあ私はトランシーバーにするとか、くだらないことを言い合った。
でも結局最後には、「やっぱり裕香を連れてく」「じゃあ私も大成にする」なんてことになり、そのまま盛り上がってセックスして一緒に寝た。
それを思い出し気軽な気持ちで訊いてみたのだが、達巳は眉間に皺を寄せて考え込んだまま固まってしまっている。僕は半身を起こし、ベッド脇に置いてあった眼鏡に手を伸ばした。「気楽に考えればいいんだって」眼鏡を掛けながらそう言うと、達巳はシーツの中でもぞもぞと足を動かして無言の抵抗をした。
「ちなみに僕はマッチとかライターとか、そういう火をおこせる道具」
「相変わらず夢がないね、大成は」
「裕香にも同じこと言われた」そう口にして、しまったと思った。達巳は「ふうん」と言っただけで、僕の後ろめたさを刺激するような表情も言葉も発しなかった。
裕香とは付き合って三年目、達巳とは一年目。二股を掛けようと思って始めた関係ではなかったけれど、気がつけばそういうことになっていた。本命は裕香、遊びは達巳。ということにしておかなければ将来的にまずい気がして、達巳には裕香とのことを打ち明け、それでもいいというから今もこうして関係を続けている。
我慢をさせているだろうなという自覚はある。
だから極力、達巳の前で裕香の話題は持ち出さないようにしているけれど、こうして時々ヘマをする。達巳は平気なふりをする。
男同士の関係なんて第一に性欲で、恋愛感情なんてしょせん二の次に決まってる。そう高を括っていたことは認める。でも実際は、そんな安直なものではなかった。達巳は普通に僕を好きだし、僕も普通に達巳のことが好きになった。男女の恋愛とどこが違うと問われても、「性別」以外何も変わらないように思う。
それでも僕は臆病だから、達巳との関係を公にすることなんて絶対にできなくて、裕香のことが好きだという感情を最重要視する。どちらがどのくらい好きかということは絶対に考えない。達巳とはこうやってたまにホテルで会う。それだけで充分だと納得する。もし仮に僕が達巳だったら、僕みたいな二股男は「最低」であり、「ずるい男」であり、「弱虫」であって、すぐに別れるべき相手だと自分に言い聞かせて当然なのだけれど、達巳はなぜかそうしない。現状に文句は言わない。「男同士だから」という無言の言い訳が、僕の全身から滲み出ているのかもしれないと時々思う。
「決まった?」僕が訊くと、達巳は「決まらない。ぜんぜん決まらない」と首を振る。
そこまで真剣に達巳が考えると思っていなかった僕は、「まあ、そんな状況に陥ることはありえないだろうから別にいいんだけどね」とできるだけ軽い口調で言ってみた。達巳は僕の顔を見てもう一度「夢がないねえ」とぼやくように言った。
休憩の二時間がもうすぐ終わる。僕はベッドから抜け出し、バスルームでシャワーを浴びた。達巳はまだ考え込んでいるかもしれない。その彼の真面目さが時折僕を辟易させ、時折僕を勇気付ける。
帰りは車で達巳のアパートまで送った。
達巳はバイバイと手を振り、ほんの少しだけ寂しそうな顔をする。胸がちくりと痛む。別れてあげた方が達巳のためになるということは知っているのだけれど、僕は達巳のことがやっぱり好きで、裕香と比べることはできないけれど、失いたくないと思ってしまう。
男同士。同性とベッドインしてしまうことが悪なのか、同性に心奪われることが悪なのか、その悪は果たしてどのくらい悪いことなのか。考えて僕が出した結論、それはきっと産まれたての赤ちゃんを「触りたくない」と強く拒むくらい、いけないことなんだろうなと思う。けれど達巳にしてみれば、同性と恋に落ちることは、赤ちゃんが母親を求めるくらいとても自然なことで、それを捻じ曲げようとしている僕の考えこそがおかしいのだと言いたいところだろう。
自分のアパートに戻り、テレビを8チャンに合わせたところで、裕香から電話があった。今日は会社の近くにオープンしたパスタ屋さんでランチを食べた、美味しかったから今度一緒に行こうと言われた。いいねと答え、僕は今仕事から帰ってきたばかりだよと嘘をついた。大変だねと裕香が言い、明日は会えるかと訊かれ、大丈夫と答えた。
電話を切って、僕はベッドへと寝転がる。
視界に入ったカレンダーを見て、達巳と付き合い始めた記念日が近いなあということを思い出した。告白をされた。「付き合ってください」とか、「好きです」とか、そんな言葉ではなくて、彼が口にしたのは「ごめんなさい」だった。「嫌われるのが怖かった」とも言った。僕は常にどっちつかずの人間で、初恋の相手は幼馴染のケン君だったけれど、清水の舞台から飛び降りる覚悟で初めて告白した相手は同じ卓球部のミカちゃんだった。
達巳からの控えめなアプローチを受け入れた理由は、裕香に不満があったからではない。都合のいい言い方をさせてもらえれば、放っておけなかったからだ。僕は決して色々な人にモテまくるような男前ではないから、他人から好意を持たれたということが第一に嬉しかったし、よく行くCDショップの店員だった達巳のことは最初から嫌いではなかった。
告白された翌日、友人同士のような、恋人同士のような、不思議なデートをして、帰り際にキスをした。ドキドキした。深入りするとまずいなと思い彼女がいることを白状しても、達巳は「なんとなくそんな気がした」と言っただけで、キスした僕を責めたりすることはなかった。
なにかプレゼントでも贈ろうかなと考えたが、達巳が欲しがりそうなものといって思いつくものは何もなかった。直接訊いたとしても、達巳の返事は「何でもいいよ」か「何もいらないよ」のどちらかに決まっている。
達巳とは、結婚することも、赤ちゃんを作ることもできない。
だから達巳は、僕と裕香が付き合っていても文句を言わない。しょうがないねという顔をする。何も欲しがらない。

無人島のことを思い出した。
もし達巳と二人だけで無人島に行けたら、達巳は僕を独占したがるだろうか。「好きだ」とか、「愛してる」とか、そんな恥ずかしい台詞も躊躇わずに口にして、僕が困ってしまうような我が儘を言うだろうか。そんな達巳を見てみたいとも思ったし、見たくないとも思った。

達巳からの電話があったのは、裕香と晩飯を食ったり、残業でへとへとになったり、久しぶりに料理をして鍋を焦げ付かせたりして、五日ほど経った頃だった。
「大成、俺ね、無人島に持っていくもの決めた」
そんな話などすっかり忘れていた僕は、「ああ?」と間抜けな声を出した。
「無人島に何かひとつだけ持っていけるとしたら、大成の写真を持ってく」
意外なタイミングと意外な答えに僕は気の利いたことなど何も思いつかず「そんなんじゃお腹ふくれないぞ」と、体育の先生みたいな口調で言ってしまった。
「まあ、それはそうだね」達巳は怒りもせずにそう言うと、「それだけだから」とすぐに電話を切ってしまった。僕は電波の切れたプラスチックゴミを片手に、あの夜から無人島のことをずっと考え続けていたのだろう達巳に驚きつつも、彼の出した答えにいい加減な返事しか返せなかった自分がひどく悪い男になったような気がした。
達巳は自分からは何も望まない。望ませない責任がすべて僕にあることは自覚しているのだけれど、ジャングルの奥地で、体温さえも感じられない僕の写真を大事に抱きしめて助けを待ちわびる達巳の姿を想像したら、なんともやりきれない気持ちになった。
僕は車の鍵を掴んでアパートを出る。
達巳は僕のことが好きで、僕も達巳のことが好きだ。それなのに僕は誤った恋愛を達巳に押し付けているのだと、こんなことがなければ改めて再確認することはない。
達巳のアパートに着いて部屋のチャイムを鳴らすと、出てきた達巳はパジャマを着ていた。「どうしたの、大成?」
「お前に、写真は渡さない」
僕は唐突にそう言った。達巳はきょとんとした顔をしていたが、やがて僕の言うことの意味を合点したのか、少し失望した表情を浮かべた。
「そういえば、一緒に写真撮ったこともなかったね」
達巳はいつだって優しいのだ。僕はその優しさに、きっと甘えすぎたのだと思う。
「達巳」
僕は、心を込めて言った。
「もう、別れような、僕達」


<了>

2006年09月05日(火)



 残暑見舞い短編 5

愚かな海  サトイさんへ

一時間に一本しかないローカル電車を降りると、潮の匂いが肌に纏わりついた。いつ来てもちんけな港町だ。訪れる者を身体の中から錆付かせ、人の動きばかりか、時間という流れさえも止めてしまっているかのように、寂れた風景は二十一世紀を迎えても何ひとつ変化することなく、いつの日にか劣化し、消えうせる時を待ちわびるかのように、ひっそりとその姿を留めている。
十一月の海風はその身に幾本もの針を含んでいるかのような鋭さで頬に突き刺さり、俺は手に持っていたマフラー首に掛け直し、足を速めた。
もう、二度と足を踏み入れることはないだろうと思っていた町だった。
父の葬儀で訪れたのはもう八年も前で、空き家になった生家はすでに跡形もなく消え去り、戻るべき場所もすでにない。どちらにせよ、十六で家を出た俺には感慨を覚えるような記憶もほとんどなかった。ただ息苦しさばかりを感じていたあの時期、母親が男を作って駆け落ちしようと、五つ年上の姉貴がシンナー中毒で施設に入れられようと、俺にはどこか他人事であり、女という生き物のあいまいさを知ったというほか、特に感じ入ることは何もなかった。
俺は無人の改札を抜け、町に唯一ある駅前の旅館にチェックインしたあと、部屋の窓を開けて路線の向こうに広がる海を眺めながら煙草を咥えた。初冬の海はうねりがきつく、砕けた波が白く泡だっているのが遠目にもわかる。紫煙を吹かしながら、俺はふと気付いて目を細めた。濁った海面に浮かぶ、小さな人影を見つけたからだ。
時刻は午後四時を回り、次第にせまりくる夕暮れを前に寒さはいっそう厳しさを増している。凍えるような海に入り、自虐を愉しむ男を俺はこの町でひとりしか知らない。
「……馬鹿な男だ」
思わず呟きがこぼれる。
しばらくその馬鹿な男の姿を眺めていると、否が応にも擦り切れた記憶がよみがえり、俺の鼻先に二十数年前の過去が貼り付けられる。
優等生を絵に描いたような男だった。市議会議員の息子で、幼い頃から白いハイソックスを履き、洗いたてのハンカチを持ち、綺麗に切り揃えられた襟足から金の匂いをさせていた。当時、すでに家庭という形態が崩れ、離散への一途を辿っていた俺にとってそうした人間はみな異人種であり、例え同じ言語を用いていても彼らの言葉や価値観を理解することなど一生できないだろうと、単純にそう思い込んでいた。
江島透。
男の名前だ。今もその名は記憶の片隅にこびり付き、不思議と離れることがない。
俺が高校を一年も持たずに自主退学し、さし当たっての生活費を稼ぐため、町から三キロほど離れた郊外にぽつんと佇むラブホテルで深夜のバイトをしていた時だった。朝方仕事を終え、海面が朝日で徐々に白んでいくのを横目に愛用のスクーターで町に戻る途中、俺は彼に出会った。
透はロングボードを肩に担ぎ、砂浜へと向かっていた。
ひょろりとした体型だったが、スプリングを着込んだ背中にはなにか異様なほどの生気が感じられてならなかった。俺は思わずスクーターを止め、その後ろ姿を見送った。透は浜辺でしばらく海面の様子を眺めたあと、まるで波を見切ったとでも言いたげに寸分の躊躇も見せず海へ入っていくと、力強いパドリングで沖へ沖へと漕いでいった。あっという間に透の姿が岸から遠ざかっていくのは、沖合へと向かう岸離流をうまく利用しているからだろう。岸離流は海底が深くなっている箇所に発生する流れで、肉眼ではなかなか判断がつかないものだが、透はしっかりその波を掴み、体力を温存したまま目指すポイントへと向かっているようだった。
俺はスクーターのエンジンを切ると路肩に停め、煙草を咥えた。潮風がライターの火を揺らすが、サーフィンをするには少し静かすぎる。再び視線を海に向けると、波待ちをしている透の姿が見えた。うねりを探している。
紫煙を吐き出す。
俺もガキの頃は、親父に誘われて波乗りをした。
何度も流され、ひっくり返り、波にもみくちゃにされ、ボードの上に立てるようになるまでにかなりの時間を要し、自分にはまったく向いていないものだと子供心ながらに理解した。たいして面白いとも思わなかった。ただめったに笑わない親父が、俺がボードから転がり落ちるたびに声を上げて笑うのが、妙に新鮮だったのだ。
あの頃、すでに母親は他に男を作っていた。経営するスナックの常連だった。福岡から来たのだと、その男はよく口にしていた。もし今も生きていれば、母は福岡に居着いているのかもしれない。八年も前に離婚した男が死んだことなど意にも介さない女だろうと、俺はそう願っていた。
ボードに腰掛け、沖の方を向いていた透がふいに方向転換をし、腹ばいになってゆっくりとパドリングを始めた。背後に、うねりが近づいている。どうやら当たりをつけたようだ。迫ってくる波の斜面をテールで押さえ込みながら、さらにパドルスピードを上げていく。少し高みから眺めている俺からも、ボードの尻が高く持ち上がっているのが分かった。
ほんの数カキのパドリングでテイクオフをした透は、滑り出した瞬間にタイミングよく立ち上がり、加速していくボードの上で重心を低く保ったポージングを決める。
伸びた背筋が、朝日の光に輝いていた。
アップスを繰り返し、波と戯れるように自在にボードを操る透の全身からは、サーフィンをすることへの楽しさや恍惚感が滲み出ているように見えた。
上手い。俺は彼の姿に魅了された。こんな田舎町でも、サーフィンをするためにわざわざ遠方から足を運ぶような物好きビジターはいる。おかげで子供の頃から様々なサーファーを身近で見る機会が多くなり、自然と彼らのテクニックや能力を見抜く観察眼も肥えていった。俺も好き嫌いに関わらず大勢の波乗りを見てきたが、透のボード裁きは素人目から見ても突出して美しいと感じられた。
それから俺は、砂浜に続く斜面にしゃがみ込み、透がサーフィンをする姿をしばらく眺めることにした。時間を忘れた。太陽が完全にその姿を現し、量産した光の粒子を海面にきらきらと反射させ始めたことにも、俺はしばらくは気付かなかった。
どれだけ経っただろう。
透が岸へと戻ってきた。ボードと足首を繋ぐリーシュコードを外すと、今まで自分が入っていた海を一望し、それから不意に俺の方を振り返り大きな声を出した。
「暇そうだな、寺田」
白い歯が覗く。どうやら海の中にいたときから、俺の存在に気付いていたようだ。俺は町一番の優等生が自分の名を知っていることを意外に思いながらも、自然と言葉を返していた。
「バイト帰りだ」俺も怒鳴るような声になった。五十メートルほどの距離がある。透はボードを砂浜に置き、ビニールシートに置いてあったタオルを手に取ると濡れた髪を拭いながら俺の方へと歩み寄ってきた。
「今日は波が厚いからいまいちなんだ」
透からのウェットスーツから、強い潮の匂いがした。俺は立ち上がり、斜面を上がってスクーターに跨る。
「明日も、ここで乗るつもりだから」
俺を見上げるようにして、透が言う。俺はメットを被りながら、品のいい顔を見つめて言った。「不良と付き合うと、パパとママが悲しむぜ」
それを聞いた透がアハハと笑った。
それが彼と初めて交わした会話で、俺が町を出るまでの一年間、彼のサーフィンを見続けることになるきっかけでもあった。

俺はフィルター近くまで短くなった煙草を、窓の外へと投げ捨てる。海に浮かぶ黒点は、相変わらず波に漂っている。
あれから二十年以上の年月が経った今、あの頃と現在と、どれだけのものが変わったのだろう。卑しいまでに変化を望まないこの町で、あの男はあの時と同じように今も変わらずボードに張り付いている。
馬鹿な男だ。もう一度、俺は心の中で繰り返した。
透が大学を勝手に中退し、プロのサーファーになるためにオーストラリアへ渡ったという話は風の噂に聞いた。当時もまだ現役の市議会議員だった父親は、さぞかし怒り狂ったことだろう。それから、透がどのような人生を歩んできたか俺はまったく知らない。それも当然だろう。俺はこの町を離れ現在までの間に、合わせて六年ほど壁の中にいた。傷害罪、銃刀法違反、いくつかの合わせ技で二回ぶち込まれた。年貢を納めたという程度の気持ちで従事したのだが、出てきたときには俺の意志に関係なく、組織の中でそれなりにいい顔ができるようになっていた。後戻りはできないのだとその時になってようやく俺は理解したのだが、特に後悔もなかった。人生の底辺を生きていた俺には、底辺を生きる人間を相手にするのが最初から見合っているのだろう。



2006年09月01日(金)
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